ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(15)
海軍病院ならではのエピソード

インスペクション

毎週金曜日の午後になると、院内各所ではインスペクションと呼ばれる行事が行われる。インスペクションは基地内の各部署が、米国海軍の規定どおりに整理整頓されているか否かを、担当の士官が見て回りチェックする実務の名称である。整理整頓を重んじる海軍の規定は厳しい。基地の病院であろうと遠洋で作戦行動中の艦隊であろうと、決められた通りの整理整頓を守ることは、すなわち軍隊としての士気と規律を維持することに準ずる。インターンやナースの宿舎も例外ではない。基地のフェンス内に住んでいる限り、宿舎の個室であってもプライバシーはないのだ。

検査官の当直将校、当直下士官および筆記用のバインダーを手にした当直水兵からなるインスペクションチームがインターンズクオーターズと呼ばれる一角のドアを開けて入ってくる。

まずチェックするのがリノリュウムの廊下だ。清掃係のスタッフは特殊なワックスを床にまいて、その上を半径60センチもある電動の床磨き機でピカピカになるまで光らせておかねばならない。光かたが不十分だと減点の対象になる。チームはクオーターズ内のロビー、学習室、バスルームとチェックして回る。

ロビーではソファやコーヒーテーブルがキチンと所定の位置になければならない。勿論、コーヒーテーブルの表面にはほこりがたまっていないかどうかを確かめるため、インスペクターは指先でなぞる。ほこりがたまっていれば減点。

学習室は5,6台の学習机がある。壁の書棚にはセシルやハリソンの内科学、クリストファーの外科学などの教科書が収納されている。書棚に積もる埃や斜めに立てかけられた書籍があると減点の対象になる。

バスルームではシャワーブースの前のリネン棚につみあげられたタオルやバスタオルが立方型になっていなければならない。

各インターンは仕事に支障のない限り、パーティションで区切られた各自の区割り内にいて、インスペクションに立ち会わねばならぬ。2人仕様の区割りの住人はインスペクションの間、その場で直立不動。インスペクターはまずは各人に一つづつ割り当ての整理ダンスの上を指でなぞり埃の有無をチェック。つぎにベッドメイクはきちんとされているか、床に塵は落ちていないか、窓は磨かれているかなどをチェックリスト順に検査を進める。

整理ダンスの引き出しを上から順に開いて、中身が整理整頓されているかどうかを見る。私物であろうがおかまいなしだ。軍隊にいるかぎりプライバシーだの、個人の権利だのはシャバの寝言にすぎない。

最後がインターンの身だしなみ。頭髪は短くクルーカットにしているか、両手の爪を短く切っているか、無精ひげは生やしていないか、着衣のワイシャツや白衣は清潔か、黒一色に統一されたネクタイに食べもののシミはついていないか、白のズボンにはアイロンが当たっているか、足元の白いソックスは汚れていないか、白靴は手入れされているかなどが厳しく調べられる。

すべてオーケイなら“スクエアドウェイ”と合格点をもらえる。スクエアドウェイというのは米国海軍の業界用語で適正という意味。あえて訳すなら「四角の状態」という意味だ。毛布や衣類をたたむ際、四角になるように整えるところから発祥したと聞いた。

インスペクションで不合格にされると翌日院内の告示板に氏名と評価が張り出される。たとえば「ドクターキムラのドレッサーの中ではシャツとパンツがもつれ合っていた。スクエアドウェイに整理せよ」などと公表される。これではたまらない。必然的に整理整頓に励むようになる。むかし江田島の海軍兵学校を卒業し、旧日本帝国海軍将校となって終戦を迎え、戦後医学部に入り直して医者になった先輩から江田島の寮でも同様の検閲があったと聞いた。

インターンの1年間、週毎のインスペクションのお蔭で整頓魔になったわたしは、いま我が家のキッチンで家内を相手にインスペクションの真似事を試みては手痛い逆襲に遭っている。何事も相手を見分けないと災厄を招くので、ほどほどにしたほうがいい。

軍事顧問が5万人

ときは昭和38年、東南アジアでは南北ベトナムの紛争が進行中だった。米国は海兵隊員5万名を軍事顧問として投入し士気の薄い南ベトナム政府軍を応援していた。顧問が5万人も要るなら実働のベトナム兵は数百万人ぐらいいるとバランスが取れるが、果たして実情はどうだったのだろう。海兵隊員は顧問といえども、勿論最前線に出て戦闘の実地指導をするのだから、犠牲者も少なくなかった。負傷者は、まず映画「マッシュ」に描かれている野戦病院で応急手術を受ける。トリヤージと呼ぶ仕分けにより、治療回復の可能性のある重症者は、ヘリでサイゴン空港に集められ、ジェット旅客機を「空飛ぶ集中治療室」に改造したDC8に載せ替えられる。DC8は毎晩サイゴンから日本の立川にある米国空軍基地(タチ)に向かう定期便だ。6時間余りのフライトのあと日本時間で夜中すぎにタチにランディングすると、待ち受けている海軍の移動ICU仕様の病院トレーラーに患者を移し、夜中のヨコスカ街道を爆走し海軍病院に午前2時ごろ到着する。トレーラーは、始めは1台だったが戦局が激しくなるにつれ海兵隊員の負傷者が増え、昭和39年の春ごろには数台に増えた。トレーラーの到着と同時に激務がはじまる当直インターンはその分だけ仕事が増えて忙しくなった。

通信兵がとち狂うと

軍隊には機密がつきものである。当時米国海軍通信基地はヨコハマ近郊の保土ヶ谷にあり、ホノルルの第7艦隊司令部から出る極秘情報を南シナ海に展開する艦隊に送信していた。取り扱う情報には高度な機密性を帯びたものあったという。

或る日、通信基地に勤務する水兵が不明の向神経薬を呑み過ぎたらしく、極度にハイの精神状態に陥って救急外来に運ばれてきた。喚き散らす言葉の端々には任務を通じて知りえた情報が含まれる。暴れる水兵を衛生兵が数人がかりで何とか処置台に載せベルトで抑制した頃、情報部のスタッフが数人到着し、ただちに水兵を収容している救急外来処置室の出入り口を閉鎖、中にいた衛生兵やわたしたちインターンを処置室から追い出してシャットアウトした。その手際のよさはジェームズボンドの映画に出てくる英国情報部員の仕事を見ているようだった。「何か大事なことをしゃべっていなかったか?聴いたことを全部いってみろ」情報部のスタッフは怖い顔で処置室にいたわれわれを問い質すが、答えはナッシングだ。鎮静剤が効いて眠りについた通信兵の患者は重要な機密情報に関与していたのだろう。いまとなっては真相を知る由もない。

“持たず、持たせず、持ちこまず?”

同じころ、外洋艦隊勤務からヨコスカ港に着いた潜水艦に乗組んだ水兵が腹痛で救急外来を訪れた。診察の結果、腹痛はたいした病気でなくてよかったが、ふと見るとユニフォームの肩の下に核マークの職務を現すロゴがついている。潜水艦のクルーと話す機会などめったにない。ちょうど救急外来がヒマな晩だったのでこのチャンスを逃してなるものかと、

「いまの潜水艦は何ヶ月ぐらい継続潜水まできるか?」、「何ヶ月に及ぶ潜水期間中、海の底で空気や水や食料の補給や、トイレの汚水の排出はどうするのか?」などここぞとばかり尋ねまくってみる。クルーはどんな質問にも丁寧に答えてくれた。

「核ミサイルは載せたまま?」と聴くと「当然でさぁ。ミサイルを抜いっちまったら、潜水艦なんて只のどん亀と同じだよ」ときた。以前から思っていたが“持たず持たせず持ちこまず”は、きれいごと過ぎはしないか。実態を伴わぬ言葉が一人歩きし美しい響きを奏でているうちに信じるものが増えてくると不動の真実になってしまう。もっと現実を見よと実際的な意見を述べる者に対しては、戦争肯定者だの非平和主義者の刻印を押しつける。平和のウラにある現実を認める勇気は、祈願と現実を重ねる癖のあるニッポン人には不似合いのようだ。

授業

「腰椎麻酔をする際の注射針の刺入は何番目の椎間に行うのが正しいか?」毎週火曜日の午後1時間、臨床各科のスタッフがインターンにしてくれる講義は質問からはじまる。この日の講師は麻酔医。腰椎麻酔の基本的知識に関する質問に手をあげて「第2と第3番腰椎の椎間」と答えると「その理由は?」と問い返される。「脊髄は第2腰椎のレベルから下は馬尾にわかれているので、2と3の間だと針を刺入れても、脊髄損傷は避けることができるからです」「その通り」で一段落。

質疑応答(Q&A)は「そのワケは?」という理由付けにきちんと答えられないと正解にならない。1963年といえば今から50年前。半世紀まえに、米国の医学教育は、「理由付け(reasoning)」を重視したQ&Aの授業の有用性を認めていた。当時のニッポンの医学部の授業はQ&Aを欠いた一方通行の講義スタイルだった。

医学部を一度卒業したら授業を受ける機会は2度と訪れない日本の研修医とちがって、米国の卒後教育には研修期間中を通じて毎週定期的に数時間の系統講義がプログラムとして組み込んであることだ。

診療の実際に即した医学知識をQ&Aスタイルで教えてくれる火曜日毎の講義を受けるのはインターン16名だが、常時出席者は半分の8人前後。あとの半分は患者ケアに忙しくて授業にでられない。だが患者ケアは何ものにも優先することが判れば、授業にでられなくてもいいのだ。

医学部在学中の4年間に全科の教授から数百回にわたって授業を受けたが、海軍病院のスタッフ軍医の授業のように判りやすく実用に役立つ知識を習う授業ではなかった。インターンの1年間に出席できた授業は30回ほどだったが、習った医学知識がその後40年間の外科診療の柱となって支えてくれた。

スタッフの海軍軍医がニッポンの大学教授より優れた物識りというのではない。スタッフ軍医は、自分が理解してきた筋道どおりに臨床の知技を教えてくれるのに対し、教授は自らが理解も経験もしていない知技でも授業だから教えるという態度だった。

日米の成人教育は基本理念が違う。質問を大歓迎する米国指導者と、一方通行の講義に専念するニッポンの医学部教授。活発に質問した学生に「キミはボクに敵意をお持ちですか?」と皮肉をあびせ口封じした教授もいた。日米医学教育の溝は深い。

(2009年3月1日 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(14)
彼女に噛まれた男性のシンボル

海軍病院の日課は朝が早い。その日に予定された外科手術の第1例目には、午前7時にメスが入る決まりになっている。外科インターンは、この時間までに外科病棟に入院中の患者全員を診て回り、前夜からの経過や検査結果をスタッフに報告しなければならない。そのためには毎朝5時半に起床し、歯磨き、洗顔、髭そりを大急ぎで済ませ、ユニフォームに着変えると、5時から開いている将校食堂で朝食をとる。手術の都合によっては、昼食はとれるかどうか判らないのが外科医の1日だ。朝飯のテーブルでは、ハムエッグやオムレツを腹いっぱい食べておかないと、長時間の手術中に低血糖で倒れることがある。

朝飯が終わると6時には外科病棟の入院患者全員の回診を始める。一人ひとりの患者の、前日から現在までの経過と検査結果をすべて掌握しておいて7時前に手術室に入ると、スタッフ外科医と並んで手洗いをしながら、全患者の経過を口頭で報告する。40人を超える患者の氏名、年令、疾患名、経過、検査結果を要約し、ストーリーとして口述報告する義務を課せられているのだ。これには相当の記憶力が要る。だが、この責務を課せられると、多様な情報を要約し、簡潔化したストーリーとして伝える術に長けてくる。はじめのうちは「これはえらいところへ来てしもた」と思ったが、慣れてしまえばなんでもない。二十歳代の脳の記憶容量は無限で、体力にも膨大な余力のあることが判る。試さぬうちから無理だのダメだのとあきらめてはいけない。やる気になれば出来るのだ。

ニッポンの病院でも、研修医たちをこの方法で教育すると、多数の患者に同時に素早く的確に対応する技術を習得させることが出来るだろう。だが実際に行動に移すとなると、まず指導医が研修医の報告を聞いて状況を即座に判定し対策を立てる能力を養わねばならぬ。それに加えて院内の他の部門のスタッフが属する労働組合との約束や公務員規定などに阻まれて、米国の研修医のように、早朝午前6時から勤務開始というわけにいかないのが残念だ。

ニッポン語1語につき罰金10セント

米国海軍病院内の会話は、勿論、すべて英語で交わされる。ニッポン人インターンにとってこれが一番辛い。慣れない異国語を使って患者を診察し、上司に報告し、カルテを記入し、講義を聴く、そのもどかしさは忍耐の限界を超える。爆発しそうな感情を抑えながらでは、研修でも仕事でも達成感がない。英語が自在に話せるようにならないことには、欲求不満は解消しないのだ。

眼科医長のインターン教育委員長は、インターン同士がニッポン語で会話するかぎり英会話能力は向上しないのに注目し、インターンに対し院内でのニッポン語の使用禁止令を発令した。「スタッフ医師あるいはナースは、ニッポン語で会話しているインターンを見つけた場合、双方のインターンからニッポン語一語につき10セントの罰金を取り立てること」というお触れを出した。10セントと言って馬鹿にしてはいけない。当時は院内食堂のランチが25セント、将校クラブで飲むドリンクが10セント、ネービーエクスチェンジで買うタバコが1カートン1ドルだから、1パック10セントだった。この罰金制度はインターンの英語力向上に抜群の効果を発揮した。半年もすると、基地の映画館で上映している字幕なしのハリウッド映画を見てゲーリークーパーやマリリン・モンローのセリフがほぼ判るほどに英語は上達した。

回診は記憶力のテスト

内科では朝7時からスタッフの総回診。内科インターンは6時から一人で回診を済ませ、一緒に回るスタッフ医師に一人一人の患者の昨夜からの経過を口頭でつぶさに報告する。この際、勿論、カルテやメモなどを見てはならない。全ての入院患者の前日からの検査伝票すべてに眼をとおすと100枚を下らない。記憶すべき数値は数百に上る。記憶力をテストされているようなものだが、これがきちんと出来ないと、回診が済んでからオフイスに呼ばれて説教を喰らう。何のこれしき負けてなるものかと記憶の底力を振り絞れば、数字ごときは幾らでも丸暗記できる。今の研修医は自分の頭脳に代わってコンパクトなコンピュータに数値を覚えさせ、メモがわりに使いながら回診する。いつの時代からこんな手抜きが許されるようになったのだろう。コンピュータの画面が消えると全ては忘却の彼方。頭の中には何も残らない。これでは勉強にならない。

彼女に噛まれたオトコのしるし

ヨコスカを母港とする第7艦隊の乗組員は市内にアパートを借りてオンリーと呼ばれる彼女を囲っている者が多かった。当時は1ドルが360円。アメリカ経済の最良の時代だったから水兵でもこんなことが可能だったのだ。或る日、水兵がアパートで彼女と69でラブメイキングの最中、興奮の絶頂に達した彼女にオトコのシルシをガブリと噛まれて出血が止まらなくなり、基地から出動した救急車で救急外来に運ばれてきた。診ると白いユニフォームのベルボトムのパンツが真っ赤に染まるほどの大出血である。まだ動脈性出血を続けているペニスを弾力包帯でぐるぐる巻きにして一時的な止血には成功したが傷には縫合が要る。なにしろペニスの人噛創を診たのは生まれて始めてのこと。いざ縫合をする段になって「海綿体に麻酔薬を注入すると静脈注射と同じことだから心停止する危険が大きいのではないか」インターンの一人が知ったかぶりの意見を述べる。鳩首協議の結果、表層のみの局所麻酔なら安全だろうと意見がまとまり処置にかかった。

水兵はペニスに針が刺さると痛さに耐え兼ねビクンビクンと飛び上がる。まるで巨大なサカナの活け造りのようで可哀想だったが無事に処置を終えた。1週間もすると傷はすっかり治りオトコのしるしは元通り役立つようになったそうだ。

移り香は洗濯機のなかで

意に反して残酷な話題に発展してしまったが、基地の暮らしにはソフトなエピソードも多い。インターンは汚れたシャツやパンツを自室に脱ぎ捨てておくと、メイドが回収して洗濯室にとどけてくれる。洗濯が仕上がると部屋まで配達してくれる。きちんとメイクしたベッドの上にたたまれている洗濯済みの下着やシャツをみると気持ちが和む。ある日洗濯室から戻ってきた下着にほんのり香水の香がただようのに気づいた。その後も何度か匂ってみると甘い香りがする。不審におもっているうち思いがけない出来事でそのナゾが解けた。

夜勤の翌朝自室に戻る時間がないので洗濯室に立ち寄り着ていた下着を洗濯済みのものと着替えることにした。洗濯室はナースのBOQ(独身将校宿舎)の一角にある。オンナの城だからオトコはみだりに入ってはいけないのだが、洗濯室だけは治外法権だった。部屋の片隅で着替えていると突然ドアが開き「アーッ」という女性の声。みると素っ裸のパッツィが両手で胸を隠して突っ立っている。胸から下はスッポンポン。こちらも素っ裸。目前にある逆三角形の栗毛パッチに目を奪われ不覚にも「ワォー」と叫んでいた。まさかオンナの城の一角に裸のオトコがいるとは思いもしなかったパッツィは、自室で汚れた下着を脱ぎ捨て、素っ裸のまま洗濯済みの下着を着るため洗濯室にやってきたのだ。

ばつの悪い一瞬が過ぎ再び目と目が合うと「ワッ」と声をあわせて大笑い。これが縁でパッツィちゃんとは裸の付き合いをするようになった。この一件によって、洗濯室のおばさんたちはインターンとナースの下着を同じ洗濯機で洗っていたことが判った。洗濯したての下着からほんのりただよう甘い香りは、洗濯機のなかでレースの下着とインターンの猿股がくんずほぐれつするうちに、交じり合った移り香だったのだ。それにしても米国海軍のナースたちは香水を浴びるがごとく消費する。それもフェロモン分泌促進剤となるタイガーマスクなどの動物系のものを好む。香水を振りまくウラにはよほどの欲求不満があるとみたが確かめるすべがない。したがって真相は今もって不明のままだ。

(2009年2月1日 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(13)
クリスマスパーティはヤドリギの下がいい

海軍病院のインターンは朝7時から翌日の夕方5時まで34時間ぶっ続けのオンコールのあと翌朝7時までの14時間がフリータイムというシフトで勤務する。この48時間が1単位というシフトを月曜日から金曜日までの5日間に2.5サイクル反復する。週末は隔週毎に48時間ぶっ続けのオンコール。実働時間を1週間にならして総和すると109時間になる。オンコールの間は、回診や処置などの日常勤務に加えて、緊急入院患者の病歴聴取、診察、入院後の検査や治療の指示、カルテ記載などがセットになっている“ワークアップ”と呼ばれる入院手続きを行う。これは何人の患者が入院しようと、全員の入院時ワークアップをオンコールの時間内に完了してしまうのが義務である。手早く効率のいい仕事が要求されるが、それも研修教程のうちなのだ。


インターンは過酷労働

 緊急手術が必要な患者では、手術室や麻酔医への連絡、術前ケア、術中の助手、術後管理などすべてがオンコールインターンの双肩にかかる。退院する患者があれば、その手続き業務もしなければならない。オンコール中でも5時すぎて患者の出入りがなければ休んでいいことになっている。だが患者の緊急入院は24時間ときを選ばない。夜間に複数の患者が同時に入院すると、オンコール中のインターンは夜中でもベッドから抜け出て、入院ワークアップをしなければならない。オンコール中なゆっくり眠る時間は殆どないのだ。

夕方5時前になると、前日からオンコールだったインターンは睡眠不足のせいで目の淵に黒い隈が出来るからすぐに見分けがつく。

当時のインターンはなぜそれほどに過酷な労働を強いられたのか? 何十年もの間米国の医療界は、若い医者を鍛えて一人前に育てるためには、体力と気力の限界まで働かせることが最善なりと信じてきた。

先輩外科医と手術の合間にかわす会話では、「オレ達が外科インターンだった頃には、1週間1日も休みなくぶっ続けにオンコールだったんだぜ」だの「患者60人の病棟を一人で受け持って全員をきっちりケアできた」だの、過去に困難に打ち勝って達成した自慢話ばかりきかされた。そして最後には必ず「当時のオレたちと比べると、今どきのお前たちインターンは“お医者さんごっこ”して遊んでいるようなものだ」まるで今どきに生まれてきたのが犯罪であるかのようなセリフで結ぶ。


長期オンコールは不倫を招く

 その頃、心臓外科で有名なテキサスの大学病院の胸部外科研修プログラムには6ヶ月間継続オンコールという内規があった。あすから長期オンコールが始まるという日には、病院の正門で愛しのカミさんと抱き合い泣き別れる風景が見られたという。しかし、この非人間的な内規は、研修医たちの間で、離婚、不倫、自殺などさまざまな災厄を産み、社会の注目を集めるにいたった。そこで一歩後退し、海軍病院のわれわれインターンと同じ1週間109時間のシフトに戻されたと聞かされた。

今、全米どこの病院でも研修医のオンコールは週80時間を越えてはならないと立法化されている。これを筆者がインターンをした1960年代と比べてみると信じられないほど楽である。それでもアイオワ大学病院のわたしの小児外科では、研修医は3日に一度院内で泊り込みのオンコールをしている。1ヶ月間に入院する患者は50人余り。規定の2ヶ月間、小児外科に勤務しながら研修すると、100人以上の手術患者のケアに当たるから多忙である。これだけの数の手術患者を経験すると、小児外科のおもな疾患には一通り当たることが出来る。


ニッポンの医師はチーム診療が苦手

ニッポンの研修医は米国のインターンと比べると明らかに甘やかされている。労働基準法に基づいて研修医を週に40時間以上働かせてはならぬという。理由は単純。国から給与を貰っている人間は、ほかの職場の公務員と同じ労働条件に従うべしという。週40時間の研修で果たして患者の治療が出来る医者が育つのだろうか。いいウデの医者は出来ないのではないか。

いま、米国の殆どの病院の診療スタイルは、“チーム診療”である。入院患者は複数の医師がチームを結成してケアにあたる。医師の一人ひとりがすべての患者を100%熟知していてチームで決めた治療方針に忠実にケアをするというスタイルだ。ニッポンの病院では今でも”主治医“と称する個別の医師が”自分の患者“を抱え込んで他の医師には指も触れさせず、同じ科の患者であっても他の医師が主治医をしている患者には一切関知しないという屋内手工業時代の診療スタイルをとっている。当然、医師一人が診る患者数には限度があり、米国の医師一人が診療する患者の4分の1の患者しかケアできないというデータがある。ニッポンで深刻な社会問題となっている医師不足はチーム診療の導入でかなり解消されるのだが、ドクター達は永年身についた習慣を変えたくないのだ。だからいつまでたっても実現しない。


ニッポンの働き者は超勤手当てが目的?
 

余談だが、「世界で一番の働きものは?」とニッポン人の集いで尋ねてみると、「勿論、私たちニッポン人です!」と声をそろえた返事が返ってくる。わたしの答えは「ノー」だ。一番の働きものは、なんといっても、アメリカ本土の企業や病院で働くアメリカ人だ。

ニッポンにくるたび、ホテルの向かいのビルのオフイスでは、午後10時を過ぎても煌々と灯りがともり、日中と同じように働いている男女の姿を見る。オフイスにいる時間だけは世界最長かもしれないが、パーフォーマンスは低い。「社員たちは、どうしてもっと段取りよく仕事を済ませて、早く家に帰らないのですか?」と尋ねると、「超過勤務手当てが目的で居残っているだけですよ」と某企業の管理職は吐き捨てるように答えてくれた。


ケネディ大統領暗殺

ハナシを1963年の米国海軍病院に戻そう。

11月末のサンクスギビングディからクリスマスまでのひと月間は、アメリカンなら誰でもが1年で一番楽しい時期。ところがこの年は違った。1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問中のケネディ大統領がオープンカーでパレードの最中、何者かに銃撃され暗殺されたのだ。

この朝、いつものように患者を回診するため7時に病棟に行ってみると、雰囲気が尋常でない。ナースも衛生兵もそして患者も、ナースステーションのラジオに耳を傾けながら、みんな涙を流して泣いているのだ。何ごとならんと尋ねたところ、大統領が撃たれて亡くなったという。びっくり仰天して窓の外をみると、基地中あちこちに掲揚されているすべての星条旗が反旗になっていた。軍の基地という特殊環境であることを割り引いても、アメリカ人は自分達の選んだ大統領に強い敬意を表す国民だと強く認識した。


クリスマスパーティ

それから一月、大統領暗殺による院内の動揺も一段落した頃、

「今夜はナースのBOQ(独身将校宿舎)でクリスマスパーティがあるのだけど一緒にいかない?」

海軍看護中尉殿のパッツィちゃんに誘われ、当時流行していたアイビールックのダークスーツに袖を通し、細身のタイを結んでお出まし。BOQの建物は入り口にラウンジがあって、それから先は真ん中のローカを挟んで両サイドが各ナースの個室になっている。個室のドアは全部外に向かって開いた状態になっているのが不思議に思えたが、そのワケはあとで判った。

パーティ会場のラウンジに足を踏み入れかけると、あでやかなドレスに身をつつんだパッツィにいきなり抱きつかれ口唇に熱い接吻を受けた。愉しい不意打ちのキスに「何だ、これは?」と戸惑っていると、こんどは横にいたベッキーからまたもや熱い口付け。美女二人から濃厚なキスの往復パンチに、ますます混乱してナニがなんだかわからない。

「見上げてごらん、ほら、ドアの上にヤドリギがぶらさがっているでしょ。独身者だけのクリスマスパーティでは、このヤドリギの下では、好きな相手なら誰とキスしてもいいという掟があるの」

こんなステキなルールがあるとは知らなかったなあ。ふと窓ガラスに映るわが姿をみると、口の周りはルージュでまっかっか。

フルーツパンチにラムをしこたま仕込んだ飲み物のグラスを重ねているうちに、パーティ会場にいた人の数がだんだん減っていく。がらんとしたラウンジに最後まで残っているのはパッツィとボクだけ。

「みんなどこへいったの?」

「あっちの方よ」

グラス片手のパッツィがとろけるような流し目で指す方角は個室の並ぶローカ。眺めてみると、パーティの始まった頃には開いていた部屋のドアが、いまは1室だけを残して全部閉まっている。なるほどそういうことか。これで初めにドアが開かれていたワケが判ったぞ。

そのあと何がどうなったかは、しこたま飲んだラム入りフルーツパンチのせいでメモリーが完全に消失してしまい、いまでは何一つ記憶にない。だからここに書くわけにいかぬ。御免。

(2009年 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(12)
ドクターストップ

2011年のいまアメリカの大学病院など総合病院に設置されている第1級救急医療センターは、救急医療の専門医、研修医、ナース、検査技師が常時30名ほど詰めていて、同時に複数の救急患者が運び込まれても即応できる体制を整えている。緊急手術室のほかに、専用の臨床検査室、超音波診断、MRやCT撮影など画像診断装置を備え、24時間体制で維持することが、第1級センターの認定基準だ。妊産婦や新生児の救急患者は、院内のそれぞれのセンターが別個に受け付けるシステムだ。
アイオワ大学病院に勤務した14年間、妊産婦や新生児をふくめて救急患者の受け入れが出来なくて断るという事態は一度もなかった。ERには専門の研修をうけた医師団や他のスタッフが30人も詰めていて即座に治療にかかるのだ。こうした治療をうける急病人の数は1年間に5万人にのぼる。
アイオワ大学病院は、州民を代表する州知事との約束で、州民である限り医療費の支払い能力にかかわらず、訪れた患者あるいは運びこまれた急病人はすべて無条件に最善の治療をすることになっている。
ニッポンで救急車を呼ぶと、受け入れてくれるセンターを探す間、病人は救急車内でひたすら待たねばならぬという。そうしている間にも時は無為に過ぎていく。それが原因で、患者に不幸な結果を招くことが、深刻な社会問題になっている。しばらく日本に住んでみると、交通事故にあったり、心臓や脳の血管が詰まったりしたばあい、直ちに専門医の治療を受けられる保証はないのに気付く。言いたくはないが、医療先進国アメリカに暮らすありがたみがはじめて実感されるのだ。

救急外来:ケンカの敗者はラッパ吹き

40年前のヨコスカ米国海軍病院の救急外来には、当番のスタッフ医師1名、インターン2名、衛生兵2名が詰めているだけの小所帯で、すべての救急患者の治療にあたっていた。救急患者のほとんどは、兵隊同士のケンカで傷ついた怪我人だった。洋上に展開する艦隊から緊急患者がヘリで運ばれてくることはまれだった。平和な時期がつづくと、軍隊の病院はヒマなのだ。
USネービーの水兵と海兵隊員の間には、犬猿の仲ともいうべき伝統の確執がある。あるとき海兵隊の軍曹が部下の隊員に訓示を垂れるのを聞いて仰天した。
「貴様らUSマリンは世界最強の兵隊だ。その海兵隊員が軟弱水兵どもとケンカして負けることは、オレは絶対に許さんぞ!」
まるで自国海軍と交戦中のような激しい檄を飛ばす。これでは水兵とケンカしろとけしかけているようなものではないか。喝をいれられた海兵隊員は、ヨコスカの夜の街で水兵とすれ違うと、肩がふれたの、ガンをつけたのと些細なことに因縁をつけ、好んで争いに持ち込むのだった。
ケンカになると水兵に勝ち目はない。なにしろ相手は世界最強の兵士として格闘技の訓練をうけたプロなのだ。
海兵隊員は目前の敵には先手必勝、速攻で相手を破壊することが勝利につながると教えられている。一方の水兵たちが受ける戦闘訓練は、専ら艦上のモニターのスクリーン上に現れる目標に向かってミサイルの発射ボタンを押すことだ。落下地点でミサイルが起こした破壊成果を体感することはない。二者の間では、闘うまえから勝者は決っている。
海兵隊員は、水兵のなかでも軍楽隊のメンバーをなぜか好んで破壊の標的とする。生贄となった軍楽隊員メンバーを何人か治療した。軍楽隊かどうかの見分けは水兵の着ているセーラー服の肩についたラッパのマークだ。あるとき加害者の海兵隊員に、楽団員をなぜ嫌うのかと尋ねてみた。返ってきた答は、
「俺たちが戦場で血みどろになって戦っているとき、のんびりラッパなんぞ吹いているヤツは許せねぇ」だと。
世界最強の米海兵隊員でも、多勢に無勢の状況下だと、軟弱水兵にノックアウトを喰らうこともある。闘いに敗れた海兵隊員の治療を終えてバラック(兵舎)に連絡すると、当直下士官が部下を連れジープを飛ばして迎えにくる。
部下が負傷した場合、その原因がなんであれ、上司たるもの真っ先に部下の様態を気遣うのが常識だろう。ところが、この常識は海兵隊の下士官には通用しない。ストレッチャーの上で、まだ意識もうろうとしている部下の隊員にむかって、
「お前は、水兵ごときにノックアウトされた情けないヤツだ。海兵隊の恥さらしだ!」
と叱りつけているオニ軍曹の姿を何度も目にした。
怒り狂ったオニ軍曹は半病人の部下を、まるで荷物でも運ぶかのように、ジープの後部座席に放り込んで走り去るのだった。こんな扱いを見るたび、軍隊に徴兵される機会をうまく避けて生きて来られた時代に感謝し、我が人生の幸運に胸をなでおろすのだった。
戦後の60余年間、一度も戦争に巻き込まれずに平和を謳歌してきた日本という国は人も社会も堕落した。堕落したっていいじゃないか。みんなが平和で豊かに暮らせる社会を目指して昭和の人間は頑張り通してきたのだ。行き着いたゴールが堕落したニッポンというわけだ。意気地なしだろうと女々しかろうと殺し合いをするよりましだと思うのは、いまや昭和人間のなかでも少数派となった、戦争を体験した世代を生きたからだろう。戦争の思い出はひもじさと寒さだけである。

ドクターストップ

そんな血なまぐさい救急外来に勤務していた或る日、スタッフ医師から
「今夜は海軍と海兵隊のボクシング対抗試合があるから、立会い医師としてジムへ出向するように」という命令を受けた。迎えにきたハンビーとよぶ灰色の兵員輸送車に乗って、基地内のジムにむかう。運転する下士官は鼻のつぶれた元ボクサー。
「ドック(ドクター)、くれぐれも注意しておきますが、あっしが合図するまで、タオルをリングに投げ入れたりしてはいけませんぜ。ちょっと鼻血が出るのを見ると、新米のドックはびびってすぐドクターストップをかけてしまうので困るのです」
ボクシングの立会いドクターを勤めるのは、これが生まれて初めての経験だった。
白衣のユニフォーム姿でリングサイドに詰める。やがてゴングが鳴って試合がはじまる。観客席を埋める海軍と海兵隊両陣営から喚声があがる。なかには女性の姿もちらほら。両軍の期待を双肩に背負う選手は、互いに相手をグッとにらみつけ、闘争本能をむき出しにする。リングシューズがキャンバスをこするたび、キュッキュッという音をたてる。
第1ラウンドはほぼ互角。第2ラウンド目に入ると、リングサイドのドクター席に選手の流す汗がしぶきとなって降りかかってくる。パンチを出すたび、選手が発するウッだのオッだのの掛け声が頻繁になる。パンチがチン(顎)に入ると、相手は一瞬ぐらつく。観客席からは指笛のホイッスルがいりまじった大歓声。興奮はピークに達する。
「倒せ、倒せ(knock him out!)」にまじって、
「殺せ、殺せ(kill him!)」という声も聞こえる。敗色の濃い水兵はまぶたが腫れあがって両目は完全に塞がっているようにみえる。パンチを受けるたびに、口から血の混じった唾液と一緒にマウスピースが飛び出しかける。それをグローブで押し込みながら闘い続けようとする。テレビで観るのと比べると、実物は格段に迫力が違う。正直、どっちが勝ってもいいから、すぐ止めて欲しいと思った。
なんという野蛮なゲームだ。リングの上では、人間が人間を合法的に破壊し負傷させることが許される。観客席の人間共は、その様を眺めて喜悦にふける。「もっとやれ、倒せ、殺せ」と叫びつづけるのはまさに狂気の沙汰だ。
リング上で、無力のまま破壊されていく人間を目の当たりにすると、本能的にドクターストップをかけたくなる。ボクシングという非人間的ゲームに、つのる憎悪が止まらなかった。
同じ日のつい数時間前、脳外科の授業で「頭部に反復して衝撃をうけると、脳内の微細血管が切れて出血し、これが脳組織に不可逆的な損傷をあたえる。パンチドランカーはその典型だ」と教えられたばかりだ。目の前の試合をみていると、これで脳の血管が切れないほうがおかしい。タオルを投げたくてうずうずしていると、隣に座る元ボクサーの下士官から、
「ドック、まだまだ。タオルを投げては駄目だよ」
と念を押される。試合は第3ラウンドに水兵がノックアウトされ、残酷なショウはやっと幕を下ろした。このとき、もうボクシングのドクターは2度としないと固く誓った。いまでも地上からボクシングが消滅することを願っている。

日米対抗フットボール試合

ボクシングの試合から数週間過ぎた土曜日、救急医療センターのスタッフから、基地内のスタジアムに明治大学チームを招いたアメリカンフットボールの日米対抗試合があるから立会いドックとして出向くよう命令を受けた。フットボールスタジアムに着いてみると、観客席の全員がアメリカンだ。これはフェアでない。明治の応援団も、選手の家族やガールフレンドたちも、基地のゲートを護る海兵隊員のガードにシャットアウトを喰らわされて、中に入ることが出来なかったのだ。米国政府が日米友好関係をことのほか尊重する今であれば、「みなさん、基地にようこそ。ウェルカムだよ」と大歓迎だろう。だが1960年代の米軍基地は周囲にフェンスを張り巡らし、入り口おどろおどろしいオフリミットの札を立て、一般の日本人を招き入れることはなかった。
こんな状況下で、明大チームを応援するニッポン人といえば微力ながらわたし一人しかない。「力続く限り明治を応援してやるぜ」と、固い決意を心に秘め、医療班が詰める所定の席につく。
主任ジャッジのホイッスルが鳴り響き、明治チームのキックオフで試合は始まった。迎え打つUSネービーチームと比べると、明治の選手たちは身長で8インチ(20センチ)、体重では30ポンド(14キロ)ぐらい劣って見える。まるで大人と子どもが闘っているようなものだ。
「メイジ、頑張れ。鬼畜米海軍なんぞに負けるな。大和魂でいけ!」
とニッポン語で檄を飛ばすが、観客席の大歓声のせいでフィールドにいる選手には届かない。明治の攻撃になっても、総崩れのディフェンスでは小柄なクオーターバックを護りきれず、パスを投げるまえにあえなくつぶされてしまう。大男どもにのしかかられ押しつぶされて、起き上がられなくなった明治のクオーターバックに駆け寄りしっかりせよと抱きおこす。脳震盪をおこして朦朧としながら耳にするニッポン語の励ましで目が覚めた若者、リトルアメリカに居る筈もないニッポン人の顔を見て、天国に着いたものと勘違いしたかもしれる。それからの働きには目覚しいものが見られた。
声も涸れよとばかり檄をとばしてみたが、応援団の多勢に無勢、両軍の体力の違いは如何んとも仕難く、わが明治は天文学的数字の大差で負けた。 今のニッポンの若者は、上背が6フィート(180センチ)を越えるものも少なくない。いまなら互角で闘えるのではなかろうか。かなうことなら、いまの明治チームをタイムトンネルに乗せて1963年に連れ戻し、当時のUSネービーのチームと闘わせてみたいものだ。互角の勝負になるのではないか。

(2008年12月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(11)
吼える外科医

若い外科医は、師事するマエストロ(師匠)の色に簡単に染まる。
医学部を卒業したての若い外科医は、乾いたスポンジにたとえられる。スポンジが水を含むと膨らむように、知識や技術の吸収欲が大きいほど、技術や経験の蓄積は増加する。先達から受け継いだ知と技は、余すところなく後進に伝えていくのが、外科医の世界の伝統だ。こうして知見の伝承を重ねていくうち、医学は気付かぬ間にも前進する。
若かりし日、外科医として最も強い感化をうけたのは、島の病院で教えをうけたドクターSだった。
難しい手術の途中で、背筋が冷たくなるような危機に直面しても、あわてず騒がず、するべきことをきちんとすればいいのだよ、とその背中は教えてくれた。
その後ボストンで1年間教えを受けたF教授からは、怒らず、偉ぶらず、危急にあわてず、寛大で忍耐強くあれと教わったが、師の蔭に到達せぬうちに外科医を引退してしまった。

ハウンドドッグ

一方、こんな外科医には絶対になりたくないと思う、反面教師もいる。
そんな外科医がヨコスカ海軍病院にもいた。
仮にLと呼ぶ彼は、その言の端々から推測すると、若かりし日にスパルタ式修練こそ善なりとする先輩から、厳しくしごかれたのだろう。そときのトラウマが心の片隅に残っているので、手術が思い通りに進まなくなると、まわりにいるスタッフに当り散らすようになったのだろう。たとえば、前立ち助手(患者をはさんだ手術台の対側に立って外科医の第一助手を務めるアシスタント)をしているインターンが、慣れない糸結びにもたつくと、
「何をもたもたしているのだ。お前がもたつくせいで、オレのこの素晴らしい手術もそこらのクズ医者のやる手術と同じになってしまうじゃないか」
となじり倒す。
罵詈雑言だけならともかく、前立ちするインターンの弁慶の泣き所を手術台の下で蹴りつける。前立ち助手を務めるインターンは、患者の命にかかわるほど重大なミスをしたわけではない。未熟さゆえに、ちょっともたついただけなのだ。それだけのことに、オレの手術にケチをつけたと因縁をつけるところなど、街で肩切るチンピラと変らない。インターンが手術時間を数秒浪費したからといって、手術台の下で足を蹴っ飛ばされる筋合いなんかない。あまりの理不尽にインターンたちは鳩首会議を開いて対応策を練ったのだが、どの案も妙案とはいえない。いざとなると、これという良案は浮かんでこないものだ。

そんな或る日、いつものようにLの罵詈雑言を浴びながら、手術助手をしていた女性インターンEは、Lが口を滑らせた一言にぶちきれた。
「お前のように下手糞な助手は見たことがない。もう、助手をしなくていいから、手術場から出て失せろ!」
「そうですか。それではご命令に従ってそうさせていただきます」
さっさと手術台から離れて、ガウンを脱ぎ捨て、両手からゴム手袋を外し、あとを振りむきもせず手術室から出て行ってしまった。
この女性インターンEは、根性のない男どもに出来ない快挙をなしとげた「ガッツのヒロイン」と、大喝采を浴びた。
蹴とばされても、アホのバカのと呼ばれても、「出て行け!」と怒鳴られても、インターンは「すみません」と謝るに違いないと思い込んでいたLは、「ガッツのヒロイン」からうけた強力なカウンターパンチに泡を喰った。助手がいなければ、自称“手術の名人”でも手術の続行は難しい。自分で「出て行け」といったからには、追いかけて引き戻すわけにいかぬ。パニックに陥ったLは、麻酔医とナースに当り散らしながら、四苦八苦のうちに手術を終えたそうだ。

ささやかな報復

開胸手術は、患者の胸を開いて病変に犯された肺の一部を切除する大手術である。この大手術でLの助手をする運命が巡ってきた。
大口をたたきまくるLは、みんなから嫌われているが、手術の技術は抜群だ。手術は順調に進行し、肺の一部を無事切除したのち、開いた胸を閉じる作業に入った。胸を開いた傷を閉じるには、切開部上下の肋骨に太い縫合糸をかけて両者を寄せ合わせる。外科医のなかには縫合糸のブランドに強いこだわりを持つ人もいる。縫合の局面に応じて、使う縫合糸の番手を頑なに守りぬく外科医もいる。いずれも師と仰ぐ外科医のクセを受け継いだ頑固者たちだ。思いどおりの縫合糸が揃わないと手術をしないという偏屈もいる。Lもそんな外科医の一人だった。

ブランドレスの無名縫合糸でも、縫合糸には替わりはない。意中の番手がなくても、一番手上下の糸で代替すればよい。そんな余裕を持つことが、外科医の腕の見せ所というものだ。ところが石頭の頑固者たちは、自分が大外科医になったつもりでいるから、手術中はどんなわがままでも通してもらえると単純に信じている。まるで幼稚園児のような発想だが、そんな外科医がメスを持つと困ることが起きる。

わき道にそれるが、わたしは外科医現役の間に10数カ国の大学病院から招かれて各種の供覧手術に出向いた。初めて出合った異国のスタッフたちとぶっつけ本番で行う手術には、ブランドの糸もなければ、番手の選り好みも許されない。一緒に手術するスタッフと言葉が通じない場面も多く経験した。いつも使っている手馴れた器具や豊富な材料、助手を務めるスタッフを連れていけば、最善の手術を見てもらえるのではないかという意見もある。だが、供覧手術を望む現地の人たちの教育にならない。現地にあるものを使って手術をやり遂げる技術を教えることにこそ供覧手術の意義があるのだ。

はなしをLの肺切除手術に戻そう。
病変に犯された肺を無事に切除し、いざ開いた胸の傷を閉じるという段になってLは、
「オレが手術まえに頼んでおいたブランドと番手の縫合糸を出せ」
とゴネはじめた。
手術室の婦長を呼びつけ、
「この病院にストックがなければ、立川の米国空軍病院に電話で尋ねてみろ。もし空軍のヤツらが在庫を持っているなら、チョッパーを飛ばしてピックアップしてこい」
と無理難題をおしつける。チョッパーというのは業界用語でヘリコプターのこと。いくらUSネービーといえども、たかが縫合糸一袋のために立川基地の空軍病院に向かって、ヘリコプターを発進させるワケにはいかぬ。ここに至ってついに思案の糸が途切れた婦長は、病院長のお出ましを発令したのだった。
院長が手術場に入ってくると、それまで狂犬のごとく吼えまくっていたLも、さすがにおとなしくなった。院長にむかって悪態をつくと軍法会議にかけられる可能性がある。院長はLに、
「望みの縫合糸がなければ、替わりのもので間に合わせなさい。これは院長命令だ」
と穏やかなひと言を残して手術室をあとにした。
胸のすくようなガバナンス(統治力)だった。今ニッポンの病院が抱えている多くの問題は、院長にこのガバナンスを持たせることによって殆ど解決する。

さて、いよいよ胸の傷を閉じ終えてスポンジカウント(ガーゼ勘定)をしてみると1枚足りない。アメリカの病院では手術の開始前と終了後にガーゼや手術器具の数を勘定することが法で義務付けられている。術前と術後に員数が合えば問題ないが、そうでなければレントゲン写真をとって調べる。そのため手術に使うガーゼには、はじめからX線に写るマーカーが付けられている。これで発見されない場合には、縫った傷をもう一度開いて、胸の中を徹底的に調べるのだ。何度数えなおしてみても、ガーゼは一枚足りないのだ。Lの顔色は真っ青。
もう一度胸を開くとなると麻酔医やナースたちに「すまないが頼む」と頭を下げねばならぬ。インターンにも頭はさげるべきだが、多分、Lはしないだろうと思っていたら、やはりその通りだった。
ナースが電話でレントゲン技師を呼びかけた頃、一緒に手術助手についていたもう一人のインターンのKが「ここにありました!」と手にしたガーゼを高く掲げた。
あれほど探して見つからなかったガーゼのヤツめ、一体何処に隠れていたのだ。その場は何事もなく収まったが、あとでKが告白した真相を知って仰天した。
「Lの奴を少し懲らしめてやろうとおもってさ、オレの手のなかに隠してたんだ」
後年、Kは東京の大学で外科教授になったが、心筋梗塞で50代半ばの若さで亡くなった。ガッツのある惜しい男を失った。

ユニークな仕返し

Lを懲らしめるためなら頭脳はいくらでも提供するぜというインターンの一人が発案実行した仕返しは、なかなかユニークだった。
毎週火曜日の午後、Lは外来で患者を診察する。患者の殆どは海軍や海兵隊の将兵だが、ときにはその家族や軍属とよぶ一般市民も診る。一回の診察は15分間で予約制だ。1時間に4人診るだけだから、頭のてっぺんからつま先まで完璧な診察をする。その診察には直腸診も含まれている。直腸診は、ゴム手袋をはめた医師の指を肛門に挿入し、痔核、ポリープ、直腸ガンなどの有無をしらべる診察手技の一つだ。当時は手術室で使いふるしたゴム手袋を洗って消毒し、それを外来で直腸診に再使用していた。もちろん直腸診に使ったあとはゴミ箱に捨てることになっていた。どこまでも尊大なLは、ナースに命じて自分専用のゴム手袋を用意させ、インターンたちには絶対に使わせないよう命令していた。

ある日、天才的頭脳を持つインターンNのは思いついた妙案は、左手を使って患者の直腸診をしたゴム手袋をゴミ箱に捨てないでそのまま裏表をひっくり返し、右手用にみせかけてL専用のゴム手袋の一番上にさりげなく置いて知らぬ顔を決め込むという策略だった。
その日の午後外来を訪れた最初の予約患者を診察していたLは、この患者に直腸診をする運びとなった。Lがゴム手袋を手にとる。Nはじめ数人のインターンが固唾を呑んでみまもる中、ゴム手袋はLの右手にはめられていく。
人差し指が先まではまって異変に気づいたLの表情がゆがむ。大急ぎで手袋を外し、指を鼻先に持っていくと、あってならぬ異臭がLの鼻をついた。天才Nが仕組んだこととは露知らぬLは、大声でナースを呼びつけ、
「ゴム手袋はオレ様専用のものを用意しろといっておいた筈だ!見ろ。これは破れているではないか!」
と怒鳴りつけたがあとの祭り。
UNCHIのついた人差し指を石鹸で洗いまくるLの背中には、一匹狼の孤独な淋しさが宿っていた。

(2008年11月1日付 イーストウエストジャーナル紙)