アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(5)

第3 日目:コールドフット到着

アラスカ北部を南北に分断するブルック山脈の峠を越えて、道路は下り坂にかかる。
峠の頂上を境に南北では風景ががらりと違う。
北の茫漠たる荒野と対象的に、南は緑で覆われた青い山並みが幾重にも続く。
急勾配の下り坂を、チャックはこれ以上臆病な運転はないというぐらい慎重なドライビングテクニックで、バスを転がし下ろしていく。

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〔写真1〕

最近、海外で観光バスやチャーターバスの事故が相次いでいる。公共の乗り物だけではない。
かつて勤務したアイオワ大学病院外科の同僚外科医も、祖国のアフリカ某国に帰郷しすべての行事を終えたあと、帰国の途につくため空港に向かっていたところ、スピードの出すぎた乗用車が転覆し、若い命を失った。
臓器移植専門の優れた外科医が、若者の無謀運転によってあえなく路肩の露と消えたこの人為ミスによる事故には、無情と悲哀と落胆を感じた。
つい最近もユタ州で日本留学生が運転するチャーターバスが横転し、数人の日本人旅行客が亡くなった。
それとは対照的に、チャックの運転するバスには安心して乗っていられる。安全運転を頑固に守るチャックに、乗客60名全員が連携した尊敬の念をもって対応するのが不思議におもえた。

ハナシがそれたが、下り坂が平坦な道に移行するあたりで路肩にチャックはバスを止める。
「ここを見てください。ここがエゾ松の森の北限と書いてあるでしょう。これより北には、針葉樹が1本も生えていないのは、皆さんこがれまでの道のりで見て来られた通りです」〔写真2〕
プルドウベイを出発して以来、初めてみる針葉樹は高さ3メートル、幹の太さは10センチほどだった。
「この10センチほどの幹を切ってみると、150層ぐらいの年輪が詰まっているのですよ。寒いところですから150年経っても直径10センチほどにしか成長しないのです」
「それだと随分堅い木なのでしょうね。手動の鋸で切れますかね」
「岩のように堅くて、普通ののこぎりではなかなか歯がたちません」

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〔写真2〕

こんな会話を交わしながらしばらく行くと再び登り坂にかかる。たおやかな小山の中腹で一行は、今日2度目のトイレ休憩のため停車した。〔写真3〕
裸土のパーキングエリアに降り立つと、目の前に「Arctic Circle、これより北は北極圏」と明記した立派な標識が立っている。なるほど、われわれは昨日からいまこの瞬間までずっと北極圏内にいたというワケだ。

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〔写真3〕

北極圏とは一体なにか?
その定義を調べてみると、冬至に太陽が顔をださず、夏至に太陽が沈まない地域と記載されている。この定義にあてはまるのが、北極点を中心にして北緯66度33分39秒地点までの距離を半径として描いた円の中に入る北極圏だ。
アラスカは勿論、グリーンランド、シベリア、スカンジナビアの一部を含む北極圏の外縁を形成する線は、北極線と呼ばれている。

この辺まで南下すると、えぞ松の背丈も大分高くなり、幹も太くなる。ツアーグループは、それぞれ北極圏の標識の左右に立って写真撮影。さすがこのアメリカでVサインをする人はいない。〔写真4〕
いい年をした男女が、両手の人差し指と中指でV型をつくり顔の横にかかげて頭を少し左右にかしがせ、痴呆じみた表情で写真に写るVサインは、宴会ののりが基本のニッポン文化独特のものである。

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〔写真4〕

背景の背丈の高いエゾ松の梢が、中空で風に揺れる林をみると、なにかしら気持ちが落ち着く。地平線まで樹木が1本もないツンドラ地帯は、白砂青松のニッポン育ちの感覚にはなじんでくれない。
緩やかなスロープを下るにつれ、エゾ松の林は更に密になりやがて森へと移行する。今夜の宿のあるコールドフットは、そんな森を切り開いたトラックの集積地だった。

1900年ごろ一攫千金を夢見て金脈の探索にたどりついた山師達がテントを張って野営したのがこの場所だ。沢には水が流れ、暖をとるための薪もふんだんにある。丸太小屋を建てる木材も豊富にある。金の採掘基地にはもってこいのこの土地は、コールドフットキャンプと呼ばれた。
記録によると、1902年のコールドフットキャンプには、宿屋が2軒、雑貨屋も2軒、紅灯のサロン7軒、ばくち場が1軒があったと記載されている。
金脈を掘り当てた山師が求めるのは、酒、おんな、それに博打。この3つを揃えたのがコールドフットキャンプだった。

地理の本を紐解くと、ブルック山脈南面の裾野にあり、フェアバンクスから248マイル北で、ダルトン高速道路の175マイル地点だという。北極海沿岸のプルドウベイからここまで、1日がかりで走ってきた未舗装の道路にはダルトン高速道路という立派な名前がついていたとは知らなかった。
 
2000年の米国国勢調査時には、この集落に6世帯13人が暮らしていて、一家計の収入は6万1千ドル。1人あたり4万2千ドルの収入があったというから、決して貧困集落ではない。

タンクローリーやコンテナのトレーラーが駐車している未舗装広場の中心にある高床式木造平屋だてが、スレイトクリークインだった。〔写真5〕
客室は3坪のスペースにベッドが二つ並んでいる。畳一条ほどのスペースにトイレとシャワーブースがあるだけ。
電話もテレビもない部屋だが、個人で予約したら1泊219ドルだという。

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〔写真5〕

アメリカ本土のどこの田舎町にでもあるナントカインというモーテルに泊まると、300チャンネルぐらい映るテレビ、国内ならどこにかけても無料の電話、インターネットへの無料アクセス、バスタブつきの広いバスルーム、400ピッチのシーツを使ったクイーンサイズのベッドが二つならんでいて、宿泊料は1泊100ドルもするかしないかだ。これが今の全米各地でおおまかな常識料金だ。

それと比べると、こんな辺地のテレビも電話もついていない安宿の素泊まりが1泊219ドルは高い。南北400キロの範囲には他に宿がないのだから当たり前といえばそれまでだが。

宿のマネージャーの態度も、プルドウベイで「リッツカールトンにようこそ」と迎えてくれた笑顔が印象的なマネージャーと違って、難民収容キャンプの鬼所長のような高圧的なところがある。
「シャワーの湯がでるのは夜10時まで。それを過ぎると明日の朝10時までは冷水シャワーのみ。メシは向かいのレストランで、各自払いで食べてもらう。なにか質問は?」
真夏の白夜とはいっても、夜明けまえには氷点近くまで気温が下がる北極圏から外れたばかりの宿だ。冷水のシャワーをあびたら肺炎になって2度とホノルルの土を踏めなくなるかも知れぬ。

こんな場合、必ず二言三言は皮肉まじりの質問で一矢報いるのがアメリカンの常だ。アメリカ魂はどこえやら、無言でおとなしく指示に従う姿を見ると、「文句があるなら、400キロ離れた隣のホテルへどうぞ」といわれるのがよほど恐ろしかったと見える。
実際、隣のホテルは、フェアバンクスに行くか、昨晩泊まったプルドウベイに戻るか、二者択一だがいずれも400キロ離れている。
宿のマネージャーが高圧的になるのも、むべなるかな。

指示にしたがい10時までにシャワーをすませてベッドにはいる。11時すぎても、カーテンの隙間から眺める景色は、白夜のせいで昼間とかわらない。オーロラの一つぐらい出てくれないものかと空を見上げると、ほんのり夕焼けした青空だった。

辺地の夜は気持ちが悪いほどの静寂だ。
隣室との境はベニヤ板1枚。隣人のため息、寝息が筒抜けに聞こえる。しばらくすると、若い女性の押し殺したようなくぐもり声に男性のささやく声が続く。若さには勝てぬ。こんなドヤのねぐらでも、愛の交換なしには一夜と過ごせぬとはなんと羨ましい。

翌朝目覚めると、雲ひとつない晴天だ。
バスは8時に出発するという。
ここからフェアバンクスまでの道のり400キロのうち、半分ぐらいは舗装されているという。
しばらくすると、森のどこかに隠れていたパイプラインがいつの間にか現れて、バスの行くダルトンハイウェイに沿って平行に走るようになった。
4時間ぐらい南下した地点で、バスはハイウェイを外れて森の中にはいっていく。野球場ぐらいの広場にポツンと掘っ立て小屋のような人家があり、ハンバーガーの看板がでている。

中年の女性二人が共同で経営するこの店は、トラック運転手のオアシス。ハンバーガー1種類だけのランチだが、大変美味だった。〔写真6〕
「こども達から目を離したらだめですよ。森には熊がすぐ側まできていますからね」女性の1人が、子連れのカップルに注意を促す。
「夕べも、寝ていたらひ熊が窓のすぐ下まで来ていました。用心してくださいよ」
幸い誰も熊に食べられなくてよかった。

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〔写真6〕

ユーコン河を渡る直前で、パイプラインの真下をくぐり、本日2度目のトイレ休憩。

パイプラインは直径1メートルの鉄管を厚さ10センチの断熱材で取り囲み、その外側をステンレスの外皮で覆ってある。直径50センチほどもある鉄の支柱2本の間に鋼材の梁を渡して、その上を前後左右にスライドする鉄製のすべり板が乗っている。すべり板の上に4本つきでた爪状の鋼材がパイプラインをしっかり把持してすべり板から離れないように固定している。
パイプラインは夏冬の温度差で伸縮する。適度にゆとりをもたせる設計だから、伸縮時には左右にもぶれる。この動きを許すのがすべり板だ。

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〔写真7〕

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〔写真8〕

支柱の上にはブラシのような棒が突き出ていて、パイプラインの両側ななめ上から放熱し、パイプラインを加温する仕組みになっている。支柱は永久凍土のなかに差し込まれているから、年月が経つと重力の圧により凍土が溶けて、地中に埋もれてしまう。これを避けるため、上部でパイプライン加熱のため放熱した液体アンモニアをパイプで支柱の中を地中に送り支持基盤の凍結を維持するという一石二鳥のメカニズムになっているのだ。

これらをわずか5年間で設計製造し、辺地アラスカに運び込んで1,300キロの敷設に貢献した昭和ニッポンの工業力は絶賛に値する。

予定どおり8時間の旅を終えたバスは、フェアバンクス郊外にあるプリンセスクルーズ専用の豪華リゾートホテルに滑り込んだ。各自それぞれチャックに別れを告げ、非日常的な時間を過ごした2日間の思い出を胸に部屋に入ると、文明と再会したのだった。

1 thought on “アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(5)

  1. こんばんは!
    アラスカ横断と豪華客船クルーズの旅 
    楽しく読ませていただきました。
    続き楽しみにしています。
    ホノルルの生活もまた教えてくださいね。

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