ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(7)
ジェット戦闘機に轢かれた患者

救急医療センターに詰めていると、突然、房総沖を航行中の空母から緊急連絡が入る。

「フライトデッキで事故発生。患者は現在ヘリコプターで転送準備中。仮診断は高度熱傷、骨盤骨折、左大腿骨骨折。骨折はX線フィルムで確定。
簡略病歴は、ジェット戦闘機がカタパルトで発進中、退避の遅れたクルーがジェット機の車輪に骨盤と左大腿を轢かれて転倒。倒れたところに、ジェットエンジンから噴出する高熱排気ガスを全身に浴び、体表面積の30パーセントに3度熱傷を受傷。現在輸液続行中。
意識、呼吸および血行動態は安定。ヘリコプターのヨコスカ海軍病院到着予定は約40分後。スタンバイよろしく」

外部から救急医療センターに入ってくる無線連絡は、すべて天井のスピーカーを通し、センター勤務するスタッフ全員の耳に入る仕組みになっている。救急医療ではスタッフ全員が情報をオンタイムで共有することが重要なのだ。口から耳への伝達回数が増すごとに、情報が修正歪曲されるのは、他の業種の現場でも同じこと。
その愚を避けるには、スピーカーでいっせいに報せるのがベスト。

救急医療センターの天井のスピーカーが吐き出す会話にもらさず耳を傾けていると、ヨコスカ市内を巡回中のショアパトロール(海軍警備隊)からの無線はもちろん、太平洋上を航行中の艦船のシックベイ(艦内医務室)や、飛行中の医療ヘリから入ってくる情報のすべてを聴くことができる。処置室で患者の傷の縫合をしながら、次に送られてくる患者の状態を、前もって知ってケアの段取りをつけることも可能である。
その仕組みは便利で有用なのだが、交わされる英会話はおそろしく早口のうえ、無線特有のガーガーピーピーという雑音で聞き取り難い。おまけにネービーの業界用語が頻繁に出て来る。それに緊急事態に直面した送信側当事者の興奮が重なると、それまでの人生をニッポン語世界にどっぷり浸って生きてきた新米インターンには、殆ど理解できない。
駅前英会話教室で教わる英会話は、こどもだましのようなもので、まったく役に立たない。

難解なネービー業界用語

USネービーでは、トイレをヘッドと呼ぶ。
朝顔型をした小便器はジョン、排尿行為そのものはピス。
壁はブーケ、天井はオーバーヘッド、床はデッキだ。
たとえば、市内の路上からショアパトロールが送ってくる「こちらSP。ヒットザビーチ中のセーラーが,バーのヘッドでピスの最中、ブーケにもたれたらデッキに倒れジョンで頭(ヘッド)を打った。意識はあるが頭部の裂傷から出血少々。現在病院の救急医療センターに向かって移送中」
こんな会話は、駅前英会話教室の教師でも、なんのことやら判るまい。ちなみに「ヒットザビーチ」というフレーズは、非番のときに離艦許可をもらって上陸することを意味する。

「空母の上でヒコーキにはねられた患者が、ヘリで運ばれて来るからスタンバイせよ」という情報も、当直のコアマン(衛生兵)に繰り返して解説してもらい、やっと全文を理解できた。
やがて東の空から、轟音とともにローターが二つもついた巨大なヘリコプターが飛来し、病院の中庭のヘリポートに騒音と砂埃をまきちらしながら着陸する。インターンは、ストレッチャーを押すコアマンとともに回転しているローターの下をかいくぐり、ヘリまで病人をもらいうけにいかねばならぬ。
何年もあとになって、この光景、どこかで見たぞと気づいてみたら、朝鮮戦争時の陸軍野戦病院を描いた超人気テレビドラマの「マッシュ」にそっくりなのだ。ドラマを演じる役者は、危機一髪でも死ぬことはないが、現実に直面する当事者は、ローターに頭を吹き飛ばされると確実に命を失う。
ヘリから降ろされた熱傷と骨折の二重の重傷を負った水兵は、外科と整形外科のチームによる手厚い治療の甲斐あって一命をとりとめた。後日無事退院し空母の任務に戻っていったという。
この患者は戦闘機の車輪に轢かれたのだから、ニッポン風のクソ真面目な定義をすると「軍用航空機によって惹起せしめられた輪禍の犠牲者」とでも言うのだろう。なんと呼ぼうと病人は病人だ。インターンを終えたあと、外科医人生の40余年の間に様々な患者を診てきたが、「ヒコーキに轢かれた患者」はこの水兵が始めての最後だ。総務省消防庁に集計されている全国の救急車による搬送記録のなかにも、おそらく「ヒコーキに轢かれた患者」はいないのではないか。

電線に引っ掛った戦闘機

「ヒコーキによる交通事故」ではないが、似たようなヒコーキ事故で両下腿骨折をした海兵隊戦闘機のパイロットが運ばれてきた。
厚木基地の滑走路で海兵隊の戦闘機が、タッチアンドゴーと呼ばれている着陸と離陸の反復演習の最中、離陸時のエンジン出力が不十分だったため、機首が上がりきらず、基地のすぐ外を横切る電線に降りたままの車輪を引っかけてしまった。
失速した機は数百メートル先に墜落炎上したが、パイロットは間一髪の判断により座席射出装置のレバーを引いて、クラッシュ寸前の機のコックピットから座席ごとの脱出に成功したのだ。
だが、不運なことにパラシュートが開くには高度が低すぎたため、そのまま着地。その際パイロットは両足を骨折してしまった。幸い主要臓器の損傷は奇跡的に免れ、命には別状を生じなかった。
生と死と紙一重の体験をしたこの海兵隊将校、入院後の一週間は極度の興奮状態が続いて、インターンやナースが部屋に入ると、喚きたて吼えまくって寄せ付けてくれぬ。
大量の神経安定剤投与も効を奏さず、まったく手が付けられなかった。死の恐怖に晒されると人間はここまで崩れるものかと恐ろしかった。心身の回復に数ヶ月を要したが、退院直前に将校クラブで会ったときには、普通の会話の交わせる紳士のたしなみを取り戻してくれた。受傷まもなくの期間、極度の興奮状態と平静の両極を行き来する情念の揺れ動きがとても印象的だったこの男性の経過詳細はいまでも鮮明に記憶に残る。

大女優シャーリーマクレーンと出会う

もう一人の忘れられない患者は、当時世界の銀幕を揺るがせたハリウッドの大女優シャーリーマックレーンのご亭主だったスチーブパーカーだ。シャーリーといえば、その頃ジャックレモンと共演した「アパートの鍵貸します」の好演ぶりが妙に記憶に残っていて、「隠れ追っかけ」を自称していた時期にいた。だから亭主が入院したときいたとき、もしかしたら出会うチャンスが訪れるかもしれないと、秘かな期待をしたものだ。
ハリウッドの映画プロデューサーで大のニッポン贔屓のスチーブパーカーは、シャーリーと結婚したあとしばらくニッポンに滞在し、越後方面にスキー旅行にでかけた。ゲレンデをスキーで滑降中に転倒し、足を骨折して海軍病院に運ばれてきた。

余談になるが石原裕次郎や小島正雄など有名人がスキーゲレンデで足を骨折する事故が頻発したのも、なぜかその頃だった。

半世紀まえのニッポン国内には、アメリカンのセレブを入院治療するための医療施設がなかった。英語を自在に話せる各科の専門医やナース、電話、トイレ、シャワー、冷暖房の付いた個室の病室、ビーフやポークにグレービーのかかったマッシュドポテト、冷えたフレッシュレタスに各種ドレッシング、アイスクリームにコーヒーか紅茶という1950年代にアメリカ映画に繰り返し登場したメニューの食事を作って出せるキッチンを備えた病院は、日本中どこを探しても存在しなかった。
だからスチーブパーカーのようなアメリカンのセレブが、ニッポンで病気に罹ったり事故に巻き込まれたりした場合、民間人であってもヨコスカ米国海軍病院の将校専用病棟に入院して治療を受けるか、飛行機をチャーターしてアメリカ本国に戻りかの二者択一だった。
ただしそれができるのは有名人の大金持ちに限ってのこと。ネービーは慈善事業ではないが、多額の税金を気持ちよく支払ってくれるアメリカンは大切にする。

亭主のスチーブが骨折入院したならば、嫁のシャーリーが見舞いに来るのは当然だ。ならばスチーブのケアにあたるインターンは、大女優シャーリーマックレーンに遭う機会があって当然である。という屁理屈が現実となり或る日シャーリーに出会った。
場所は海軍病院の真ん中を貫く長いローカだ。
向こうから、薄いサングラスをかけた小柄な女性が歩み寄ってくる。僚友のY君が、
「あれがパーカーの女房だよ。おまえ、話しかけてみろよ」とけしかけてくれる。
「ミセスパーカーですね。はじめまして。わたしはインターンのDr.キムラです」
自己紹介すると、
「シャーリーと呼んでくれていいわよ。主人をケアいただいてありがとう。彼はいつ頃退院できるのかしら」
「もうすぐだとおもいます」
定番の返事をすると、
「そうだと嬉しいわ」
定番の返事が返ってきた。
シャーリーはラベンダー色をしたカシミアのサックドレスを着て、同色の帽子を頭に載せ、両手にシルクの白い手袋をはめていた。立ち話がおわわり、別れに交わした握手で握った手の平の感触と、馥郁たる香水の香りが、26歳の若者の大容量メモリーにしっかり記憶されており、いまでも再生可能状態にある。

(2008年7月1日付 イーストウエストジャーナル紙)