コラムのいきさつ

このコラムを書きはじめてから3年、先週で150回を迎えた。雑誌や新聞から執筆の依頼は「モノを書く医者がおるで」とどこかで聞きつけた編集者からの電話か手紙で来る。ところがこのコラムを書くに至ったいきさつはちと違うのだ。

各地から講演依頼をうけて年に7、8回ニッポンを訪れていた4年前、行くたびに神戸二の宮の居酒屋「藤原」に寄った。親板のヒロっさんは以前デーリーの「元気」欄で紹介された和食の達人だ。何もかもが旨い。ある日「藤原」のカウンターで隣り合った熟年男性と想いの琴線が一致して意気投合、大いに盛り上がった。後日この御仁が「元気」欄を仕切る坂本昌昭さんと知った。「年明けの1月から770字ほどのコラムを書いてみませんか?テーマは任せます」坂本さんの申し出を受けていまに至ったコラムは、居酒屋生まれの特異性をもつ。執筆期限はなし。元気でいる限り書き続けるという約束だが、さて何年続くことやら?

今年は欺瞞王国ニッポンの名のとおり、ビジネスの偽りや騙しが次々明るみにでた年だった。アメリカでもNYブルックリンの新聞社が水増しした発行部数をもとに広告主と契約し、莫大な広告料を詐取したと連邦検察に摘発され罰金17億円、広告主への返還金95億円の重罰を受けた。

米国はウソや騙しで利益を図ったものには厳罰で臨む。脱税には重加算税に加えて懲役が待っている。悪い奴らを懲らしめるのは「善良な市民」の権利を護るためだ。これと反対にニッポンは悪い奴の権利を保護するあまり正義がくじけるというケッタイな国だ。NYの新聞社の受けた罰と比べると、消費者を騙した老舗の料亭、餡子餅屋、地鶏屋などは無罰に等しい。「美しいニッポン」を取り戻すには悪い奴らに鉄槌を下す蛮勇が要るのでは?

(出典: デイリースポーツ 2007年12月27日)

学位論文審査の謝礼

先日某大学の医学部教授が弟子たちから学位論文の審査に対して受け取った謝礼を賄賂と咎められ逮捕された。学位というと約40年前、医学博士になったときの経緯を思い出す。研究結果を論文にまとめて指導教授に提出し手直ししてもらった原稿を小冊子に印刷して医学部教授会に提出する。教授会はこの論文の主査1名、副査2名を任命する。主査は指導教授だ。指導教授が自分で手直しした論文を自ら審査することは世間一般の常識に反するが、矛盾を平然と黙認したのが当時の「白い巨塔」だ。主査と副査の口頭諮問に続く英語とドイツ語の試験にパスするとあとは手続きのみ。本学の学長室に呼び出され、学位記と称する巨大な証書を学長から手渡しでもらって医学博士になった。だが手続きはまだ終っていない。

「謝礼はナンボ位しときましょう?」主査と副査に渡す謝礼の相場を先輩に尋ねる。「主査が2本、副査が1本やな」と教えてくれた。1本が幾らだったかは想像にお任せする。「これは何十年も続く医局の習慣やさかいな」と教えられ、当然のことと納得した。今度某大学医学部に司直の手が入った事件でも、当事者たちには過去1世紀医学部に伝わる伝統という認識しかなかったのではないか。

ニッポンは世界に冠たる贈答王国である。世話になったら幾らか包むのが当然という情緒支配の社会だ。だが研究や教育の場で審査や抜擢に対する謝礼の相場があるのを外から眺めると明らかに異常だ。法外な謝礼はこれを賄賂とみなして当然である。

自治を謳歌するアメリカの大学は研究や人事の評価に関して金銭授受があった場合、当事者を即放逐する自浄機能を持つ。一方何十年か昔の大学紛争の際、自浄機能を含む自治を捨てたニッポンの大学は、学内の不祥事でも司直の手に委ねるしかない。大学が再び“自治”を取り戻す日は来るのだろうか?

(出典: デイリースポーツ 2007年12月20日)

幻の「南方食堂」ホノルル支店

月はじめから冷え込んだニッポンを発ち、ホノルル空港に降り立つと雨だった。迎えのリムジン運転手の話では、このひと月は雨また雨の日々でうんざりしたという。ダイアモンドヘッドの北を掠めながら家路につくと、その名の由来のキラキラ輝く岩肌もすっかり緑に覆われて無精ひげを生やした様相だ。

9月に発ったときには岩だらけだった我が家の裏山も、うっそうとしたジャングルと化しているのにびっくりした。新大阪の活気あふれる雑踏と騒音から一転、静かな入り江に面したリゾート暮らし。両極端を交互に棲み分けられる幸運に感謝せねば罰が当たる。

大阪で過ごした2ヶ月余り、食事は近所の「南方食堂」で3日にあげず世話になった。昼は秋刀魚や鯖の煮魚や焼き魚に卵かけご飯、夜はカキフライに豚汁など、幼いころ田舎で食べたご馳走が日替わりで並ぶ。「味は南方料亭だね」と水を向けると店長は胸を張る。

わがカミさんは大抵の料理をプロ並みの手腕で作ってしまう自慢のマイシェフだ。そのマイシェフが、棚からピックアップしてテーブルに並べるだけで美味しいご飯がすぐ食べられる「南方食堂」の虜となり、我が家のキッチンに立つ回数が目立って減った。この症状が進行して今どき流行の「料理をしない主婦」になってしまったら、こちとらは文字通り「メシの食い上げ」になってしまう。

秘かに危惧しながらも、なに、ハワイに戻れば、またキッチンに立つに違いないとわが身を慰めていたところ、「センセ、うちはホノルルにも支店がありますねん。お帰りになったらぜひ寄って見てください。」
店長の言わずもがなの一言にずっこけた。

早速ホノルル支店の住所を頼りに訪れてみると、別のビジネスと入れ替わっていたので内心ほっとした。今もキッチンに立つカミさんの姿を見て、これでよしと思っていたら「早く大阪に戻ろ」だと。

(出典: デイリースポーツ 2007年12月13日)

混合診療

健康保険のきく従来の治療費は保険で支払うが、新薬や新技術など保険が効かない最新治療の医療費は自費で補うという二本立ての医療費支払い方法を混合診療と呼ぶ。政府は永年にわたって混合診療を禁じてきた。その理由は、最新治療の費用が自費で払えぬ貧乏人とカネで買える金持ちとの間で生死にかかわる違いがでるのが公正さを欠くからだという。

たとえばあなたがガンになったとしよう。ガンの手術切除に続いて新薬の抗ガン剤を使うと救命の可能性は高いが新薬は保健適応外にある場合、
「センセ、是非新薬を使ってください。その費用は自費でお払いします」
「自費は新薬の費用だけでは済みませんよ。新薬をつかうと今までにかかった入院費、検査料、手術代など診療費のすべてに健康保険が効かなくなる仕組みになっているのです」
「それは理不尽です。一種の懲罰ではありませんか。保険料も一度の滞りなく納めてきたわたしにが、そんな懲罰を受けるいわれはありません」(沈黙)
「健康保険は、被保険者の命を救うためのあらゆる手立てに有効であると信じて来ました。がっかりしました」
ニッポンの病院に勤務した頃、医者を辞めたくなるような、こんな辛い立場に何度も巡りあった。

政府の言い分は、混合診療に貧富ともに保険が利かなくなるような懲罰を仕組んでおけば医療サービス受給の平等性は保たれ、公正で文句はなかろうという理屈だ。だがこの罰則を作った人間は生死の境にある病人の想いを無視している。この状況では藁をも掴みたいのが人間だ。死後には平等も公正も意味をもたぬ。官僚は、罰則よりも新薬の恩恵を万人に与える方法を考えるのが先決という常識的発想に欠けている。

先日「混合診療に仕組まれた懲罰は理不尽なり」と訴訟を起こした常識人が一審で勝った。国は早速控訴したが、上級審でも常識が勝つようにと願っている。

(出典: デイリースポーツ 2007年12月6日)