ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(5)
日米対抗ソフトボール大会:インターンvsナース

基地の病院に住み込むインターン生活の最初の3ヶ月は、体中の皮膚に針がつき刺さるような違和感の連続だった。
昭和30年代の日本の平均家庭の暮らしを振り返ると、食事は畳の上に広げた折りたたみ式のお膳で箸と茶碗で、眠るのは勿論布団。石炭を炊いて沸かした風呂に入り、トイレは汲み取り式だった。
そんな日常から、リノリュウムの床で1日中靴をはいたままで過ごし、イスにすわったテーブルでナイフとフォークを使って食事し、寝るのはベッド。風呂のかわりにシャワー、トイレは便座に座って用を足す水洗トイレという異国の習慣に一変すると、馴れるだけでも大きなストレスがかかる。
あまつさえ、院内ではインターン同士間の会話でも、許される言葉は英語オンリー。言いたいことの半分も相手に伝えられないもどかしさは体験してみないと判らない。
張り詰めた気持ちの糸が切れかけた頃、タイミングよく、インターンとナースの間でソフトボール対抗試合という企画が持ち上がった。

中尉殿もユニフォームを脱いだら只のオンナの子

日ごろ院内で勤務中のナースたちは、髪をアップにひきつめて、白一色のユニフォームに身を包み、金色に輝く肩章もいかめしい海軍将校だ。
だが、この日だけは、肩までかかる長い髪を野球帽でまとめ、肌もあらわなタンクトップにハイレグショーツで登場する。こうなると誰がだれだかまったく見分けがつかない。海軍看護少尉や中尉殿も制服を脱いでしまうと、ただの女の子に変身するのだ。
草野球ならぬ草ソフトボールだが、両ダッグアウトの位置にはそれぞれにテントが張られ、両軍のベンチらしい配備になっている。
ネット裏におかれた巨大なクーラーボックスには、アイスチップが山と盛られ、病院長から差し入れられたビールやソフトドリンクのカンやビンがぎっしり埋まっている。
そばのグリルでは、バーベキューの炭火がガンガンと起こされ、米国本土から冷蔵船で運んできたソーセージや生野菜が大皿に山盛りされている。

女性にデレデレのアンパイア

今日の主審をつとめる外科医長のG大尉のプレーボール宣言により、ナースチームの先攻でゲームは始まった。
一番バッターは金髪をポニーテールにした長身のパッツィ。対するインターンチームのピッチャーは高校で野球部員だったというA君。レギュラーだろうと補欠だろうと、元野球部員には替わりはない。手元から繰り出す剛速球は、パッツィごときオンナの細腕で打てる球ではない。ストライクを2つたて続けにとったあと、3球目はど真ん中に入って見逃しの三振、とフィールドにいる全員が思った。ところがみんなの意に反し、G主審は「ワンボール、ツーストライク」と宣告する。
ニッポンでは、「ツーストライク、ワンボール」という具合に、ストライクをボールより先に数える。どちらかというと、ピッチャーに有利なカウントの仕方である。
アメリカではそれと反対にボールを先に数えるから、審判は常にバッターを贔屓にしているように思えるのだ。

やりたい放題の主審

ベンチを飛び出したインターンチームのキャプテンが、血相変えてG主審に詰め寄り
「それはないでしょう、大尉殿。ど真ん中のストライクですよ」
とクレームを付ける。
だが、先天的に女性に弱い大尉殿はガンとしてわれらがキャプテンの抗議を受け付けない。続く3球もすべてベース板のど真ん中を通過したが、ナースびいきの軟派中尉殿の判定ではすべてボール。パッツィは四球で出塁した。
たまりかねたわがキャプテン、タイムをとって再び審判に詰め寄る。
「女性に甘いのは大尉殿の勝手ですが、判定だけは公正におねがいします」
と請願したとたん、
「退場!」
とベンチを指さされてしまった。これにはインターンチームだけでなく、ナースチームまでもずっこけてしまった。
次のバッターのジュリーは、ボックスに入るなり、G主審を振り向いてとろけそうなウィンクを送る。
初球に向かってバットを一閃すると、これがなんと三塁線の外に出るゴロのファウル。それでも打ったジュリーは一塁目指して疾走する。形のいい足が一塁ベースを踏んだころあいを見計らってG大尉殿は
「いまの打球はフェア!」と宣告するのだ。
「冗談ぬきにしましょうよ。いまのはだれが見てもファウルですよ」
とわがチームのキャプテン代行が抗議すると、
「黙れ!シャットアップ。聴く耳をもたぬぞ」
だと。

ストライクは全部ボーク

ノーダウン一、二塁で、三番バッター登場。三番のドリスはボックスに入る前にタイムをとって主審に近づき、
「ジム、アンパイア姿もなかなかイカしてるわよ」
首に抱きつき、唇にブチュッと濃厚な口づけ。
グランドの全員があっけに取られて見守るなか、永いフレンチキスを楽しんだあとでプレー再会。
頭にきたピッチャーA君がプレートのど真ん中に剛速球を投じると、この女性に甘いアンパイア、すかさずタイムを宣告する。
A君の投球スタイルがボークだといって因縁をつける。理不尽な判定をのまされた挙句、こんどは投球フォームが気に食わぬとケチをつけられては、さすがのA君も堪らない。とうとう自慢の剛速球は封じ手にされてしまった。
こうなるとか弱いオンナのバッターでも、なんとかバットをボールに当てられる。
ナースチームのバッターがアウトになるのはフライやライナーを直接捕捉された場合のみ。アウトになりそうな平凡な内野ゴロはすべてファウル。野手が捕逸したファウルはヒットという勝手につくったルールによる審判の判定に、一回表が終わってスコアボードを見あげると、ナースチームは10点もの大量得点を獲得していた。

攻守入れ替えの合間はパーティ

攻守入れ替えの間に永い休憩をとり、敵味方会い交わってビールを飲み、ホットドッグにかぶりつくのがヨコスカ基地の慣わし。
ニッポンでは、たとえリクリエーションの親善ゲームとはいっても試合は試合。規則にのっとり、勝敗を決するまでクソ真面目にプレーするのが、日ごろなじんだ日本式の職場親善スポーツ精神というものだ。
ゲームが終われば勝ち負けを忘れて相手を讃え合うのもニッポン独特の美学。子どもの頃からそう教えられて育ったインターンチームの面々にとっては、ルールをへし曲げ、ゲームを破壊し、試合の途中で両軍混じりあいながらビールを飲むなんて犯罪に等しい。
予想外の展開は、クソ真面目を尊重するニッポン社会で育ったインターンにとっては、受け入れ難いカルチャーショックだった。

必殺“4の字固め”

やがて、野外宴会でみんながいい加減デキ上がった頃、G大尉のプレーボール宣言で、試合は再開となった。インターンチームの打者が巧みに外野を抜く長打を放つと、軟派アンパイアは恥じらいもなくファウルを宣告する。
打者が内野ゴロを打って1塁に向かって走りはじめる。するとファーストを守るローラは、待ってましたとばかりにベースを離れて走者に近寄ってくる。
本塁寄りの塁間で抱きとめ、引き倒し、馬乗りになり、走者の両脚の間に自分の長い脚を複雑にはさみ込み、“4の字固め”にしてしまう。その間に一塁のベースカバーに入った二塁手のキャロルが、野手からの送球を受けてアウト。
ローラに合流したキャロルは “4の字固め”で抑え込まれたインターンの身体のあちこちをなでたり触ったり。オンナ二人がかりのしたい放題を軟派の駄目アンパイアは見てみぬふり。

奥の手“電気アンマ”

インターンたちは、女性尊重というけしからぬ習慣があるアメリカでは、公衆の面前で女性のからだには一指たりとも触れるでないぞと聞かされてきた大和男児だ。
しかし、その反対の女性に触られるという想定外の状況への対処は、誰からも習っていない。触りにくる手を跳ね除けようとすると、必然的に相手のからだのあちこちに触れてしまう。それでは大和男児の掟に背いてしまうから、触らぬカミに崇りなしと無抵抗でいると、女どものワルサは増長するばかり。
「女どもよ、そのうち泣き面かかせてやるぜ」
と密かに決意するうちに、やっと打順が回って来た。内野ゴロを打って一塁に向かって走ると、またもやキャロルが抱きついてきて“4の字固め”で封じ込めにくる。
「やられた分は倍にして返すぜ」
とばかりに、4の字を形作るキャロルの長い両脚の間の、長と突き当たりの辺に片足を押し当て、奥の手の“電気アンマ”を喰らわせてやる。「ク、ク、ク、ク」と悶える表情は喜悦か苦悶か、40余年が過ぎた今も判別はつかぬまま。ま、どうでもいいことだが、あのとき思い切って尋ねてみればよかった。惜しいことをしたものだ。
結局、試合は一回終了時で10対0のコールドゲーム。全員ビールの飲みすぎでゲーム続行困難というのがコールドゲームの理由だった。勝利にはしゃぐナース全員から本格的接吻を唇に受けた大尉殿の口のまわりは各種口紅でまっ赤っ赤。人食い人種のようなご面相は、手術場や病棟で見るきりっとしたユニフォーム姿からは想像もつかぬ姿だった。

アソビ心の大切さ

このソフトボール大会で、アメリカ人の底抜けのアソビ心を知った。いまでこそニッポンでもアソビ心がもてはやされるが、1960年代には勤勉こそ人生、アソビ心は邪悪とみなされていた。
親善試合を境にナースとインターンの間のギクシャクした人間関係は大いに改善され、職場でのコンタクトにスマイルやジョークが交わされるようになった。
このイベントによって、インターン達の張り詰めた気持ちの糸が緩んだのはいうまでもない。
すべては“4の字固め”と“電気アンマ”の交換がもたらせた成果であると信じている。

(2008年5月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(4)
昭和38年の空襲警報

突如、鳴り響くサイレンの音。
院内各所にある頭上のスピーカーから、
「総員に告ぐ。識別不能の航空機が西南の海上を接近中。警戒警報発令。全員各自の持ち場に戻って待機」
早口のアナウンスが轟く。
これが発令されるとインターンは、直ちに持ち場の病棟に戻らねばならぬ。患者を運びだすストレッチャーの手配などしていると、追い討ちをかけるように、
「識別不能機さらに接近。空襲警報発令。総員退避開始」
と命令が下る。
救急医薬品を容れたバッグを背中に背負った衛生兵とともに、病室で動けない患者を素早くストレッチャーに乗せ、道路を隔てた向かい側にそびえる岩山に向かって移動する。
ヨコスカ米国海軍基地内に点在する小高い岩山には、太平洋戦争の終焉が近づいたころ、日本帝国海軍が掘った横穴防空壕が無数にある。
戦い終わって基地の新しい主となったUSネービーは、その横穴を識別不能の航空機による空襲の際の患者退避壕として使っているのだ。
ベトナムの戦場で重傷を負い、サイゴン定期便で運ばれてきた海兵隊員の患者を乗せたストレッチャーを押して、やっと壕の入り口にたどりついた頃、
「防空演習解除。総員(オールハンズ)本来の任務に戻れ」
と新しい命令が下って、月に一度の防空演習は終わる。

戦後18年目の防空演習

ときは昭和38年。
東京オリンピックの前年に防空演習を体験したニッポン人は、われわれヨコスカ米国海軍病院インターン以外にいないだろう。
「戦後18年、平和の真っ只中で防空演習だと?冗談もいいかげんにしろよ!」
と言う人は、米国海兵隊が抑止力でないというのと同じホントウの平和ボケ。ことの真相に無知なのだ。
国際間のウラでのせめぎあいのホントウの事実を知ると、笑い事では済まされない。
昭和38年にニッポン国籍の民間人であるインターン生が勤務した病院は、実は戦時下の米国海軍病院だったのだ。

極東におけるUSネービーの役割

朝鮮戦争は昭和28年に停戦協定が結ばれて以来、南北境界線で戦火は交わされていない。だが、停戦は和平条約ではない。停戦であるから、戦火はいつ再燃するかわからない。だから米軍のスタンスはあくまでも臨戦態勢だ。それにベトナムの戦場からは、軍事顧問とはいえ、毎晩負傷兵が空輸されてくる。
戦場に赴くことのないニッポン人インターン生が戦闘に巻き込まれることはありえない。
だが、戦地からの負傷兵の治療に当たるからには、インターン生も極東における米軍の役割を知っておくべきだという理由で、或る日海軍司令部から派遣された広報将校から「極東におけるUSネービーの役割」という演題の講義を受けることになった。この講義は当時のニッポンと米軍の立場関係を知るのには、大変興味深い内容だったのでいまでも記憶に残っている。
横須賀を基地とする米国海軍第7艦隊は、キティホーク、コンステレーションなどフォレスタル級8万トンクラスの大型空母一隻をそれぞれの主力とし、ミサイル巡洋艦、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、補給艦など数十隻で構成する戦術空母団の3群を保有する。空母団3群は日本の横須賀、グアム島、フィリピンのスービック湾の各基地を定期的に巡回し、極東の防衛に当たっている。
月に一度の防空演習の際、仮想敵機とされる識別不能の航空機は、中国東岸の基地から東シナ海を北上してくる中国空軍機が想定されていた。米ソ冷戦の最中だったので、仮想敵機は当然ソ連機だと思っていたが広報将校の講義では、当時中共軍と呼ばれていた中国空軍機だというから驚いた。
いまにして思うと、朝鮮半島で停戦中の相手は中国と北朝鮮だったのだから、なるほどと納得がいく。

スクランブル!

防空網のレーダーが「識別不能機」を捉えると、時をまたずニッポン国内の米軍基地から戦闘機が仰撃に飛び立つ。これをスクランブルと呼ぶ。日本近海に接近する中国機の挑発行為は1年間に300回を超えるスクランブルを惹起した。中国機は米軍機と接触する一歩手前で反転撤退するのが常だった。両軍機が戦火を交えるに至らなかったとはいえ、一触即発の反復ではあったのだ。
米国海軍にスクランブルが発令される場合は、「識別不能機の接近」よりもスケールの大きい緊急事態が背後にある。たとえば、台湾海峡に多数の艦船が集結中という事態が生ずると、ヨコスカ米国海軍基地の港内に停泊中の全艦船に緊急出航命令がでる。
空母というものは洋上を風上にむかって全速力で航行している状態になければ、載せているジェット戦闘機を発進させることはできない。港につながれたままの空母は、巨大な鉄の洗面器のようなもので、防衛にも攻撃にも、何の役にも立たない。
ヨコスカ基地ですごした1年の間に、数回の空母出動命令が発令された。これが発令されると、ヨコスカのダウンタウンを巡回しているSP(警備当番)は緊急体制を敷く。バーやキャバレーを1軒ずつまわって乱痴気騒ぎの真っ最中の水兵たちを狩集め、酔っていようが正気だろうが、巨大な兵員輸送トラックに押し込み、艦に送り込むのが彼らSPの任務だ。
キティホークのような巨大な空母には4千人を超える乗組員が乗っている。停泊中に何度か訪れたキティホークは、長さ300メートル、幅60メートルのフライトデッキをもち、その内部構造は11階建ビルに匹敵する巨大な建造物である。
シックベイと呼ばれる艦内病院には100床の入院病床があり、胸部外科、一般外科、脳外科、麻酔科、一般内科などの専門医7、8名のほかに、多数の衛生兵が勤務している。一旦ことが起きても、艦内で大抵の手術はできるように備えているのだ。
USネービーは艦内での飲酒を固く禁じている。艦内でスコッチやラム酒を飲む伝統をもつ英国のロイヤルネービーと比べると、USネービーは規律の厳しさが一段違うと案内係の水兵は胸を張る。
艦内には銀行、郵便局、教会のほかテレビ局もあり、ちっとした街である。丁度訪れたとき、艦内スタジオではタレント顔負けのクルーがトークショーのビデオ撮りをしていた。
空母が港に入って半舷上陸許可が出ると、2千人にのぼる乗組員が、艦を離れてオカにあがる。
妻帯者は帰港をまちわびる家族のもとに戻って、短い休暇を過ごす。独身のクルーたちはトウキョウ見物や富士箱根一泊旅行に出かける。
ヨコスカ近郊のアパートでガールフレンドとスティーミーな時間を過ごすものもいる。それぞれのスタイルでくつろいでいるとき、スクランブルが発令されると直ちに港に戻り、艦を沖に出さねばならない。

誰のためのスクランブル?

クルーが休暇を中断し任務に戻るのは一体誰のためかと考えてみると気が重い。セーラーの殆どは20代のヤングアメリカン。当時米国は徴兵制度を敷いていたから、クルーのなかには大学で勉学の途上、徴兵されてやむなく入隊したものも少なくなかった。
そんな若者の中には、
「日本という国をオレたちが護ってやっているのに、お前たちニッポン人はノーテンキにも安保反対だの再軍備反対だのと寝言を抜かす。自分の国を自分で護りもしないで、一体何様のつもりだ!」
と激憤する者もいた。
言われてみるとその通り。一言の反論もできない。
おそらくこれがアメリカンの市民感情を代表した意見だろう。ニッポン人も国際問題を論ずる際、現実に即した市民感覚で思考するといま何をすべきか判るだろう。
軍人は上官の命令に背くと軍事裁判にかけられ厳罰をうける。
在日米軍の若い兵士たちが、軍の命令に従い命を賭けて護るのは母国の米国ではない。彼らにとってはアカの他国であるニッポンなのだ。そのニッポンでは、おとなもこどもも安保反対、再軍備反対、平和憲法擁護を叫んでいる。平和愛好の姿勢さえ見せていれば、隣国がニッポンを攻める筈がないと信じている。

基地の塀の外からはスピーカーを通してヤンキーゴーホームと叫ぶデモ隊の声が聞こえる。
その最中でも、USネービーの若者たちは、そんなニッポンを護るために、愛する人のもとを離れてスクランブル発進するというのに。
護ってもらっている者が庇護者を誹謗する論理の矛盾に気づかなければ、愚者の集りと呼ばれても仕方があるまい。
現代ニッポンの老若を毒している度し難い自己中心主義は、1960年代の安保騒動の頃、矛盾だらけの戦後処理に目をつむり、国としての本来の姿を真剣に議論することなく、半世紀もの間先送りしてきた結果、今の普天間基地移転問題を招いているのだ。

(2008年4月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(3)
外科医の育て方:日米の違い

「婦長、これがこんど外科にローテーションしてきたインターンのケンだ。いつもの練習用パックを渡してやってくれ」
一般外科医長のジムギャラント海軍軍医大尉が引き合わせてくれた手術室婦長は、金髪、ショートカット、ナース帽に太い金色の線が三本入った海軍看護少佐殿だった。二人の会話を聴いていると、外科医長殿は上官にあたる婦長にこんなぞんざいな口をきいていいのかと心配になるほどカジュアルな口ぶりだ。あとで判ったことだが、海軍でも病院だけは別世界。手術室内では外科医とナースの人間関係は、シャバの病院とかわらないのだ。
「いいわよ、ジム」
応えた少佐殿の婦長から手渡された練習用パックには、実際の手術で使うホンモノの摂子、止血鉗子、持針器、縫合針、鋏、縫合結紮糸などの手術器材がひと揃い入っていた。外科インターンはこの器材をつかって、手術のシミュレーションをするように義務づけられている。
ニッポンの病院でも研修医に手術のシミュレーションを義務付けると研修成果が大いにあがるのだが、高価な器材の員数に限りがあるからという理由で、実現していない。


外科医のお道具

パックに含まれる摂子という道具は、世間ではピンセットと呼ばれている。これは傷を縫合する際、皮膚や組織を摘み上げて縫合針の刺入を助ける役目をする道具である。
持針器は半円形に曲がった縫合針を把持するためのプライヤーのような形をした器具だ。熟練外科医は、縫合針の方向やからだの組織に刺入する際の力加減を、自らの手指のごとく制御する。持針器につけた針が通過する人体組織は、通常ぐにゃっとした餅のような感触である。手術にはこれに、目分量で目安をつけて正確に針を通す技術が求められる。
縫合針は、曲がったものや縫い針のように真っ直ぐなものなど、多様だが、一番よく使われるのが半円形に曲がった針だ。
曲線を描く針を、持針器に掴んでからだの組織を縫うのは、見た目ほど易しくはない。日ごろからシミュレーションを何千回も重ねて訓練を積んでおかねば、いざというときの役には立たぬ。
鉗子は切断端から血を噴いている血管を、周囲の組織と一緒に把持することによって、出血を止める道具である。出血点を的確に見極め、迅速に止血するためには、鉗子を手指のごとく操る技能が要る。そのためには、日ごろから鉗子を閉じたり開いたりする訓練をかさね、いざというときに備えるのが肝心だ。
外科手術に使う鋏は刃の部分が曲線を描くものが多い。外科医はこの鋏を、効き手の親指と薬指をつかって自在に操る能力が要る。
手術で皮膚切開にはメス(ナイフ)を使うが、その他の臓器や組織を切るのには、ほとんど鋏を使う。鋏は、組織の剥離や、縫合糸や結紮糸の切断に、欠かせぬ道具である。鋏を自在に使えるようになったら、外科入門の入り口を通過したようなものだ。
結紮や縫合に使う糸は、絹、羊の腸、木綿、化学合成物質などを原料とした、大小さまざまなサイズのものがある。小包の紐ぐらいの太さから、赤ちゃんの髪の毛より細いものまで、
用途は多様だ。切れた血管を鉗子で掴んでおいて、これを結紮糸で縛ると止血は完了する。一度の手術で、縛る血管の数が100本を超えることは珍しくない。

手術の基本動作

「手術の基本動作は、まず麻酔によって痛みを消した皮膚をナイフで切開する。皮膚を切ると血管も切れて出血するから、これを鉗子で止める。止めた血管端を結紮糸で縛る。縛った糸を鋏で切る。この手技を繰り返して傷んだ臓器や組織を切除する。病巣を切除したあとは、腸でも肺でも心臓でも再構築が必要だ。再構築は、まずピンセットで組織をつまんで、持針器で糸をつけた縫合針を把持し、針を組織の中を通して縫い合わせ、糸を縛って組織を接合させる。そして余分な糸は鋏で切る。この基本的動作を何十回となく繰り返して手術は終わる」
長いローカを並んで歩きながらギャラント医長は噛んで含めるように説明してくれる。


シーツを縫って手術の練習

「外科のインターンは、今言った基本動作を完璧にマスターしなければならない。さきほど婦長からもらったパックの中にある器具を使って、毎晩ベッドに入ったあと、眠るまえにシーツを縫う練習をしろ。
シーツのしわを二つ並べ、ひとつずつを摂子で摘み挙げ、持針器につけた針で縫う。縫った糸は縛り、余分の糸は鋏で切る。シーツにボールペンでマークをつけ、これを出血点に見立てて鉗子を掛け、結紮糸で縛り、余った糸を鋏で切る。これから2ヶ月間外科のインターンでいる間、これを毎晩寝る前の日課とすること。何回しろとは言わないが、成果は手術のアシスタントをさせるとすぐ判る。それとは別に、縫合糸の結紮練習を毎日2千回。2千ノット結んだ編み紐を、翌朝オフイスに持ってきてわたしに見せること」


毎晩2千回の糸結び

大変なことになったが、これがホントウの外科臨床研修というものだ。外科をローテーションした2ヶ月間、毎夜眠い目をこすりながらシーツを縫い、2千回の糸結びを繰り替えした。翌朝、2千回結んだ証拠の編み紐を手渡すと、ギャラン医長は「よくやった」の一言とともにライターの炎で火をつけ燃やしてしまう。
「こうして燃やすのにはワケがあるのだ。キミたちは思いもよらぬだろうが、以前、この編み紐を見たあと屑籠に捨てていたら、それを拾って自室に持ち帰り、その夜は糸結びをサボったくせにしたフリをして、前日持ち帰った編み紐を証拠として翌朝わたしに見せた悪賢いヤツがいた。それ以来、編み紐は見たらすぐ燃やすことに決めたのだ。悪く思うなよ」
考えることは先輩たちもみんな同じ。秘かに画策していた編み紐再利用の企みは、空しくも編み紐を燃やすあわい煙と共に消えていった。

外科医の育て方:日米の違い

ニッポンの医学部では、将来医師になるものは医学知識を身につけ理論をマスターさえすればそれでよしとする。医師国家試験にも臨床の実技は含まれていない。臨床研修は「見て習えばいい」という共通の理解がある。
一方、アメリカの医療界では、医学は実学であり、診療は実務であるという認識にたつ。だから医学生や研修医にまず実技の基本を教え、診療の現場で実習させようとする。この違いはどこから来たのだろう。
調べてみると、ニッポンの大学医学部での教育カリキュラムが文部科学省の役所の発想から生まれたのに対し、アメリカでは医師会と医学部長会が構成する医学教育連絡協議会(LCME)という医師の集団が企画している。この協議会のメンバーは現役の臨床医という資格限定があるのだ。
現役の臨床医が次世代医師の教育研修方針を決めると、臨床研修は単に「見学する」だけでなく「実際を経験させる」という方向に向く。医師の資格を得た者は、臨床医として診療の実務に就き、国民の健康維持に貢献するべしという理念に忠実に従う。
ニッポンの「見て習え」方式だと、医学部を卒業したあと何年を修業したら一人前の内科医や外科医になれるのか見当がつかない。ウダウダしている間に年月がすぎて、ようやく一本立ちになったときには、停年まであと数年もない年齢に達していたという笑えないハナシもある。
米国では、医師国家試験を合格して医師資格を取得しただけの医師が手術をしても、報酬を得ることは不可能だ。内科、外科、小児科など、各科それぞれに定められた期間に一定の臨床研修を修了し、専門医試験に合格して資格を取った医師にのみ、診療報酬を請求する資格が授与されるのだ。
日本の医療界には、このような縛りが存在しないから、医師免許を持っているだけという未熟な医師が世に放たれて、無辜の患者を手術するという事態が、放置されたままになっている。
ギャラント外科医長は、小学四年生にして外科医を志望し、その目的のために医学部に進学卒業したわたしを、2ヶ月間真剣に、外科医にするべく仕込んでくれた。この2ヶ月がなかったら、外科医以外の途に進んで、違った人生展開になっていたかもしれない。
インターンから30年を過ぎた頃、その後のジムの消息を耳にした。海軍軍医を退役した彼は、米国某所で悠々自適の暮らしをしているという。できれば一度会ってみたいと思っているうちに15年の年月が過ぎて、いまはどうしているか判らない。
人生はままならぬように出来ている。

シミュレーションの成果

実際、婦長に渡された道具をつかって、毎夜シーツを相手に手術のシミュレーションを繰り返して1週間もすると、道具が手につくようになってくる。
糸結びも延べ1万回を超えたあたりで、3回結ぶのに1秒とかからないようにってくる。手術室に入って実際の手術のアシスタントをしながら、外科医の道具の使い方をみて「なるほど、この状況では持針器をこのように動かすのか」などと納得するのもこの頃だ。
実地訓練の成果がこのレベルに達すると、手術が断然面白くなる。指導医に命じられる前に、相手の動きを読んで先回りして手出しができると、お褒めの言葉をいただける。
「ひとつやってみろ」と手技の易しい手術をさせてもらえる。外科の根本は実学実務にあって、実力がものを言う世界なのだ。

手術はタイガーのゴルフと同じ?

インターンから40余年の年月が流れた。わたしはアイオワ大学の外科教授になり、アメリカンの医学生や外科志望の研修医を数多く育ててきた。
「手術はひと口に言うと、タイガーウッズのゴルフのようなものだ」
小児外科に回ってくる医学生や研修医に最初にいって聞かせる言葉がこれだ。そのココロは
「テレビのゴルフ中継でタイガーのプレーを見ていると、誰でも簡単にバーディが取れるように見えるだろう。それと同じで、手術室でわたしの背中から眺めていると、大きな小児ガンでも簡単に切除できるように思える。だが実際自分でやってみると、ゴルフも手術も『見る』と『する』では大違いだと判るだろう」
インターン時代、毎朝編み紐に火をつけて燃やしたギャラント医長と、教える立場になった自分の姿が、気持の中で重なる。医者の駆け出しの頃、アメリカンの師匠から教わった外科の知技心を、いま同じアメリカンの次世代外科医に返還する。この廻り合わせを思うたび、インターン時代のあれこれが鮮明に甦る。

(2008年3月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(2)
サイゴン発「空飛ぶ病院」定期便

「貴君はヨコスカ海軍病院の1963年インターン生に選ばれた。おめでとう。1963年3月15日07時00分、ヨコスカ米海軍基地正面ゲートに到着されたし。ヨコスカ米国海軍病院司令官」

憧れの米国海軍病院

100人の応募者の中から16人に選ばれたという朗報を受け取って間もなく、住んでいた街の近所の人から、何者かがわたしの身辺の聞き込みにきたと知らされた。不審におもいながらも調べるすべもない。
間もなくインターンの開始日がやってきた。広大なヨコスカ米国海軍基地の入り口に到着すると、ゲートを護る番兵の海兵隊員に何用かと問われた。司令官から届いた採用通知書を見せて、新人インターンであるむねを告げる。海兵隊員が病院に電話で連絡する様子が判る。基地の奥からピックアップにやってきた灰色のライトバンが病院の建物に横付けすると、ドライバーの水兵が集合場所の部屋までエスコートしてくれた。
前年秋の選抜試験は座間の陸軍キャンプだったので、ヨコスカを訪れたのは今度がはじめてだ。基地の広さにまずはびっくりした。

インターンの同期生は女性2人をふくめて全部で16名。出身校は東大が4人、日大が2人、あとは全国各医学部から一人ずつという配分だった。型どおりのオリエンテーションが済んで、割り当てられた2人一部屋のクオーターと呼ぶ居室に落ち着いた。これからの2週間は、3月末で海軍病院を去っていく先任インターンについて、仕事の要領を学ぶことになっている。新任インターンは前もって決められている先輩インターンとペアを組んで、2週間の短期間に可能な限りの知識と情報を詰め込まれるのだ。ペアを組んでくれた先任インターンのIさんは、優しい人柄で沢山のことを教えてもらった。

CIAの身元調査

クオーターのルームメートになった東大卒業生のU君は、同じ兵庫県出身で関西弁が通じる。
「採用通知がくるまえに、身元調べと称してうちの近所を嗅ぎまわった者がおるらしいんやけど、君にはそんなことはなかったか?」
「ああ、オレの実家でそんなことがあったというてたな」
一体だれがこんなことを?
これは、後日、海軍の情報担当官がCIAの仕業と説明してくれた。 アメリカ嫌いの友人に事情を話すと、
「CIAいうたらアメリカのスパイやないか。インターンかなんか知らんけど、スパイに身元調査までされて、米軍基地の病院みたいなところへよう行く気になったな」
と吐き捨てるようにいった。
米軍当局にしてみれば、医者とはいえ見知らぬ他国籍人間を機密がイッパイ詰まった海軍基地内に住み込ませるのだから、身元を厳しく調べるのは当然だろう。
それに先立つ3年まえの1960年には、日米安保改定反対デモが国中で渦巻いた。国会前で死者がでるほどの激しい反米デモに、国中の機能が停止した。そんな時代背景のなかで反米過激派の学生がインターンに姿をかえて基地に忍びこむのを阻止するためには、CIAによる身上調査は当然のことだと今なら理解できる。

2001年の初秋、米国で9/11テロ事件が発生して以来、市民生活を脅かすテロリズムに対抗するCIAやFBIなどの活動には、ニッポン国民からも多少は理解が得られるようになった。ところが1963年の日本の若者達の間では、アメリカだの米軍だと聞いただけでそのすべてを嫌悪し、否定するフリをするのがファッショナブルだった。丁度、東京オリンピックを次の年にひかえ高度経済成長が軌道にのり、その後長く続いた昭和元禄が胎動をはじめた年だった。

インターンの日課

ヨコスカ海軍病院インターンのユニフォームは、ワイシャツ、ズボンはもちろん、ベルトから靴にいたるまでオールホワイト。短く刈り込んだクルーカットに、黒のネクタイをきりっと締めて、胸にネームを刺繍した白衣をまとった姿は、我ながらカッコよかった。この姿に憧れてUSネービーのインターンに応募した者もいたと聞いた。
インターンの日課は多忙だ。16名を8名ずつの2組に分け、それぞれ左舷組、右舷組と呼んだ。勤務は2日48時間を、朝7時からあくる日の午後17時までの34時間ぶっ続けに勤務し、次の勤務が始まるまでの14時間が休息時間というシフトである。両弦二組を1日ずらせて回転させると、7時から17時までの時間帯は両弦16名全員で、17時以後翌朝の7時までの夜間は半舷の8名で、という勤務体制が出来上がる。この方式によって24時間、間断のない診療を継続することが可能だ。
平時の昭和38年に米軍基地の病院がなぜ24時間診療とおもわれようが、これにはワケがあるのだ。

サイゴン発「空飛ぶ病院」定期便

ベトナムではフランス軍がディエンビェンフーの戦いで敗退し撤退した。その後も継続する南北に分断されたベトナム人同胞間の紛争に、当時すでに米軍が関与していた。トナム戦争はトンキン湾で米国海軍の艦船が北ベトナム海軍の攻撃を受けたて始まったといわれているが、実際にはそれより大分前の1963年当時で5万人規模の米海兵隊が、すでに南ベトナム軍の軍事顧問と称して紛争に介入していた。米国の海兵隊は大統領の命令が下ると、直ちに紛争の地に飛び介入する使命をもっている。いまニッポンで紛糾しているオキナワの米国海兵隊普天間基地の移設問題を考える際、この海兵隊の持つ特命機能を第一義としない議論はすべて空論である。ニッポンの国防を担ってもらうためには、特命機能を発揮するに最も適した地理的位置、広さを提供するのが国家を預かるものの義務ではないのか。
米国海兵隊員は顧問とはいえ、前線に出れば弾にも当る。負傷した海兵隊員は連続テレビドラマ「MASH」に見るような前線病院で応急処置をうけたのち、後方の主幹病院にヘリで移送されて治療を受ける。その主幹病院でトリヤージとよぶ選別をうけたのち、高度医療が必要と判断された負傷兵が最終的に搬送されるのがヨコスカ基地にある米国海軍病院であった。
内部を「空飛ぶ病院」に改装したダグラスDC8は、負傷兵を満載し毎夕定刻にサイゴンを飛び立つ。7時間後の夜中過ぎには立川空軍基地に着陸する。ハンガーには巨大なトレーラーを「走る病院」に改装した軍用救急車が待ち構えていて、負傷兵を受け取る。全員の積み込みが終わると深夜のヨコスカ街道をひた走り、午前2時ごろ海軍病院に到着する。

当直インターン、真夜中の大仕事

当直インターンはこれからが大変。日中の激務で疲れた身体を休めていると、当番の衛生兵に起こされる。クオーターの中には非番のインターンも寝ているので、電話のベルで起こすわけにはいかぬ。クオーターのベッドサイドまで入り込んできた当直の衛生兵に揺り起こされ、ルームメートが目をさまさぬよう素早くユニフォームに着替えて負傷兵の待つ病棟にむかう。
当時も今も、アメリカの病院では、患者が入院すると直ちにインターンが病歴取得と診察をおこない、速やかに検査や治療に移るのが決まりだ。アメリカの病院は国、公、民、軍の区別なく、何時であろうと入院した病人は、直ちに治療を受ける権利を持つ。テレビの人気ドラマ「ER」を見るとその仕組みがよく描かれている。「いまは夜中だからとりあえず入院だけさせて、一応様子をみよう」などというニッポンの医療界独特の方便を見ることはない。
ベトナムから立川空軍基地経由で移送されてくる患者は、一晩に20人を超えることもあった。緊急手術は稀だったが、それでも入院と同時にインターンは診察し、診断に沿った治療計画を立ててカルテにすべての記録を記入し終えねばならぬ。

ワークアップ

入院時の診察は120項目に及ぶ質問から始まる。これが終わると、全身の視聴触打診を手順にしたがって進める。耳鏡で鼓膜を観察し、眼底鏡で眼底を見たあと、懐中電灯で咽喉を診る。心音と呼吸音を聴診し、腹部触診にうつる。知覚,触覚、痛覚、神経筋肉反射などの神経学的検査をおえたあと、直腸に指を入れて触診する。これら所見の正常異常にかかわらず、すべてをカルテに記入する。手抜きをして大事に至った場合には、インターン研修を終了させてもらえぬ可能性がある。インターンを終えなければ、医師免許をもらうこともできない。
この入院時の病歴、診察、治療プラン、指示をふくめた一連の仕事をワークアップと呼ぶ。ワークアップには、要領よくやったとしても、一人につき最低1時間はかかる。まして、英語に不慣れなインターン相手だからと手加減は一切してくれない海兵隊員を相手のワークアップだと、一人につき2時間はたっぷりかかるのだ。一晩のうちに20人もの患者が団体で入院すると、内科、外科合わせて4人の当直インターン全員が徹夜で頑張っても、仕事を朝まで持ち越すのが常だった。
手元にある当時の研修記録をみると、わたしは1年間に約600名のワークアップをしている。すなわち、600の心臓を聴診し、600の肛門に指を入れて直腸を探り、1200の枚の鼓膜と眼底を観察している。若い医者が同じ期間に同じ数の臨床経験を積むことの出来る病院は、当時の日本には存在しなかった。

産科が10月に多忙なワケ

秋に配属になった産婦人科ではふた月でお産を60回も経験した。「海軍病院で産婦人科やお産やなんて、冗談が過ぎまっせ」というなかれ。基地内はもちろん横浜の根岸キャンプあたりまで含めた周辺のリトルアメリカには、第7艦隊乗組員の家族が3万人ほど住んでいる。
クリスマス休暇になると艦隊勤務の乗組員は久し振りに陸にあがる。その日を待ちに待っていたカミさんと、ここぞとばかりにベビー造りに励むのだ。その結果、秋にはお産ブームとなってひと月に30人ものベビーが生れるというわけだ。亭主が作戦で沖に出ている数ヶ月の空閨を嘆く金髪碧眼のカミさんに言い寄られたのも、今となっては懐かしい想い出だ。

(2008年2月1日付 イーストウエストジャーナル紙)
2010年5月改定加筆

「ヨコスカ海軍病院インターン物語」(1)
USネービーとハイネッケン

テラスの椅子にすわって沖を眺めると、岸の砂浜からエメラルド色をした内海が沖にむかってひろがる。その先1キロほど離れたところにあるさんご礁が、外洋からのうねりを砕いて白波を立てている。それから先は暗く冷たい深海の大海原だ。

水平線上に灰色の軍艦が隊列を組んで、西から東へと進んでいくのが見える。双眼鏡をあてた眼に、巨大な原子力空母、イージス艦、ヘリコプター空母の姿がとびこんでくる。太平洋を取り巻く各国の海軍は、2年に1度ハワイ沖に集結し、作戦名をリムパックと呼ぶ合同演習を行う。いまがちょうどその時期なのだ。

眼を凝らすと、オアフ島東海岸のカネオヘにある海兵隊基地の方角から飛んできた大型ヘリが空母に着艦している様子がみてとれる。各艦の艦尾にはためく国旗までは遠すぎて識別できないが、この国際合同演習には、はるばるニッポンから遠洋航海してきた自衛艦隊も参加している。自衛艦がハワイ沖で新型対空迎撃ミサイルの発射訓練をする予定という新聞の報道に、ミサイルが打ち出されるのはいまかいまかと目を凝らししばらく見ていたが、結局なにごとも起こらずがっかりした。

沖合に展開する艦隊は、人間の知恵と技術と費用の極限をきわめた超高性能の破壊兵器を満載している。ハイテクノロジーの究極の産物である現代の飛び道具は、正確かつ強力で、一度狙いをさだめたら相手の息の根をとめるまで追い続ける。人間同士が対面する戦いなら、気まぐれに情けをかけて相手を容赦することもあろう。

ところがレーダーに敵が捕捉されると間髪をおかず、ミサイルや砲弾が自動的に発射される自動制御システムには、人の感情が立ち入る余地がない。着弾により目標が破壊されたらミッションは成功と記録するのみ。その結果、恐怖におののき、傷つき、血を流し、苦しむ人の阿鼻叫喚や、海の藻屑と消える生命にはまったく頓着しない。


ハイネッケンビール

さきほどからテーブルのうえに載ったままのミドリ色をしたハイネッケンビールのボトルがびっしょり汗をかいている。すぐそのむこうで、ブーゲンビリアの赤い花がオレンジ色の雲を背景に、海からの微風に揺れている。冷たいビールをビンからじかにゴクリと咽喉奥に流し込む。旨い。
このミドリ色をしたボトルを手に沖を往く艦隊を眺めていると、40年前の想い出が鮮やかに蘇ってくるのだ。

1963年、医学部を卒業するとすぐ、ヨコスカの米軍基地内にある海軍病院のインターンとして1年間勤務した。ヨコスカ海軍病院インターンのポジションには、全国の医学部から100名余りの卒業生が応募し、学科の筆記試験と英会話の面接試験をパスした16名が院内住み込みのインターン生に選ばれた。
当時、ニッポンの病院にもインターン制度はあったが、月給が百円もでない無給だったから、この制度はまさに有名無実であった。こんな理不尽が永く続くわけがないとおもっていたら、何年かのちにインターン制度は完全に崩壊消滅した。
制度の是非よりも、予算のあるなしの都合で物事をきめるところがニッポンの役所である。インターン制度は、要不要の議論の前に、予算がないという理由で廃止になった。数十年を経過したのち、つい最近になって国が国家予算から月給30万円を出すようになり、医師の卒後研修制度は復活した。

米国海軍病院インターンのサラリーは一ヶ月50ドル。当時ののレートは1ドルが360円だったから、50ドルを日本円に直すと、毎月1万8千円もらえるのが魅力だった。ニッポンが高度経済成長の真っ只中にあった昭和38年、「月給1万6千8百円」という唄が流行った頃のことである。
病院の一角にインターンズクオーターズ(IQ)と呼ぶ一部屋2人、バス、トイレ、ロビー、学習室などが完備したインターン専用の宿舎が設けられており、ここで1年間寝泊りした。インターンの分際でありながら、宿舎の掃除、洗濯、ベッドメイクは全部専属のメイドがやってくれた。

当時も今も、ニッポンの病院で研修医の宿舎にメイドをつけて、部屋の掃除、下着やシャツの洗濯、ベッドメイクやリネンサービスなどをしてくれる病院は、ほとんど皆無である。わたしの知る限りでは、オキナワの中部病院研修医宿舎のみである。

1963年当時から、アメリカ本土の一般病院では、IQでのメイドサービスは当たり前のことだった。
のちに小児外科の研修医として1年を過ごしたボストンの小児病院でも、宿舎の清掃やリネンサービスは当然のごとく行われていた。或る日、そのワケを尋ねてみると、師と仰ぐ小児外科のF教授は極めて明快な答えをくれた。
「医療行為は医師の資格を持つものだけに許される特別な業務なのだ。その大事な仕事をする特別資格を持っている君たちに、部屋の掃除やベッドメイクのような雑事をさせてはもったいない。医師の1分1秒はすべて病人の治療に費やされるべき大事な時間なのだ。その貴重な時間を無駄遣いしてどうする。君達が医師になるまでには、1人につき100万ドル(1億円)にものぼる莫大な社会資本が費やされているのだ。そんな君たちに掃除やベッドメイクをさせると、出資者たる社会に対して申し訳がたたぬと思わないかね」
理路整然と言い含められるとなるほどと納得する。ニッポンの医療界には、若い医師にこうした経営論理を教えてくれる人がいない。医者を育てる基本姿勢に日米ではこれほどの違いがあるのだ。

海軍病院のインターンは、食事は院内の将校食堂で摂るよう命ぜられた。
各国海軍では将校と水兵の生活空間には明確な一線を引いて区別する伝統がある。大航海時代、大海原を航海中、水兵たちが数を頼んで引き起こした反乱に打つ手を欠いた上官の無念がそうさせた。以来海軍艦船の艦内では、将校と水兵の居住区の間には、堅牢強固な隔壁を設けて両者を隔離する伝統が生れた。
この習慣は陸上にある海軍病院でも生きていて、階級の違う将校と水兵が同じ食堂で肩をならべて食事をすることを禁じているという。
アメリカでは、この仕切りはUSネービーのみならず、あちこちの団体でみられる。アイオワ大学病院でも10年ほど前までは教授専用のダイニングルームが存在した。外部からの訪問者や医学生、研修医たちが使うカフェテリアでは、プラスチックのナイフ、フォークに紙ナプキン、トレイにとったランチがおわると、残骸をくず入れにすててトレイを戻さねばならなかった。
ところが、教授専用のダイニングルームでは、テーブルクロスのかかったテーブルに、本格的な瀬戸物の食器や銀のナイフとフォーク、リネンのナプキンが並び、専任ウエイトレスがサービスをする特別メニューの昼食がでた。
わたしは外科教授だから、勿論、この専用ダイニングルームでランチを食べる資格があった。だが外科医はつねに忙しい。内科や小児科の教授のように、ランチタイムを悠々とエンジョイしてはいられない。特別のランチ会議でもないかぎり、手術室のカフェテリアで医学生や研修医とともに、分秒を惜しみながらエネルギーの源を呑み込む毎日をすごしてきた。折角の特別待遇の機会を毎日捨て続けたのだから、思い返してみると、惜しいことをしたものだ。

何事につけ平等を至上とするニッポン社会の団体で、平のスタッフと要職にある人間とのあいだに、食事の場所やメニューで差をつけたら、国を挙げての大騒ぎになるだろう。だが、人にはそれぞれの能力、責任、貢献度によって、待遇に違いはあって当然だ。それが自然というものだ。この区別をはっきりさせているアメリカでは、団体に何事か重大な不都合が生じた場合、要職にある責任者がすべての責任を取るかわりに、日ごろは特別待遇を受けている。責任と権限、責務とインセンティブを上手く均衡する仕組みが作動しているのだ。
ニッポンでは、昨今、他人様から預かった年金を浪費した役人や、銀行や会社を破滅に導いた役員が責任を取って辞任したというハナシをめったに聞かない。甘い汁を吸うときだけは要職の職権を使えるだけ振り回し、不都合が暴露されると責任は全体に溶かし込んで、当の本人が連体責任の淵深く沈んで浮かびあがらぬような、巧妙な仕組みが造られているからだ。


海軍病院インターンの暮らし

ハナシを40年まえの海軍病院にもどそう。将校食堂では、入り口で入場料ともいうべきカネをはらってはいると、キッチンから出てくるものはいくらお替りしてもよかった。確かランチが40セント、ディナーは55セントぐらいだったと記憶する。インターン生たちは食べ盛りの25、6歳だったから、なかには血のしたたるステーキを5 枚もお替りして平らげるものもいた。
基地のなかには、病院のほかに、学校、劇場、教会、銀行、スーパーマーケット、野球場などがあり、まさにリトルアメリカであった。まだ戦後を引きずっていたニッポンの暮らしから、大学卒業と同時にこのリトルアメリカに抛りこまれると、これがハナシにきいたアメリカ社会だとおもってしまう。英語で会話するアメリカ人というだけで、自分より年下の衛生兵が大層なオトナにみえ、研修医を終えたばかりの若い軍医が大先輩に思えるのだった。

これは、日本が戦争に負けて以来、ニッポン人の心にながく尾を引いてきたアメリカンコンプレックス以外のなにものでもない。戦後の焼け跡からようやく立ち上がり、先をいくアメリカに追いつき追い越せが合言葉だった時代が、こんなコンプレックスを産んだ。 米国海軍の基地でリトルアメリカを経験することになった大学出たての青二才インターン生の目には、当時のニッポンのすべてが遅れてみえた。

しかし、アメリカ本土の大学で15年間、アメリカンの若者を教育する立場を経験した今、インターンだった当時を思い返してみると、海外の基地に住む人間が形成する小社会は、アメリカ本土社会を反映するものでないことがよく判る。沖縄の基地周辺に住むニッポン人に対して、不届きな犯罪を犯す米軍将兵の非行をかばう気はまったくない。だが、別の視点からみると、非行を犯す米兵たちは、ニッポンのハタチ前後の若造とおなじく、余りにも若く、若さゆえに愚かなのだ。

病院の敷地内は、禁酒区域である。病院の一角にあるインターン宿舎内での飲酒は、勿論、ご法度である。

仕事の終わったインターンが酒を飲みたくなれば、基地のオフィサーズクラブにいって酒を飲むことが許されていた。米軍の規則によれば、4 年制大学の卒業生が軍に入ると、身分は最低でも准尉だから、全員が将校になる。われわれニッポン人のインターンは医学部卒業生だから、当然、米国海軍将校に準じた待遇をうける。身分証を提示さえすれば、基地内では将校クラブは勿論、将校オンリーのテニスクラブ、ゴルフクラブ、ヨットクラブなどに出入りできた。

将校クラブに出入りする者は、ネクタイにジャケット着用が求められた。クラブ内では大声で談笑したり、酒に酔ってクダまいたりするのはご法度。紳士らしからぬ振る舞いをしてはならぬという決まりを聞かされていた。違反すると警備の海兵隊員につまみ出されると脅された。実際、泥酔した制服の将校が、海兵隊員二人に両方から腕をとられてつまみ出される光景をみたことがある。

だから、はじめて将校クラブで食事をしたときには、緊張のあまりコチコチになってしまい、何を食べたか全く記憶にない。覚えているのは、初めてのディナーの席で飲んだビールがハイネッケンであったことだけだ。

当時の日本は、まだ外国製品の輸入がいまのように自由でなかったから、輸入したタバコを洋モク、ウイスキーは、ジョニ黒だのジョニ赤と称して珍重された。オランダ生まれのハイネッケンビールは、巷のバーやスタンドで飲むことは不可能だった。そんな時代背景のなかで、医学部を出たばかりで外国かぶれの青二才がグリーンのボトルにはいったオランダのビールにのぼせ上がったのもむべなるかな。

或る日尋ねてきた従兄弟を将校クラブに案内し、
「これがハイネッケンというオランダのビールや。1合入りのミドリ色した小瓶がハイカラやろ。オレはいつもこれを飲んでるねん。旨いで」
得意の絶頂で解説したのが、昨日のことのようだ。
ネービーとハイネッケンが組み合わさると、愚かかりしあの頃のことが、ほろ苦く思い出される。

(イーストウエストジャーナル 2008年1月1日)

※「ヨコスカ米国海軍病院インターン物語」は、2008年に米国ハワイ州ホノルルの日系紙“イーストウエストジャーナル”に、16回にわたって連載した記事を転載しております。