ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(15)
海軍病院ならではのエピソード

インスペクション

毎週金曜日の午後になると、院内各所ではインスペクションと呼ばれる行事が行われる。インスペクションは基地内の各部署が、米国海軍の規定どおりに整理整頓されているか否かを、担当の士官が見て回りチェックする実務の名称である。整理整頓を重んじる海軍の規定は厳しい。基地の病院であろうと遠洋で作戦行動中の艦隊であろうと、決められた通りの整理整頓を守ることは、すなわち軍隊としての士気と規律を維持することに準ずる。インターンやナースの宿舎も例外ではない。基地のフェンス内に住んでいる限り、宿舎の個室であってもプライバシーはないのだ。

検査官の当直将校、当直下士官および筆記用のバインダーを手にした当直水兵からなるインスペクションチームがインターンズクオーターズと呼ばれる一角のドアを開けて入ってくる。

まずチェックするのがリノリュウムの廊下だ。清掃係のスタッフは特殊なワックスを床にまいて、その上を半径60センチもある電動の床磨き機でピカピカになるまで光らせておかねばならない。光かたが不十分だと減点の対象になる。チームはクオーターズ内のロビー、学習室、バスルームとチェックして回る。

ロビーではソファやコーヒーテーブルがキチンと所定の位置になければならない。勿論、コーヒーテーブルの表面にはほこりがたまっていないかどうかを確かめるため、インスペクターは指先でなぞる。ほこりがたまっていれば減点。

学習室は5,6台の学習机がある。壁の書棚にはセシルやハリソンの内科学、クリストファーの外科学などの教科書が収納されている。書棚に積もる埃や斜めに立てかけられた書籍があると減点の対象になる。

バスルームではシャワーブースの前のリネン棚につみあげられたタオルやバスタオルが立方型になっていなければならない。

各インターンは仕事に支障のない限り、パーティションで区切られた各自の区割り内にいて、インスペクションに立ち会わねばならぬ。2人仕様の区割りの住人はインスペクションの間、その場で直立不動。インスペクターはまずは各人に一つづつ割り当ての整理ダンスの上を指でなぞり埃の有無をチェック。つぎにベッドメイクはきちんとされているか、床に塵は落ちていないか、窓は磨かれているかなどをチェックリスト順に検査を進める。

整理ダンスの引き出しを上から順に開いて、中身が整理整頓されているかどうかを見る。私物であろうがおかまいなしだ。軍隊にいるかぎりプライバシーだの、個人の権利だのはシャバの寝言にすぎない。

最後がインターンの身だしなみ。頭髪は短くクルーカットにしているか、両手の爪を短く切っているか、無精ひげは生やしていないか、着衣のワイシャツや白衣は清潔か、黒一色に統一されたネクタイに食べもののシミはついていないか、白のズボンにはアイロンが当たっているか、足元の白いソックスは汚れていないか、白靴は手入れされているかなどが厳しく調べられる。

すべてオーケイなら“スクエアドウェイ”と合格点をもらえる。スクエアドウェイというのは米国海軍の業界用語で適正という意味。あえて訳すなら「四角の状態」という意味だ。毛布や衣類をたたむ際、四角になるように整えるところから発祥したと聞いた。

インスペクションで不合格にされると翌日院内の告示板に氏名と評価が張り出される。たとえば「ドクターキムラのドレッサーの中ではシャツとパンツがもつれ合っていた。スクエアドウェイに整理せよ」などと公表される。これではたまらない。必然的に整理整頓に励むようになる。むかし江田島の海軍兵学校を卒業し、旧日本帝国海軍将校となって終戦を迎え、戦後医学部に入り直して医者になった先輩から江田島の寮でも同様の検閲があったと聞いた。

インターンの1年間、週毎のインスペクションのお蔭で整頓魔になったわたしは、いま我が家のキッチンで家内を相手にインスペクションの真似事を試みては手痛い逆襲に遭っている。何事も相手を見分けないと災厄を招くので、ほどほどにしたほうがいい。

軍事顧問が5万人

ときは昭和38年、東南アジアでは南北ベトナムの紛争が進行中だった。米国は海兵隊員5万名を軍事顧問として投入し士気の薄い南ベトナム政府軍を応援していた。顧問が5万人も要るなら実働のベトナム兵は数百万人ぐらいいるとバランスが取れるが、果たして実情はどうだったのだろう。海兵隊員は顧問といえども、勿論最前線に出て戦闘の実地指導をするのだから、犠牲者も少なくなかった。負傷者は、まず映画「マッシュ」に描かれている野戦病院で応急手術を受ける。トリヤージと呼ぶ仕分けにより、治療回復の可能性のある重症者は、ヘリでサイゴン空港に集められ、ジェット旅客機を「空飛ぶ集中治療室」に改造したDC8に載せ替えられる。DC8は毎晩サイゴンから日本の立川にある米国空軍基地(タチ)に向かう定期便だ。6時間余りのフライトのあと日本時間で夜中すぎにタチにランディングすると、待ち受けている海軍の移動ICU仕様の病院トレーラーに患者を移し、夜中のヨコスカ街道を爆走し海軍病院に午前2時ごろ到着する。トレーラーは、始めは1台だったが戦局が激しくなるにつれ海兵隊員の負傷者が増え、昭和39年の春ごろには数台に増えた。トレーラーの到着と同時に激務がはじまる当直インターンはその分だけ仕事が増えて忙しくなった。

通信兵がとち狂うと

軍隊には機密がつきものである。当時米国海軍通信基地はヨコハマ近郊の保土ヶ谷にあり、ホノルルの第7艦隊司令部から出る極秘情報を南シナ海に展開する艦隊に送信していた。取り扱う情報には高度な機密性を帯びたものあったという。

或る日、通信基地に勤務する水兵が不明の向神経薬を呑み過ぎたらしく、極度にハイの精神状態に陥って救急外来に運ばれてきた。喚き散らす言葉の端々には任務を通じて知りえた情報が含まれる。暴れる水兵を衛生兵が数人がかりで何とか処置台に載せベルトで抑制した頃、情報部のスタッフが数人到着し、ただちに水兵を収容している救急外来処置室の出入り口を閉鎖、中にいた衛生兵やわたしたちインターンを処置室から追い出してシャットアウトした。その手際のよさはジェームズボンドの映画に出てくる英国情報部員の仕事を見ているようだった。「何か大事なことをしゃべっていなかったか?聴いたことを全部いってみろ」情報部のスタッフは怖い顔で処置室にいたわれわれを問い質すが、答えはナッシングだ。鎮静剤が効いて眠りについた通信兵の患者は重要な機密情報に関与していたのだろう。いまとなっては真相を知る由もない。

“持たず、持たせず、持ちこまず?”

同じころ、外洋艦隊勤務からヨコスカ港に着いた潜水艦に乗組んだ水兵が腹痛で救急外来を訪れた。診察の結果、腹痛はたいした病気でなくてよかったが、ふと見るとユニフォームの肩の下に核マークの職務を現すロゴがついている。潜水艦のクルーと話す機会などめったにない。ちょうど救急外来がヒマな晩だったのでこのチャンスを逃してなるものかと、

「いまの潜水艦は何ヶ月ぐらい継続潜水まできるか?」、「何ヶ月に及ぶ潜水期間中、海の底で空気や水や食料の補給や、トイレの汚水の排出はどうするのか?」などここぞとばかり尋ねまくってみる。クルーはどんな質問にも丁寧に答えてくれた。

「核ミサイルは載せたまま?」と聴くと「当然でさぁ。ミサイルを抜いっちまったら、潜水艦なんて只のどん亀と同じだよ」ときた。以前から思っていたが“持たず持たせず持ちこまず”は、きれいごと過ぎはしないか。実態を伴わぬ言葉が一人歩きし美しい響きを奏でているうちに信じるものが増えてくると不動の真実になってしまう。もっと現実を見よと実際的な意見を述べる者に対しては、戦争肯定者だの非平和主義者の刻印を押しつける。平和のウラにある現実を認める勇気は、祈願と現実を重ねる癖のあるニッポン人には不似合いのようだ。

授業

「腰椎麻酔をする際の注射針の刺入は何番目の椎間に行うのが正しいか?」毎週火曜日の午後1時間、臨床各科のスタッフがインターンにしてくれる講義は質問からはじまる。この日の講師は麻酔医。腰椎麻酔の基本的知識に関する質問に手をあげて「第2と第3番腰椎の椎間」と答えると「その理由は?」と問い返される。「脊髄は第2腰椎のレベルから下は馬尾にわかれているので、2と3の間だと針を刺入れても、脊髄損傷は避けることができるからです」「その通り」で一段落。

質疑応答(Q&A)は「そのワケは?」という理由付けにきちんと答えられないと正解にならない。1963年といえば今から50年前。半世紀まえに、米国の医学教育は、「理由付け(reasoning)」を重視したQ&Aの授業の有用性を認めていた。当時のニッポンの医学部の授業はQ&Aを欠いた一方通行の講義スタイルだった。

医学部を一度卒業したら授業を受ける機会は2度と訪れない日本の研修医とちがって、米国の卒後教育には研修期間中を通じて毎週定期的に数時間の系統講義がプログラムとして組み込んであることだ。

診療の実際に即した医学知識をQ&Aスタイルで教えてくれる火曜日毎の講義を受けるのはインターン16名だが、常時出席者は半分の8人前後。あとの半分は患者ケアに忙しくて授業にでられない。だが患者ケアは何ものにも優先することが判れば、授業にでられなくてもいいのだ。

医学部在学中の4年間に全科の教授から数百回にわたって授業を受けたが、海軍病院のスタッフ軍医の授業のように判りやすく実用に役立つ知識を習う授業ではなかった。インターンの1年間に出席できた授業は30回ほどだったが、習った医学知識がその後40年間の外科診療の柱となって支えてくれた。

スタッフの海軍軍医がニッポンの大学教授より優れた物識りというのではない。スタッフ軍医は、自分が理解してきた筋道どおりに臨床の知技を教えてくれるのに対し、教授は自らが理解も経験もしていない知技でも授業だから教えるという態度だった。

日米の成人教育は基本理念が違う。質問を大歓迎する米国指導者と、一方通行の講義に専念するニッポンの医学部教授。活発に質問した学生に「キミはボクに敵意をお持ちですか?」と皮肉をあびせ口封じした教授もいた。日米医学教育の溝は深い。

(2009年3月1日 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(14)
彼女に噛まれた男性のシンボル

海軍病院の日課は朝が早い。その日に予定された外科手術の第1例目には、午前7時にメスが入る決まりになっている。外科インターンは、この時間までに外科病棟に入院中の患者全員を診て回り、前夜からの経過や検査結果をスタッフに報告しなければならない。そのためには毎朝5時半に起床し、歯磨き、洗顔、髭そりを大急ぎで済ませ、ユニフォームに着変えると、5時から開いている将校食堂で朝食をとる。手術の都合によっては、昼食はとれるかどうか判らないのが外科医の1日だ。朝飯のテーブルでは、ハムエッグやオムレツを腹いっぱい食べておかないと、長時間の手術中に低血糖で倒れることがある。

朝飯が終わると6時には外科病棟の入院患者全員の回診を始める。一人ひとりの患者の、前日から現在までの経過と検査結果をすべて掌握しておいて7時前に手術室に入ると、スタッフ外科医と並んで手洗いをしながら、全患者の経過を口頭で報告する。40人を超える患者の氏名、年令、疾患名、経過、検査結果を要約し、ストーリーとして口述報告する義務を課せられているのだ。これには相当の記憶力が要る。だが、この責務を課せられると、多様な情報を要約し、簡潔化したストーリーとして伝える術に長けてくる。はじめのうちは「これはえらいところへ来てしもた」と思ったが、慣れてしまえばなんでもない。二十歳代の脳の記憶容量は無限で、体力にも膨大な余力のあることが判る。試さぬうちから無理だのダメだのとあきらめてはいけない。やる気になれば出来るのだ。

ニッポンの病院でも、研修医たちをこの方法で教育すると、多数の患者に同時に素早く的確に対応する技術を習得させることが出来るだろう。だが実際に行動に移すとなると、まず指導医が研修医の報告を聞いて状況を即座に判定し対策を立てる能力を養わねばならぬ。それに加えて院内の他の部門のスタッフが属する労働組合との約束や公務員規定などに阻まれて、米国の研修医のように、早朝午前6時から勤務開始というわけにいかないのが残念だ。

ニッポン語1語につき罰金10セント

米国海軍病院内の会話は、勿論、すべて英語で交わされる。ニッポン人インターンにとってこれが一番辛い。慣れない異国語を使って患者を診察し、上司に報告し、カルテを記入し、講義を聴く、そのもどかしさは忍耐の限界を超える。爆発しそうな感情を抑えながらでは、研修でも仕事でも達成感がない。英語が自在に話せるようにならないことには、欲求不満は解消しないのだ。

眼科医長のインターン教育委員長は、インターン同士がニッポン語で会話するかぎり英会話能力は向上しないのに注目し、インターンに対し院内でのニッポン語の使用禁止令を発令した。「スタッフ医師あるいはナースは、ニッポン語で会話しているインターンを見つけた場合、双方のインターンからニッポン語一語につき10セントの罰金を取り立てること」というお触れを出した。10セントと言って馬鹿にしてはいけない。当時は院内食堂のランチが25セント、将校クラブで飲むドリンクが10セント、ネービーエクスチェンジで買うタバコが1カートン1ドルだから、1パック10セントだった。この罰金制度はインターンの英語力向上に抜群の効果を発揮した。半年もすると、基地の映画館で上映している字幕なしのハリウッド映画を見てゲーリークーパーやマリリン・モンローのセリフがほぼ判るほどに英語は上達した。

回診は記憶力のテスト

内科では朝7時からスタッフの総回診。内科インターンは6時から一人で回診を済ませ、一緒に回るスタッフ医師に一人一人の患者の昨夜からの経過を口頭でつぶさに報告する。この際、勿論、カルテやメモなどを見てはならない。全ての入院患者の前日からの検査伝票すべてに眼をとおすと100枚を下らない。記憶すべき数値は数百に上る。記憶力をテストされているようなものだが、これがきちんと出来ないと、回診が済んでからオフイスに呼ばれて説教を喰らう。何のこれしき負けてなるものかと記憶の底力を振り絞れば、数字ごときは幾らでも丸暗記できる。今の研修医は自分の頭脳に代わってコンパクトなコンピュータに数値を覚えさせ、メモがわりに使いながら回診する。いつの時代からこんな手抜きが許されるようになったのだろう。コンピュータの画面が消えると全ては忘却の彼方。頭の中には何も残らない。これでは勉強にならない。

彼女に噛まれたオトコのしるし

ヨコスカを母港とする第7艦隊の乗組員は市内にアパートを借りてオンリーと呼ばれる彼女を囲っている者が多かった。当時は1ドルが360円。アメリカ経済の最良の時代だったから水兵でもこんなことが可能だったのだ。或る日、水兵がアパートで彼女と69でラブメイキングの最中、興奮の絶頂に達した彼女にオトコのシルシをガブリと噛まれて出血が止まらなくなり、基地から出動した救急車で救急外来に運ばれてきた。診ると白いユニフォームのベルボトムのパンツが真っ赤に染まるほどの大出血である。まだ動脈性出血を続けているペニスを弾力包帯でぐるぐる巻きにして一時的な止血には成功したが傷には縫合が要る。なにしろペニスの人噛創を診たのは生まれて始めてのこと。いざ縫合をする段になって「海綿体に麻酔薬を注入すると静脈注射と同じことだから心停止する危険が大きいのではないか」インターンの一人が知ったかぶりの意見を述べる。鳩首協議の結果、表層のみの局所麻酔なら安全だろうと意見がまとまり処置にかかった。

水兵はペニスに針が刺さると痛さに耐え兼ねビクンビクンと飛び上がる。まるで巨大なサカナの活け造りのようで可哀想だったが無事に処置を終えた。1週間もすると傷はすっかり治りオトコのしるしは元通り役立つようになったそうだ。

移り香は洗濯機のなかで

意に反して残酷な話題に発展してしまったが、基地の暮らしにはソフトなエピソードも多い。インターンは汚れたシャツやパンツを自室に脱ぎ捨てておくと、メイドが回収して洗濯室にとどけてくれる。洗濯が仕上がると部屋まで配達してくれる。きちんとメイクしたベッドの上にたたまれている洗濯済みの下着やシャツをみると気持ちが和む。ある日洗濯室から戻ってきた下着にほんのり香水の香がただようのに気づいた。その後も何度か匂ってみると甘い香りがする。不審におもっているうち思いがけない出来事でそのナゾが解けた。

夜勤の翌朝自室に戻る時間がないので洗濯室に立ち寄り着ていた下着を洗濯済みのものと着替えることにした。洗濯室はナースのBOQ(独身将校宿舎)の一角にある。オンナの城だからオトコはみだりに入ってはいけないのだが、洗濯室だけは治外法権だった。部屋の片隅で着替えていると突然ドアが開き「アーッ」という女性の声。みると素っ裸のパッツィが両手で胸を隠して突っ立っている。胸から下はスッポンポン。こちらも素っ裸。目前にある逆三角形の栗毛パッチに目を奪われ不覚にも「ワォー」と叫んでいた。まさかオンナの城の一角に裸のオトコがいるとは思いもしなかったパッツィは、自室で汚れた下着を脱ぎ捨て、素っ裸のまま洗濯済みの下着を着るため洗濯室にやってきたのだ。

ばつの悪い一瞬が過ぎ再び目と目が合うと「ワッ」と声をあわせて大笑い。これが縁でパッツィちゃんとは裸の付き合いをするようになった。この一件によって、洗濯室のおばさんたちはインターンとナースの下着を同じ洗濯機で洗っていたことが判った。洗濯したての下着からほんのりただよう甘い香りは、洗濯機のなかでレースの下着とインターンの猿股がくんずほぐれつするうちに、交じり合った移り香だったのだ。それにしても米国海軍のナースたちは香水を浴びるがごとく消費する。それもフェロモン分泌促進剤となるタイガーマスクなどの動物系のものを好む。香水を振りまくウラにはよほどの欲求不満があるとみたが確かめるすべがない。したがって真相は今もって不明のままだ。

(2009年2月1日 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(13)
クリスマスパーティはヤドリギの下がいい

海軍病院のインターンは朝7時から翌日の夕方5時まで34時間ぶっ続けのオンコールのあと翌朝7時までの14時間がフリータイムというシフトで勤務する。この48時間が1単位というシフトを月曜日から金曜日までの5日間に2.5サイクル反復する。週末は隔週毎に48時間ぶっ続けのオンコール。実働時間を1週間にならして総和すると109時間になる。オンコールの間は、回診や処置などの日常勤務に加えて、緊急入院患者の病歴聴取、診察、入院後の検査や治療の指示、カルテ記載などがセットになっている“ワークアップ”と呼ばれる入院手続きを行う。これは何人の患者が入院しようと、全員の入院時ワークアップをオンコールの時間内に完了してしまうのが義務である。手早く効率のいい仕事が要求されるが、それも研修教程のうちなのだ。


インターンは過酷労働

 緊急手術が必要な患者では、手術室や麻酔医への連絡、術前ケア、術中の助手、術後管理などすべてがオンコールインターンの双肩にかかる。退院する患者があれば、その手続き業務もしなければならない。オンコール中でも5時すぎて患者の出入りがなければ休んでいいことになっている。だが患者の緊急入院は24時間ときを選ばない。夜間に複数の患者が同時に入院すると、オンコール中のインターンは夜中でもベッドから抜け出て、入院ワークアップをしなければならない。オンコール中なゆっくり眠る時間は殆どないのだ。

夕方5時前になると、前日からオンコールだったインターンは睡眠不足のせいで目の淵に黒い隈が出来るからすぐに見分けがつく。

当時のインターンはなぜそれほどに過酷な労働を強いられたのか? 何十年もの間米国の医療界は、若い医者を鍛えて一人前に育てるためには、体力と気力の限界まで働かせることが最善なりと信じてきた。

先輩外科医と手術の合間にかわす会話では、「オレ達が外科インターンだった頃には、1週間1日も休みなくぶっ続けにオンコールだったんだぜ」だの「患者60人の病棟を一人で受け持って全員をきっちりケアできた」だの、過去に困難に打ち勝って達成した自慢話ばかりきかされた。そして最後には必ず「当時のオレたちと比べると、今どきのお前たちインターンは“お医者さんごっこ”して遊んでいるようなものだ」まるで今どきに生まれてきたのが犯罪であるかのようなセリフで結ぶ。


長期オンコールは不倫を招く

 その頃、心臓外科で有名なテキサスの大学病院の胸部外科研修プログラムには6ヶ月間継続オンコールという内規があった。あすから長期オンコールが始まるという日には、病院の正門で愛しのカミさんと抱き合い泣き別れる風景が見られたという。しかし、この非人間的な内規は、研修医たちの間で、離婚、不倫、自殺などさまざまな災厄を産み、社会の注目を集めるにいたった。そこで一歩後退し、海軍病院のわれわれインターンと同じ1週間109時間のシフトに戻されたと聞かされた。

今、全米どこの病院でも研修医のオンコールは週80時間を越えてはならないと立法化されている。これを筆者がインターンをした1960年代と比べてみると信じられないほど楽である。それでもアイオワ大学病院のわたしの小児外科では、研修医は3日に一度院内で泊り込みのオンコールをしている。1ヶ月間に入院する患者は50人余り。規定の2ヶ月間、小児外科に勤務しながら研修すると、100人以上の手術患者のケアに当たるから多忙である。これだけの数の手術患者を経験すると、小児外科のおもな疾患には一通り当たることが出来る。


ニッポンの医師はチーム診療が苦手

ニッポンの研修医は米国のインターンと比べると明らかに甘やかされている。労働基準法に基づいて研修医を週に40時間以上働かせてはならぬという。理由は単純。国から給与を貰っている人間は、ほかの職場の公務員と同じ労働条件に従うべしという。週40時間の研修で果たして患者の治療が出来る医者が育つのだろうか。いいウデの医者は出来ないのではないか。

いま、米国の殆どの病院の診療スタイルは、“チーム診療”である。入院患者は複数の医師がチームを結成してケアにあたる。医師の一人ひとりがすべての患者を100%熟知していてチームで決めた治療方針に忠実にケアをするというスタイルだ。ニッポンの病院では今でも”主治医“と称する個別の医師が”自分の患者“を抱え込んで他の医師には指も触れさせず、同じ科の患者であっても他の医師が主治医をしている患者には一切関知しないという屋内手工業時代の診療スタイルをとっている。当然、医師一人が診る患者数には限度があり、米国の医師一人が診療する患者の4分の1の患者しかケアできないというデータがある。ニッポンで深刻な社会問題となっている医師不足はチーム診療の導入でかなり解消されるのだが、ドクター達は永年身についた習慣を変えたくないのだ。だからいつまでたっても実現しない。


ニッポンの働き者は超勤手当てが目的?
 

余談だが、「世界で一番の働きものは?」とニッポン人の集いで尋ねてみると、「勿論、私たちニッポン人です!」と声をそろえた返事が返ってくる。わたしの答えは「ノー」だ。一番の働きものは、なんといっても、アメリカ本土の企業や病院で働くアメリカ人だ。

ニッポンにくるたび、ホテルの向かいのビルのオフイスでは、午後10時を過ぎても煌々と灯りがともり、日中と同じように働いている男女の姿を見る。オフイスにいる時間だけは世界最長かもしれないが、パーフォーマンスは低い。「社員たちは、どうしてもっと段取りよく仕事を済ませて、早く家に帰らないのですか?」と尋ねると、「超過勤務手当てが目的で居残っているだけですよ」と某企業の管理職は吐き捨てるように答えてくれた。


ケネディ大統領暗殺

ハナシを1963年の米国海軍病院に戻そう。

11月末のサンクスギビングディからクリスマスまでのひと月間は、アメリカンなら誰でもが1年で一番楽しい時期。ところがこの年は違った。1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問中のケネディ大統領がオープンカーでパレードの最中、何者かに銃撃され暗殺されたのだ。

この朝、いつものように患者を回診するため7時に病棟に行ってみると、雰囲気が尋常でない。ナースも衛生兵もそして患者も、ナースステーションのラジオに耳を傾けながら、みんな涙を流して泣いているのだ。何ごとならんと尋ねたところ、大統領が撃たれて亡くなったという。びっくり仰天して窓の外をみると、基地中あちこちに掲揚されているすべての星条旗が反旗になっていた。軍の基地という特殊環境であることを割り引いても、アメリカ人は自分達の選んだ大統領に強い敬意を表す国民だと強く認識した。


クリスマスパーティ

それから一月、大統領暗殺による院内の動揺も一段落した頃、

「今夜はナースのBOQ(独身将校宿舎)でクリスマスパーティがあるのだけど一緒にいかない?」

海軍看護中尉殿のパッツィちゃんに誘われ、当時流行していたアイビールックのダークスーツに袖を通し、細身のタイを結んでお出まし。BOQの建物は入り口にラウンジがあって、それから先は真ん中のローカを挟んで両サイドが各ナースの個室になっている。個室のドアは全部外に向かって開いた状態になっているのが不思議に思えたが、そのワケはあとで判った。

パーティ会場のラウンジに足を踏み入れかけると、あでやかなドレスに身をつつんだパッツィにいきなり抱きつかれ口唇に熱い接吻を受けた。愉しい不意打ちのキスに「何だ、これは?」と戸惑っていると、こんどは横にいたベッキーからまたもや熱い口付け。美女二人から濃厚なキスの往復パンチに、ますます混乱してナニがなんだかわからない。

「見上げてごらん、ほら、ドアの上にヤドリギがぶらさがっているでしょ。独身者だけのクリスマスパーティでは、このヤドリギの下では、好きな相手なら誰とキスしてもいいという掟があるの」

こんなステキなルールがあるとは知らなかったなあ。ふと窓ガラスに映るわが姿をみると、口の周りはルージュでまっかっか。

フルーツパンチにラムをしこたま仕込んだ飲み物のグラスを重ねているうちに、パーティ会場にいた人の数がだんだん減っていく。がらんとしたラウンジに最後まで残っているのはパッツィとボクだけ。

「みんなどこへいったの?」

「あっちの方よ」

グラス片手のパッツィがとろけるような流し目で指す方角は個室の並ぶローカ。眺めてみると、パーティの始まった頃には開いていた部屋のドアが、いまは1室だけを残して全部閉まっている。なるほどそういうことか。これで初めにドアが開かれていたワケが判ったぞ。

そのあと何がどうなったかは、しこたま飲んだラム入りフルーツパンチのせいでメモリーが完全に消失してしまい、いまでは何一つ記憶にない。だからここに書くわけにいかぬ。御免。

(2009年 イーストウエストジャーナル紙)

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(8)

8日目

アラスカ鉄道本線から観光船専用突堤まで特別に敷設された引込線を降りると、目の前の岸壁に全長300メートルの真っ白なコラルプリンセス号の巨体が横たわっていた。停車場から船まで100メートルほどの屋根付きの通路を歩いて、船の横っ腹に空いた乗船口から船内に乗り込むと、当直オフィサーが“ウエルカムアボード”と笑顔で迎えてくれる。純白のユニフォームに長身の身をつつみ、きりりと背筋を伸ばしたイケ面オフィサーの姿は、わがカミさんの心を強く揺さぶった。
「白人の男性ってユニフォーム姿になるとみんなカッコいいわね」
「仕事姿ならニッポンの男も捨てたものではないよ。手術着姿が表紙になって全米に配布された雑誌の外科医のボクを見て、カッコいいと言ったじゃない」と一言クギを刺しておく。

乗船手続きデスクにパスポートを提示し本人確認を受けると、次は顔写真撮影だ。しばらく待つあいだに、テロリストや凶悪犯罪で手配中の人物との照合が終了する。オーケィが出ると、空港のセキュリティゲートと同じ金属探知ゲートに進み、ナイフや銃など物騒なものを身につけていないか調べられる。ボディチェックのあとは手荷物のX線検査だ。すべての検査をめでたくパスすると免許証大のプラスチックカードと書類の入った封筒を手渡される。カードの裏には顔写真が焼き付けられていて、航海中の身分証明を兼ねている。このカードは自室のキー、船内での食事や買い物などのクレジット、それに上下船するときの通行証になるから常時身に付けておくようにと忠告をうける。

予約したキャビンはエレベーターで5階上がったDデッキ。延々と続く長い内廊下を歩いて自室に落ち着くとどっと疲れがでた。
キャビンは右舷側。つまり船の進行方向にむかって右側だ。今回予約したミニスィートの間取りは、入口からバスルーム、クローゼット、寝室、リビング兼ラウンジ、プライベートデッキの順の配置だ。寝室には通常サイズのツインベッド、インターネットに随時接続できる仕事デスク、ラウンジには4人掛けのソファと椅子、コーヒーテーブル、カクテルトレイ、冷蔵庫、書棚などが機能的に並んでいる。テレビは寝室とラウンジに1台ずつ。床から天井までガラス張りのスライディングドアを出るとプライベートデッキだ。隣室のキャビンとは板塀で仕切られプライバシーが保たれている。デッキには4人掛けのテーブルが置かれ、航海中カクテルを飲みながら舷側の手すり越しに海を眺められる仕組みだ。コンパクトながら各セクションのスペースにはほどほどの余裕があり、1週間の航海を快適に過ごすことができた。

8-01 

8-02 
写真1・2 キャビンの中

アラスカを陸路縦断中、各地の宿から船あてに別送した荷物はキャビンに入れてあると聞いたが、あちこち探しても室内に見当たらない。最後にベッドの下をのぞいてみたら、スーツケース3つとダッフルバッグがきちんと並べられて鎮座していた。2,000人を超える乗客を扱いながら、プリンセスクルーズの手抜かりのないサービスの手際よさには改めて脱帽する。

デッキに出て舷側の手すりにもたれてみると20メートル下の波止場には乗船を待つ人の長蛇の列。9万トンを超える船が2,000人の乗客を飲み込む様子がみえる。午後8時の出航に合わせて正午過ぎから乗船受付を始めたという。行列には東洋人の姿がほとんど見あたらない。キャビンサービスにきた若いフィリピン人の部屋係のアンディに尋ねてみると、このクルーズには日本人のツアーグループはゼロ、韓国と中国から数人のグループがそれぞれ1組ずつ乗船しているとのことだった。

出航まえの必須事項である非難訓練をするから劇場に集まれという指示に従い、シアターフロアに上る。集まる船客は各人各様。千人を収容する座席がほぼ満席になった時点で、20人ほどのスタッフがステージや通路に立ち、ライフジャケットの着用方法のデモを行う。飛行機に乗るとフライトアテンダントが必ずデモをおこなうあの仕草と全く同じ。各デッキの両舷に吊ってある救命ボートの所在確認を終えて解散。

アラスカは白夜だから、午後7時を過ぎてもまるで昼間のような錯覚をうける。さすがに空腹を覚え、シャワーを浴び気分爽快になったところで食事に出かける。船内には本格的なフランス料理、イタリア料理のレストランを筆頭に、普通のアメリカ料理のメニューを出すレストランが幾つかのほか、ハンバーガー、ピザなどのファーストフード、バーやラウンジなども含めると食事のできる場所は10ヵ所を超える。乗客2,000人にクルーを併せると2,700人もの人間が載っている巨大豪華客船で、全員の胃袋を満たすには、毎日8,000食もの食事を調理する機能が必要だ。10幾つのレストランで足りるのかと心配したがあとで杞憂と判明した。喫水線から50メートルもの高さにあるデッキには、24時間フルオープンしているブッフェのカフェテリアがあり、真夜中、明け方を問わず、いつなん時でも食事ができる仕組みだ。ここでの食事代はクルーズ費に含まれているので代金の心配はいらない。フレンチやイタリアンレストランでは、メニューごとにチャージを取るが、街のレストランほど高くはない。好きなものを好きなだけすぐ食べられるカフェテリアは一度に1,000人ぐらいが座れるスケールだから、乗客多しといえども、行列をして待たされる心配はまったくない。

長い列車の旅で疲れていたので、いまさら予約やドレスアップの要るフレンチやイタリアンディナーはしたくない気分だ。航海初日のディナーはジーンズにスニーカーで入れるカフェテリアで済ますと決めた。エレベーターで最上階のデッキに上がってみると、全く気付かなかったが、船はすでに港を離れて大海原を疾走中。これには驚いた。

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写真3 航行中のキャビンから船首方向をみたところ

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写真4 同、船尾方向。とてつもなく長く感じられる。

ドラが鳴り響き、ブラスバンドが演奏し、舷側に集った船客の投げる無数のテープが宙に舞う中を、船はボーっという汽笛を何度も鳴らしながらしずしずと桟橋を離れていくという物悲しい風景が、25年前まで住みなれた港コウベの船出のイメージだ。ところが今度のアラスカ航路では、最終寄港地のバンクーバーに着くまでの1週間、ほとんど毎日各地に寄港したが、出船時にはいつも船は音を殺して滑るように港を出ていくのだった。

白夜の北の海では9時すぎてもまだ水平線上に太陽が残っている。
日が沈まない風景を目にすると、身体も昼間と感じるのか夜特有の眠りを誘うけだるさが湧いてこない。眠れぬままに船の機能のあれこれについて想いを馳せてみる。
2,700人もの人間が1週間を過ごすこの船では、いったいどれぐらいの量の水を消費するのだろう。一人が1日2リッターの水を飲むとすると、飲み水だけでも毎日54トンになる。トイレ、洗顔、シャワー、風呂、プール、食器洗い、リネンの洗濯、甲板掃除などに使う水をあわせると、一体何百トンになるだろう。この船にはそれほど大量の真水を積み込んでいるのだろうか。気がかりになりだすとますます頭が冴えてくる。

キャビンのテレビで「コラルプリンセス号についてのあれこれ」というチャンネルに合わせてみると、本船には大掛かりな海水の脱塩装置によって、無尽蔵にある海水からいくらでも真水を造れる仕組みがあるという。道理でバスタブでもシャワーでも、栓をひねると痛いほどの勢いで水が飛び出してくる。
大航海時代、永い航海の果てに水を使い果たした帆船では、尽きかけている樽の残り水を一人占めにしようと狙う不届きものから命の水を護るため、キャプテンが武装したオフィサーを見張りにつけたというストーリーを読んだことがある。いまの航海では水はふんだんに使い放題。ロマンの欠片がまた一つ消えていった。

半世紀ほど昔、コウベ港に寄港した豪華客船は巨大な蒸気エンジンを積んでいた。それが間もなくディーゼルエンジンに替わり、いまや七つの海を往く最新鋭の客船は、灯油を動力源とするガスタービンエンジンで動く。このエンジンの原理はジエット機に使われているターボジェットと同じ。
医者になりたての頃、コウベ港を夕方出航する関西汽船のくれない丸に乗って、一晩中瀬戸内海を航行し別府の学会に出席したことがある。一晩中ゴトゴトというピストンエンジンの騒音と振動のせいで一睡もできなかった。音も振動もまったく感じないうちに9万トンの巨船が滑るように出航するなんて、むかし手塚治虫や小松崎茂の未来科学まんがが描いた想像の世界を超えるテクノロジーには驚愕するのみである。
手元の時計は午前3時。眠れぬままにキャビンからデッキに出て海を眺める。白夜の薄明かりに浮かび上がる目前の大海原は一面の白波。しぶきが20メートルの高さのキャビンまで飛んでくる。むかしの船乗りは白波のたつシケ模様の海面を「白うさぎが跳ぶ」と表現したがまさにその通り。テレビ画面のデータに目をやると、船はアラスカ沖の北太平洋の真ん中を、風速10メートルの向かい風に向かって時速50キロほどのスピードで航行中だという。それにしても、船上にいてびりとも揺れが感じられないのはなぜだ。幅30メートル、長さ300メートル、重量9万2千トンの巨体には、ジェット機旅客機同様数々のハイテク装置あって、横揺れ(ローリング)や縦揺れ(ピッチング)を最少に抑えるためにスタビライザーと呼ぶ小型の翼が水面下で船体の前後左右に突き出ており、これらが連動して船の揺れを抑え込んでいるという。沖にでたら波まかせ風まかせと唄われた船員魂の居場所やいずこ? 

記憶力と忘却力

 

長年外科医をしていると、普通の人の暮らしでは遭遇することのない冷酷無情で絶望的な状況を体験する。

止めようのない大出血の患者が、輸血用の血液が間に合わなくて息を引き取ることもある。一人で当直をしているとき数人の負傷者が同時に運ばれて来ることもある。ただちに応援を呼び、負傷の程度によって順番を決め、一人ずつ手当てをしていたら、応援が間に合わず、残りの患者が悪い結果になったなどという不条理だ。ガン切除手術の最中、大血管近くの際どい箇所を剥離中に引けず進めずどうにもならぬという状況に追い込まれることもある。

いずれも人間の対応能力を超えた状況であり結果は誰のせいでもないのだが、後味の悪さは体験した者でないと判らない。こんな絶望的状況が重なり、恐怖の記憶が蓄積し膨張していくと、ある日破滅が訪れる。手術台の側に立つと、えも言われぬ恐怖感に体中が震え、皮膚から汗が噴出し、冷静な思考力や判断力を失い、自らの感情を制御することが出来なくなる。重症の「ポストトラウマ症候群」だ。これに罹るともはや外科医としては機能しない。ストレスの重みに耐え切れず、診療が生死に関らぬ科に転科した外科医を今まで何人も見てきた。他の科に転科した人たちが脱落者だというのではない。むしろ普通の感性の持ち主であるという証しだろう。

医師になる過程では膨大な量の医学知識を記憶しなければならぬ。それには大容量のメモリーを備えた頭脳の持ち主でなければ耐えられぬ。「医者になる気なら記憶力を養え」と幼少の頃から鞭打たれてきたのには、そう言うワケがあるのだ。だが、ひたすら記憶力だけを養い続けると、先に述べたような悲劇を招く。

人には誰にでも辛く悲しい思い出がある。それに浸ったままでは生きてゆけない。苦悩や恐怖を忘れ去るには、膨大なエネルギーの強い忘却力が要る。心の葛藤を押さえ込み、悲しみを忘れ去ることはそれほど辛く難しい。だが悲しみを忘却の彼方へと置き去り、そこを基点として前進することが、明日への希望を呼ぶ唯一の途だ。

大災害のもたらした辛く悲しい思い出はおいそれと忘れられる筈がない。だがもう忘れよう。そして前進しよう。

(「雪」2005年5月号 阪神淡路大震災から10年―伝えたい思いに加筆)