ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(15)
海軍病院ならではのエピソード

インスペクション

毎週金曜日の午後になると、院内各所ではインスペクションと呼ばれる行事が行われる。インスペクションは基地内の各部署が、米国海軍の規定どおりに整理整頓されているか否かを、担当の士官が見て回りチェックする実務の名称である。整理整頓を重んじる海軍の規定は厳しい。基地の病院であろうと遠洋で作戦行動中の艦隊であろうと、決められた通りの整理整頓を守ることは、すなわち軍隊としての士気と規律を維持することに準ずる。インターンやナースの宿舎も例外ではない。基地のフェンス内に住んでいる限り、宿舎の個室であってもプライバシーはないのだ。

検査官の当直将校、当直下士官および筆記用のバインダーを手にした当直水兵からなるインスペクションチームがインターンズクオーターズと呼ばれる一角のドアを開けて入ってくる。

まずチェックするのがリノリュウムの廊下だ。清掃係のスタッフは特殊なワックスを床にまいて、その上を半径60センチもある電動の床磨き機でピカピカになるまで光らせておかねばならない。光かたが不十分だと減点の対象になる。チームはクオーターズ内のロビー、学習室、バスルームとチェックして回る。

ロビーではソファやコーヒーテーブルがキチンと所定の位置になければならない。勿論、コーヒーテーブルの表面にはほこりがたまっていないかどうかを確かめるため、インスペクターは指先でなぞる。ほこりがたまっていれば減点。

学習室は5,6台の学習机がある。壁の書棚にはセシルやハリソンの内科学、クリストファーの外科学などの教科書が収納されている。書棚に積もる埃や斜めに立てかけられた書籍があると減点の対象になる。

バスルームではシャワーブースの前のリネン棚につみあげられたタオルやバスタオルが立方型になっていなければならない。

各インターンは仕事に支障のない限り、パーティションで区切られた各自の区割り内にいて、インスペクションに立ち会わねばならぬ。2人仕様の区割りの住人はインスペクションの間、その場で直立不動。インスペクターはまずは各人に一つづつ割り当ての整理ダンスの上を指でなぞり埃の有無をチェック。つぎにベッドメイクはきちんとされているか、床に塵は落ちていないか、窓は磨かれているかなどをチェックリスト順に検査を進める。

整理ダンスの引き出しを上から順に開いて、中身が整理整頓されているかどうかを見る。私物であろうがおかまいなしだ。軍隊にいるかぎりプライバシーだの、個人の権利だのはシャバの寝言にすぎない。

最後がインターンの身だしなみ。頭髪は短くクルーカットにしているか、両手の爪を短く切っているか、無精ひげは生やしていないか、着衣のワイシャツや白衣は清潔か、黒一色に統一されたネクタイに食べもののシミはついていないか、白のズボンにはアイロンが当たっているか、足元の白いソックスは汚れていないか、白靴は手入れされているかなどが厳しく調べられる。

すべてオーケイなら“スクエアドウェイ”と合格点をもらえる。スクエアドウェイというのは米国海軍の業界用語で適正という意味。あえて訳すなら「四角の状態」という意味だ。毛布や衣類をたたむ際、四角になるように整えるところから発祥したと聞いた。

インスペクションで不合格にされると翌日院内の告示板に氏名と評価が張り出される。たとえば「ドクターキムラのドレッサーの中ではシャツとパンツがもつれ合っていた。スクエアドウェイに整理せよ」などと公表される。これではたまらない。必然的に整理整頓に励むようになる。むかし江田島の海軍兵学校を卒業し、旧日本帝国海軍将校となって終戦を迎え、戦後医学部に入り直して医者になった先輩から江田島の寮でも同様の検閲があったと聞いた。

インターンの1年間、週毎のインスペクションのお蔭で整頓魔になったわたしは、いま我が家のキッチンで家内を相手にインスペクションの真似事を試みては手痛い逆襲に遭っている。何事も相手を見分けないと災厄を招くので、ほどほどにしたほうがいい。

軍事顧問が5万人

ときは昭和38年、東南アジアでは南北ベトナムの紛争が進行中だった。米国は海兵隊員5万名を軍事顧問として投入し士気の薄い南ベトナム政府軍を応援していた。顧問が5万人も要るなら実働のベトナム兵は数百万人ぐらいいるとバランスが取れるが、果たして実情はどうだったのだろう。海兵隊員は顧問といえども、勿論最前線に出て戦闘の実地指導をするのだから、犠牲者も少なくなかった。負傷者は、まず映画「マッシュ」に描かれている野戦病院で応急手術を受ける。トリヤージと呼ぶ仕分けにより、治療回復の可能性のある重症者は、ヘリでサイゴン空港に集められ、ジェット旅客機を「空飛ぶ集中治療室」に改造したDC8に載せ替えられる。DC8は毎晩サイゴンから日本の立川にある米国空軍基地(タチ)に向かう定期便だ。6時間余りのフライトのあと日本時間で夜中すぎにタチにランディングすると、待ち受けている海軍の移動ICU仕様の病院トレーラーに患者を移し、夜中のヨコスカ街道を爆走し海軍病院に午前2時ごろ到着する。トレーラーは、始めは1台だったが戦局が激しくなるにつれ海兵隊員の負傷者が増え、昭和39年の春ごろには数台に増えた。トレーラーの到着と同時に激務がはじまる当直インターンはその分だけ仕事が増えて忙しくなった。

通信兵がとち狂うと

軍隊には機密がつきものである。当時米国海軍通信基地はヨコハマ近郊の保土ヶ谷にあり、ホノルルの第7艦隊司令部から出る極秘情報を南シナ海に展開する艦隊に送信していた。取り扱う情報には高度な機密性を帯びたものあったという。

或る日、通信基地に勤務する水兵が不明の向神経薬を呑み過ぎたらしく、極度にハイの精神状態に陥って救急外来に運ばれてきた。喚き散らす言葉の端々には任務を通じて知りえた情報が含まれる。暴れる水兵を衛生兵が数人がかりで何とか処置台に載せベルトで抑制した頃、情報部のスタッフが数人到着し、ただちに水兵を収容している救急外来処置室の出入り口を閉鎖、中にいた衛生兵やわたしたちインターンを処置室から追い出してシャットアウトした。その手際のよさはジェームズボンドの映画に出てくる英国情報部員の仕事を見ているようだった。「何か大事なことをしゃべっていなかったか?聴いたことを全部いってみろ」情報部のスタッフは怖い顔で処置室にいたわれわれを問い質すが、答えはナッシングだ。鎮静剤が効いて眠りについた通信兵の患者は重要な機密情報に関与していたのだろう。いまとなっては真相を知る由もない。

“持たず、持たせず、持ちこまず?”

同じころ、外洋艦隊勤務からヨコスカ港に着いた潜水艦に乗組んだ水兵が腹痛で救急外来を訪れた。診察の結果、腹痛はたいした病気でなくてよかったが、ふと見るとユニフォームの肩の下に核マークの職務を現すロゴがついている。潜水艦のクルーと話す機会などめったにない。ちょうど救急外来がヒマな晩だったのでこのチャンスを逃してなるものかと、

「いまの潜水艦は何ヶ月ぐらい継続潜水まできるか?」、「何ヶ月に及ぶ潜水期間中、海の底で空気や水や食料の補給や、トイレの汚水の排出はどうするのか?」などここぞとばかり尋ねまくってみる。クルーはどんな質問にも丁寧に答えてくれた。

「核ミサイルは載せたまま?」と聴くと「当然でさぁ。ミサイルを抜いっちまったら、潜水艦なんて只のどん亀と同じだよ」ときた。以前から思っていたが“持たず持たせず持ちこまず”は、きれいごと過ぎはしないか。実態を伴わぬ言葉が一人歩きし美しい響きを奏でているうちに信じるものが増えてくると不動の真実になってしまう。もっと現実を見よと実際的な意見を述べる者に対しては、戦争肯定者だの非平和主義者の刻印を押しつける。平和のウラにある現実を認める勇気は、祈願と現実を重ねる癖のあるニッポン人には不似合いのようだ。

授業

「腰椎麻酔をする際の注射針の刺入は何番目の椎間に行うのが正しいか?」毎週火曜日の午後1時間、臨床各科のスタッフがインターンにしてくれる講義は質問からはじまる。この日の講師は麻酔医。腰椎麻酔の基本的知識に関する質問に手をあげて「第2と第3番腰椎の椎間」と答えると「その理由は?」と問い返される。「脊髄は第2腰椎のレベルから下は馬尾にわかれているので、2と3の間だと針を刺入れても、脊髄損傷は避けることができるからです」「その通り」で一段落。

質疑応答(Q&A)は「そのワケは?」という理由付けにきちんと答えられないと正解にならない。1963年といえば今から50年前。半世紀まえに、米国の医学教育は、「理由付け(reasoning)」を重視したQ&Aの授業の有用性を認めていた。当時のニッポンの医学部の授業はQ&Aを欠いた一方通行の講義スタイルだった。

医学部を一度卒業したら授業を受ける機会は2度と訪れない日本の研修医とちがって、米国の卒後教育には研修期間中を通じて毎週定期的に数時間の系統講義がプログラムとして組み込んであることだ。

診療の実際に即した医学知識をQ&Aスタイルで教えてくれる火曜日毎の講義を受けるのはインターン16名だが、常時出席者は半分の8人前後。あとの半分は患者ケアに忙しくて授業にでられない。だが患者ケアは何ものにも優先することが判れば、授業にでられなくてもいいのだ。

医学部在学中の4年間に全科の教授から数百回にわたって授業を受けたが、海軍病院のスタッフ軍医の授業のように判りやすく実用に役立つ知識を習う授業ではなかった。インターンの1年間に出席できた授業は30回ほどだったが、習った医学知識がその後40年間の外科診療の柱となって支えてくれた。

スタッフの海軍軍医がニッポンの大学教授より優れた物識りというのではない。スタッフ軍医は、自分が理解してきた筋道どおりに臨床の知技を教えてくれるのに対し、教授は自らが理解も経験もしていない知技でも授業だから教えるという態度だった。

日米の成人教育は基本理念が違う。質問を大歓迎する米国指導者と、一方通行の講義に専念するニッポンの医学部教授。活発に質問した学生に「キミはボクに敵意をお持ちですか?」と皮肉をあびせ口封じした教授もいた。日米医学教育の溝は深い。

(2009年3月1日 イーストウエストジャーナル紙)

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” への1件のコメント

  1. 木村先生のお話しはいつも有益で面白い。 ずっと続けてくださいね。

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