ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(13)
クリスマスパーティはヤドリギの下がいい

海軍病院のインターンは朝7時から翌日の夕方5時まで34時間ぶっ続けのオンコールのあと翌朝7時までの14時間がフリータイムというシフトで勤務する。この48時間が1単位というシフトを月曜日から金曜日までの5日間に2.5サイクル反復する。週末は隔週毎に48時間ぶっ続けのオンコール。実働時間を1週間にならして総和すると109時間になる。オンコールの間は、回診や処置などの日常勤務に加えて、緊急入院患者の病歴聴取、診察、入院後の検査や治療の指示、カルテ記載などがセットになっている“ワークアップ”と呼ばれる入院手続きを行う。これは何人の患者が入院しようと、全員の入院時ワークアップをオンコールの時間内に完了してしまうのが義務である。手早く効率のいい仕事が要求されるが、それも研修教程のうちなのだ。


インターンは過酷労働

 緊急手術が必要な患者では、手術室や麻酔医への連絡、術前ケア、術中の助手、術後管理などすべてがオンコールインターンの双肩にかかる。退院する患者があれば、その手続き業務もしなければならない。オンコール中でも5時すぎて患者の出入りがなければ休んでいいことになっている。だが患者の緊急入院は24時間ときを選ばない。夜間に複数の患者が同時に入院すると、オンコール中のインターンは夜中でもベッドから抜け出て、入院ワークアップをしなければならない。オンコール中なゆっくり眠る時間は殆どないのだ。

夕方5時前になると、前日からオンコールだったインターンは睡眠不足のせいで目の淵に黒い隈が出来るからすぐに見分けがつく。

当時のインターンはなぜそれほどに過酷な労働を強いられたのか? 何十年もの間米国の医療界は、若い医者を鍛えて一人前に育てるためには、体力と気力の限界まで働かせることが最善なりと信じてきた。

先輩外科医と手術の合間にかわす会話では、「オレ達が外科インターンだった頃には、1週間1日も休みなくぶっ続けにオンコールだったんだぜ」だの「患者60人の病棟を一人で受け持って全員をきっちりケアできた」だの、過去に困難に打ち勝って達成した自慢話ばかりきかされた。そして最後には必ず「当時のオレたちと比べると、今どきのお前たちインターンは“お医者さんごっこ”して遊んでいるようなものだ」まるで今どきに生まれてきたのが犯罪であるかのようなセリフで結ぶ。


長期オンコールは不倫を招く

 その頃、心臓外科で有名なテキサスの大学病院の胸部外科研修プログラムには6ヶ月間継続オンコールという内規があった。あすから長期オンコールが始まるという日には、病院の正門で愛しのカミさんと抱き合い泣き別れる風景が見られたという。しかし、この非人間的な内規は、研修医たちの間で、離婚、不倫、自殺などさまざまな災厄を産み、社会の注目を集めるにいたった。そこで一歩後退し、海軍病院のわれわれインターンと同じ1週間109時間のシフトに戻されたと聞かされた。

今、全米どこの病院でも研修医のオンコールは週80時間を越えてはならないと立法化されている。これを筆者がインターンをした1960年代と比べてみると信じられないほど楽である。それでもアイオワ大学病院のわたしの小児外科では、研修医は3日に一度院内で泊り込みのオンコールをしている。1ヶ月間に入院する患者は50人余り。規定の2ヶ月間、小児外科に勤務しながら研修すると、100人以上の手術患者のケアに当たるから多忙である。これだけの数の手術患者を経験すると、小児外科のおもな疾患には一通り当たることが出来る。


ニッポンの医師はチーム診療が苦手

ニッポンの研修医は米国のインターンと比べると明らかに甘やかされている。労働基準法に基づいて研修医を週に40時間以上働かせてはならぬという。理由は単純。国から給与を貰っている人間は、ほかの職場の公務員と同じ労働条件に従うべしという。週40時間の研修で果たして患者の治療が出来る医者が育つのだろうか。いいウデの医者は出来ないのではないか。

いま、米国の殆どの病院の診療スタイルは、“チーム診療”である。入院患者は複数の医師がチームを結成してケアにあたる。医師の一人ひとりがすべての患者を100%熟知していてチームで決めた治療方針に忠実にケアをするというスタイルだ。ニッポンの病院では今でも”主治医“と称する個別の医師が”自分の患者“を抱え込んで他の医師には指も触れさせず、同じ科の患者であっても他の医師が主治医をしている患者には一切関知しないという屋内手工業時代の診療スタイルをとっている。当然、医師一人が診る患者数には限度があり、米国の医師一人が診療する患者の4分の1の患者しかケアできないというデータがある。ニッポンで深刻な社会問題となっている医師不足はチーム診療の導入でかなり解消されるのだが、ドクター達は永年身についた習慣を変えたくないのだ。だからいつまでたっても実現しない。


ニッポンの働き者は超勤手当てが目的?
 

余談だが、「世界で一番の働きものは?」とニッポン人の集いで尋ねてみると、「勿論、私たちニッポン人です!」と声をそろえた返事が返ってくる。わたしの答えは「ノー」だ。一番の働きものは、なんといっても、アメリカ本土の企業や病院で働くアメリカ人だ。

ニッポンにくるたび、ホテルの向かいのビルのオフイスでは、午後10時を過ぎても煌々と灯りがともり、日中と同じように働いている男女の姿を見る。オフイスにいる時間だけは世界最長かもしれないが、パーフォーマンスは低い。「社員たちは、どうしてもっと段取りよく仕事を済ませて、早く家に帰らないのですか?」と尋ねると、「超過勤務手当てが目的で居残っているだけですよ」と某企業の管理職は吐き捨てるように答えてくれた。


ケネディ大統領暗殺

ハナシを1963年の米国海軍病院に戻そう。

11月末のサンクスギビングディからクリスマスまでのひと月間は、アメリカンなら誰でもが1年で一番楽しい時期。ところがこの年は違った。1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問中のケネディ大統領がオープンカーでパレードの最中、何者かに銃撃され暗殺されたのだ。

この朝、いつものように患者を回診するため7時に病棟に行ってみると、雰囲気が尋常でない。ナースも衛生兵もそして患者も、ナースステーションのラジオに耳を傾けながら、みんな涙を流して泣いているのだ。何ごとならんと尋ねたところ、大統領が撃たれて亡くなったという。びっくり仰天して窓の外をみると、基地中あちこちに掲揚されているすべての星条旗が反旗になっていた。軍の基地という特殊環境であることを割り引いても、アメリカ人は自分達の選んだ大統領に強い敬意を表す国民だと強く認識した。


クリスマスパーティ

それから一月、大統領暗殺による院内の動揺も一段落した頃、

「今夜はナースのBOQ(独身将校宿舎)でクリスマスパーティがあるのだけど一緒にいかない?」

海軍看護中尉殿のパッツィちゃんに誘われ、当時流行していたアイビールックのダークスーツに袖を通し、細身のタイを結んでお出まし。BOQの建物は入り口にラウンジがあって、それから先は真ん中のローカを挟んで両サイドが各ナースの個室になっている。個室のドアは全部外に向かって開いた状態になっているのが不思議に思えたが、そのワケはあとで判った。

パーティ会場のラウンジに足を踏み入れかけると、あでやかなドレスに身をつつんだパッツィにいきなり抱きつかれ口唇に熱い接吻を受けた。愉しい不意打ちのキスに「何だ、これは?」と戸惑っていると、こんどは横にいたベッキーからまたもや熱い口付け。美女二人から濃厚なキスの往復パンチに、ますます混乱してナニがなんだかわからない。

「見上げてごらん、ほら、ドアの上にヤドリギがぶらさがっているでしょ。独身者だけのクリスマスパーティでは、このヤドリギの下では、好きな相手なら誰とキスしてもいいという掟があるの」

こんなステキなルールがあるとは知らなかったなあ。ふと窓ガラスに映るわが姿をみると、口の周りはルージュでまっかっか。

フルーツパンチにラムをしこたま仕込んだ飲み物のグラスを重ねているうちに、パーティ会場にいた人の数がだんだん減っていく。がらんとしたラウンジに最後まで残っているのはパッツィとボクだけ。

「みんなどこへいったの?」

「あっちの方よ」

グラス片手のパッツィがとろけるような流し目で指す方角は個室の並ぶローカ。眺めてみると、パーティの始まった頃には開いていた部屋のドアが、いまは1室だけを残して全部閉まっている。なるほどそういうことか。これで初めにドアが開かれていたワケが判ったぞ。

そのあと何がどうなったかは、しこたま飲んだラム入りフルーツパンチのせいでメモリーが完全に消失してしまい、いまでは何一つ記憶にない。だからここに書くわけにいかぬ。御免。

(2009年 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(13)
クリスマスパーティはヤドリギの下がいい
” への1件のコメント

  1. 突然のご挨拶で申し訳ありません。
    木村先生の十二指腸狭窄症におけるダイヤモンド縫合によって一名をとりとめた者です。
    たまたま、ネットサーフィンをしていて見つけたブログに衝撃を受けました。ダイヤモンド縫合を確立した方のブログであるということに感激しました。
    時をさかのぼること26年前。
    当時生まれたばかりの私は十二指腸狭窄症を発症していました。
    親戚の医師を含めた十数名の先生方によって手術が決行されたと後に両親から聞きました。その手術の縫合時にダイヤモンド縫合が為されたこともわかりました。
    その後、順調にミルクも飲めるようになり、幸いなことに合併症もなく今では身長は180cmちかく体重も80kgもある恵まれた体型になることができました。
    あの時の手術方法と縫合がなければ・・・子ども用の麻酔がなければ・・・などいろいろと当時の背景を振り返って、さまざまな方に助けられ、生かされている命なのだと改めて思いました。
    命の重みを今一度噛みしめて生きていきたいと強く思いました。
    今は学校の教師として働いています。
    子どもたちに命の大切さと人との関わりの大切さを日々気づかせてあげるそんな教師になりたいと思っています。
    稚拙な文章で申し訳ありません。ただただ感謝を伝えたいと思った次第です。遠方より先生のご発展をお祈り申し上げております。

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