ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(8)
世界一ケッタイな患者

軍隊というところでは、シャバの常識では想像もつかぬことがしばしば起こる。
外来クリニックで患者を診ていると、奇想天外の出来事にでくわした。
生涯二度と診ることはないと思われる珍患者に出合ったのは、神経内科に配属されていたときのことだった。

神経内科

いきなり余談になるが、神経内科というのは、文字通り神経の内科的な病気の診断と治療を担当する分野である。
ところが1963年当時のニッポンでは、神経内科は精神の異常を診断治療する精神科と併せて、精神神経科と呼ばれていた。この二つの科を併合することには、医学的見地からみても明らかに無理であったが、都合にあわせて矛盾に目をつぶるのは、ニッポンの役所の得意とするところだ。

精神神経科

うつ病や認知症、それに心因症などの診断治療は、精神科の仕事である。一方、脊髄の変性疾患や坐骨神経痛の治療は、神経内科の分野だ。この二つの専門分野を一つの科にはめ込むことは、たとえていえば、稲作の水田にトマトを植えるようなものだ。精神科と神経内科が分離し、稲は田んぼでトマトは畑で栽培されるようになるまでには、かなりの年月を要した。
その間、神経痛のような神経内科的疾患に苦しみながらも、精神神経科を受診すると、近隣から精神病者と見做されるのを恐れて、受診を拒む人も珍しくなかった。

懐かしの花柳科

余談ついでに、同じような経緯をたどった科名を挙げると、筆者がまだ医学生の頃、皮膚泌尿器科と呼ばれた科があった。この科はのちに皮膚科と泌尿器科に分離したのだが、巷では別名、花柳科と呼ばれていた。
皮膚科と泌尿器科が水と油ほど違うのは、今なら子どもでも判る。ところが半世紀前の医療行政はこの二つを融合し皮膚泌尿器科と呼んだ。そのワケを解説してみよう。
梅毒は感染して3ヶ月を過ぎた頃、バラ疹とよぶ特有の皮膚所見がみられる。皮膚にバラの花が散ったようにみえるバラ疹を診るのは皮膚科医である。一方、淋病に罹った人は1週間以内に尿道の炎症を起こしてペニスの先から膿が出る。淋病の尿道炎を治療するのは、当然のことながら泌尿器科医である。
ここからが屁理屈の真髄だ。
梅毒も淋病も、ともに花柳界の花街で遊んだ結果罹患する性病だから花柳病と呼ばれた。
ここからが面白い。
梅毒も淋病もともにエッチによってうつる花柳病だから、それを治療する科は、二つ併せて皮膚泌尿器科にしてしまえ、という理屈がまかり通って、そう呼ばれるようになったという。
こんな詭弁でものを決めても、どこからも文句が出ないで済んだおおらかな時代ではあった。

花街はカガイかハナマチか?

余談ばかりが続くが、先日テレビのアナウンサーが花街をカガイと呼ぶのに出くわし仰天した。広辞苑を開くと、確かにカガイも載っている。だが花街はハナマチと言うほうが耳ざわりがよい。「ハナマチの母」という演歌の名曲が「カガイの母」ではさまにならない。
念のためにと角川新国語辞典を引いてみると、不思議なことにハナマチは削除されている。そういえば、これもこの間、南氷洋(ナンピョウヨウ)をミナミヒョウヨウと読んだ女性アナウンサーがいた。女子アナが、他人様(ヒトサマ)をタニンサマと読むのも聞いたことがある。
中央卸売市場は、20数年まえにニッポンを離れたときには、たしか中央卸売イチバといっていた。これをいつのまにか中央卸売シジョウと呼んでいる。「市場(イチバ)で晩のおかずに鰯のてんぷらを買う」というところを、「シジョウで晩のおかずを買う」というと、鰯のてんぷらを株屋で買うような気がするではないか。
言葉というものは、世につれ時代につれて変わると承知してはいるが、それほどに変える理由があるのか。あるならその証拠を示してみよ。
美しい日本語をみんなに示す役割を期待されているアナウンサーが、あまりにもオカシなニッポン語を使って平気でいるのは尋常でない。このまま進んでいくと、たとえば、「原子力」をハラコカと読む女性アナウンサーが現れても不思議はない。
そのときがきたら、腹の底から笑い倒してやろうと、密かに期待しているところである。

世界一ケッタイな珍患者

大変遠回りしてしまったが、ハナシをヨコスカ米国海軍病院の神経内科に戻そう。
或る日、外来受付に基地高官の奥方と称する女性から電話がかかり、ジョンだかトムだかが、腰が立たなくなったから診てほしいというリクエストの予約を受け付けた。予約をうけた衛生兵は、多分、息子がスポーツのしすぎか何かでそうなったのだろうと想像しながら、手順どおり診察予約を受け付けた。
さて、診察の当日、訪れた患者をひと目見てスタッフ一同仰天した。高官夫人の腕にだかれて来たのは、なんとペットの子ザル。
「お門違いじゃございませんか。ここは人間を診る海軍病院ですよ」
と言って引き取ってもらおうとしたところ、診察室から飛び出してきた神経内科医長の海軍中尉殿に止められた。中尉殿は、無体にも、この珍患者を受け付け手順どおり病歴をとって診察しろという。

26歳のインターンの未熟な心は、「アホらし。毎日の患者の診療は真剣勝負だと思えと教えているくせに、こんな猿芝居をマジでしろとは何事ぞ。納得できない」と謀反を起こす。
亭主に下った最高司令部の命令とは言え、生まれ育った国を離れて、東洋の異国のなかにポツンと鉄条網に囲まれて隔離された基地暮らし。
地位上昇志向人間の亭主は、本国恋しさ、心細さに耐えかねているオンナごころを理解するはずもなく、一人寂しさを紛らわすため、のべつ幕なしにバーボンを飲みつづける。
生きがいといえば、ただひとつ。
酔っ払いでダメなママでも、つぶらなひとみに愛しさを込めて見上げてくれる最愛のモンキーちゃんがいるから、今日も生きていける。
こんなウラ事情に想いを馳せることが出来るのも、数々の人生を眺めながら70年も生きてきたからこそ。26歳の当時では、ただただ、酒臭いママに腹を立てるだけだった。

中尉殿のこわばった表情を見ると、これにはウラになにかワケがある、ここは命令に従い事態がどう発展するかみるべし、と決断し、型どおりに腰の抜けたモンキーちゃんをあやしながら診察をはじめた。
「どうしたの?どこが痛いのかな?」
と病歴をとりはじめると、ママが替わりに答えてくれる。
「ちょっと診せてちょうだいね」
診察をするフリをする。
ママの高官夫人は、真っ昼間というのに吐く息がモーレツにバーボン臭い。あまりのアホらしさに、噴き出しそうになるのをこらえながら真似事だけの診察を終え、母子ならぬママとモンキーを中尉殿の診察室に案内した。
中尉殿は、ろれつのまわらぬキッチンドリンカーの高官夫人を相手に、大真面目な顔で病歴をとったあと、子ザルの小さな胸に聴診器をあてて診察をする。モンキーちゃんの肘や膝の関節をハンマーでたたく仕草はプロの技。さすが専門医資格を取得したホンモノの神経内科医だ。
これが本当のサル芝居だなと思って見ているうちに、診察を終えた中尉殿は、これ以上はないという深刻な表情で、
「診せていただいたところでは、あまりよくありませんね。診断の結果はのちほど書簡にしてお宅あてに送ります」
と告げるのだった。
肩を落としたアル中夫人が子ザルを抱えて、ドアの向こうに消える。
緊張から開放された中尉殿と眼が会う。
わっと吹きだした二人は、5分間も笑いが止まらなかった。

女帝には勝てぬ

亭主が権力を持つと自分まで女帝になった気分になるオンナは、どこの世界にもいる。取り巻き連中は、蔭ではボロクソにけなしながらも、面と向かうと祟りを怖れて逆らわぬ。
それをいいことに、愚かなおんなは、このワタシにはそれだけの力があるからだわと有頂天。ここまで病膏肓に入ると、目は見えず、耳は聞こえず、思考は停止。
女帝は常に孤独で寂しい。その寂しさを紛らわすため、キッチンでバーボンをあおる。独り酒場で飲む「悲しい酒」と通じるものがある。
反対に亭主の権力増大に反比例し謙虚さが増す奥方も世間にはいる。おなじ女帝でも、こちらは人気絶頂疑いなし。

中尉殿、今はいずこに?

中尉殿のハナシによると、診察の前夜、アル中夫人から宿舎に電話があったという。なんといっても相手は高官夫人だ。横車的リクエストを拒絶するには相当の根性が要る。
中尉殿はしばし葛藤したのち、院内に波風立てぬため、珍患者の診察を承諾したのだという。
「中尉殿がアメリカ本土の民間病院に勤務しておられたとして、市長や議員など町のビッグショットの奥方がペットを診てくれとゴネ押ししてきた場合、モンキーちゃんをよろこんで診察されるのでありますか?」
「そんなバカな。これは海外の基地という特殊社会ゆえの特別サービスだよ。モンキーちゃんよりも、海外基地暮らしの淋しさに耐えかね、キッチンでバーボンをあおるママを救うことが出来れば、というのが本音で決断したまでさ」
この中尉殿はもうとっくに海軍も神経科医も引退している筈。
半世紀にわたってまったく音信不通だが、ひょっとするとホノルルでのんびり暮らしているかもしれない。
出来れば、一度会ってみたいものだ。

(2008年8月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(7)
ジェット戦闘機に轢かれた患者

救急医療センターに詰めていると、突然、房総沖を航行中の空母から緊急連絡が入る。

「フライトデッキで事故発生。患者は現在ヘリコプターで転送準備中。仮診断は高度熱傷、骨盤骨折、左大腿骨骨折。骨折はX線フィルムで確定。
簡略病歴は、ジェット戦闘機がカタパルトで発進中、退避の遅れたクルーがジェット機の車輪に骨盤と左大腿を轢かれて転倒。倒れたところに、ジェットエンジンから噴出する高熱排気ガスを全身に浴び、体表面積の30パーセントに3度熱傷を受傷。現在輸液続行中。
意識、呼吸および血行動態は安定。ヘリコプターのヨコスカ海軍病院到着予定は約40分後。スタンバイよろしく」

外部から救急医療センターに入ってくる無線連絡は、すべて天井のスピーカーを通し、センター勤務するスタッフ全員の耳に入る仕組みになっている。救急医療ではスタッフ全員が情報をオンタイムで共有することが重要なのだ。口から耳への伝達回数が増すごとに、情報が修正歪曲されるのは、他の業種の現場でも同じこと。
その愚を避けるには、スピーカーでいっせいに報せるのがベスト。

救急医療センターの天井のスピーカーが吐き出す会話にもらさず耳を傾けていると、ヨコスカ市内を巡回中のショアパトロール(海軍警備隊)からの無線はもちろん、太平洋上を航行中の艦船のシックベイ(艦内医務室)や、飛行中の医療ヘリから入ってくる情報のすべてを聴くことができる。処置室で患者の傷の縫合をしながら、次に送られてくる患者の状態を、前もって知ってケアの段取りをつけることも可能である。
その仕組みは便利で有用なのだが、交わされる英会話はおそろしく早口のうえ、無線特有のガーガーピーピーという雑音で聞き取り難い。おまけにネービーの業界用語が頻繁に出て来る。それに緊急事態に直面した送信側当事者の興奮が重なると、それまでの人生をニッポン語世界にどっぷり浸って生きてきた新米インターンには、殆ど理解できない。
駅前英会話教室で教わる英会話は、こどもだましのようなもので、まったく役に立たない。

難解なネービー業界用語

USネービーでは、トイレをヘッドと呼ぶ。
朝顔型をした小便器はジョン、排尿行為そのものはピス。
壁はブーケ、天井はオーバーヘッド、床はデッキだ。
たとえば、市内の路上からショアパトロールが送ってくる「こちらSP。ヒットザビーチ中のセーラーが,バーのヘッドでピスの最中、ブーケにもたれたらデッキに倒れジョンで頭(ヘッド)を打った。意識はあるが頭部の裂傷から出血少々。現在病院の救急医療センターに向かって移送中」
こんな会話は、駅前英会話教室の教師でも、なんのことやら判るまい。ちなみに「ヒットザビーチ」というフレーズは、非番のときに離艦許可をもらって上陸することを意味する。

「空母の上でヒコーキにはねられた患者が、ヘリで運ばれて来るからスタンバイせよ」という情報も、当直のコアマン(衛生兵)に繰り返して解説してもらい、やっと全文を理解できた。
やがて東の空から、轟音とともにローターが二つもついた巨大なヘリコプターが飛来し、病院の中庭のヘリポートに騒音と砂埃をまきちらしながら着陸する。インターンは、ストレッチャーを押すコアマンとともに回転しているローターの下をかいくぐり、ヘリまで病人をもらいうけにいかねばならぬ。
何年もあとになって、この光景、どこかで見たぞと気づいてみたら、朝鮮戦争時の陸軍野戦病院を描いた超人気テレビドラマの「マッシュ」にそっくりなのだ。ドラマを演じる役者は、危機一髪でも死ぬことはないが、現実に直面する当事者は、ローターに頭を吹き飛ばされると確実に命を失う。
ヘリから降ろされた熱傷と骨折の二重の重傷を負った水兵は、外科と整形外科のチームによる手厚い治療の甲斐あって一命をとりとめた。後日無事退院し空母の任務に戻っていったという。
この患者は戦闘機の車輪に轢かれたのだから、ニッポン風のクソ真面目な定義をすると「軍用航空機によって惹起せしめられた輪禍の犠牲者」とでも言うのだろう。なんと呼ぼうと病人は病人だ。インターンを終えたあと、外科医人生の40余年の間に様々な患者を診てきたが、「ヒコーキに轢かれた患者」はこの水兵が始めての最後だ。総務省消防庁に集計されている全国の救急車による搬送記録のなかにも、おそらく「ヒコーキに轢かれた患者」はいないのではないか。

電線に引っ掛った戦闘機

「ヒコーキによる交通事故」ではないが、似たようなヒコーキ事故で両下腿骨折をした海兵隊戦闘機のパイロットが運ばれてきた。
厚木基地の滑走路で海兵隊の戦闘機が、タッチアンドゴーと呼ばれている着陸と離陸の反復演習の最中、離陸時のエンジン出力が不十分だったため、機首が上がりきらず、基地のすぐ外を横切る電線に降りたままの車輪を引っかけてしまった。
失速した機は数百メートル先に墜落炎上したが、パイロットは間一髪の判断により座席射出装置のレバーを引いて、クラッシュ寸前の機のコックピットから座席ごとの脱出に成功したのだ。
だが、不運なことにパラシュートが開くには高度が低すぎたため、そのまま着地。その際パイロットは両足を骨折してしまった。幸い主要臓器の損傷は奇跡的に免れ、命には別状を生じなかった。
生と死と紙一重の体験をしたこの海兵隊将校、入院後の一週間は極度の興奮状態が続いて、インターンやナースが部屋に入ると、喚きたて吼えまくって寄せ付けてくれぬ。
大量の神経安定剤投与も効を奏さず、まったく手が付けられなかった。死の恐怖に晒されると人間はここまで崩れるものかと恐ろしかった。心身の回復に数ヶ月を要したが、退院直前に将校クラブで会ったときには、普通の会話の交わせる紳士のたしなみを取り戻してくれた。受傷まもなくの期間、極度の興奮状態と平静の両極を行き来する情念の揺れ動きがとても印象的だったこの男性の経過詳細はいまでも鮮明に記憶に残る。

大女優シャーリーマクレーンと出会う

もう一人の忘れられない患者は、当時世界の銀幕を揺るがせたハリウッドの大女優シャーリーマックレーンのご亭主だったスチーブパーカーだ。シャーリーといえば、その頃ジャックレモンと共演した「アパートの鍵貸します」の好演ぶりが妙に記憶に残っていて、「隠れ追っかけ」を自称していた時期にいた。だから亭主が入院したときいたとき、もしかしたら出会うチャンスが訪れるかもしれないと、秘かな期待をしたものだ。
ハリウッドの映画プロデューサーで大のニッポン贔屓のスチーブパーカーは、シャーリーと結婚したあとしばらくニッポンに滞在し、越後方面にスキー旅行にでかけた。ゲレンデをスキーで滑降中に転倒し、足を骨折して海軍病院に運ばれてきた。

余談になるが石原裕次郎や小島正雄など有名人がスキーゲレンデで足を骨折する事故が頻発したのも、なぜかその頃だった。

半世紀まえのニッポン国内には、アメリカンのセレブを入院治療するための医療施設がなかった。英語を自在に話せる各科の専門医やナース、電話、トイレ、シャワー、冷暖房の付いた個室の病室、ビーフやポークにグレービーのかかったマッシュドポテト、冷えたフレッシュレタスに各種ドレッシング、アイスクリームにコーヒーか紅茶という1950年代にアメリカ映画に繰り返し登場したメニューの食事を作って出せるキッチンを備えた病院は、日本中どこを探しても存在しなかった。
だからスチーブパーカーのようなアメリカンのセレブが、ニッポンで病気に罹ったり事故に巻き込まれたりした場合、民間人であってもヨコスカ米国海軍病院の将校専用病棟に入院して治療を受けるか、飛行機をチャーターしてアメリカ本国に戻りかの二者択一だった。
ただしそれができるのは有名人の大金持ちに限ってのこと。ネービーは慈善事業ではないが、多額の税金を気持ちよく支払ってくれるアメリカンは大切にする。

亭主のスチーブが骨折入院したならば、嫁のシャーリーが見舞いに来るのは当然だ。ならばスチーブのケアにあたるインターンは、大女優シャーリーマックレーンに遭う機会があって当然である。という屁理屈が現実となり或る日シャーリーに出会った。
場所は海軍病院の真ん中を貫く長いローカだ。
向こうから、薄いサングラスをかけた小柄な女性が歩み寄ってくる。僚友のY君が、
「あれがパーカーの女房だよ。おまえ、話しかけてみろよ」とけしかけてくれる。
「ミセスパーカーですね。はじめまして。わたしはインターンのDr.キムラです」
自己紹介すると、
「シャーリーと呼んでくれていいわよ。主人をケアいただいてありがとう。彼はいつ頃退院できるのかしら」
「もうすぐだとおもいます」
定番の返事をすると、
「そうだと嬉しいわ」
定番の返事が返ってきた。
シャーリーはラベンダー色をしたカシミアのサックドレスを着て、同色の帽子を頭に載せ、両手にシルクの白い手袋をはめていた。立ち話がおわわり、別れに交わした握手で握った手の平の感触と、馥郁たる香水の香りが、26歳の若者の大容量メモリーにしっかり記憶されており、いまでも再生可能状態にある。

(2008年7月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

医者は人生を楽しいものと信じるべし

「センセは、医者にとって一番大事な心構えは何だとお考えですか?」
先日、某国立大学に招いてもらい、医学生に授業をしたあとのパーティーでの立ち話。医学生の一人からこんな質問をもらった。

「人生は楽しい生きるに値するものだと信じることだね」

「それはどういう意味ですか?」

「生きていることは素晴らしい、人生は楽しいものだと信念をもって過ごしている人は、医者だけに限らず、表情は活き活きしているし、動きは軽やかで、見るからにダイナミックだ。その姿が、病気で落ち込んでいる患者の生きようとする力に、大きなインパクトを与えるんだよ」

「そうでしょうね。臨床実習で、過労のあまり疲労困憊しているドクターの姿をみると、ボク達学生でも気分がめいります。まして、疲れてだらけた態度のドクターから治療を受ける患者さんは、たまったものではありませんね。人生活き活き、理解できます。」

「わたしはヨコスカ米国海軍病院でインターンをしたのだけど、そのとき習ったことの一つに、『徹夜の翌朝疲れ切っていも、院内で会った人から “How are you?” と声をかけられたら、“I am fine. Thank you”と元気よく答えること』、というのがあった。疲れきっているのに、ファイン、サンキュー」と答えるのは、気持ちを偽ることにならぬかといぶかりながらも、理由不明のままこの教えを守ってきた。ところが或る日、患者からそのワケを知らされた。
「徹夜仕事でどんなに眠く疲れていても、健康人であるドクターは一晩休めば元気を取り戻すことができていいですね。毎晩寝ても苦痛の取れない患者からみると、回復可能な疲れや睡眠不足は羨ましいかぎりです」
なるほど、言われてみるとその通り。

以来、長時間の手術が終わって、ぶっ倒れるかと思うほど疲れていても、患者の家族にハナシをするときは、背筋を伸ばして疲れを見せないよう、心がけるようにしているというと、
「ウラの真実はそれだけのことですか」だと。

今の若者はこしゃくなセリフを吐く。

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(6)
Dr. フォーセットに習った患者接遇術

1963年から47年を経たいまも、ニッポン国内の米軍病院のインターンに応募する医学生は跡を絶たないが、それにはワケがある。そのワケを知るには、米国の卒後研修制度を理解する必要がある。

米国の医師卒後研修制度

米国の医師卒後研修制度は、いまをさかのぼる98年まえ、1913年に端を発した。それ以来、ほぼ1世紀間の試行錯誤を重ねて改良を加えてきた。
いま米国の医学部卒業生は、卒後医学教育認定評議会(ACGME)が指定した研修認定病院で、科別に定められた期間を、研修指導医の指揮のもとで、所定の臨床実習と専門とする学科の系統授業を受けなければ、研修を終えることができない。
研修を修了しないと、研修した科の専門医試験の受験資格がない。専門医試験にパスして専門医資格を取得しなければ、外科医、内科医、小児科医など専門家医師として開業することはできない。仮に開業したとしても、保険会社は被保険者の診療費を支払ってくれない。非専門医には、医療費を請求する資格はないのだ。
専門医資格のない医師は、病院に勤務することは不可能である。資格のない医師に診療を許した病院は、病院評価合同委員会(JCAHO)の認定を取り消される。そうなると入院や外来診察の医療費の請求受領が出来なくなる。このように入り組んだ相互力学によって、医療の質が維持される仕組みが出来上がっている。
一方、日本では医師国家試験に合格して得た医師免許があれば、いかなる診療を行っても合法としている。だから昨日まで内科医をしていた医師が、今日からメスを持つ外科医でございと名乗って患者を手術しても許されるのだ。こんなニセ外科医の治療をうける患者の身になってみれば、これほど市民を愚弄する制度に憤怒せずにはいられまい。
米国で医師免許がオールマイティの効力を失って30年近くになる。
医師免許は研修医として診療に従事するために必須のものであるが、研修を終えて各科のライセンスすなわち専門医資格をもって、はじめて単独で診療がゆるされるというダブルセーフティが出来上がっているのだ。
というワケで、医学部卒業生は全員が卒後研修を受ける。
ヨコスカ米国海軍病院のインターンがいまでもニッポンの医学生の間で人気があるワケを謎解きしてみよう。
将来、米国にわたり、どこかの研修病院で5年間の外科研修をうけ、さらに2年間の小児外科研修をうけて修了した暁には、米国のどこかの大学で、小児外科医として、また教壇にたつ教授として活躍したいと願う日本の若者がいるとしよう。この若者がヨコスカ米国海軍病院でインターンを終えたとしても、米国の研修プログラムは一部たりとも研修の足しという解釈はしてくれない。
だが、米国の医学教育や診療のシステムに慣れる、指導医から推薦状を書いてもらえる、なににもまして1年間英語社会に暮らすと英会話が上達するなどの利点がある。だから、ヨコスカ米国海軍病院でインターンをするためには、いまでも厳しい競争に勝ち残らねばならない。

国試浪人は医師不足の一因

米国の医学生たちは医学部卒業前に医師国家試験を受ける。この試験をパスしなかった学生は医学部を卒業させてもらえない。留年して勉強をしなおし、国家試験に再度挑戦するしかない。国家試験という本来だれでもパスする資格試験に合格できない学生を育てた医学部は、そんな学生を再教育しなおし、次回にこそ必ず合格させる責任を負うべきである。
ニッポンでは、医学部卒業が医師国家試験の受験資格とされている。だが、現実は厳しい。受験者の1割は合格できない。
不合格者たちは「医学部は出たけれど医師に非ず」という身分の国試浪人と呼ばれる存在になる。次の試験まで、国試予備校に通っている間は医師として診療活動することはできない。これがいま問題の医師不足の一因となっている。
米国にハナシをもどすと、研修医は医師であるから診療行為は出来るが、専門医資格を持たないので診療報酬の請求はできない。診療報酬が請求できなければ職業人としてひとり立ちできない。
このようなシステムを確立することで、未熟医師が起こす医療事故を未然に予防し、患者に不幸な結果をもたらすことの防止策として役立てている。
ニッポンでは、医師国家試験に合格すると、医師としていかなる診療活動を行うことも許される。未熟な医師でも、その診療行為にたいして診療報酬を受け取ることもできる。
これをクルマの運転にたとえると、運転の実地試験を省略し、学科試験のみに合格したドライバーが、いきなり運転席に座って市内を走り回るようなものである。先進国の中で医師の資格審査が一番ゆるやかなのがニッポンであることを、ニッポン国民はもっと知るべきである。
去年からニッポンでも、医学部を卒業したあとの2年間、各科を巡る卒後研修が必須になった。ところが、これら研修医の診療行為であっても、病院は診療報酬を請求し、健康保険団体から診療報酬の支払いを受け取れる仕組みなのだ。この理不尽を放置したまま先送りするところが、ニッポンの特異性なのだろう。
一方、米国でも10年余りまえに、研修医の診療行為を指導医が行ったことにして診療報酬を請求した大学病院があった。ある日、この病院のおこなった診療報酬不正請求は詐欺行為としてFBIに摘発され、過去10年にさかのぼって百億円を超える罰金を支払わされた。どこの国でも医療制度には問題は多々あるが、米国では患者、すなわち市民の生命と権利を保護するため、医療の質を保証する仕組みだけはしっかり稼動している。先進国のなかで医療の質の担保が一番薄いのはニッポンであることを銘記すべきである。

「習い、施し、教える」

市民の生命と権利を保護するため、医師はなにを為すべきか。
「習い、施し、教える」ことが、全米の医師の間では、暗黙の約束になっている。
この約束は、「先達から習った知技を、患者の治療に役立て、後輩に教え継いでいく」、という意味だ。実際、すべての医師はこの不文律を守らざるを得ない仕組みになっている。
この約束を守らない医師は、病院で診療をする権利を剥奪される可能性を秘めているからだ。 ヨコスカ米国海軍病院のスタッフ医師たちもこの約束を厳しく守っていた。
ニッポンの病院の医局では、若い医師を集めて内科や外科の系統授業をする伝統が全くない。「教え、実施し、教える」という、代々の医師の間に言い伝えるべき約束ごとが存在しないからだ。
かわりに「先輩の手技を見て技を盗め」だの、「一人前の医者に向かっていまさら授業なんかできるものか。知識は自分で勉強して身につけるものだ」という声が大きい。これでは、いつになっても、いい医者を育てることはできない。

Dr. フォーセットに教わった患者接遇術

「『次の患者さん、どうぞ』とナースに呼ばれて、患者はキミの診察室に入ってくる。そのとき、医師であるキミはどちらの方向を向いているべきだと思うか?」
40年まえ、ヨコスカ米国海軍病院内科医長Dr. フォーセットが、内科の授業で前列に座ったインターンに尋ねた質問はいまでも鮮やかに思い出される。
病気の定義や症状、検査の選択や治療方法ばかりを教えるニッポンの医学部では、こんな質問をする教授はいないから、インターンの誰もが答えられずに黙っていると、
「入り口のドアの方を向くが正解だよ」
と教えてくれた。
その理由が興味深かった。
「医者に診てもらいに来る病人は、どこか具合が悪いからだ。何処が悪いのか判らないまま、最悪の場合これで命を失うかも知れないという不安を抱えている。これは命に関わる大問題だ。その大事な問題を解決してくれると期待している医師が、初めての遭遇で、自分に背中を向けていたら、患者はどう感じると思う?」
説明を聴いてなるほどと強く感動し頭の中の記憶の倉庫にきっちりと収納したから、いまでも鮮明に思い出せる。
後年、アメリカに移ったあと同僚の教授たちのオフィスを覗いてみると、デスクは全部入り口に向かっているのに感心した。
それと正反対に、ニッポンの病院では、医師のデスクは壁に向けて置くのが常である。目の前の壁にレントゲンのフイルムに目を通すためのスクリーンが掛かっているから、というのがその理由だ。患者よりもレントゲンフィルムのほうが大事なのかという議論が生まれる。だが、その議論は別の機会に残して置くことにして、ハナシを進めよう。
患者がオフィスに入ってきても、医師の視線が反対の方向を向いていると、患者はどんな第一印象を持つだろう。小ばかにされたと思うのが正解だろう。患者から信頼を得るのは困難だと思うべし。

患者とは視線を外す位置で

「患者の座る椅子は、キミのデスク越しに真向かいになるような配置にしてはいけない。なぜか判るものはいるか?」
Dr. フォーセットの次の質問に、ニッポンの医学部を卒業したインターンはなかなか答えられないのだ。まるで回答不可能なクイズのようなものだ。
「いいかい。デスクを間にして真正面に向かいあうのは、刑事が容疑者を取り調べるときの位置関係だ。患者が他人には絶対に言いたくないことでも、医師は知っておかねばならぬことがある。そんな場合、真正面から向き合って互いの視線が一致していると、打ち明けにくい。だが、視線のアラインメントが外れていると、気持ちの上では大いに楽だ。だから、患者の椅子は医師のデスクの左右どちらかの側面に置くのが正しい。この配置だと、互いの視線を衝突させずにすむのは判るだろ」
Dr. フォーセットは、噛んで含めるように言って聞かせてくれる。
こんなことは卒業前の医学部では誰も教えてくれなかった。
ニッポンの医学部教授は、自分は背もたれ肘掛つきの回転椅子に踏ん反り返り、患者を背もたれもない丸椅子に座らせて平気でいる。人の心を慮る教育ができないのは、患者はあくまでも医者より一段下の人間と見做しているからだ。
後に米国に活動の場を移して、外科教授として勤務したアイオワ大学病院では、逆に患者を豪華なイスに座らせ、われわれ医師は粗末な丸椅子に掛けるのが院内の慣わしだった。

雑談が出来れば一人前

「患者に椅子をすすめたら、いきなり病気のハナシに入ってはいけない。その前に、まず身の回りの雑談から入ることが大事だ。
たとえば、雨降りの日なら、『遠路はるばる雨の中を大変でしたでしょう』という気配りをする」
インターン一同が聞き入っていると、
「外来診察がはじまるまえに、今日の予定患者のカルテに目を通して、各患者の住所を頭のなかにいれておく。患者の住まいが郊外なら、『お宅の近くは緑が多くていいですね』 
街中なら、『にぎやかでいいですね』という会話から入っていく。
そうすると緊張がほぐれて、あとにつづく会話が滑らかになる」
医療は医学知識と技術だけに頼って、悪い病気を除去する術をマスターすればいいというものではない。
病気を持っているのは人間だ。それぞれ違った感性と感情をもつ患者を相手に正しい診療行為を行うためには、患者一人ひとりの気持ちを別個に掴まねばならぬ。
各自の気持ちへの気配りが出来て、はじめて人を診る医師といえるのだ。
ヨコスカ米国海軍病院でDr. フォーセットから教えてもらったことは、その後、アイオワ大学で医学生達を教育する教壇にたったとき、どれほど役にたっただろう。それほどにありがたい教えだった。
今、ニッポンのあらゆる分野で若い人たちの接遇術が問題視されているが、半世紀まえの1960年代の日本では、若者に接遇術を口にする指導者は存在しなかった。
今の時代、「患者」を「患者さま」と呼び替えるのがファッションだ。この気色悪い呼び方をされて、満足する患者がいるとすれば世も末である。人と対処するいかなる場合でも、マニュアル化した言葉を暗記してオウムのように反復すればいいという局面はない。相手の気持ちを思い遣り、尊敬により信頼を築きあげながら、自分自身の言葉で話すことが大事なのだ。
それが自在に出来るようになりたければ、縦書きの本を沢山読むことを勧める。

(2008年6月1日付 イーストウエストジャーナル紙)