死の定義

日本では永年懸案だった臓器移植法が改正され、親権者の合意があれば幼い脳死者も臓器提供者になることが可能になった。今回の法案成立の過程で「臓器提供者にかぎり脳死を死と認める」という議論があったように記憶する。もし記憶が正確であれば、脳死は条件つきの死であり、死の定義にダブルタンダードを生じることになる。今日のように延命テクノロジーが発達した社会では、どこまでが生でどこからが死かという議論は異論続出でまとまりがつかない。

米国各州では州法に死の定義が定められている。アイオワ州法は死の定義を「二人の医師が別個に死亡と確認した人は死者と認める」と定めている。呼吸停止、心拍動停止、瞳孔散大、意識喪失、脳波の所見など技術的所見の詳細については一切触れていない。所見があろうとかなろうと、二人の医師が死と認めたら死なのだ。言い換えるなら、法律を作った州議会は「技術的な詳細はわれわれが定める範疇にない。医師たちが作ればよい」と医者に丸投げしたも同然だ。ありえないことだが、医師二人が共謀すれば、元気でぴんぴんしている人を死亡したことにもできるのだ。

アイオワ大学病院外科に赴任して間もなく脳死判定委員を拝命した。大学病院の定めた基準に従い数名の脳死患者を死者と判定したが、選ばれたもう一人の内科教授の判定との間に齟齬は生じなかった。だが生まれつき脳を欠く無脳児の死の判定には困った事態が生じた。大学病院の死の判定基準では「脳波の消失」が必須なのだが、脳のない無脳児は生まれる前から脳波を欠いているので、この基準に合わないのだ。誕生直後に人工呼吸を開始すれば、脳はなくても心臓はじめ他の臓器は正常に機能する。

はたと困った関係者一同、緊急会議を開いて善後策を練った。その会議にアイオワ州法が持ち出され、2名の医師の判定が合致すれば死と認めてよいと知ったのだった。人知には限界があり、すべての条件を満たす細かい技術的な定義は、かえって不都合を生むことがある。この例で、法はおおまかな原理原則を定めればそれでよいと強く実感した。

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