ホールインワン

先週末、ハワイに住んで40年というK女史の誕生日を記念する招待ゴルフコンペが、ミッドパシフィックGCで開かれ参加した。参加者60人の半分は、寒い日本を避けて海を渡ってきた紳士淑女たちだった。

6番ショートホール。100ヤード、パー3のティーに立ち、サンドウェッジを一閃。ボールは紺ぺきの空に向かって真っ直ぐ舞い上がり、ピン横1ヤードに着地したあと、スルスルとグリーンを這ってピンの根元に姿を消した。

2、3秒の間をおいて「あ、ホールインワンや。おめでとうございます」大阪からやってきたパートナーのH さんが祝ってくれる。そのあとニッポンから参加したゴルファーとの会話がおもしろかった。

「センセ、これはオオゴトですぞ。60人の参加者全員に記念品を配るとなると、タオル一本ずつとしても莫大なモノいりです。ゴルフコースは多分記念植樹をしろと強要するでしょう。これには苗木一本というのが相場です。ちなみに保険は掛けておられますか?」
「ご親切ありがとうございます。でも、ここはハワイです。アメリカでは、ホールインワンをした者は、一緒に回ったパートナーに祝福のディナーをご馳走してもらうのが常識です。ニッポンのように、当の本人が大判振る舞いをするというしきたりはありません。だから保険は不要なのです」
「それは知りませんでした。ホールインワンをしたあとのモノいりは世界共通のものと思い込んでおりました」
「難事を達成すると、まわりの嫉妬と羨望を買うのは人の世の常です。それを放置しておくと、独特の “和”が乱れますから、ニッポンではホールインワンをした当人が身銭を切って、乱れの中和に努めるのです。一方、アメリカには“和”というものがありませんから、中和の必要もないのです」
「なるほど。ホールインワンひとつでも、日米ではこれほどの違いがありますか。今回はいい勉強になりました」

(出典: デイリースポーツ)

「入試がないならウチの子を」

「センセ、アメリカの大学には入学試験がないそうですね。でしたらうちの息子を、ぜひセンセの大学の医学部に入れてあげてください」というリクエストが“お受験ママ”からきた。今のニッポン人は、身内に「あげる」という表現を使って恥じない。自分の倅だろう。なぜ「やる」と言わぬ。この使い分けが出来ない者は、強要に欠けると言われて育った。昔の教えに従うなら、いまはニッポン中が強要を欠いているといえる。

「あげる」に虫唾が走ったからというわけではないが、おっかさん、その頼みは聞くわけにはいかぬ。アメリカで医学部に入るには、まず4年制の普通の大学を優等な成績で卒業することだ。医学部入学はその成績で決まる。医師や法律家は頭を使う職業だから、生涯学習が大事である。知的好奇心に富み、勉強が好きで、考える人間でなければ勤まらない。医学部も法学部も入学試験はしない代わりに、勉強地獄の大学4年間を耐え抜いて、優れた成績を残した事実を評価する。

ニッポンでは医学部に高校からいきなり入る。入学した後「しまった、ボクは医者にはなりたくない」と思っても後の祭り。世間は医学部中退を受け入れてくれるほど甘くはないから、いやいやながら、卒業して医者になる。こんないい加減な動機で医者になった人間に診てもらう患者は気の毒というほかない。いま、医療事故の多発が問題化している根源はこのあたりにある。

高校までの学習成果を競い合わせるのが、ニッポンの大学の入学試験である。一旦この難関を通過すると、勉強しなくても卒業はできる。だから、大学は本当に教育をしているのか、と疑われる。

アメリカの大学人は、大学教育の課程で学生を評価選別し、優れたものだけを社会に送り出すのが使命と認識している。入試をしないのは、こういうワケがある。

(出典: デイリースポーツ)

料理を差し戻すなんて

「あら、これは焼きすぎだわ。あたし、メディアムレアにして頂戴と頼んだはずなのに」

場所はワイキキのレストラン。ニッポンの熟年カップルと一緒のディナーのテーブルで、ステーキをカットした奥方の眉がつり上がった。

「ボクのは注文どおりの焼き加減だよ。ほら、こんなにピンクでジューシーだ」
「よろしゅうございましたね。あたしのは完璧なウェルダンなのに」
奥方は臆面なく、亭主にすねてみせる。
「ま、運が悪かったとあきらめろ。それより乾杯しょうや。ハイッ、センセ、乾杯!」
男の安泰はカミさんの機嫌次第だというのに、この亭主、こんなにはしゃいでいいのかと心配する。

「ちょっと待ってください。奥さん、そのステーキ、取り替えてもらいましょう。」
「え、そんなこと出来ませんわ。もう、手をつけてしまいましたから」
「それがアメリカでは、出来るのです」
テーブルに呼んだマネージャーに事情を説明すると、
「オー、アイムソーリー、マダム。お取替えはステーキになさいますか、それとも別の料理にされますか。ステーキでしたら、わたくしの責任で今度こそメディアムレアに仕上げてまいります。ほかの料理がご希望でしたら、メニューをお持ちいたします。これは私どもの手落ちでございますから、もちろん料金はいただきません。当店のサービスとさせていただきます」
イケ面マネージャーの言葉を聞いて、奥方の顔にパッと微笑みがよみがえる。めでたし。

「センセ、どんなマジックをお使いになったの? ニッポンのレストランでは、こんなことは絶対にあり得ませんことよ。今夜のディナーは、素晴らしいホノルルの思い出になりました。ありがとう」
「アメリカでは、料理でも品物でも、注文と違っていたら、無償で取り替えてもらいます。これは法律で守られた消費者の権利なのです。今夜は、ちょいとその権利を使ってみただけです」

(出典: デイリースポーツ)

地球温暖化に思う

大阪で定宿にしているホテルの部屋からコウベの方角を眺めると、コンクリートとガラスでできた大小無数の建物が、六甲山麓まで続いている。まるで平地を多いつくす絨毯のようだ。景色を眺めている間に、ふと幻想の世界に引き込まれた。

コンクリートはセメントと砂の混合物だ。セメントは石灰石や石こうを高温加熱して作られる。ガラスは石英、珪砂、炭酸ソーダの混合物を加熱融解させてできる。ビルの骨格を成す鉄骨や鉄筋は、鉄鉱石を高熱融解して取り出した銑鉄を形成加工したものだ。

大阪の淀川にかかる鉄橋、それを渡る電車、阪神高速道路、その上を走るクルマは、みんな灼熱の炉の中を通過してきたものばかり。はるか彼方の海峡にかかる明石大橋、大阪湾に浮かぶタンカーや貨物船、その上空を旋回する旅客機、元を正せば溶けた金属だ。

すべてに要したエネルギーを加え合わすと、一体どれほどの量になるのか、創造もつかぬ。

目を閉じると、視野に入る何百万という建物のすべてが巨大な溶鉱炉のなかでどろどろに溶ける情景がまぶたに浮かぶ。淀川や大阪湾の水が煮えたぎり、瞬く間に蒸発するのが見える。

これほどの大量の熱は、どこに消えたのだろう。宇宙の彼方へでも放散したのか?燃料に使われた石油、石炭、天然ガスから出た膨大な量の炭酸ガスの行方は?

いま、私の住んでいるアメリカは、恥ずかしながら他国の何倍もの石油を消費している。夏は冷房、冬は暖房、そしてクルマは一人に一台。いま、みんなが存分にエンジョイしている石油文明の利便は、いわば麻薬のようなものだ。一旦味を占めると止められない。この利便に制限を加えるリーダーは、国中からそしられ放逐される運命をたどる。だから、炭酸ガス規制をうたった京都議定書に署名できないのだ。これが民主主義の弱点である。

(出典: デイリースポーツ)