ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(11)
吼える外科医

若い外科医は、師事するマエストロ(師匠)の色に簡単に染まる。
医学部を卒業したての若い外科医は、乾いたスポンジにたとえられる。スポンジが水を含むと膨らむように、知識や技術の吸収欲が大きいほど、技術や経験の蓄積は増加する。先達から受け継いだ知と技は、余すところなく後進に伝えていくのが、外科医の世界の伝統だ。こうして知見の伝承を重ねていくうち、医学は気付かぬ間にも前進する。
若かりし日、外科医として最も強い感化をうけたのは、島の病院で教えをうけたドクターSだった。
難しい手術の途中で、背筋が冷たくなるような危機に直面しても、あわてず騒がず、するべきことをきちんとすればいいのだよ、とその背中は教えてくれた。
その後ボストンで1年間教えを受けたF教授からは、怒らず、偉ぶらず、危急にあわてず、寛大で忍耐強くあれと教わったが、師の蔭に到達せぬうちに外科医を引退してしまった。

ハウンドドッグ

一方、こんな外科医には絶対になりたくないと思う、反面教師もいる。
そんな外科医がヨコスカ海軍病院にもいた。
仮にLと呼ぶ彼は、その言の端々から推測すると、若かりし日にスパルタ式修練こそ善なりとする先輩から、厳しくしごかれたのだろう。そときのトラウマが心の片隅に残っているので、手術が思い通りに進まなくなると、まわりにいるスタッフに当り散らすようになったのだろう。たとえば、前立ち助手(患者をはさんだ手術台の対側に立って外科医の第一助手を務めるアシスタント)をしているインターンが、慣れない糸結びにもたつくと、
「何をもたもたしているのだ。お前がもたつくせいで、オレのこの素晴らしい手術もそこらのクズ医者のやる手術と同じになってしまうじゃないか」
となじり倒す。
罵詈雑言だけならともかく、前立ちするインターンの弁慶の泣き所を手術台の下で蹴りつける。前立ち助手を務めるインターンは、患者の命にかかわるほど重大なミスをしたわけではない。未熟さゆえに、ちょっともたついただけなのだ。それだけのことに、オレの手術にケチをつけたと因縁をつけるところなど、街で肩切るチンピラと変らない。インターンが手術時間を数秒浪費したからといって、手術台の下で足を蹴っ飛ばされる筋合いなんかない。あまりの理不尽にインターンたちは鳩首会議を開いて対応策を練ったのだが、どの案も妙案とはいえない。いざとなると、これという良案は浮かんでこないものだ。

そんな或る日、いつものようにLの罵詈雑言を浴びながら、手術助手をしていた女性インターンEは、Lが口を滑らせた一言にぶちきれた。
「お前のように下手糞な助手は見たことがない。もう、助手をしなくていいから、手術場から出て失せろ!」
「そうですか。それではご命令に従ってそうさせていただきます」
さっさと手術台から離れて、ガウンを脱ぎ捨て、両手からゴム手袋を外し、あとを振りむきもせず手術室から出て行ってしまった。
この女性インターンEは、根性のない男どもに出来ない快挙をなしとげた「ガッツのヒロイン」と、大喝采を浴びた。
蹴とばされても、アホのバカのと呼ばれても、「出て行け!」と怒鳴られても、インターンは「すみません」と謝るに違いないと思い込んでいたLは、「ガッツのヒロイン」からうけた強力なカウンターパンチに泡を喰った。助手がいなければ、自称“手術の名人”でも手術の続行は難しい。自分で「出て行け」といったからには、追いかけて引き戻すわけにいかぬ。パニックに陥ったLは、麻酔医とナースに当り散らしながら、四苦八苦のうちに手術を終えたそうだ。

ささやかな報復

開胸手術は、患者の胸を開いて病変に犯された肺の一部を切除する大手術である。この大手術でLの助手をする運命が巡ってきた。
大口をたたきまくるLは、みんなから嫌われているが、手術の技術は抜群だ。手術は順調に進行し、肺の一部を無事切除したのち、開いた胸を閉じる作業に入った。胸を開いた傷を閉じるには、切開部上下の肋骨に太い縫合糸をかけて両者を寄せ合わせる。外科医のなかには縫合糸のブランドに強いこだわりを持つ人もいる。縫合の局面に応じて、使う縫合糸の番手を頑なに守りぬく外科医もいる。いずれも師と仰ぐ外科医のクセを受け継いだ頑固者たちだ。思いどおりの縫合糸が揃わないと手術をしないという偏屈もいる。Lもそんな外科医の一人だった。

ブランドレスの無名縫合糸でも、縫合糸には替わりはない。意中の番手がなくても、一番手上下の糸で代替すればよい。そんな余裕を持つことが、外科医の腕の見せ所というものだ。ところが石頭の頑固者たちは、自分が大外科医になったつもりでいるから、手術中はどんなわがままでも通してもらえると単純に信じている。まるで幼稚園児のような発想だが、そんな外科医がメスを持つと困ることが起きる。

わき道にそれるが、わたしは外科医現役の間に10数カ国の大学病院から招かれて各種の供覧手術に出向いた。初めて出合った異国のスタッフたちとぶっつけ本番で行う手術には、ブランドの糸もなければ、番手の選り好みも許されない。一緒に手術するスタッフと言葉が通じない場面も多く経験した。いつも使っている手馴れた器具や豊富な材料、助手を務めるスタッフを連れていけば、最善の手術を見てもらえるのではないかという意見もある。だが、供覧手術を望む現地の人たちの教育にならない。現地にあるものを使って手術をやり遂げる技術を教えることにこそ供覧手術の意義があるのだ。

はなしをLの肺切除手術に戻そう。
病変に犯された肺を無事に切除し、いざ開いた胸の傷を閉じるという段になってLは、
「オレが手術まえに頼んでおいたブランドと番手の縫合糸を出せ」
とゴネはじめた。
手術室の婦長を呼びつけ、
「この病院にストックがなければ、立川の米国空軍病院に電話で尋ねてみろ。もし空軍のヤツらが在庫を持っているなら、チョッパーを飛ばしてピックアップしてこい」
と無理難題をおしつける。チョッパーというのは業界用語でヘリコプターのこと。いくらUSネービーといえども、たかが縫合糸一袋のために立川基地の空軍病院に向かって、ヘリコプターを発進させるワケにはいかぬ。ここに至ってついに思案の糸が途切れた婦長は、病院長のお出ましを発令したのだった。
院長が手術場に入ってくると、それまで狂犬のごとく吼えまくっていたLも、さすがにおとなしくなった。院長にむかって悪態をつくと軍法会議にかけられる可能性がある。院長はLに、
「望みの縫合糸がなければ、替わりのもので間に合わせなさい。これは院長命令だ」
と穏やかなひと言を残して手術室をあとにした。
胸のすくようなガバナンス(統治力)だった。今ニッポンの病院が抱えている多くの問題は、院長にこのガバナンスを持たせることによって殆ど解決する。

さて、いよいよ胸の傷を閉じ終えてスポンジカウント(ガーゼ勘定)をしてみると1枚足りない。アメリカの病院では手術の開始前と終了後にガーゼや手術器具の数を勘定することが法で義務付けられている。術前と術後に員数が合えば問題ないが、そうでなければレントゲン写真をとって調べる。そのため手術に使うガーゼには、はじめからX線に写るマーカーが付けられている。これで発見されない場合には、縫った傷をもう一度開いて、胸の中を徹底的に調べるのだ。何度数えなおしてみても、ガーゼは一枚足りないのだ。Lの顔色は真っ青。
もう一度胸を開くとなると麻酔医やナースたちに「すまないが頼む」と頭を下げねばならぬ。インターンにも頭はさげるべきだが、多分、Lはしないだろうと思っていたら、やはりその通りだった。
ナースが電話でレントゲン技師を呼びかけた頃、一緒に手術助手についていたもう一人のインターンのKが「ここにありました!」と手にしたガーゼを高く掲げた。
あれほど探して見つからなかったガーゼのヤツめ、一体何処に隠れていたのだ。その場は何事もなく収まったが、あとでKが告白した真相を知って仰天した。
「Lの奴を少し懲らしめてやろうとおもってさ、オレの手のなかに隠してたんだ」
後年、Kは東京の大学で外科教授になったが、心筋梗塞で50代半ばの若さで亡くなった。ガッツのある惜しい男を失った。

ユニークな仕返し

Lを懲らしめるためなら頭脳はいくらでも提供するぜというインターンの一人が発案実行した仕返しは、なかなかユニークだった。
毎週火曜日の午後、Lは外来で患者を診察する。患者の殆どは海軍や海兵隊の将兵だが、ときにはその家族や軍属とよぶ一般市民も診る。一回の診察は15分間で予約制だ。1時間に4人診るだけだから、頭のてっぺんからつま先まで完璧な診察をする。その診察には直腸診も含まれている。直腸診は、ゴム手袋をはめた医師の指を肛門に挿入し、痔核、ポリープ、直腸ガンなどの有無をしらべる診察手技の一つだ。当時は手術室で使いふるしたゴム手袋を洗って消毒し、それを外来で直腸診に再使用していた。もちろん直腸診に使ったあとはゴミ箱に捨てることになっていた。どこまでも尊大なLは、ナースに命じて自分専用のゴム手袋を用意させ、インターンたちには絶対に使わせないよう命令していた。

ある日、天才的頭脳を持つインターンNのは思いついた妙案は、左手を使って患者の直腸診をしたゴム手袋をゴミ箱に捨てないでそのまま裏表をひっくり返し、右手用にみせかけてL専用のゴム手袋の一番上にさりげなく置いて知らぬ顔を決め込むという策略だった。
その日の午後外来を訪れた最初の予約患者を診察していたLは、この患者に直腸診をする運びとなった。Lがゴム手袋を手にとる。Nはじめ数人のインターンが固唾を呑んでみまもる中、ゴム手袋はLの右手にはめられていく。
人差し指が先まではまって異変に気づいたLの表情がゆがむ。大急ぎで手袋を外し、指を鼻先に持っていくと、あってならぬ異臭がLの鼻をついた。天才Nが仕組んだこととは露知らぬLは、大声でナースを呼びつけ、
「ゴム手袋はオレ様専用のものを用意しろといっておいた筈だ!見ろ。これは破れているではないか!」
と怒鳴りつけたがあとの祭り。
UNCHIのついた人差し指を石鹸で洗いまくるLの背中には、一匹狼の孤独な淋しさが宿っていた。

(2008年11月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(6)

第4日目

石油基地プルドウベイから北極圏のツンドラの原野を走りぬけ、銀色に輝くパイプライン沿ってエゾ松の原生林を南に800キロ下ってたどり着いたのは、フェアバンクス郊外にプリンセスクルーズ会社が自社ツアー客のために立てた豪華なリゾートホテルだった。

二晩ぶりの文明のありがたみを満喫しながら、まずシャワーを浴びてアラスカ原野の埃を落とす。湯上りのさっぱりしたからだに、コットンの上下、薄手のセーターを着てダイニングルームに降りていく。

冬はマイナス60度

時計は午後8時をさすが、窓の外はまだ夕焼け雲。北極圏から大分離れたここフェアバンクスでもまだ白夜は続く。予約しておいたテーブルにつくと、リネンのテーブルクロスの上に野の花の一輪挿し。ナプキンで包んだナイフとフォークが乗っている。飯場のような宿で過ごした二晩も済んでみれば懐かしい。
「この時期、オーロラは出ないの?」
注文を聞きにきた中年金髪のウエイトレスに尋ねてみる。
「残念ですが、夏の間はめったに見られないのですよ。オーロラは冬の特別寒い日を好んで出るようです」
擬人法の表現が気に入って、しばらくウエイトレスと会話した。

「フェアバンクス生まれですか?」
「生まれも育ちもフェアバンクスです。ずーっとここで暮らしてきました」
「冬になると寒いんだろうね。一番寒いときで何度ぐらいまで下がったの?」
「わたしがまだハイスクールの学生だったから、40年ぐらい前だったかしら。冬の間は目が覚めるとすぐ、父がバックヤードの軒下に吊るしてくれた、温度計を見るのが習慣なのですが、それがマイナス60度を指した朝がありました。ええ勿論華氏の60度です。学校へ行こうと家を出て歩きはじめたのですが、体中に突き刺さるような寒さに途中で動けなくなり、全然知らない家の玄関のドアを叩いて中に入れてもらいました。家の中に入れてもらって、しばらく暖炉で暖まると元気になったので、家まで送ってもらって帰りついたら、ラジオやテレビで学校は小中高すべて休校というアナウンスをしているところでした。これがわたしの体験した一番寒い冬の日です」
「無事生存できてよかったね」
「ありがとうございます。あのときはホントウに死ぬかとおもいました」

華氏のマイナス60度を摂氏になおすと、マイナス45度ぐらいになる。アイオワ大学に勤務していたころ、気温が華氏マイナス30度になった冬を経験した。華氏マイナス30度は、計算してみると、丁度摂氏マイナス30度と一致する。ニッポンでは、確か北海道の旭川でマイナス30度になったと、少年時代に聞いた記憶がある。アイオワでマイナス30度になったときには、市役所の広報車が出動し、道を歩いている市民に外出禁止を命じて巡回した。マイナス30度だと、凍った道を歩いて転倒骨折し路上で動けなくなると、頑健な若者でも15分ぐらいで凍死するという。
中西部では毎冬約800人の人が路上で命を落とす。その多くは野原の真ん中の道路で運転中の車が故障し、携帯で助けを呼ぶが、救援隊が駆けつける間に凍死してしまうのだ。それよりさらに15度も低い温度とはどんな冷たさだろう。想像もつかない。

今夜のディナーはアラスカ名物の海鮮料理。ハリブット(オヒョウ)、サーモン、アラスカンキングクラブの中から好きなものを選び、焼く、揚げる、炒める、蒸す、ボイルするのうち、どれがいいかと尋ねてくれる。好みの料理の仕方を選んで頼み、アペタイザーの揚げたカラマリ(小型のイカ)やシュリンプカクテルなどを肴にワイングラスを傾けていると、アントレは大きなメイン皿に載ってでてくる。アペタイザーは食欲に更なる輪をかけ、ワインはその潤滑油の役目をする。もうこれ以上待てないという気持ちが頂上に達した頃を見計らって、タイミングよくアントレをだすのがレストランビジネスの成功のコツである。

マイナス60度から奇跡の生還をしたアイラブルーシーのルーシーのようなウエイトレスは、満面の笑顔でアントレを運んできてくれた。先にカミさんがボイルしたポーチドハリブットを頼んだので、アラスカンキングクラブをオーダーした。少々行儀は悪いが半分食べたところで皿を交換すると、一度のディナーで2種類の料理をエンジョイできる。これが家の慣わしになって永年になる。

分厚い白身のハリブットをレモン醤油で食べながら、開高健氏のアラスカ紀行を思い出す。たたみ1畳もの大きさのハリブットを釣り上げたときの快感がリアルに描かれた名エッセイだった。いまそのアラスカに居てハリブットの分厚い切り身にかぶりついているのだ。アラスカンキングクラブには、同じカニに違いはないのだが、わざわざベーリング海キングクラブと産地が明記してあるのが気持ちよかった。太い真っ赤な脚にイボイボがついているのが特徴のこのカニは、ホノルルのレストランでも食べられるが、なんといっても、冷凍にするまえの活きのいいヤツは味が違う。大きな皿に長さ25センチぐらいに切った脚が7、8本載ってくる。見た目堅そうに見える殻が、実はゴムホースのような感触なのが意外だった。出てきた脚を全部食べるとカニだけで満腹してしまいそうだが、カミさんに半分残してハリブットとトレードする。クリスピーなフランスパンのバケットとよく会う。カニと白ワインとフランスパンを代わる代わる口に運ぶと、デザートの入る余地はない。ニッポンのレストランはパン一切れに幾ら、コーヒーは一杯毎に幾らと細かく別チャージをとる。アメリカではどの州のどんな田舎町にいっても、食事についているパンとコーヒーは幾らお代わりしても料金はとらない。豊かさの本質の違いに、残念ながら多くのニッポン人は気付いていない。

当地にきてはじめて実感したのだが、ロシアとアラスカは太平洋と北極海を連絡するベーリング海峡をへだてて、わずか100マイルほどしか離れていないのだ。道理でアラスカ各地に出稼ぎにきているロシア人男女をそこここで見かけた。その昔、アラスカはロシアの領土だったが、当時のアラスカはまさに未開の地の果てだった。なんの価値もない人跡未踏の土地と見做されていた。だから、ロシアも気前よくタダ同然の取引でアラスカをアメリカに渡してくれたのだろう。のちにユーコン川沿いに金鉱発見され、20世紀初めには北極海沿岸に油田が見つかった。ゴールドラッシュ、石油ラッシュのつぎは天然ガスラッシュだと、アラスカンは口を揃えていう。天然ガスのパイプライン建設を請け負うのは、いまの勢いからすると韓国か中国だろう。そとから眺めると、日本のエネルギーとダイナミズムは昭和の終わりで尽き果ててしまったように感じられる。

酒に厳しいアラスカ州法

ディナーに付きもののワインは、いつもならグラスで注文するのだが、アラスカ縦断を祝ってカリフォルニア産Ferrano Canaroのシャドネーのボトルを1本もらった。食事が終わった時点で、ボトルにはまだ3分の2ぐらい残っている。なにしろアルコールは一滴たりとも口にしないカミさん相手では、グラスを飲み干しても気持ちが高揚しない。

ルーシーに似た金髪おばさんのウエイトレスを呼んで、ボトルを部屋に持って上がれるようにバケットやリネンの用意を頼む。
「あら、ごめんなさいね。それはできないことになっているのですよ」
「きちんとお金を払って買ったワインなのだから、このテーブルで飲もうとボクの部屋で飲もうと、それはボクの勝手でしょ。ホテルの内規が許さないというなら、そっちのほうが間違っているのじゃないの?」
「いえ、ホテルの内規ではないのです。アラスカ州法でそうきめられているのです。ホテルでもレストランでも、酒ビンを開けてもよい場所は同じ建物のなかでも限られた一部空間に許可を申請し、州が認めたスポットに限るとアラスカ州法で決められているのです。お客さんが、栓を抜いた酒ビンを手にしてそれ以外の場所を歩くと、歩かせたホテルは厳罰をうけ、場合によっては酒類の販売ライセンスが取り消される可能性があるのです。このレストランの中なら、勿論、開けたボトルをもっての行き来は自由ですし、お客さまのお部屋の中もオーケィです。ところが、その間にあるローカ、ロビー、エレベーターの中などは、栓を抜いたボトルを持って移動してはいけないと法律が禁じているのです」
「そのウラには、どんな理由があるの?」
「ゴールドラッシュ時代にさかのぼりますが、川から砂金を手にして戻ってきた男たちは気が荒く、サロンで飲んで酔うと暴れて手がつけられなかったそうです。酒場の中だけならともかく、ホテルでもレストランでもローカやロビーに酒ビン片手の男がたむろしていたら、普通のお客は恐ろしくて寄り付けませんわ。そこで州議会は飲酒場所を限定するため、栓なしボトルの所持禁止法案を成立させ、それが百年を超えたいまも効力を発揮しているというわけなのです」
「ふーん。そんなハナシ、初めて聞いたね。ではこうしたらどう?ボクたちはこのボトルに一切手を触れないで手ぶらでエレベーターにのって部屋の前までいってドアのロックを開け部屋にはいる。レストランのスタッフであるあなたが、ボトルを部屋まで運んでくれる。勿論、運賃はお支払いしますよ」
「ちっと待ってください。酒類を扱うライセンスを持っているスタッフを呼んできます」
テーブルにきた若い女性は、Ferrari Caranoが3分の2ほど残るボトルをアイスペールに突っ込んで、その上から仰々しくナプキンで包み隠し、目の高さに捧げ持って前を歩く。
部屋に着いてドアを開けると、
「ここで私の任務は完了です」
と宣言しながら、アイスペールを手渡してくれる。感謝の言葉とともに数枚のドル札を手渡し、ワインボトルの運搬儀式は無事終了したのだった。

アラスカの都市発祥の地フェアバンクス

フェアバンクスは、人口9万8千人。これでアンカレッジについでアラスカでは2番目に人口の多い街である。
20世紀のはじめ、一攫千金を求めてゴールドラッシュに沸くアラスカを目指した人たちは、この地に根を下ろして生活するなんてことは誰も考えなかった。金を掘り当てたらアラスカに用はない。つかんだ大金を故郷に持ち帰り家族と平穏に暮らすか、ビジネスを始める原資にするか、それとも酒とバクチとオンナに使い果たすかだ。いずれにしても、アラスカで生活するのは非現実的だった。

1901年、バーネットという小船の船長が、金鉱探索に必要な道具のつるはしや、食糧、衣類などの補給品を積んだボートでチェナ川をさかのぼり丁度この地に着いたところ、ボートが転覆して戻るに戻れなくなってしまった。川岸にテントを張って、補給品を河原にならべ思案に暮れていた丁度そのとき、フェリックスペドロという仲間が近くで金鉱を掘り当てた。それを見ていたバーネットは、そうだ、この地に建物を建てて、山師たちに補給品を売る商店を開けば一儲けできるぞと思いつき、早速着手したところ、これが大当たりした。バーネットの店を中心に人々が住み着くようになった集落がいまのフェアバンクスの始まりだという。フェアバンクス市にはアラスカ大学の巨大なキャンパスがあり、大学街としても知られている。郊外のリゾートからバスで街を訪れてみたが、うら淋しい田舎街は、中西部にある大学街と似たり寄ったりだった。

第6~7日目

フェアバンクスの2泊は、バスの旅で疲れたからだを癒すのに最適だった。今日は、ここから南東に200キロはなれた山中のリゾート地、デナリに移る。途中、野焼きのような煙が立ち上る山火事の側を通過した。アラスカでは毎年、10万件をこえる落雷によって引火する原野の火事が発生する。火事は燃えるにまかせ、一切消火活動はおこなわないという。ツンドラのコケの下に広がった火は、冬になって雪をかぶったその下で根強く燃え続け、春になって雪が消えると再び燃えはじめるという。野火が人家に近づいてくると地元の人間が消火に励むが、それ以外の野火は放置するのが常識だそうだ。
「原野はたまには燃えるほうがいいのですよ。害虫が死滅するし、灰は肥料になりますからね」
バスのドライバーが解説してくれる。
小高い丘のパーキングエリアから見下ろすと、大阪市ぐらいの面積が白煙をあげてくすぶっている。
「勝手に消えるまで数週間かかるでしょう。観光バスも迂回しないいと行けなくなるかもしれません」
中年の女性バスドライバーが淡々と話すのが、都会に住んでいるものの耳には奇異に聞こえた。これほど平然としていなければ、厳しいアラスカの自然には立ち向かえない。