アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(3)

第3日目:プルドウベイ出発

ハリウッド映画「大脱走」に出てくる捕虜収容所のような部屋では眠りが浅く、2時間おきに目覚める。隣室のいびきや寝返りの際のベッドのきしみもベニヤ板1枚の仕切りを通して、耳にはいる。
眠れぬままに、カーテンを引いて外をみると、午前2時というのにホノルルの曇りの午後という明るさだ。
こんな白夜は8月半ばまで続くという。

だが、一晩過ごしてみると、飾り気は一切ないが、必要なすべてのそろっている部屋はなかなか快適だった。
シャワーの湯もしっかりでるし、空調は音もなく作動し夜中に部屋が冷えることもない。リネンも清潔でトイレの水もよく流れる。
水は北極海の塩水を脱塩プラントで真水に換えた貴重品だ。マネージャーのリクエストにこたえて節水に努める。

朝食は昨夜と同じ食堂。
各種の作業現場に出かける男たちが、めいめいバイキングテーブルから取ってきた膨大な量の食べ物を、無心に胃袋に放り込んでいる。働く男達の合間に、物見遊山の黄昏世代男女がカラフルな装束で座っていると場違いな感は免れない。2週間ものアラスカ縦断とバンクーバーまでのクルーズは、ヒマをもて余す引退族でなければ贖うことはできない。

8時丁度に出発するというバスに乗り込む。
昨日あれほど汚れていた窓は綺麗に拭いてあった。ドライバーのチャックは、夕べ皆が寝静まったあと給油所でディーゼル燃料を満タンにし、車内清掃と窓拭き作業を完了。400キロ離れた次の宿泊地まで、給油のできるサービスステーションやレストランは一切ないのだ。水のボトルもボックスランチも、プルドウベイ出発まえにバスに積み込んでおかねばならない。あれやこれやで夜半過ぎまで働いていたという。60人のツアーグループ全員が朝食まえに部屋の外の通路に出しておいたスーツケースを、チャックは1人で黙々とバスの貨物室に積み込む作業を続けている。

今まで関りのあったあらゆる職業人の勤勉ぶりを日米比較すると、断然、米国に軍配があがる。「そんなことはないだろう。日本人は世界で断トツのはたらきものだぜ」という人に、チャックの仕事ぶりを紹介してみよう。

米国でトップクラスのクルージング会社に陸運部の契約社員として雇われているチャックは、アラスカ州で2番目に大きい都会フェアバンクスから北へ800キロのプルドウベイまで、未舗装交互2車線の砂利道を、大型バスを運転して週に2往復する。会社との契約は1往復幾らという請負契約だ。助手を雇えば荷物の出し入れや途中の観光案内、車両の清掃からランチの手配などを任せて大分楽になる。しかし助手の人件費はチャックの契約金からの持ち出しになって実入りが減るから家計がもたない。

それゆえに乗客60人を載せて悪路800キロを単独で走りとおす。中1日休むと、別のツアーグループを乗せて800キロの来た道をとってかえすといを重労働をやってのける。
ニッポンのバスの運転手が、チャックとおなじシフトで働いたとしたら、労働基準法や道路交通法に違反するとの理由で、クルージング会社には直ちに業務停止命令が下されるだろう。
ニッポンでは会社員も公務員も勤務医もそしてバスの運転手も、すべからく勤務した時間を売って報酬を得ている。それと対照的にアメリカのプロフェッショナルは、ひと仕事幾らの請負で報酬を得るという違いがある。
医師不足に悩むニッポンの公立病院では、医師の報酬を診た患者数に準じて増減する給与システムにすると、医師不足は解消に役立つことだろう。
バスに揺られながら、想いは日米の社会構造の違いに飛ぶのだった。

この道路は30年前の石油パイプライン敷設時に、資材運搬のため石油開発会社が建設された。ニッポンではほとんど知られていないが、長さ1,300キロに及ぶ口径1メートルのパイプラインはニッポンの製鉄会社で造られた。ニッポンの港から貨物船に乗って北太平洋を横断しアラスカの港に陸揚されたあと、鉄道で400キロ内陸にあるフェアバンクス駅に送られた。長さ10メートルの鉄管はフェアバンクス駅前の広場に、銀色に輝くピラミッドをなすがごとく積み上げられたという。
その集積所からトレーラートラックに乗せられ、北の原野に急造された砂利道を通って建設現場まで運ばれたという。
その道路は今では、プルドウの油田会社の補給路に利用されている。道路が通過する土地は、米国政府、アラスカ州、原住民社会、個人の私有地などであるが、道路の管理権は州政府が握っている。私用でちょいとプルドウベイまでドライブしてみたいといって、北の原野に乗り入れることはできない。州政府の許可をえた車両のみに通行許可証が発行されるという。

石油を絶え間なく産出するためには、太陽の昇らない真っ暗な冬の間でも油田で越冬する人間が要る。毎冬6,400人もの職員が越冬するという。これだけの人たちの越冬に必要な食料や燃料を6月から8月まで短い夏の間に送り込まねばならぬ。油田では原油はでるが、ガソリンや重油などはフェアバンクスで精製したものをタンクローリーで運ばねばならぬ。油田に必要な資材や作業車両などのすべてを夏の間に補給しておかねばならない。

バスと対抗車線を北にむかうトラックやトレーラーは絶え間がない。食料を積んだ保冷車、油井のドリル器材をのせたトレーラー、燃料を満タンにしたタンクローリーなどと出会うたび、チャックはバスを道路の端に寄せて最徐行どころか、しばしば停車する。

「わたしのトラックドライバーの経験からすると、重い荷を載せたトラックやトレーラーは、一旦速度を落とすと、再び加速するのに大量の燃料を消費します。荷重の小さいバスが道を譲ると、ドライバーたちは、おお、譲ってくれたかと判るのです。この原野の真ん中で、もし万が一バスが故障して立ち往生すると、頼りになるのはドライバー仲間だけですからね。みなさんのためにも、停車しているのをご理解ください」
チャックの誠実さがにじみでている言葉だった。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(2)

第2日目:プルドウベイ

昼すぎに出るアラスカ航空のB737ジェット旅客機で、1,000キロ離れた北極海沿岸にある石油基地のプルドウベイに向かう。1時間半の空の旅だが、200人乗りの旅客機に乗っているのはツアーグループの60人だけ。
機上から下をみると、雲の上にマッキンレー山が聳え立つのが見えた。コウベに住んでいたニッポンの英雄登山家、植村直巳さんが永眠している山だ。思わず合掌。

1時間ぐらい飛んだ地点で、雲の切れ目から大地が見えた。緑の途絶えた裸土の平原が無限に続く。ツンドラ地帯では真夏でも地表50センチの表土より下は永久凍土である。表土に生えるのは雑草や苔類だが、地下に根を張ってそだつ樹木は生存できない。北極海岸から300キロぐらい南にさがると、はじめての森が出現する。

石油会社の職員以外に住む人のいないプルドウベイに、ジェット旅客機が発着できる本格的な空港があるのかどうか心配していたが、無事着陸してほっとした。
ここプルドウベイに油田が発見されて40年あまりになる。この全米一の石油基地には、6千人もの人が常時働いている。この人たちにとってアンカレッジまでの空路は、文明圏との往来に欠かせぬ唯一のルートだ。油田開発の黎明期にはジェット機の飛べる空港建設が最優先されたという。

ノーススロープと呼ばれるプルドウベイ一帯はエスキモーだけが住む未開の土地だった。20世紀のはじめにこの地を訪れた探検家は、エスキモーたちが、自然に地表に湧き出た石油を料理や暖房に使ってると記録している。

時代が過ぎて、この石油を採掘して文明圏に持ち帰ると商売になると考えた人間が出てきた。持ち帰るといっても、氷に覆われた北極海にタンカーを差し向けるのは至難のわざだ。そこで、様々な方策が検討されたという。

案のひとつは、強力な砕氷装置をつけたタンカーを建造し米ロを隔てるベーリング海峡を通過させて北極海に送り込む。アラスカ最北端のバロー岬を迂回しプルドウベイにたどり着き、原油を積み込んで同じルートで太平洋に戻るというものだ。しかし冬の北極海の航行は危険が多すぎるうえ、採算が取れる量を運びきれない。

次なる案は、潜水タンカーを建造し結氷の下を航海して原油を運びだすという計画だったが採算不足で却下。結局人跡未踏の地下の宝物は手付かずで眠らせるしかないという結論に達した。
その後1920年ごろ、米国海軍が行った調査では油田は存在しないという結論だったが、1968年に油田探索チームが行った大掛かりな試掘で、プルドウベイの地下に大油田が眠っているのを発見した。
大油田の発見はアラスカにゴールドラッシュ以来の大ブームをもたらせた。おりしも中東では数次にわたる中東戦争が勃発したせいで、原油価格は世界的に高騰し、それまで採算面から消極的であったプルドウベイの原油採掘計画は、一気に商業ベースに乗る可能性を帯びてきた。
1972年には、米国議会はアラスカを南北に縦断する1,300キロのパイプライン建造を承認し直ちに着工した。5年後の1977年、北極海の地下からくみ出されたアラスカ原油が完成したばかりのパイプラインを通って太平洋岸の港から積み出された。

プルドウベイ空港には空港ビルというものが存在しない。
木造平屋の田舎のバスセンターのような、ビルと呼べない建物があるだけだ。したがってボーディングブリッジもない。
発着便の乗客はタラップを上がり降りなければ、機内と地上を行き来できない。昭和30年代の羽田空港を思い出させる。

バス停の建物を出ると、チャックという名の中年男が待っていた。
「ようこそプルドウベイへ。チェックインした荷物はあとで運ばせますから、皆さんバスに乗ってください」
チャックはトラックのドライバーからプリンセスクルーズ専用バスの運転手に転向して15年になる。もっぱらプルドウベイと自宅のあるフェアバンクス間の800キロを1泊2日で、ツアー客を乗せて往復するのが仕事だ。1週間に2往復すると次の週は休養。彼はこのシフトが気に入っているという。

バスが1キロも走らぬうちに着いたのは今夜の宿、アークティックカリブーイン。「北極海トナカイの宿」とでも訳そう。

コンテナーを幾つも並べたような木造平屋建てに、幾つもの小さな窓が空けてあるから、なんとか宿舎とわかる。

「プルドウベイのリッツカールトン、カリブーインにようこそ」
空軍ジャンパーをきた髯面の小男が出迎えてくれた。
この宿のマネージャーだという。
「プルドウベイの季節は、6月から8月までの短い夏と9月から5月までの長い冬の2季しかありません。皆さんのように4季のある土地に住んでいる人には、真っ暗な冬がどんなものか想像もつかないでしょう」
という。すかさず、
「なに、季節の変化の少なさでは、もっと上がありますよ。わたしの住んでいるハワイは、年中長ーい夏だけの1季です。どうだ参ったか」
不安まじりの真剣な顔で聞いていたツアー客全員、大笑いで場はなごんだ。
「冬もわれわれのような観光客はきますか?」
という質問がでる。
「アラスカクルーズは9月中旬までオフシーズンです。プルドウベイ北極海ツアーは、8月中旬でオフ。来年5月まで休業です」
「オフの間、皆さんはどうなさるの?」
「わたしは家族の待つサウスダコタのわが家に戻ります。12人いるスタッフは州の南にあるフェアバンクスやアンカレッジに戻って冬を過ごします」
「プルドウベイでホテルビジネスを始めたワケは?」
「高額の収入が保証されているからです。石油会社と契約すると、職員の宿舎確保のため、高額の料金を支払ってくれます。わたしもスタッフも、夏の3ヶ月間ここで働くと、ほぼ1年分の生活費を稼ぐことができるのです。いわば辺地手当てですな」

キーをもらって部屋に入ると、3×5メートルの小部屋。
「なんじゃ、これは」
古材を再利用した合板の壁にはペンキも塗ってない。壁の一部を切り取った小窓から外をみると、ホームレスの掘っ立て小屋の外観を呈する隣の棟の外壁がみえる。どこかで見たと思ったら、映画でみた捕虜収容所にそっくりだった。
これが今夜のねぐらだ。
建設現場の飯場と見まがう宿舎ながら、暖房、シャワー、水洗トイレ、電話、小型ながらテレビも完備している。L字型に配置されたベッドの一つがカミさん、もう一つが私の寝床である。

「晩飯は逗留中の作業員の食事が済んだあとの午後8時ごろ、各自食堂でたべてください」
8時まではまだ4時間ぐらいある。
部屋で一休みしたあと、迎えにきた会社のバスで石油基地を見せてくれるという。石油基地の警備は厳しく、グループの60名各自の写真つき身分証明証を求められた。
「今のご時勢ですから、へんな手合いが油田に爆弾をしかけないとはかぎりません。用心に越したことはありません」
持ち物はパスポート、財布、カメラだけが許された。

プルドウベイ全体で、1日の産油量は200万バレルを超えたこともあったが、いまは80万バレル程度に抑えているという。
樹木一本もない関東平野ぐらいの大きさの平地に、何本もの油井のタワーが立っている。油井タワーは海中にも立っていて、思わずルイジアナ沖の石油漏出事故に想いを馳せめぐらせられた。

広大な産油基地内の原野に盛り土をして造った未舗装の道路を、ホテルから40分ぐらい走ると、北極海の波打ち際に出る。北極点から1,600キロぐらい離れているという。北の空には鉛色した厚い雲がたちこめ、吹き寄せる風は肌を切るほど冷たい。気温は摂氏2度だが、身体を吹き抜ける冬の風によって体感温度は零下3度に下がる。

バスは渚から200メートル手前で止まった。ここから渚までは歩いていけとドライバーは言う。
「先週、このあたりで白熊を見かけました。流れている氷山に乗って岸までくるのです。白熊はアザラシやオットセイなどの大型動物を日常的に食べているので、人間も餌だと思っています。この極地帯で人間を怖がらない唯一の野獣ですから、遭遇すると獲物だとおもって近寄ってきます。早く発見して逃げるのが唯一助かる方法だと思ってください。波うち際のあたりでは、特にあたりに気をつけてください」
アメリカは自己責任の社会だ。白熊に喰われても誰も責任を取らないとの宣告と受けとめた。
そういわれると、もしも砂山の蔭から白い巨体がぬっと現れたらどうしようと、恐ろしさが先にたって、北極海に到達したという感激に浸りきれなかった。

下はジーンズ、上はカシミアのセーターを2枚重ねて、その上にコットンのスタジオジャンパーを重ね着しているが、北風に立ち向かうとたちまち体温が下がる。前にすすめなくなる。波打ち際まであと100メートルがなかなか到達できない。それでも意を決して歩を進め、やっとたどり着いた北極海の水に手をつけてみる。飛び上がるほど冷たい。タオルで拭くのもほどほどに、かじかんだ両手をセーターの襟もとから首筋に入れて温めてみるが、なかかな元に戻らない。
風速20メートルほどの寒風がぴゅーぴゅー吹いているなかで、ジーンズを膝までめくりあげ、スニーカーをぬいで、裸足で浅瀬に入っている人もある。
断っておくが、このツアーのグループ60名は、わたしとカミさんを除いては全員が白人。殆どがアメリカ人だが、ロシア人のカップル、イスラエルから数組の老夫婦もいた。
人種間の耐寒機能を比較した研究によると、寒さに一番強いのは北米に住む白人。世界一弱いのがニッポン人、南部中国人、それにインド人という結果が報告されている。白人アメリカ人とニッポン人では平均体温が1度も違う。
ジーンズのすそを捲り上げ、冷たい海水に浸して濡れた足を拭きもしないで、北風の吹く砂利の浜辺を走りまわり嬌声をあげるアメリカン男女の姿を見ていると、違う生物の群れを見ているような気がした。

宿に帰ると、暖かい食事が待っていた。
朝夕賄いつきの学生下宿を思い出させるシステムだ。キッチンでは中年の女性が数人の若い男女に指示をだして、みんなきびきびと効率よく働いている。
マッシュドポテトもパウダーのまがい物ではなくて、皮つきのホンモノ。グレービーソースをたっぷりかけたポテトの脇にボイルしたブロッコリーをのせてる。今夜のメインは焼きたてのロースとビーフ。中年のおばさんが、注文に応じた厚さにカットしてくれる。ロースとビーフにつきもののホースラディッシュも、パウダーではなくて、フレッシュのホンモノで感激した。
1.5インチ(約4センチ)の厚みにカットしたビーフの塊を皿に載せてもらって、テーブルにつく。
サラダ、デザート、飲み物、フルーツもセルフサービスで食べ放題。ただ、この手の宿の食堂では、アルコールはご法度だ。持ち込みのワインやスコッチを各自の部屋で飲むしかない。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(1)

「夏のアラスカクルーズはほぼ完売ですが、7月11日アンカレッジからのツアーだと、コラルプリンセス号のミッドシップのミニスイートに1室だけの空きがでました」
 
ホノルルの旅行代理店から連絡があったのは、今年はじめのことだった。アラスカクルーズのシーズンは5月から9月までの4ヶ月間だけ。翌年夏の予約がクリスマスまでに完売するというほどの人気である。アンカレッジの南100キロの太平洋に面するウィッチャー(Whittier)からバンクーバーまでの4,000キロのクルーズは、途中幾つかのフィヨルドに寄って氷河を見物しながらの7泊の船旅だ。
ちなみに、ミッドシップとは、船の舳先でも艫でもない中央部のこと。ここだと揺れが小さいから、予約を頼んでおいたのだ。

「このクルーズツアーには、アンカレッジから北極海に面したプルドウベイの石油基地に飛んで、そこを始点に陸路800キロをバスで2日がかりで南下しフェアバンクスで2泊。さらに西南に200キロ離れた山中のデナリリゾートに移動して2泊。デナリからはプリンセス特別仕立て列車でアンカレッジ経由650キロを、9時間がかりでクルーザーの待つウィッチャー港駅に到達するという陸路アラスカ縦断のオプションもありますが、如何なさいます?」
「勿論、お願いします」

旅行契約同意書にサインはしたものの初めてのクルーズだ。
友人のハナシでは、北太平洋を吹き荒れる嵐に遭遇すると、巨大な貨物船でも木の葉のごとく揺れて、生きた心地はしないという。
万一難破でもして海に飛び込む羽目に陥ったら、ハワイの海と違ってさぞ冷たかろうと思い始めると気持ちが落ち込む。契約書にサインしなければよかったと悔やむ日もあれば、9万2千トンといえばフォレスタル級航空母艦より大きい、そんなにでかい船が難破などしてなるものかと納得する日もあり、気持ちの揺れ動く半年だった。

6ヶ月は束の間に過ぎ、いよいよ旅立ちに日がやってきた。
ホノルルから空路シアトル経由でアンカレッジに向かう。
シアトルから3時間半のフライトでアンカレッジ空港に着いたその瞬間、アラスカ陸路縦断1週間、アラスカからバンクーバーまでのクルーズ1週間、あわせて2週間のツアーが始まった。

第1日目:アンカレッジ

降り立ったアンカレッジ空港は雨。
空港から市内まではバスで30分。プリンセスクルーズ専用の大型バスに乗った乗客は、わたしと家内の二人だけだった。最前列の座席に座る。二階にとどくかと思うほどの大型バスを操るのは白人の中年女性ドライバー。中西部オハイオ出身のおばさんドライバーのハナシが面白かった。

1970年代のジャンボ機導入以前には、日本と米国やヨーロッパを往復する旅客機はアンカレッジに寄港し、そこで給油したのちつぎのセグメントを飛ぶという航路をとっていた。米ソ間の冷戦が続いていたので、シベリア上空を飛ぶことはできなかった。
当時アンカレッジからソウルに向かう大韓航空機がカムチャッカ上空で通常の航路を外れて、非意図的にソ連領を侵害した。スクランブル発進したソ連軍戦闘機は、旅客機と認識しながらもロケット弾を発射し、大韓航空機を撃ち墜してしまった。無情にも乗員乗客の全員が北の海の藻屑ときえたという悲劇があった。
そういえば、一般市民をのせた旅客機と知りながら、軍規をたてに撃ち落して平然としているソ連軍の非人間性に激怒した記憶がある。

またあるときは、コロラド州デンバーから成田行きの貨物機がアンカレッジ空港を離陸後間もなく墜落炎上しコックピットの乗員は全員死亡。積荷の生きた牛60頭あまりも犠牲になった。
「生きたままの牛を運んでくるより、チルドの牛肉にして輸入したほうが、効率がいいのではありませんか?」
航空貨物に詳しい人に尋ねたところ、返事が興味深かった。
「牛は肉になった場所でブランドが決るのです。コロラド生まれの牛でも、生きて日本の土を踏んだらその時点で和牛に変身です」だと。
牛に限らずブランドと称するものは似たり寄ったりだ。

当時のアンカレッジ空港は、北極圏航路で東西を結ぶ各国旅客機で、大変な賑わいだった。国際旅客線の寄港が殆どなくなった今は、アジアと北米やヨーロッパを結ぶ貨物便の国際ハブ空港として賑っているという。

バスが市内に入ると、道路は東西が1から数える数字、南北がABCのアルファベットの碁盤の目ようを呈している。これなら初めての街でも、迷子になることはない。通りは人影がまばらで、うら寂しい。それでも、一角には歩行者天国が作ってあり、ノミの市のベンダーが出ていたが客は殆どなし。ロックバンドの演奏ももう一つもりあがらない。
いかにも人工的に造られた街は人の匂いが希薄だった。

今夜の宿はアラスカ州随一を誇るキャプテンクックホテルだ。
最上階のレストランの8時に予約したテーブルについても、白夜のせいで真昼のような明るさだ。

名物のキングクラブレッグスを注文すると、イボイボのついた大きな足が10本も大皿に山盛りで出てきて仰天した。カミさんが注文したハリブット(オヒョウ:巨大なカレイ)のソテーも、レンガほどの大きさのサカナの白身がでてきてびっくり。アラスカンキングクラブやハリブットは大阪でもレストランのメニューにあるが、ここで食べる獲れたてのカニやサカナには味でも値段でも敵わない。

アメリカンは、蟹やエビを溶かしたバターに浸けてたべる習慣がある。こんな旨いものをバターに浸して食べるワケが理解できない。カニは三杯酢、エビはマヨネーズ醤油が一番あう。

早速、キッコーマン醤油とレモンを注文し、即席のレモン醤油を作って蟹の足を食べ始める。旨い。カミさんと分け合って1人5本も食べると満腹する。ワインはカリフォルニアのシャドネー。
デザートのあと試しに注文したアメリカ産コニャックは不味くて飲めなかった。素直に認めるがブランデーはやはりフランス産にかぎる。