ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(9)
営倉の仇を病棟で討つ

「あの野郎、オレのケツをわざと撃ちやがった。病院を出たら、ぶっ殺してやる。生かしちゃおかねぇぞ。クソ野郎め」
救急医療センターのストレッチャーの上で、うつ伏せのまま仔牛のように巨大な身体を震わせ、歯がみしながら怒り狂っているのは海兵隊の軍曹。
顔は、オリーブと白のまんだら模様の迷彩色が塗られている。
素面でも獰猛な容貌がメイクアップで一段と恐ろしさを増している。
肩近くまで捲り上げた迷彩服の袖から突き出ている丸太ん棒のような太い腕には、地球と錨とライフルをあしらった海兵隊のシンボルマークの入墨が彫られている。
両足には泥まみれの戦闘ブーツを履いたまま。つま先から両脚を上にむかって視線を移動させると、尻のあたりで迷彩ズボンが切り取られ、血に染まったガーゼが当たっていた。

事故は富士の裾野で起きた

負傷事故は来院の1時間ほどまえ、富士の裾野の演習場で起きた。
鬼軍曹の率いる米国海兵隊00分隊の10名ほどの隊員たちは、実線さながらのフルコンバット装備を身につけ、匍匐前進で敵陣に迫る模擬戦闘の訓練中だった。
匍匐前進は、地面にはいつくばって、にじり寄るように敵陣に向かって前進することを意味する。
実戦の模擬演習だから、勿論、小隊の各自が手にするM16ライフルには実弾が込められている。不慮の発射事故を防ぐために、利き手の人差し指は引き金からはずしているのだが、それでも何かの拍子に、指が掛かって暴発する可能性はある。
往年の人気テレビドラマ「コンバット」に出てくるサンダース軍曹の勇姿を思い浮かべるまでもなく、戦線で分隊の指揮をとるのは軍曹だ。部下から信頼される指揮官は、常に最も危険なポジションの先頭に立つ。過去の戦闘データでは軍曹の致命率が最も高いという。危険を承知で先頭に立つ軍曹の命令とあればこそ、部下はどんなにリスクの高い任務でも二つ返事で引き受ける。

鬼軍曹はうしろに眼が要る?

軍曹が負傷したのは、いつものように小隊の先頭にたって、敵陣ににじりよる訓練の最中だった。訓練だから敵陣から攻撃は受けない筈だったが、弾は後ろから飛んできた。
海兵隊のヘリで、現場から軍曹に付き添ってきた衛生兵のレポートによると、軍曹すぐ後ろを匍匐前進していた部下のひとりの人差し指が誤って銃の引き金にかかってしまった。地面を這って移動運動中の前腕の筋肉に力が入り、運悪くその指を動かしてしまった。その結果暴発した銃口の真ん前に、偶然にも同僚の尻があり、それが選りによって軍曹のケツだったというのだ。なるほど、それで軍曹が吼えまくっているわけが納得できた。
米国の軍隊は、海軍、海兵隊、陸軍および空軍がそれぞれ分離独立し、併せて国防4軍と呼ばれている。海兵隊は、第二次大戦以前には海軍陸戦隊と呼ばれネービーの一部であったが、戦後分離独立したあとも当時の伝統を受け継ぎ、負傷兵は海軍病院で治療をうけるきまりのままである。
USマリンと呼ぶ海兵隊は、世界最強の軍隊を自負する。USマリンの新入隊員は、最初の数ヶ月間、ブートキャンプと呼ぶ訓練施設で鍛えられる。教官の鬼軍曹が新米の兵士たちを鍛えシゴク状況は、テレビのドキュメンタリー番組や映画で見るとおりである。海兵隊員に聞くと、訓練の現実は映画よりもはるかに厳しいという。
ブートキャンプを卒業し一人前の海兵隊員として実戦部隊に配属されると、教官のかわりにこんどは小隊を率いる鬼軍曹がいて、キャンプと同じように隊員を鍛えあげる。隊員の中には日ごろの厳しいしごきに対し、軍曹を恨みに思う輩もいる。だから、前線にでると、前の敵より後ろの味方から弾が飛んでくる可能性は、軍曹自身も十分自覚しているそうだ。
だから受傷時に、軍曹は恨みをもつ部下が、事故に見せかけて自分を撃ったに違いないと反射的に信じ込んだ。
「生かしてはおかぬ。ぶっ殺してやる」という物騒なセリフを吐く背景には、こんな事情があったのだ。
軍曹は間もなく手術室に移され、麻酔下に傷を洗浄、汚染創面を切除する処置により大事に至らず、数日で退院した。入院当初の数日間は部下に仕返しを誓った軍曹だったが、落ち着いてくると、ヤクザもどきのセリフは吐かなくなってきた。こうした場合、上官の配慮で兵士は他の部隊に配転されるのが普通だという。

銃創治療方法の移り変わり

小銃であれ拳銃であれ、銃で撃たれて負傷した患者を診るのは、ニッポンで外科医をするかぎり日常的に遭遇することは稀である。
インターンを終えたあと、5年ぐらい在籍した大学病院の外科では、同僚のハンターに散弾銃で誤射され、ペレットと呼ぶ小さな鉛の弾を無数に受けた患者を診た記憶があるだけだ。
ところが、アイオワ大学病院の小児外科部長になってからの10年足らずの間に、銃弾を喰らったこどもの患者を7、8人は治療した。「銃を規制もしないで野放しにしているアメリカは、こども同士がドンパチの犠牲になる野蛮な社会なのだ」と決め付けないで欲しい。
治療した患者はすべて暴発事故の犠牲者たち。
父親に連れられて鹿狩に行った12歳が、ライフルをかかえて夜道を歩いている間に、睡魔に逆らえず前にことんと倒れた拍子に、すぐ前を行く兄ちゃんを撃ってしまったという例があった。弾は重要臓器を避けていたので、兄ちゃんはいまでも元気でいる。よかった。
またあるときは、銃庫に鍵をかけ忘れた父親の留守のあいだに、訪ねてきた友だちに拳銃をだして見せびらかせているうちに、引き金に手がかかって暴発したという15歳。弾は幸い頭蓋骨と頭皮の間の隙間を1周しただけで、脳や神経にはまったく傷害なしという幸運な例だった。
散弾銃の暴発を腹部に喰らった12歳。
開腹すると小腸大腸に散弾による無数の穿孔が見られた。挫滅のひどい腸管を切除し、穿孔を縫合して修復、腸管内に空気を送って、見逃した穿孔のないことをたしかめ、結腸に人口肛門を造って手術を終えた。このこどもの治療には、銃創治療の経験豊かな成人外傷外科医にジョインしてもらい、多くのことを教わった。散弾銃による腹部受傷の場合には、結腸に人工肛門造設が必須であるという。そのワケは考えてごらん。

体内に入った銃弾は柔らかい組織の中を迷走しておもいも拠らぬ場所に定着する可能性がある。ヨコスカ海軍病院でインターン中に習った銃創の治療方針は、「X線検査やその他の方法で位置を特定した銃弾は外科的に除去する」だった。それから40年後の2000年に大学病院で教えている治療方針は、「弾の位置が重要臓器に接近している場合には、外科的に除去しないで放置する」に変った。
拳銃やライフルでのドンパチが業務の一部であるギャング団の業界では、体内に何発もの銃弾を抱えた御仁もある。こんな御仁がER(救急医療センター)に運びこまれると、何発もの銃弾がX線写真に写っていて、最新のドンパチで貰った弾がどれか判別がつかない。こんな場合には、前の入院先に連絡して当時のX線フイルムを電子的に送信してもらわねばならない。わたしの科ではないが、こんな患者も外科全体のカンファレンスで何度かプレゼンされた。

営倉の仇を病棟で討つ

あるとき、海軍病院の内科病棟に勤務するSという衛生兵が、非番の晩にヨコスカの街に繰り出し、バーやキャバレーを何軒もはしごしたあげく泥酔し、ショアパトロールとよぶ米国海軍陸上警邏隊員に逮捕され、基地の営倉にぶちこまれた。ブリッグと呼ばれる営倉は、丁度海軍病院のウラの道路を隔てた向こう側にある。
裏庭にある病院スタッフ専用のプールとは金網一枚を隔てるのみ。オフのウィークエンドにプールサイドで寝そべっていると、すぐ目の前のオリの中を、ブルーの作業服にダンギャリーとよぶベルボトムのジーンズをはかされた収容者たちが二列縦隊で行進させられている光景が目に入る。
号令をかける看守は、軍隊での位が最も低い水兵の役割と規則できまっている。縦割り社会の軍隊では、自分より位の低いものから、
「おいこら、貴様、もっとしっかり背筋を伸ばせ。だらだらしないでまっすぐ歩け」などと頭ごなしの命令を受け、これに絶対服従させられることほど、自尊心をひどく傷つける屈辱はない。
それが嫌なら、二度と営倉に戻って来るなという戒めが込められている。日本語の営倉という言葉には、旧日本軍のサディスティックな憲兵が待ち構える暗い穴倉のような監獄で、収容者がなぶられるイメージがある。米軍のブリッグは、高い金網のフェンスで囲まれた鳥かごのような造りで、中庭には綺麗な緑の芝生が植わっていて、旧日本軍のそれとはいささか趣を異にする。それでもブリッグに収容されると、人格まで変ってしまうと経験者のSはいう。
ブリッグで屈辱的な数日を過ごしたSは、懲罰期間を無事勤め上げ、再び任務に戻ってきた。それから間もなく、ブリッグでSをいびり尽くした警備兵の下級水兵が肺炎になって、こともあろうに、Sの勤務する内科病棟に入院してきたのだ。
「あの野郎、ブリッグのなかではさんざん威張りくさって、このオレに毎日腕立て伏せを何百回もさせやがった。こんどはオレがちょいとばかり可愛がってやる番だぜ」
といきり立つ。
内科医長から、いまは患者になったブリッグの警備兵に抗生物質の筋肉内注射をするようにとの指示がでた。通常、筋肉内への注射は23Gという比較的細い注射針でおこなう。注射針は細いほど刺したときの痛みが少ない。頭の毛髪ほどしかない27Gの注射針が量産されるようになった今、皮下および筋肉注射ともに27Gを使うことが多くなった。
ところが、秘かな仕返しをたくらむSは、輸血に使う太い18Gの注射針をわざと選んで、その針先を折り曲げて鈍にし、いまは哀れな患者となりはてた警備兵をうつぶせにして、尻の皮膚をこじるようにしながら、先の曲がった針を押し込んでいく。針がにじるような動きをするたび、あわれな警備兵の患者は、大げさな悲鳴をあげる。この陰険な復讐行為は、あまりの痛さに音をあげた患者の警備兵が内科医長に直訴し、Sが担当を外されて終わった。
「こんどブリッグにぶち込まれることになったら、もっと残虐な復讐を受けてもしらないぞ」
とSに言ってやったが、
「そのときはそのときのこと」と知らぬ顔。これ位の極楽とんびでなければ、軍隊では生きていけない。

40年も前のことのあれこれを思い出すと、記憶に残るのは強いインパクトを受けたことばかり。断っておくが、米国海軍病院では、いつもこのシリーズに書いているような、ヘンな事件ばかりが起きていたわけではない。これを読んでアメリカに対する偏見を増悪させないように願っている。

(2008年9月1日付 イーストウエストジャーナル紙)