昭和20年8月15日

昭和20年夏、少年Kは国民学校2年生だった。当時の生徒は町内毎に全学年が集まり、2列の隊列をつくって上級生の先導で登下校した。途中で空襲警報のサイレンが鳴り艦載機の爆音が聞こえると、全員道端の溝に退避。校門をくぐったあとも反復する空襲警報に教室に入らず、校庭一面に掘られた防空壕のなかで時間を過ごすという毎日だった。空襲の合間、上級生たちは松根油の元になる松の切り株の掘り起こし、低学年は乾パンの材料にするどんぐり拾いに励んだ。当然授業は遅れる。その遅れは夏休みを短縮して補われた。

その日、少年Kは朝からトンボとりにでかけた。不思議なことに昼すぎになっても空襲警報が鳴らない。屋外には人影なし。いつもと違う異様な雰囲気に急いで家に帰ると、母が茶の間のお膳に伏せて目頭を押さえていた。「どうしたん?」と尋ねると「日本は戦争に負けたんよ」と肩を震わせ泣き崩れた。
 
病身の母と姉との三人で暮らしたその後の半年間には、飢えのひもじさと、着る衣服も暖をとる燃料もなく凍える冬の冷たさしか記憶にない。過酷な飢えと寒さの体験が少年Kのその後の人生の基点となった。どんなに辛いことも、あの飢えと寒さの比ではない。同じ体験を分け合った同世代は艱難辛苦に耐え、わずか半世紀の間に日本を世界一の技術を持つ豊かな国に造りあげた。この50年間の急激な変遷は世界史上例を見ない驚異的発展と歴史家に認識されている。豊かさの指標はほぼ達成されたが、美しい国は目標としてインプットされていなかった。

人々は生活の豊かさと引き換えに心の美しさを失った。自分たちが耐えてきた轍を踏ませまいとする気持ちが、子等を甘やかし自己中心主義に溺れさせてしまった。そんな子等にも世界に挑まねばならぬときが遠からずくる。それを想うと気持ちが暗くなるのは、老年Kだけの杞憂であればいいのだが。

(出典: デイリースポーツ 2008年8月14日)

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