ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(12)
ドクターストップ

2011年のいまアメリカの大学病院など総合病院に設置されている第1級救急医療センターは、救急医療の専門医、研修医、ナース、検査技師が常時30名ほど詰めていて、同時に複数の救急患者が運び込まれても即応できる体制を整えている。緊急手術室のほかに、専用の臨床検査室、超音波診断、MRやCT撮影など画像診断装置を備え、24時間体制で維持することが、第1級センターの認定基準だ。妊産婦や新生児の救急患者は、院内のそれぞれのセンターが別個に受け付けるシステムだ。
アイオワ大学病院に勤務した14年間、妊産婦や新生児をふくめて救急患者の受け入れが出来なくて断るという事態は一度もなかった。ERには専門の研修をうけた医師団や他のスタッフが30人も詰めていて即座に治療にかかるのだ。こうした治療をうける急病人の数は1年間に5万人にのぼる。
アイオワ大学病院は、州民を代表する州知事との約束で、州民である限り医療費の支払い能力にかかわらず、訪れた患者あるいは運びこまれた急病人はすべて無条件に最善の治療をすることになっている。
ニッポンで救急車を呼ぶと、受け入れてくれるセンターを探す間、病人は救急車内でひたすら待たねばならぬという。そうしている間にも時は無為に過ぎていく。それが原因で、患者に不幸な結果を招くことが、深刻な社会問題になっている。しばらく日本に住んでみると、交通事故にあったり、心臓や脳の血管が詰まったりしたばあい、直ちに専門医の治療を受けられる保証はないのに気付く。言いたくはないが、医療先進国アメリカに暮らすありがたみがはじめて実感されるのだ。

救急外来:ケンカの敗者はラッパ吹き

40年前のヨコスカ米国海軍病院の救急外来には、当番のスタッフ医師1名、インターン2名、衛生兵2名が詰めているだけの小所帯で、すべての救急患者の治療にあたっていた。救急患者のほとんどは、兵隊同士のケンカで傷ついた怪我人だった。洋上に展開する艦隊から緊急患者がヘリで運ばれてくることはまれだった。平和な時期がつづくと、軍隊の病院はヒマなのだ。
USネービーの水兵と海兵隊員の間には、犬猿の仲ともいうべき伝統の確執がある。あるとき海兵隊の軍曹が部下の隊員に訓示を垂れるのを聞いて仰天した。
「貴様らUSマリンは世界最強の兵隊だ。その海兵隊員が軟弱水兵どもとケンカして負けることは、オレは絶対に許さんぞ!」
まるで自国海軍と交戦中のような激しい檄を飛ばす。これでは水兵とケンカしろとけしかけているようなものではないか。喝をいれられた海兵隊員は、ヨコスカの夜の街で水兵とすれ違うと、肩がふれたの、ガンをつけたのと些細なことに因縁をつけ、好んで争いに持ち込むのだった。
ケンカになると水兵に勝ち目はない。なにしろ相手は世界最強の兵士として格闘技の訓練をうけたプロなのだ。
海兵隊員は目前の敵には先手必勝、速攻で相手を破壊することが勝利につながると教えられている。一方の水兵たちが受ける戦闘訓練は、専ら艦上のモニターのスクリーン上に現れる目標に向かってミサイルの発射ボタンを押すことだ。落下地点でミサイルが起こした破壊成果を体感することはない。二者の間では、闘うまえから勝者は決っている。
海兵隊員は、水兵のなかでも軍楽隊のメンバーをなぜか好んで破壊の標的とする。生贄となった軍楽隊員メンバーを何人か治療した。軍楽隊かどうかの見分けは水兵の着ているセーラー服の肩についたラッパのマークだ。あるとき加害者の海兵隊員に、楽団員をなぜ嫌うのかと尋ねてみた。返ってきた答は、
「俺たちが戦場で血みどろになって戦っているとき、のんびりラッパなんぞ吹いているヤツは許せねぇ」だと。
世界最強の米海兵隊員でも、多勢に無勢の状況下だと、軟弱水兵にノックアウトを喰らうこともある。闘いに敗れた海兵隊員の治療を終えてバラック(兵舎)に連絡すると、当直下士官が部下を連れジープを飛ばして迎えにくる。
部下が負傷した場合、その原因がなんであれ、上司たるもの真っ先に部下の様態を気遣うのが常識だろう。ところが、この常識は海兵隊の下士官には通用しない。ストレッチャーの上で、まだ意識もうろうとしている部下の隊員にむかって、
「お前は、水兵ごときにノックアウトされた情けないヤツだ。海兵隊の恥さらしだ!」
と叱りつけているオニ軍曹の姿を何度も目にした。
怒り狂ったオニ軍曹は半病人の部下を、まるで荷物でも運ぶかのように、ジープの後部座席に放り込んで走り去るのだった。こんな扱いを見るたび、軍隊に徴兵される機会をうまく避けて生きて来られた時代に感謝し、我が人生の幸運に胸をなでおろすのだった。
戦後の60余年間、一度も戦争に巻き込まれずに平和を謳歌してきた日本という国は人も社会も堕落した。堕落したっていいじゃないか。みんなが平和で豊かに暮らせる社会を目指して昭和の人間は頑張り通してきたのだ。行き着いたゴールが堕落したニッポンというわけだ。意気地なしだろうと女々しかろうと殺し合いをするよりましだと思うのは、いまや昭和人間のなかでも少数派となった、戦争を体験した世代を生きたからだろう。戦争の思い出はひもじさと寒さだけである。

ドクターストップ

そんな血なまぐさい救急外来に勤務していた或る日、スタッフ医師から
「今夜は海軍と海兵隊のボクシング対抗試合があるから、立会い医師としてジムへ出向するように」という命令を受けた。迎えにきたハンビーとよぶ灰色の兵員輸送車に乗って、基地内のジムにむかう。運転する下士官は鼻のつぶれた元ボクサー。
「ドック(ドクター)、くれぐれも注意しておきますが、あっしが合図するまで、タオルをリングに投げ入れたりしてはいけませんぜ。ちょっと鼻血が出るのを見ると、新米のドックはびびってすぐドクターストップをかけてしまうので困るのです」
ボクシングの立会いドクターを勤めるのは、これが生まれて初めての経験だった。
白衣のユニフォーム姿でリングサイドに詰める。やがてゴングが鳴って試合がはじまる。観客席を埋める海軍と海兵隊両陣営から喚声があがる。なかには女性の姿もちらほら。両軍の期待を双肩に背負う選手は、互いに相手をグッとにらみつけ、闘争本能をむき出しにする。リングシューズがキャンバスをこするたび、キュッキュッという音をたてる。
第1ラウンドはほぼ互角。第2ラウンド目に入ると、リングサイドのドクター席に選手の流す汗がしぶきとなって降りかかってくる。パンチを出すたび、選手が発するウッだのオッだのの掛け声が頻繁になる。パンチがチン(顎)に入ると、相手は一瞬ぐらつく。観客席からは指笛のホイッスルがいりまじった大歓声。興奮はピークに達する。
「倒せ、倒せ(knock him out!)」にまじって、
「殺せ、殺せ(kill him!)」という声も聞こえる。敗色の濃い水兵はまぶたが腫れあがって両目は完全に塞がっているようにみえる。パンチを受けるたびに、口から血の混じった唾液と一緒にマウスピースが飛び出しかける。それをグローブで押し込みながら闘い続けようとする。テレビで観るのと比べると、実物は格段に迫力が違う。正直、どっちが勝ってもいいから、すぐ止めて欲しいと思った。
なんという野蛮なゲームだ。リングの上では、人間が人間を合法的に破壊し負傷させることが許される。観客席の人間共は、その様を眺めて喜悦にふける。「もっとやれ、倒せ、殺せ」と叫びつづけるのはまさに狂気の沙汰だ。
リング上で、無力のまま破壊されていく人間を目の当たりにすると、本能的にドクターストップをかけたくなる。ボクシングという非人間的ゲームに、つのる憎悪が止まらなかった。
同じ日のつい数時間前、脳外科の授業で「頭部に反復して衝撃をうけると、脳内の微細血管が切れて出血し、これが脳組織に不可逆的な損傷をあたえる。パンチドランカーはその典型だ」と教えられたばかりだ。目の前の試合をみていると、これで脳の血管が切れないほうがおかしい。タオルを投げたくてうずうずしていると、隣に座る元ボクサーの下士官から、
「ドック、まだまだ。タオルを投げては駄目だよ」
と念を押される。試合は第3ラウンドに水兵がノックアウトされ、残酷なショウはやっと幕を下ろした。このとき、もうボクシングのドクターは2度としないと固く誓った。いまでも地上からボクシングが消滅することを願っている。

日米対抗フットボール試合

ボクシングの試合から数週間過ぎた土曜日、救急医療センターのスタッフから、基地内のスタジアムに明治大学チームを招いたアメリカンフットボールの日米対抗試合があるから立会いドックとして出向くよう命令を受けた。フットボールスタジアムに着いてみると、観客席の全員がアメリカンだ。これはフェアでない。明治の応援団も、選手の家族やガールフレンドたちも、基地のゲートを護る海兵隊員のガードにシャットアウトを喰らわされて、中に入ることが出来なかったのだ。米国政府が日米友好関係をことのほか尊重する今であれば、「みなさん、基地にようこそ。ウェルカムだよ」と大歓迎だろう。だが1960年代の米軍基地は周囲にフェンスを張り巡らし、入り口おどろおどろしいオフリミットの札を立て、一般の日本人を招き入れることはなかった。
こんな状況下で、明大チームを応援するニッポン人といえば微力ながらわたし一人しかない。「力続く限り明治を応援してやるぜ」と、固い決意を心に秘め、医療班が詰める所定の席につく。
主任ジャッジのホイッスルが鳴り響き、明治チームのキックオフで試合は始まった。迎え打つUSネービーチームと比べると、明治の選手たちは身長で8インチ(20センチ)、体重では30ポンド(14キロ)ぐらい劣って見える。まるで大人と子どもが闘っているようなものだ。
「メイジ、頑張れ。鬼畜米海軍なんぞに負けるな。大和魂でいけ!」
とニッポン語で檄を飛ばすが、観客席の大歓声のせいでフィールドにいる選手には届かない。明治の攻撃になっても、総崩れのディフェンスでは小柄なクオーターバックを護りきれず、パスを投げるまえにあえなくつぶされてしまう。大男どもにのしかかられ押しつぶされて、起き上がられなくなった明治のクオーターバックに駆け寄りしっかりせよと抱きおこす。脳震盪をおこして朦朧としながら耳にするニッポン語の励ましで目が覚めた若者、リトルアメリカに居る筈もないニッポン人の顔を見て、天国に着いたものと勘違いしたかもしれる。それからの働きには目覚しいものが見られた。
声も涸れよとばかり檄をとばしてみたが、応援団の多勢に無勢、両軍の体力の違いは如何んとも仕難く、わが明治は天文学的数字の大差で負けた。 今のニッポンの若者は、上背が6フィート(180センチ)を越えるものも少なくない。いまなら互角で闘えるのではなかろうか。かなうことなら、いまの明治チームをタイムトンネルに乗せて1963年に連れ戻し、当時のUSネービーのチームと闘わせてみたいものだ。互角の勝負になるのではないか。

(2008年12月1日付 イーストウエストジャーナル紙)