ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(4)
昭和38年の空襲警報

突如、鳴り響くサイレンの音。
院内各所にある頭上のスピーカーから、
「総員に告ぐ。識別不能の航空機が西南の海上を接近中。警戒警報発令。全員各自の持ち場に戻って待機」
早口のアナウンスが轟く。
これが発令されるとインターンは、直ちに持ち場の病棟に戻らねばならぬ。患者を運びだすストレッチャーの手配などしていると、追い討ちをかけるように、
「識別不能機さらに接近。空襲警報発令。総員退避開始」
と命令が下る。
救急医薬品を容れたバッグを背中に背負った衛生兵とともに、病室で動けない患者を素早くストレッチャーに乗せ、道路を隔てた向かい側にそびえる岩山に向かって移動する。
ヨコスカ米国海軍基地内に点在する小高い岩山には、太平洋戦争の終焉が近づいたころ、日本帝国海軍が掘った横穴防空壕が無数にある。
戦い終わって基地の新しい主となったUSネービーは、その横穴を識別不能の航空機による空襲の際の患者退避壕として使っているのだ。
ベトナムの戦場で重傷を負い、サイゴン定期便で運ばれてきた海兵隊員の患者を乗せたストレッチャーを押して、やっと壕の入り口にたどりついた頃、
「防空演習解除。総員(オールハンズ)本来の任務に戻れ」
と新しい命令が下って、月に一度の防空演習は終わる。

戦後18年目の防空演習

ときは昭和38年。
東京オリンピックの前年に防空演習を体験したニッポン人は、われわれヨコスカ米国海軍病院インターン以外にいないだろう。
「戦後18年、平和の真っ只中で防空演習だと?冗談もいいかげんにしろよ!」
と言う人は、米国海兵隊が抑止力でないというのと同じホントウの平和ボケ。ことの真相に無知なのだ。
国際間のウラでのせめぎあいのホントウの事実を知ると、笑い事では済まされない。
昭和38年にニッポン国籍の民間人であるインターン生が勤務した病院は、実は戦時下の米国海軍病院だったのだ。

極東におけるUSネービーの役割

朝鮮戦争は昭和28年に停戦協定が結ばれて以来、南北境界線で戦火は交わされていない。だが、停戦は和平条約ではない。停戦であるから、戦火はいつ再燃するかわからない。だから米軍のスタンスはあくまでも臨戦態勢だ。それにベトナムの戦場からは、軍事顧問とはいえ、毎晩負傷兵が空輸されてくる。
戦場に赴くことのないニッポン人インターン生が戦闘に巻き込まれることはありえない。
だが、戦地からの負傷兵の治療に当たるからには、インターン生も極東における米軍の役割を知っておくべきだという理由で、或る日海軍司令部から派遣された広報将校から「極東におけるUSネービーの役割」という演題の講義を受けることになった。この講義は当時のニッポンと米軍の立場関係を知るのには、大変興味深い内容だったのでいまでも記憶に残っている。
横須賀を基地とする米国海軍第7艦隊は、キティホーク、コンステレーションなどフォレスタル級8万トンクラスの大型空母一隻をそれぞれの主力とし、ミサイル巡洋艦、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、補給艦など数十隻で構成する戦術空母団の3群を保有する。空母団3群は日本の横須賀、グアム島、フィリピンのスービック湾の各基地を定期的に巡回し、極東の防衛に当たっている。
月に一度の防空演習の際、仮想敵機とされる識別不能の航空機は、中国東岸の基地から東シナ海を北上してくる中国空軍機が想定されていた。米ソ冷戦の最中だったので、仮想敵機は当然ソ連機だと思っていたが広報将校の講義では、当時中共軍と呼ばれていた中国空軍機だというから驚いた。
いまにして思うと、朝鮮半島で停戦中の相手は中国と北朝鮮だったのだから、なるほどと納得がいく。

スクランブル!

防空網のレーダーが「識別不能機」を捉えると、時をまたずニッポン国内の米軍基地から戦闘機が仰撃に飛び立つ。これをスクランブルと呼ぶ。日本近海に接近する中国機の挑発行為は1年間に300回を超えるスクランブルを惹起した。中国機は米軍機と接触する一歩手前で反転撤退するのが常だった。両軍機が戦火を交えるに至らなかったとはいえ、一触即発の反復ではあったのだ。
米国海軍にスクランブルが発令される場合は、「識別不能機の接近」よりもスケールの大きい緊急事態が背後にある。たとえば、台湾海峡に多数の艦船が集結中という事態が生ずると、ヨコスカ米国海軍基地の港内に停泊中の全艦船に緊急出航命令がでる。
空母というものは洋上を風上にむかって全速力で航行している状態になければ、載せているジェット戦闘機を発進させることはできない。港につながれたままの空母は、巨大な鉄の洗面器のようなもので、防衛にも攻撃にも、何の役にも立たない。
ヨコスカ基地ですごした1年の間に、数回の空母出動命令が発令された。これが発令されると、ヨコスカのダウンタウンを巡回しているSP(警備当番)は緊急体制を敷く。バーやキャバレーを1軒ずつまわって乱痴気騒ぎの真っ最中の水兵たちを狩集め、酔っていようが正気だろうが、巨大な兵員輸送トラックに押し込み、艦に送り込むのが彼らSPの任務だ。
キティホークのような巨大な空母には4千人を超える乗組員が乗っている。停泊中に何度か訪れたキティホークは、長さ300メートル、幅60メートルのフライトデッキをもち、その内部構造は11階建ビルに匹敵する巨大な建造物である。
シックベイと呼ばれる艦内病院には100床の入院病床があり、胸部外科、一般外科、脳外科、麻酔科、一般内科などの専門医7、8名のほかに、多数の衛生兵が勤務している。一旦ことが起きても、艦内で大抵の手術はできるように備えているのだ。
USネービーは艦内での飲酒を固く禁じている。艦内でスコッチやラム酒を飲む伝統をもつ英国のロイヤルネービーと比べると、USネービーは規律の厳しさが一段違うと案内係の水兵は胸を張る。
艦内には銀行、郵便局、教会のほかテレビ局もあり、ちっとした街である。丁度訪れたとき、艦内スタジオではタレント顔負けのクルーがトークショーのビデオ撮りをしていた。
空母が港に入って半舷上陸許可が出ると、2千人にのぼる乗組員が、艦を離れてオカにあがる。
妻帯者は帰港をまちわびる家族のもとに戻って、短い休暇を過ごす。独身のクルーたちはトウキョウ見物や富士箱根一泊旅行に出かける。
ヨコスカ近郊のアパートでガールフレンドとスティーミーな時間を過ごすものもいる。それぞれのスタイルでくつろいでいるとき、スクランブルが発令されると直ちに港に戻り、艦を沖に出さねばならない。

誰のためのスクランブル?

クルーが休暇を中断し任務に戻るのは一体誰のためかと考えてみると気が重い。セーラーの殆どは20代のヤングアメリカン。当時米国は徴兵制度を敷いていたから、クルーのなかには大学で勉学の途上、徴兵されてやむなく入隊したものも少なくなかった。
そんな若者の中には、
「日本という国をオレたちが護ってやっているのに、お前たちニッポン人はノーテンキにも安保反対だの再軍備反対だのと寝言を抜かす。自分の国を自分で護りもしないで、一体何様のつもりだ!」
と激憤する者もいた。
言われてみるとその通り。一言の反論もできない。
おそらくこれがアメリカンの市民感情を代表した意見だろう。ニッポン人も国際問題を論ずる際、現実に即した市民感覚で思考するといま何をすべきか判るだろう。
軍人は上官の命令に背くと軍事裁判にかけられ厳罰をうける。
在日米軍の若い兵士たちが、軍の命令に従い命を賭けて護るのは母国の米国ではない。彼らにとってはアカの他国であるニッポンなのだ。そのニッポンでは、おとなもこどもも安保反対、再軍備反対、平和憲法擁護を叫んでいる。平和愛好の姿勢さえ見せていれば、隣国がニッポンを攻める筈がないと信じている。

基地の塀の外からはスピーカーを通してヤンキーゴーホームと叫ぶデモ隊の声が聞こえる。
その最中でも、USネービーの若者たちは、そんなニッポンを護るために、愛する人のもとを離れてスクランブル発進するというのに。
護ってもらっている者が庇護者を誹謗する論理の矛盾に気づかなければ、愚者の集りと呼ばれても仕方があるまい。
現代ニッポンの老若を毒している度し難い自己中心主義は、1960年代の安保騒動の頃、矛盾だらけの戦後処理に目をつむり、国としての本来の姿を真剣に議論することなく、半世紀もの間先送りしてきた結果、今の普天間基地移転問題を招いているのだ。

(2008年4月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

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