日米大学人の違い

「講師のアメリカンドクターたちと接して感じたことですが、男性も女性も年齢は40を出たばかりなのに、知性、気迫、自信、気配りが講義内容や発言のそこここに溢れていて、熟したリーダーシップが感じられます。ニッポンの同年配の大学人たちと比べると、悔しいですが、大人と子どもほどの差があります。この違いは一体何処から来ているのでしょう」

西南学院大学の宮原哲教授が慨嘆なさる。

「そんなに褒められると、かれらを育てたわたしは照れてしまいます」

先月、ニッポンの研修指導医を対象に「研修医をいかに育てるか」というセミナーをホノルルで開いた。講師にはアイオワ大学医学部の教授、助教授あわせて8名が駆けつけてくれた。全教程を通じ、講義も質疑応答もすべて英語だから受講生は堪らない。そこで中1日、オールニッポン語の“息抜きの日”をつくり、コミュニケーションが専門の宮原教授を招いて、「医療現場の人間関係」と題する特別講演をしてもらった。かつて米国東部の大学で教鞭をとり、日米の大学事情に通じた宮原さんの指摘する日米大学人の違いには、いささか思い当たる背景がある。

「なる」文化の国ニッポンでは、医学部教授に「なる」ことに価値がある。教授は学内外で、教職の枠を超えた権力をもち、医療界に影響力を持つ。一旦就任すると、無能と判っても罷免される心配はない。

アメリカでは、教授に「なる」ことよりも、なったあと何が「できる」か、に重きを置く。医学部教授は、患者の治療内容、医学生や研修医の教育能力を継続的にモニター評価され、それに合格し続けなければ、淘汰される。この厳しい職場環境を耐え抜くためには、プロとしての知技を支える豊かな教養が要る。医学だけの専門バカでは勤まりきらない。日米大学人の違いは、貯えた教養量の違いにあると視た。

(出典: デイリースポーツ)

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