サービス業って?

大阪で久しぶりに雑踏の中を歩いてみた。人波をかきわけながら歩くのは何年ぶりのことだろう。歩き疲れて喫茶店にはいり席につくと、ベレー帽にピンクのブラウス、タータンチェックのミニスカートに膝までのハイソックスといチャーミングなウエイトレスが、「何になさいますか?」とうやうやしく尋ねてくれる。「紅茶にして」「どの銘柄にいたしましょう?」「アールグレイはある?」いつも飲んでる銘柄を頼むと「承知いたしました」

「あ、ちょっと待って。ケーキも食べたいからケーキセットに振り替えてくれませんか?ケーキはモンブラン、紅茶はいま頼んだアールグレイでお願いします」「お客さま。まことに申し訳ありませんが、ケーキセットになりますと、お出しできる紅茶はダージリンになってしまうのです」「『しまうのです』といったって、ボクはモンブランとアールグレイが欲しいといってるのだから、『しまわないように』してちょうだい」「それでしたら、モンブランとダージリンのセットとは別に、アールグレイもお持ちしましょうか」「紅茶は二つもいらないよ。アールグレイだけでいい」「困りました。どうしましょう」と泣きそうな顔になる。

「ボクがアールグレイを好きだといってるのだから、ダージリンとアールグレイを入れ替えれば済むことじゃないの。それが客にたいするサービスというものです」「申し訳ありません。でも出来ないのです」

ニッポンのサービス業の底が割れた。客の好みより店のマニュアルを重視する、まるで役所の発想だ。アメリカのサービス業では、客は神様だ。客の好みが何物にも優先する。それがサービス業だ。なぜこの簡単なプリンシプルが守れない?飲みたくもないダージリンを無理やりすすりながら「なんでこんな目に逢わされる!」と腹立つばかり。ベレー帽の彼女、このコラム読んだら判ってね。

(出典: デイリースポーツ)

軽薄ニュースショウ

ニッポンに着いて1週間が過ぎた。早速テレビのチャンネルをサーフしてみると、申し合わせたようにニュースをショウ化した番組を放映している。どの局も同じ組み立てのフォーマット。たとえば、朝刊各紙の記事に赤の傍線を引いて大写ししたのを面白可笑しく脚色して読み上げ、番組に日替わりでジャンルの違う複数のゲストをコメンテーターとして招くところなどみんな同じだ。“専門家”のコメンテーターとして招かれた大学教授、法律家、評論家、ジャーナリストらはアンカーが振ってくる主題を解析しコメントする役割なのに、正面から反論することはない。どの主題にも「そうだ。そうだ。その通り」と賛同し次のテーマへと滑っていく。アメリカのテレビを見慣れた目でみると、一人ぐらいはアンカーに正反対の意見を述べてこそゲストコメンテーターの存在感があると思うのだが、どうも事前にグループ全体が同じ方向に向かうよう調整されているフシがある。全員同じ意見で対論のないグループは気色悪いだけだ。

表層を浅く上滑りするだけのコメントは事件の本質に論迫することはく、ただ「怖いことですね」だとか「あってはならないことですね」など、情緒と願望の域から出ることはない。

先週検察長を歴任した元公安調査庁長官が朝鮮総連ビルの売買に関与し詐欺容疑で逮捕された。この事件を米国にたとえると、元CIA長官が敵対するアルカイーダが所有する不動産売買にからんで私利を図ったのと同じぐらいの重みがある。米国だと国を売った元CIA長官は極刑を含む重罪に処されるだろう。だがニッポンのテレビでは、元公安調査庁長官ともあろう人がねえという意味不明のコメントにとどまり、国家存亡の重大事だとは誰も認識しない。本質に迫る発想はどこに消えたのだろう。

(出典: デイリースポーツ)