形式だけの儀式

4月の朝。大阪の仮の宿。冷たい空気は寝床から露出した肌に心地よい。常夏ハワイの我が家では味合えぬこの快感が1分1秒でも永く続くようにと願いながら、夢とうつつの間を往来する。「春眠暁を覚えず」で始まる漢詩の一節のような毎朝だ。

寝ぼけ眼でテレビをつける。画面から突如飛び出す異様なシーンに驚き跳ね起きる。風にたなびく無数の赤旗。その隙間からハイトーン、ハイピッチで理解不能言語の怒号が湧き起こる。これがニッポンの長野で進行中の出来事とは信じ難い。

幾重もの制服姿の人垣に囲まれたネコの額ほどのスペースの中を、元阪神タイガース星野監督の走る姿が映し出される。監督の表情には、いつもコマーシャルで見る、こぼれるようなスマイルはない。固い表情には、負け試合のあとのような気落ちがこもっていた。  

監督には、堂々と胸を張り右手の聖火を天高く掲げ、観衆の声援に笑顔で応えて欲しかったが、沿道には日の丸の旗をもったニッポン人の観衆が殆ど見当たらぬ。いるのは赤旗を掲げる彼の国の人ばかり。こんな状況の中で警備の人垣の中を走るランナーに感動や誇りを期待する方が無理。その姿はまるで赤旗の国の囚われ人のように見えた。

それでも聖火は長野市内のコースを走り終え、新幹線で東京に移動し、翌日成田からソウルに向けて飛びたった。無事を見届けた政府代表は、彼の国への義理を果たせて安堵したことだろう。警備責任者は、ババ抜きのババを隣に渡したような気分を味会ったことと思う。そしてテレビの前のニッポン人は、長時間の田舎芝居によく耐えた。将来よりも過去、意義の有無より独善の形式にこだわる彼の国権力者の思惑に対し、形式だけの儀式を儀式として粛々と運んだ今回のニッポンは立派だった。世界の眼はそれをしかと見届けたに違いない。

(出典: デイリースポーツ 2008年5月1日)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です