アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(8)

8日目

アラスカ鉄道本線から観光船専用突堤まで特別に敷設された引込線を降りると、目の前の岸壁に全長300メートルの真っ白なコラルプリンセス号の巨体が横たわっていた。停車場から船まで100メートルほどの屋根付きの通路を歩いて、船の横っ腹に空いた乗船口から船内に乗り込むと、当直オフィサーが“ウエルカムアボード”と笑顔で迎えてくれる。純白のユニフォームに長身の身をつつみ、きりりと背筋を伸ばしたイケ面オフィサーの姿は、わがカミさんの心を強く揺さぶった。
「白人の男性ってユニフォーム姿になるとみんなカッコいいわね」
「仕事姿ならニッポンの男も捨てたものではないよ。手術着姿が表紙になって全米に配布された雑誌の外科医のボクを見て、カッコいいと言ったじゃない」と一言クギを刺しておく。

乗船手続きデスクにパスポートを提示し本人確認を受けると、次は顔写真撮影だ。しばらく待つあいだに、テロリストや凶悪犯罪で手配中の人物との照合が終了する。オーケィが出ると、空港のセキュリティゲートと同じ金属探知ゲートに進み、ナイフや銃など物騒なものを身につけていないか調べられる。ボディチェックのあとは手荷物のX線検査だ。すべての検査をめでたくパスすると免許証大のプラスチックカードと書類の入った封筒を手渡される。カードの裏には顔写真が焼き付けられていて、航海中の身分証明を兼ねている。このカードは自室のキー、船内での食事や買い物などのクレジット、それに上下船するときの通行証になるから常時身に付けておくようにと忠告をうける。

予約したキャビンはエレベーターで5階上がったDデッキ。延々と続く長い内廊下を歩いて自室に落ち着くとどっと疲れがでた。
キャビンは右舷側。つまり船の進行方向にむかって右側だ。今回予約したミニスィートの間取りは、入口からバスルーム、クローゼット、寝室、リビング兼ラウンジ、プライベートデッキの順の配置だ。寝室には通常サイズのツインベッド、インターネットに随時接続できる仕事デスク、ラウンジには4人掛けのソファと椅子、コーヒーテーブル、カクテルトレイ、冷蔵庫、書棚などが機能的に並んでいる。テレビは寝室とラウンジに1台ずつ。床から天井までガラス張りのスライディングドアを出るとプライベートデッキだ。隣室のキャビンとは板塀で仕切られプライバシーが保たれている。デッキには4人掛けのテーブルが置かれ、航海中カクテルを飲みながら舷側の手すり越しに海を眺められる仕組みだ。コンパクトながら各セクションのスペースにはほどほどの余裕があり、1週間の航海を快適に過ごすことができた。

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写真1・2 キャビンの中

アラスカを陸路縦断中、各地の宿から船あてに別送した荷物はキャビンに入れてあると聞いたが、あちこち探しても室内に見当たらない。最後にベッドの下をのぞいてみたら、スーツケース3つとダッフルバッグがきちんと並べられて鎮座していた。2,000人を超える乗客を扱いながら、プリンセスクルーズの手抜かりのないサービスの手際よさには改めて脱帽する。

デッキに出て舷側の手すりにもたれてみると20メートル下の波止場には乗船を待つ人の長蛇の列。9万トンを超える船が2,000人の乗客を飲み込む様子がみえる。午後8時の出航に合わせて正午過ぎから乗船受付を始めたという。行列には東洋人の姿がほとんど見あたらない。キャビンサービスにきた若いフィリピン人の部屋係のアンディに尋ねてみると、このクルーズには日本人のツアーグループはゼロ、韓国と中国から数人のグループがそれぞれ1組ずつ乗船しているとのことだった。

出航まえの必須事項である非難訓練をするから劇場に集まれという指示に従い、シアターフロアに上る。集まる船客は各人各様。千人を収容する座席がほぼ満席になった時点で、20人ほどのスタッフがステージや通路に立ち、ライフジャケットの着用方法のデモを行う。飛行機に乗るとフライトアテンダントが必ずデモをおこなうあの仕草と全く同じ。各デッキの両舷に吊ってある救命ボートの所在確認を終えて解散。

アラスカは白夜だから、午後7時を過ぎてもまるで昼間のような錯覚をうける。さすがに空腹を覚え、シャワーを浴び気分爽快になったところで食事に出かける。船内には本格的なフランス料理、イタリア料理のレストランを筆頭に、普通のアメリカ料理のメニューを出すレストランが幾つかのほか、ハンバーガー、ピザなどのファーストフード、バーやラウンジなども含めると食事のできる場所は10ヵ所を超える。乗客2,000人にクルーを併せると2,700人もの人間が載っている巨大豪華客船で、全員の胃袋を満たすには、毎日8,000食もの食事を調理する機能が必要だ。10幾つのレストランで足りるのかと心配したがあとで杞憂と判明した。喫水線から50メートルもの高さにあるデッキには、24時間フルオープンしているブッフェのカフェテリアがあり、真夜中、明け方を問わず、いつなん時でも食事ができる仕組みだ。ここでの食事代はクルーズ費に含まれているので代金の心配はいらない。フレンチやイタリアンレストランでは、メニューごとにチャージを取るが、街のレストランほど高くはない。好きなものを好きなだけすぐ食べられるカフェテリアは一度に1,000人ぐらいが座れるスケールだから、乗客多しといえども、行列をして待たされる心配はまったくない。

長い列車の旅で疲れていたので、いまさら予約やドレスアップの要るフレンチやイタリアンディナーはしたくない気分だ。航海初日のディナーはジーンズにスニーカーで入れるカフェテリアで済ますと決めた。エレベーターで最上階のデッキに上がってみると、全く気付かなかったが、船はすでに港を離れて大海原を疾走中。これには驚いた。

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写真3 航行中のキャビンから船首方向をみたところ

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写真4 同、船尾方向。とてつもなく長く感じられる。

ドラが鳴り響き、ブラスバンドが演奏し、舷側に集った船客の投げる無数のテープが宙に舞う中を、船はボーっという汽笛を何度も鳴らしながらしずしずと桟橋を離れていくという物悲しい風景が、25年前まで住みなれた港コウベの船出のイメージだ。ところが今度のアラスカ航路では、最終寄港地のバンクーバーに着くまでの1週間、ほとんど毎日各地に寄港したが、出船時にはいつも船は音を殺して滑るように港を出ていくのだった。

白夜の北の海では9時すぎてもまだ水平線上に太陽が残っている。
日が沈まない風景を目にすると、身体も昼間と感じるのか夜特有の眠りを誘うけだるさが湧いてこない。眠れぬままに船の機能のあれこれについて想いを馳せてみる。
2,700人もの人間が1週間を過ごすこの船では、いったいどれぐらいの量の水を消費するのだろう。一人が1日2リッターの水を飲むとすると、飲み水だけでも毎日54トンになる。トイレ、洗顔、シャワー、風呂、プール、食器洗い、リネンの洗濯、甲板掃除などに使う水をあわせると、一体何百トンになるだろう。この船にはそれほど大量の真水を積み込んでいるのだろうか。気がかりになりだすとますます頭が冴えてくる。

キャビンのテレビで「コラルプリンセス号についてのあれこれ」というチャンネルに合わせてみると、本船には大掛かりな海水の脱塩装置によって、無尽蔵にある海水からいくらでも真水を造れる仕組みがあるという。道理でバスタブでもシャワーでも、栓をひねると痛いほどの勢いで水が飛び出してくる。
大航海時代、永い航海の果てに水を使い果たした帆船では、尽きかけている樽の残り水を一人占めにしようと狙う不届きものから命の水を護るため、キャプテンが武装したオフィサーを見張りにつけたというストーリーを読んだことがある。いまの航海では水はふんだんに使い放題。ロマンの欠片がまた一つ消えていった。

半世紀ほど昔、コウベ港に寄港した豪華客船は巨大な蒸気エンジンを積んでいた。それが間もなくディーゼルエンジンに替わり、いまや七つの海を往く最新鋭の客船は、灯油を動力源とするガスタービンエンジンで動く。このエンジンの原理はジエット機に使われているターボジェットと同じ。
医者になりたての頃、コウベ港を夕方出航する関西汽船のくれない丸に乗って、一晩中瀬戸内海を航行し別府の学会に出席したことがある。一晩中ゴトゴトというピストンエンジンの騒音と振動のせいで一睡もできなかった。音も振動もまったく感じないうちに9万トンの巨船が滑るように出航するなんて、むかし手塚治虫や小松崎茂の未来科学まんがが描いた想像の世界を超えるテクノロジーには驚愕するのみである。
手元の時計は午前3時。眠れぬままにキャビンからデッキに出て海を眺める。白夜の薄明かりに浮かび上がる目前の大海原は一面の白波。しぶきが20メートルの高さのキャビンまで飛んでくる。むかしの船乗りは白波のたつシケ模様の海面を「白うさぎが跳ぶ」と表現したがまさにその通り。テレビ画面のデータに目をやると、船はアラスカ沖の北太平洋の真ん中を、風速10メートルの向かい風に向かって時速50キロほどのスピードで航行中だという。それにしても、船上にいてびりとも揺れが感じられないのはなぜだ。幅30メートル、長さ300メートル、重量9万2千トンの巨体には、ジェット機旅客機同様数々のハイテク装置あって、横揺れ(ローリング)や縦揺れ(ピッチング)を最少に抑えるためにスタビライザーと呼ぶ小型の翼が水面下で船体の前後左右に突き出ており、これらが連動して船の揺れを抑え込んでいるという。沖にでたら波まかせ風まかせと唄われた船員魂の居場所やいずこ? 

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(7)

7日目

デナリ国立公園周辺のホテルやロッジに分散宿泊している数千人のクルーズツアー客の中で、明日の午後Whittier(ウイッチャー)を出帆予定のコラルプリンセス号に乗船予定のゲストは、明朝午前8時にホテル前から出発する専用のバスに乗るようにというアナウンスが、部屋に届いていた。

2晩滞在した丸太造りのロッジは、周りが花壇にかこまれ、インペイシェントやガーベラが今を盛りと咲き競っている。外面は丸太造りだが豪華な内装や気配りのきいたアメニティには、ひと昔に流行ったブルーコメッツの「ブルーシャトウ」という曲の、「バラの香に包まれてーーー」という歌詞の一節がぴったりのシャトウの雰囲気だ。

例によって、ラゲージは別便で船まで直送するから廊下に出せとの通達。重たいものは一切ゲストの手には持たせないというサービスがうれしい。貴重品やカメラを納めたショウルダーバッグひとつで専用バスに乗る。今度のツアーでは、毎日の通達はすべて英語で印刷されているので、英語が不得手のヒトには理解できない。かなり難解な表現も使われているので、25年間も英語世界にどっぷり浸かって暮らしてきたわたしでも、はてなと首をひねるものが幾つかあった。

深さ50メートルもある渓谷にかかる橋をわたると、10分ほどでデナリパーク駅につく。気温は5度。バスを降り立つ人の吐く息が白い。旅の2日目にたどり着いた北極海沿岸の石油基地が摂氏2度だったのと比べると暖かいが、それでも7月中旬にしては寒い。石油基地の売店で買った分厚い防寒コートが、ここでも大いに役に立つ。

目の前に停まる8両連結の客車の先頭はディーゼル機関車だ。マリンブルー一色の各車両の横腹には、白でPrincessと大書してある。この列車はプリンセスクルーズ会社の所有する専用列車なのだ。観光会社が所有する列車がJRの線路を走ることは、ニッポンでは有り得ないことだろう。だが、この列車はアラスカ州の公共のレールを走らせてもらうという。

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写真1 横腹に社名が大書してあるプリンセス専用列車。2階が客室。キッチンとダイニングルームは2階建ての1階にある。

各車両は2階建てで、客室は二階。螺旋階段を上がると固定テーブルを真ん中に前後2人づつ4人がけの小セクションが20枠ほどとってあり、車両、コンパートメント、座席の順に記したチケットを手に持って自分の席を探して座る。客車は幅3メートルで重さ90トン。新幹線の1両ほどの大きさに定員80名だから、かなりゆったりしている。足も存分に伸ばせるし、テーブルにはゆったりと余裕がある。車両の中ほどには、ひと枠分のスペースにバーが仕切ってあって、各車両に一人づつ配置されている車掌がバーテンを兼用することになっている。みていると、座席につくとすぐ車掌ならぬバーテンを手招いて、ウオッカトニックを注文している熟年女性がいる。朝の8時すぎ、まだ、発車もしていない列車の中でウオッカトニックを飲むなんて、いささか急ぎ過ぎではないかと思って見ていると、車掌兼バーテンも心得たもの。満面の笑みをうかべ、グラスをマドラーでかき混ぜながら座席に届け、5ドルの飲み物に2ドルのチップを受け取ってにんまり。列車が動いていようが停まっていようが、ゲストに飲みたいものを届けるのは、チップ次第ですよといっているような笑顔に、サービス業の原型を見るようだった。

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写真2 客室の中央にバーがみえる。

席に座って上下左右を見回すと、客車の車窓にあたる部分には窓枠というものが全くない。客室は完全密閉式で車内の温度は冷暖房で調節するようになっている。座席の真横から天井にむかって、1枚の重さが300キロもある湾曲したホンモノのガラス板が張ってある。紫外線防止の仕掛けがしてあるから日焼けの心配はない。室内は完全密閉式で、快適性は空調だけが頼りである。そのため、各車両のキッチンの床下に空調専用の発電機を回すジーゼルエンジンが備えてあるという。コンパートメントのテーブルについて、上下左右のどこを向いても、視野にはいるアラスカの風景と青い空をさえぎるものがないようなデザインになっている。

ニッポンと違って、ヨーロッパやアメリカの駅にはプラットフォームというものがない。乗客は、レールの枕木と同じレベルの地表から、車両の前後についているステップとよぶ数段の階段を上がると、デッキの床面にあがる。ここは雨よけの屋根こそあるがまだ客室外である。走行中にデッキにたつと、チェーンの粗末な手すりの向こうは沿線の原野だ。間違えて転落したらクマかキツネに食べられると覚悟しなければならない。
ところが、沿線の風物の撮影にはこのデッキがベストアングルだ。老いも若きもチェーンの手すりから乗り出し、からだ半分が車外にぶら下がったまま、シャッターチャンスを狙う。自己責任の国だから、誰も引き止めるものはいない。

客室の階下でなにやらゴトゴト音がする。いま上がったばかりの螺旋階段をまた下りてみると、一階は左右に4人がけのテーブルが六つもある本格的な食堂車。ボーイ達が各テーブルにテーブルクロスをかけ、ナプキンや食器を並べている。そのダイニングルームの奥にあたる車両の後ろ半分がキッチンだ。コックがストーブに火をいれながら、仕込みに忙しく働いている。

8両編成の列車に640名の乗客。640名のために8箇所のバーとキッチンとダイニングルームがそれぞれの車両に設置されていて、6、7人のスタッフが働いているのだから、これほど贅沢な汽車の旅はない。感心しているうちに汽笛が鳴って列車は動き出した。ここからネナナ河の渓谷沿いに南に下ってアンカレッジを通過し、347.9マイル(約600キロ)を8時間かけ、北太平洋に面した不凍港のウイッチャーまでの鉄路の旅は始まった。単線ゆえ途中幾つかの駅に停まって対向列車の離合待ちをするが、プリンセスクルーズの専用列車だから、一般客の乗降は一切なし。ゆっくり動き出した列車の空き地では、ホテルから乗ってきたバスのドライバーやガイド、荷物の積み下ろしをする地上スタッフなど数十人が並んで手を振りながら見送ってくれる。列車の旅ならではの旅情いっぱいの別れのシーンはいつ出会っても感動する。

同じコンパートメントの同じテーブルで、向かい合わせに座ったカップルと改めて挨拶をかわす。なにしろ、これから9時間もの列車の旅の間、同じ空間で過ごす相手である。知らんぷりはできない。自己紹介を交わしたカップルは、フロリダ州に住む白人のアメリカン夫婦だと判った。亭主は優良会社のオーナーだったが、50歳すぎに今が盛りの会社を売り払い、ビジネス界から完全に足を洗った。その後は株の運用益で遊び暮らしての10年。ビジネスに復帰する気持ちは全くない。この人生設計はニッポンの昭和のおとこには絶対に理解できないだろう。苦労して作った会社がやっと絶頂を迎えて、これから先どこまで成長するか判らないというとき、大金と引き換えにポンと人手にわたして知らん顔などできるものか。
「会社の一番いい時期に、高値で買ってくれる買い手がついてよかったです」
「よかっただと。寝言も休み休み言え。社員はどうなるのだ?お得意先は?それで社長の社会的責任は果たせるのか?」
ひと昔まえ経済大国を築いた昭和のオトコたちは、きっとこういって50歳で会社を売るオトコを非難しただろう。
会社を売って引退したあとのお収入はと遠まわしに尋ねてみると、NY株式市場での資産運用益だという。この男性、60歳でふさふさの黒髪をしており、通常街でみかけるアラ還のアメリカン男と比べると10歳は若く見える。ストレスのない暮らしをしているからだろう。

ほぼ同じ年恰好のカミさんも、日ごろのシェイプアップが功を奏してか、アメリカン熟年女性には珍しく若々しくみずみずしい。持ち物や着衣のセンスから、かなりセレブな暮らしぶりが伺われる。

二人はこの10年間に世界80カ国を訪れたという。クルージングは、このアラスカ航路を含めて10回ほど。今回念願の北極海の冷たい海水に足を踏み入れる体験をしたので、次は南極大陸に上陸し、南氷洋のなぎさに足を浸けてみたいという。

「つぎつぎと旅のプランがあって楽しみですね」
水をむけてみると、
「幼い頃読んだ冒険小説で胸躍らせた場面には全部足を運んで体験してみるのがボクの夢です。絶海の孤島にもいってみたいし、原子力潜水艦のノーチラス号にも是非乗ってみたいですね」
まるで、質問するKの胸のうちを読み取ってのことか、まるでコピーしたかのような反応だ。
「奥様も冒険小説に魅せられたのですか?」
みえみえの愚問を発してみる。
「いえ、わたしはダーリンの行くところなら、アフリカのサバンナでも厳寒のシベリアでも、どこまでもついていくだけですわ」とアメリカンレディらしくないコメントだった。愚問には愚答でバランスをとってくれたのだろう。

亭主はかなりのカメラオタクで、数台のニッポン製デジタルカメラを操り、時速500枚ぐらいのスピードで目に入るものを手当たり次第に写しまくる。ニッポン人夫婦に出会うのはよほど珍しかったのか、早速2、30枚のスナップ写真を撮られてしまった。
 
「フロリダといえば、アフリカの原野で死滅していく野生動物の救済に異常な関心をもつ大富豪がいると聞いたことがありますが、その方はいまも活動中ですか?」
話題を変えてハナシをフロリダに振ってみる。
「ああ、あの自宅の庭にジャンボジェット機が発着できる4千メートルの空港を自費で造って、アフリカの死滅しつつある稀少動物を、これまた自宅の敷地内に作った動物園に保護しているあの有名な御仁ですね。まだ活動を続けてらっしゃるようですよ」
「ご本人の信念とはいえ、随分高くつく人生目標をお持ちの御仁もいるものですね」
マイホームを持つのが、多くの普通の人の人生目標である。マイ空港を造って、マイジャンボ機を保有し、マイ動物園にアフリカまでジャンボを飛ばして連れ帰った、アフリカの野性動物を保護するのが趣味という御仁は、世界でもそうザラにはいないだろう。

「似たようなハナシですが、今、アメリカの金持ちの間で流行っているのは、オーダーメイドのマイ客車にのって出かける鉄道の旅です」
「ほう?」
「丁度今乗っているような客車を好みのデザインに造らせて、それを路線列車に繋いでもらって旅するのです。車両には、居間、ベッドルーム、湯船にシャワーのバスルーム、キッチンにバーなどに粋を凝らせた家具調度品を配置し、それにメイドやコックやバトラーなどを乗せて、東西南北気の向くまま路線列車に繋いで引っ張ってもらう旅ですから、並の人にはチト真似ができませんな」
アメリカの金持ちはスケールが違う。
世界的大富豪の子女を幾人も手術してきたが、マイ客車で旅をするひとには出会ったことはない。

プリンセスクルーズ専用列車は、アラスカ鉄道が単線ゆえ、対向列車をまって離合のために停車する以外は、ノンストップで800キロを走り抜ける。駅で停まっても、誰も乗り降りしないというわけだ。だから、州都のアンカレージ駅も徐行しながら通過。

アンカレージを抜けると、クック湾を東にのびるターンアゲイン入江北岸沿いに走る。50キロ余りの北側の海岸線から対岸をみると、雪を被ったケナイ山脈の眺めに息を呑む。嶺の北壁の沢には厚い氷河が残っている。こんな景色が1時間近くも続く。

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写真3 車窓から入江の向こうの山に氷河がみえる。

ターンアゲイン入江の中ほどにあるインディアンという集落を通過するとき、不思議な光景を見かけた。1994年にこの地方を襲った大地震で地面が3.6メートルも陥没し、海岸にあった樹木は立ったまま根本半分は海水に没した。立ち枯れした大木の殆どは倒れて海底に眠っているが、残った枯れ木は、まるで海の中から生えてきたように見える。

入江の突き当たりにあるポーテージという小村を過ぎ、トンネルを二つ抜けると、太平洋に面した不凍港であるウイッチャーに着く。トンネルの中の線路は舗装道路に埋まっていて、丁度路面電車のレールの様相を呈している。このトンネルは列車とクルマが連なって、交互に通行する仕組みだ。トンネルを抜けると目の前がウイッチャー港。今夜の出航を待っているコラルプリンセス号(9万3千トン)の真っ白な巨体が見えてきた。

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写真4 コーラルプリンセス号の全長300メートルの巨体はカメラの視野に入りきらない。

 

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(6)

第4日目

石油基地プルドウベイから北極圏のツンドラの原野を走りぬけ、銀色に輝くパイプライン沿ってエゾ松の原生林を南に800キロ下ってたどり着いたのは、フェアバンクス郊外にプリンセスクルーズ会社が自社ツアー客のために立てた豪華なリゾートホテルだった。

二晩ぶりの文明のありがたみを満喫しながら、まずシャワーを浴びてアラスカ原野の埃を落とす。湯上りのさっぱりしたからだに、コットンの上下、薄手のセーターを着てダイニングルームに降りていく。

冬はマイナス60度

時計は午後8時をさすが、窓の外はまだ夕焼け雲。北極圏から大分離れたここフェアバンクスでもまだ白夜は続く。予約しておいたテーブルにつくと、リネンのテーブルクロスの上に野の花の一輪挿し。ナプキンで包んだナイフとフォークが乗っている。飯場のような宿で過ごした二晩も済んでみれば懐かしい。
「この時期、オーロラは出ないの?」
注文を聞きにきた中年金髪のウエイトレスに尋ねてみる。
「残念ですが、夏の間はめったに見られないのですよ。オーロラは冬の特別寒い日を好んで出るようです」
擬人法の表現が気に入って、しばらくウエイトレスと会話した。

「フェアバンクス生まれですか?」
「生まれも育ちもフェアバンクスです。ずーっとここで暮らしてきました」
「冬になると寒いんだろうね。一番寒いときで何度ぐらいまで下がったの?」
「わたしがまだハイスクールの学生だったから、40年ぐらい前だったかしら。冬の間は目が覚めるとすぐ、父がバックヤードの軒下に吊るしてくれた、温度計を見るのが習慣なのですが、それがマイナス60度を指した朝がありました。ええ勿論華氏の60度です。学校へ行こうと家を出て歩きはじめたのですが、体中に突き刺さるような寒さに途中で動けなくなり、全然知らない家の玄関のドアを叩いて中に入れてもらいました。家の中に入れてもらって、しばらく暖炉で暖まると元気になったので、家まで送ってもらって帰りついたら、ラジオやテレビで学校は小中高すべて休校というアナウンスをしているところでした。これがわたしの体験した一番寒い冬の日です」
「無事生存できてよかったね」
「ありがとうございます。あのときはホントウに死ぬかとおもいました」

華氏のマイナス60度を摂氏になおすと、マイナス45度ぐらいになる。アイオワ大学に勤務していたころ、気温が華氏マイナス30度になった冬を経験した。華氏マイナス30度は、計算してみると、丁度摂氏マイナス30度と一致する。ニッポンでは、確か北海道の旭川でマイナス30度になったと、少年時代に聞いた記憶がある。アイオワでマイナス30度になったときには、市役所の広報車が出動し、道を歩いている市民に外出禁止を命じて巡回した。マイナス30度だと、凍った道を歩いて転倒骨折し路上で動けなくなると、頑健な若者でも15分ぐらいで凍死するという。
中西部では毎冬約800人の人が路上で命を落とす。その多くは野原の真ん中の道路で運転中の車が故障し、携帯で助けを呼ぶが、救援隊が駆けつける間に凍死してしまうのだ。それよりさらに15度も低い温度とはどんな冷たさだろう。想像もつかない。

今夜のディナーはアラスカ名物の海鮮料理。ハリブット(オヒョウ)、サーモン、アラスカンキングクラブの中から好きなものを選び、焼く、揚げる、炒める、蒸す、ボイルするのうち、どれがいいかと尋ねてくれる。好みの料理の仕方を選んで頼み、アペタイザーの揚げたカラマリ(小型のイカ)やシュリンプカクテルなどを肴にワイングラスを傾けていると、アントレは大きなメイン皿に載ってでてくる。アペタイザーは食欲に更なる輪をかけ、ワインはその潤滑油の役目をする。もうこれ以上待てないという気持ちが頂上に達した頃を見計らって、タイミングよくアントレをだすのがレストランビジネスの成功のコツである。

マイナス60度から奇跡の生還をしたアイラブルーシーのルーシーのようなウエイトレスは、満面の笑顔でアントレを運んできてくれた。先にカミさんがボイルしたポーチドハリブットを頼んだので、アラスカンキングクラブをオーダーした。少々行儀は悪いが半分食べたところで皿を交換すると、一度のディナーで2種類の料理をエンジョイできる。これが家の慣わしになって永年になる。

分厚い白身のハリブットをレモン醤油で食べながら、開高健氏のアラスカ紀行を思い出す。たたみ1畳もの大きさのハリブットを釣り上げたときの快感がリアルに描かれた名エッセイだった。いまそのアラスカに居てハリブットの分厚い切り身にかぶりついているのだ。アラスカンキングクラブには、同じカニに違いはないのだが、わざわざベーリング海キングクラブと産地が明記してあるのが気持ちよかった。太い真っ赤な脚にイボイボがついているのが特徴のこのカニは、ホノルルのレストランでも食べられるが、なんといっても、冷凍にするまえの活きのいいヤツは味が違う。大きな皿に長さ25センチぐらいに切った脚が7、8本載ってくる。見た目堅そうに見える殻が、実はゴムホースのような感触なのが意外だった。出てきた脚を全部食べるとカニだけで満腹してしまいそうだが、カミさんに半分残してハリブットとトレードする。クリスピーなフランスパンのバケットとよく会う。カニと白ワインとフランスパンを代わる代わる口に運ぶと、デザートの入る余地はない。ニッポンのレストランはパン一切れに幾ら、コーヒーは一杯毎に幾らと細かく別チャージをとる。アメリカではどの州のどんな田舎町にいっても、食事についているパンとコーヒーは幾らお代わりしても料金はとらない。豊かさの本質の違いに、残念ながら多くのニッポン人は気付いていない。

当地にきてはじめて実感したのだが、ロシアとアラスカは太平洋と北極海を連絡するベーリング海峡をへだてて、わずか100マイルほどしか離れていないのだ。道理でアラスカ各地に出稼ぎにきているロシア人男女をそこここで見かけた。その昔、アラスカはロシアの領土だったが、当時のアラスカはまさに未開の地の果てだった。なんの価値もない人跡未踏の土地と見做されていた。だから、ロシアも気前よくタダ同然の取引でアラスカをアメリカに渡してくれたのだろう。のちにユーコン川沿いに金鉱発見され、20世紀初めには北極海沿岸に油田が見つかった。ゴールドラッシュ、石油ラッシュのつぎは天然ガスラッシュだと、アラスカンは口を揃えていう。天然ガスのパイプライン建設を請け負うのは、いまの勢いからすると韓国か中国だろう。そとから眺めると、日本のエネルギーとダイナミズムは昭和の終わりで尽き果ててしまったように感じられる。

酒に厳しいアラスカ州法

ディナーに付きもののワインは、いつもならグラスで注文するのだが、アラスカ縦断を祝ってカリフォルニア産Ferrano Canaroのシャドネーのボトルを1本もらった。食事が終わった時点で、ボトルにはまだ3分の2ぐらい残っている。なにしろアルコールは一滴たりとも口にしないカミさん相手では、グラスを飲み干しても気持ちが高揚しない。

ルーシーに似た金髪おばさんのウエイトレスを呼んで、ボトルを部屋に持って上がれるようにバケットやリネンの用意を頼む。
「あら、ごめんなさいね。それはできないことになっているのですよ」
「きちんとお金を払って買ったワインなのだから、このテーブルで飲もうとボクの部屋で飲もうと、それはボクの勝手でしょ。ホテルの内規が許さないというなら、そっちのほうが間違っているのじゃないの?」
「いえ、ホテルの内規ではないのです。アラスカ州法でそうきめられているのです。ホテルでもレストランでも、酒ビンを開けてもよい場所は同じ建物のなかでも限られた一部空間に許可を申請し、州が認めたスポットに限るとアラスカ州法で決められているのです。お客さんが、栓を抜いた酒ビンを手にしてそれ以外の場所を歩くと、歩かせたホテルは厳罰をうけ、場合によっては酒類の販売ライセンスが取り消される可能性があるのです。このレストランの中なら、勿論、開けたボトルをもっての行き来は自由ですし、お客さまのお部屋の中もオーケィです。ところが、その間にあるローカ、ロビー、エレベーターの中などは、栓を抜いたボトルを持って移動してはいけないと法律が禁じているのです」
「そのウラには、どんな理由があるの?」
「ゴールドラッシュ時代にさかのぼりますが、川から砂金を手にして戻ってきた男たちは気が荒く、サロンで飲んで酔うと暴れて手がつけられなかったそうです。酒場の中だけならともかく、ホテルでもレストランでもローカやロビーに酒ビン片手の男がたむろしていたら、普通のお客は恐ろしくて寄り付けませんわ。そこで州議会は飲酒場所を限定するため、栓なしボトルの所持禁止法案を成立させ、それが百年を超えたいまも効力を発揮しているというわけなのです」
「ふーん。そんなハナシ、初めて聞いたね。ではこうしたらどう?ボクたちはこのボトルに一切手を触れないで手ぶらでエレベーターにのって部屋の前までいってドアのロックを開け部屋にはいる。レストランのスタッフであるあなたが、ボトルを部屋まで運んでくれる。勿論、運賃はお支払いしますよ」
「ちっと待ってください。酒類を扱うライセンスを持っているスタッフを呼んできます」
テーブルにきた若い女性は、Ferrari Caranoが3分の2ほど残るボトルをアイスペールに突っ込んで、その上から仰々しくナプキンで包み隠し、目の高さに捧げ持って前を歩く。
部屋に着いてドアを開けると、
「ここで私の任務は完了です」
と宣言しながら、アイスペールを手渡してくれる。感謝の言葉とともに数枚のドル札を手渡し、ワインボトルの運搬儀式は無事終了したのだった。

アラスカの都市発祥の地フェアバンクス

フェアバンクスは、人口9万8千人。これでアンカレッジについでアラスカでは2番目に人口の多い街である。
20世紀のはじめ、一攫千金を求めてゴールドラッシュに沸くアラスカを目指した人たちは、この地に根を下ろして生活するなんてことは誰も考えなかった。金を掘り当てたらアラスカに用はない。つかんだ大金を故郷に持ち帰り家族と平穏に暮らすか、ビジネスを始める原資にするか、それとも酒とバクチとオンナに使い果たすかだ。いずれにしても、アラスカで生活するのは非現実的だった。

1901年、バーネットという小船の船長が、金鉱探索に必要な道具のつるはしや、食糧、衣類などの補給品を積んだボートでチェナ川をさかのぼり丁度この地に着いたところ、ボートが転覆して戻るに戻れなくなってしまった。川岸にテントを張って、補給品を河原にならべ思案に暮れていた丁度そのとき、フェリックスペドロという仲間が近くで金鉱を掘り当てた。それを見ていたバーネットは、そうだ、この地に建物を建てて、山師たちに補給品を売る商店を開けば一儲けできるぞと思いつき、早速着手したところ、これが大当たりした。バーネットの店を中心に人々が住み着くようになった集落がいまのフェアバンクスの始まりだという。フェアバンクス市にはアラスカ大学の巨大なキャンパスがあり、大学街としても知られている。郊外のリゾートからバスで街を訪れてみたが、うら淋しい田舎街は、中西部にある大学街と似たり寄ったりだった。

第6~7日目

フェアバンクスの2泊は、バスの旅で疲れたからだを癒すのに最適だった。今日は、ここから南東に200キロはなれた山中のリゾート地、デナリに移る。途中、野焼きのような煙が立ち上る山火事の側を通過した。アラスカでは毎年、10万件をこえる落雷によって引火する原野の火事が発生する。火事は燃えるにまかせ、一切消火活動はおこなわないという。ツンドラのコケの下に広がった火は、冬になって雪をかぶったその下で根強く燃え続け、春になって雪が消えると再び燃えはじめるという。野火が人家に近づいてくると地元の人間が消火に励むが、それ以外の野火は放置するのが常識だそうだ。
「原野はたまには燃えるほうがいいのですよ。害虫が死滅するし、灰は肥料になりますからね」
バスのドライバーが解説してくれる。
小高い丘のパーキングエリアから見下ろすと、大阪市ぐらいの面積が白煙をあげてくすぶっている。
「勝手に消えるまで数週間かかるでしょう。観光バスも迂回しないいと行けなくなるかもしれません」
中年の女性バスドライバーが淡々と話すのが、都会に住んでいるものの耳には奇異に聞こえた。これほど平然としていなければ、厳しいアラスカの自然には立ち向かえない。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(5)

第3 日目:コールドフット到着

アラスカ北部を南北に分断するブルック山脈の峠を越えて、道路は下り坂にかかる。
峠の頂上を境に南北では風景ががらりと違う。
北の茫漠たる荒野と対象的に、南は緑で覆われた青い山並みが幾重にも続く。
急勾配の下り坂を、チャックはこれ以上臆病な運転はないというぐらい慎重なドライビングテクニックで、バスを転がし下ろしていく。

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〔写真1〕

最近、海外で観光バスやチャーターバスの事故が相次いでいる。公共の乗り物だけではない。
かつて勤務したアイオワ大学病院外科の同僚外科医も、祖国のアフリカ某国に帰郷しすべての行事を終えたあと、帰国の途につくため空港に向かっていたところ、スピードの出すぎた乗用車が転覆し、若い命を失った。
臓器移植専門の優れた外科医が、若者の無謀運転によってあえなく路肩の露と消えたこの人為ミスによる事故には、無情と悲哀と落胆を感じた。
つい最近もユタ州で日本留学生が運転するチャーターバスが横転し、数人の日本人旅行客が亡くなった。
それとは対照的に、チャックの運転するバスには安心して乗っていられる。安全運転を頑固に守るチャックに、乗客60名全員が連携した尊敬の念をもって対応するのが不思議におもえた。

ハナシがそれたが、下り坂が平坦な道に移行するあたりで路肩にチャックはバスを止める。
「ここを見てください。ここがエゾ松の森の北限と書いてあるでしょう。これより北には、針葉樹が1本も生えていないのは、皆さんこがれまでの道のりで見て来られた通りです」〔写真2〕
プルドウベイを出発して以来、初めてみる針葉樹は高さ3メートル、幹の太さは10センチほどだった。
「この10センチほどの幹を切ってみると、150層ぐらいの年輪が詰まっているのですよ。寒いところですから150年経っても直径10センチほどにしか成長しないのです」
「それだと随分堅い木なのでしょうね。手動の鋸で切れますかね」
「岩のように堅くて、普通ののこぎりではなかなか歯がたちません」

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〔写真2〕

こんな会話を交わしながらしばらく行くと再び登り坂にかかる。たおやかな小山の中腹で一行は、今日2度目のトイレ休憩のため停車した。〔写真3〕
裸土のパーキングエリアに降り立つと、目の前に「Arctic Circle、これより北は北極圏」と明記した立派な標識が立っている。なるほど、われわれは昨日からいまこの瞬間までずっと北極圏内にいたというワケだ。

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〔写真3〕

北極圏とは一体なにか?
その定義を調べてみると、冬至に太陽が顔をださず、夏至に太陽が沈まない地域と記載されている。この定義にあてはまるのが、北極点を中心にして北緯66度33分39秒地点までの距離を半径として描いた円の中に入る北極圏だ。
アラスカは勿論、グリーンランド、シベリア、スカンジナビアの一部を含む北極圏の外縁を形成する線は、北極線と呼ばれている。

この辺まで南下すると、えぞ松の背丈も大分高くなり、幹も太くなる。ツアーグループは、それぞれ北極圏の標識の左右に立って写真撮影。さすがこのアメリカでVサインをする人はいない。〔写真4〕
いい年をした男女が、両手の人差し指と中指でV型をつくり顔の横にかかげて頭を少し左右にかしがせ、痴呆じみた表情で写真に写るVサインは、宴会ののりが基本のニッポン文化独特のものである。

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〔写真4〕

背景の背丈の高いエゾ松の梢が、中空で風に揺れる林をみると、なにかしら気持ちが落ち着く。地平線まで樹木が1本もないツンドラ地帯は、白砂青松のニッポン育ちの感覚にはなじんでくれない。
緩やかなスロープを下るにつれ、エゾ松の林は更に密になりやがて森へと移行する。今夜の宿のあるコールドフットは、そんな森を切り開いたトラックの集積地だった。

1900年ごろ一攫千金を夢見て金脈の探索にたどりついた山師達がテントを張って野営したのがこの場所だ。沢には水が流れ、暖をとるための薪もふんだんにある。丸太小屋を建てる木材も豊富にある。金の採掘基地にはもってこいのこの土地は、コールドフットキャンプと呼ばれた。
記録によると、1902年のコールドフットキャンプには、宿屋が2軒、雑貨屋も2軒、紅灯のサロン7軒、ばくち場が1軒があったと記載されている。
金脈を掘り当てた山師が求めるのは、酒、おんな、それに博打。この3つを揃えたのがコールドフットキャンプだった。

地理の本を紐解くと、ブルック山脈南面の裾野にあり、フェアバンクスから248マイル北で、ダルトン高速道路の175マイル地点だという。北極海沿岸のプルドウベイからここまで、1日がかりで走ってきた未舗装の道路にはダルトン高速道路という立派な名前がついていたとは知らなかった。
 
2000年の米国国勢調査時には、この集落に6世帯13人が暮らしていて、一家計の収入は6万1千ドル。1人あたり4万2千ドルの収入があったというから、決して貧困集落ではない。

タンクローリーやコンテナのトレーラーが駐車している未舗装広場の中心にある高床式木造平屋だてが、スレイトクリークインだった。〔写真5〕
客室は3坪のスペースにベッドが二つ並んでいる。畳一条ほどのスペースにトイレとシャワーブースがあるだけ。
電話もテレビもない部屋だが、個人で予約したら1泊219ドルだという。

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〔写真5〕

アメリカ本土のどこの田舎町にでもあるナントカインというモーテルに泊まると、300チャンネルぐらい映るテレビ、国内ならどこにかけても無料の電話、インターネットへの無料アクセス、バスタブつきの広いバスルーム、400ピッチのシーツを使ったクイーンサイズのベッドが二つならんでいて、宿泊料は1泊100ドルもするかしないかだ。これが今の全米各地でおおまかな常識料金だ。

それと比べると、こんな辺地のテレビも電話もついていない安宿の素泊まりが1泊219ドルは高い。南北400キロの範囲には他に宿がないのだから当たり前といえばそれまでだが。

宿のマネージャーの態度も、プルドウベイで「リッツカールトンにようこそ」と迎えてくれた笑顔が印象的なマネージャーと違って、難民収容キャンプの鬼所長のような高圧的なところがある。
「シャワーの湯がでるのは夜10時まで。それを過ぎると明日の朝10時までは冷水シャワーのみ。メシは向かいのレストランで、各自払いで食べてもらう。なにか質問は?」
真夏の白夜とはいっても、夜明けまえには氷点近くまで気温が下がる北極圏から外れたばかりの宿だ。冷水のシャワーをあびたら肺炎になって2度とホノルルの土を踏めなくなるかも知れぬ。

こんな場合、必ず二言三言は皮肉まじりの質問で一矢報いるのがアメリカンの常だ。アメリカ魂はどこえやら、無言でおとなしく指示に従う姿を見ると、「文句があるなら、400キロ離れた隣のホテルへどうぞ」といわれるのがよほど恐ろしかったと見える。
実際、隣のホテルは、フェアバンクスに行くか、昨晩泊まったプルドウベイに戻るか、二者択一だがいずれも400キロ離れている。
宿のマネージャーが高圧的になるのも、むべなるかな。

指示にしたがい10時までにシャワーをすませてベッドにはいる。11時すぎても、カーテンの隙間から眺める景色は、白夜のせいで昼間とかわらない。オーロラの一つぐらい出てくれないものかと空を見上げると、ほんのり夕焼けした青空だった。

辺地の夜は気持ちが悪いほどの静寂だ。
隣室との境はベニヤ板1枚。隣人のため息、寝息が筒抜けに聞こえる。しばらくすると、若い女性の押し殺したようなくぐもり声に男性のささやく声が続く。若さには勝てぬ。こんなドヤのねぐらでも、愛の交換なしには一夜と過ごせぬとはなんと羨ましい。

翌朝目覚めると、雲ひとつない晴天だ。
バスは8時に出発するという。
ここからフェアバンクスまでの道のり400キロのうち、半分ぐらいは舗装されているという。
しばらくすると、森のどこかに隠れていたパイプラインがいつの間にか現れて、バスの行くダルトンハイウェイに沿って平行に走るようになった。
4時間ぐらい南下した地点で、バスはハイウェイを外れて森の中にはいっていく。野球場ぐらいの広場にポツンと掘っ立て小屋のような人家があり、ハンバーガーの看板がでている。

中年の女性二人が共同で経営するこの店は、トラック運転手のオアシス。ハンバーガー1種類だけのランチだが、大変美味だった。〔写真6〕
「こども達から目を離したらだめですよ。森には熊がすぐ側まできていますからね」女性の1人が、子連れのカップルに注意を促す。
「夕べも、寝ていたらひ熊が窓のすぐ下まで来ていました。用心してくださいよ」
幸い誰も熊に食べられなくてよかった。

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〔写真6〕

ユーコン河を渡る直前で、パイプラインの真下をくぐり、本日2度目のトイレ休憩。

パイプラインは直径1メートルの鉄管を厚さ10センチの断熱材で取り囲み、その外側をステンレスの外皮で覆ってある。直径50センチほどもある鉄の支柱2本の間に鋼材の梁を渡して、その上を前後左右にスライドする鉄製のすべり板が乗っている。すべり板の上に4本つきでた爪状の鋼材がパイプラインをしっかり把持してすべり板から離れないように固定している。
パイプラインは夏冬の温度差で伸縮する。適度にゆとりをもたせる設計だから、伸縮時には左右にもぶれる。この動きを許すのがすべり板だ。

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〔写真7〕

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〔写真8〕

支柱の上にはブラシのような棒が突き出ていて、パイプラインの両側ななめ上から放熱し、パイプラインを加温する仕組みになっている。支柱は永久凍土のなかに差し込まれているから、年月が経つと重力の圧により凍土が溶けて、地中に埋もれてしまう。これを避けるため、上部でパイプライン加熱のため放熱した液体アンモニアをパイプで支柱の中を地中に送り支持基盤の凍結を維持するという一石二鳥のメカニズムになっているのだ。

これらをわずか5年間で設計製造し、辺地アラスカに運び込んで1,300キロの敷設に貢献した昭和ニッポンの工業力は絶賛に値する。

予定どおり8時間の旅を終えたバスは、フェアバンクス郊外にあるプリンセスクルーズ専用の豪華リゾートホテルに滑り込んだ。各自それぞれチャックに別れを告げ、非日常的な時間を過ごした2日間の思い出を胸に部屋に入ると、文明と再会したのだった。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(4)

第3日目:続プルドウベイ出発

午前8時。オンタイムにカリブーインのスタッフ全員に見送られて出発したバスは、再び石油基地に舞い戻る。立ち寄ったのはプルドウベイ唯一の2階建てデパートだ。
「皆さん、これから先、明日の夕方フェアバンクスに着くまでの36時間は生活必需品、スナック、ドリンクなどが欲しくなっても、店もなにもない原野の旅です。必要なものはすべて、ここで買っておいてください。」
チャックの心遣いだ。

ショッピングも終わり、トイレも済ませ、いよいよ石油基地を出たると、バスは一路南に向かう。昨晩から出っ放しの太陽が目に痛い。ここからコールドフットまでは250マイル(約400キロ)。途中サービスエリアは一切なしという看板が、ただのドライブでないことを物語る。

出発して2時間ほどは全くの平地。地平線まで樹木は1本もない。
「このあたりはまだノーススロープの一部ですが、地元の人間は、プルドウベイをふくめてデッドホース〔死に馬〕と呼んでいます。
〔死に馬〕という地名の由来には、余りの寒さに連れてきた馬がバタバタ死んだからという説をふくめた幾つかの説がありますが、わたしが一番気に入っている説を紹介しましょう。
プルドウベイに石油が出たと聞いて、一攫千金を目論んだ若者が石油探査を始めたのですが、成功をみないまま資金不足に陥り、裕福な父親に手紙で援助を頼みました。親父さんはそんな辺地で油田を探すのは、死んだ馬を蹴って、さあ立ち上がって馬車を引っ張れとけしかけるに似た無駄の極みだといって、援助を断ったそうです。それがこの地を〔死に馬〕と呼ぶようになったワケだそうです」
チャックの語り口には、明確な言葉といいハナシの間といい、聞くものをして、なるほどとうなずかせるタレントの業がある。こんなストーリーを〔死に馬〕平野を走っているバスのなかで聞くと、ホントに聞こえるから不思議だ。

初めの100キロぐらいまでは、なだらかな丘の谷間に凍りついた残雪が残っていた。あたりに樹木は一本もない荒野である。
銀色に光るパイプラインと並行して、永久凍土に1.2メートルほど盛り土をしただけの未舗装交互2車線の道路が南に伸びる。すれ違うのはコンテナートラック、タンクローリー、ダンプカーなどのみ。昨夜の雨でところどころぬかるんでいる。すれ違う対向車は、派手に泥を跳ね上げる。出発時にはキレイに磨かれていたバスの窓も、たちまち泥に遮蔽されて景色がみえなくなる。
チャックは溜まり水を見つけるとバスをとめ、用意してきた長い棒ずりとバケツを引っ張り出し、窓をふいてくれる。
「道路の土を固めるために塩化カルシュウム溶液を撒いているところは、これほどぬかるんでいないのですがね」と言い訳をする。
狭い交互通行の道路で、対向車がくるたび路肩によって最徐行を守るチャックの運転は、800キロの道程で乗客にいちども恐怖を感じさせなかった。

「半マイル先で、ひ熊が道路を横切っています」
なるほど、豆粒のような点が右から左へと移動している。
「まだこどもですね」熊はパイプラインの下をくぐって、丘の麓に消えた。
間をおかずチャックが解説してくれる。
「左3時に方角を見てください。湖にムースが入っています」
平べったい角をしたオスのムースが、湖の浅瀬で身体半分を水に漬けている。
ムースは鹿やトナカイと同類だが、身体は倍ぐらい大きい。
「あの湖の水は冷たかろうに。ムースは水浴などして冷たく感じないのかね」
グループの1人がチャックに尋ねる。
「冷たいですよ。沢の雪が昼間の太陽で溶けて流れ込むのですから、北極海の水と同じぐらいの温度でしょう。ムースやカリブー(となかい)は、零下50度の極寒を野外で耐える動物ですから、寒さには強いのです」
そういえば、石油基地内でも数頭のトナカイが群れているのをみた。ドライバーのハナシでは、つい1週間ほどまえに、2千頭を越えるトナカイの群れが、パイプラインのあちこちに作られた原生動物横断用の通路を通って、移動していったという。この通路のある地点では、カリブーたちが安心して横切ることが出来るように、パイプラインは数十メートルにわたって地中に埋められている。

パイプラインの内径は丁度1メートル。
この中を摂氏60度に温めた原油が1,300キロ南の太平洋に面した積み出し港までの長旅をするには、いろいろな工夫が凝らしてある。
極寒のアラスカでパイプのなかの原油が冷えると粘度が増して流れが悪くなる。石油基地を出発したときの60度の温度を維持するためには、パイプラインを全長にわたり厚さ10センチの断熱材で包み、その外側をステンレススチールの鉄板で包んで密閉してある。だからパイプそのものの外径は120センチだ。

パイプライン保護のため、数キロ範囲の地域内では如何なる銃も発砲が禁じられている。
「運悪く熊に出会った場合にはどうするのかね?ハンターが銃を手にしていると撃ちたくもなるでしょうに」
「パイプラインはアラスカ州の生命線とも言うべき資産ですから、物見遊山の狩猟や毛皮採取が目的の人間には、地域内への立ち入り許可は出ません」
「われわれは物見遊山だけど、どんな資格で?」
「プリンセスクルーズの監督の下に、限定範囲内での行動という一札をいれて許可を貰っています。つまり、この地域を旅する間、わたしが皆さんの監督をおおせ仕っているというワケです」
チャックはおどけて胸を張ってみせる。

石油基地から高圧をかけて送り出された原油も、長旅の途中では圧力が低下して高速で流れにくくなる。ほぼ100キロごとに巨大な加圧ポンププラントが設置されていて、取り込んが原油に強圧を加えて再びパイプラインに送り出している。

パイプラインは特殊な支柱で、地上3~6メートルの空中に懸河されている。地上に置くと重さで下の凍土が溶け、やがては地中に埋もれてしまうという。ほぼ10メートル毎に立っている支柱は、直径50センチもある鉄の柱2本の間に梁を渡し、その上にパイプラインを載せている。梁とパイプラインの接点にはローラーやスリッパが使ってあって、パイプラインが温度変化によって自由に伸縮できるようになっている。

支柱は地下3~4メートルに打ち込んであるが、その先端は凍土に刺さっているので、荷重により凍土の氷が溶けてどんどん地中にめり込んでいく。それを防ぐため、支柱の中のパイプに液体アンモニアを循環させ、凍土と接する先端部分をつねにマイナス数十度に保ち、凍土が溶けない工夫がされているのだ。

1,300キロものパイプラインをわずか5年間で、アラスカの原野に敷設するという超突貫工事をやり通したことは、現場を目にすると驚異としか言葉がない。極寒のノーススロープは勿論のこと、険しい岩山の急勾配を登り降りしているパイプラインをみると、その建設作業は人間技とはおもえない。

「当時は全米から溶接技術者がアラスカに集まりました。報酬は通常の数十倍ですから、他の州には溶接工が足りなくなって困ったそうです。平地での溶接作業はラクでしたが、岩山の絶壁で宙吊りになりながら、クレーンに吊り下げられたパイプを溶接する作業はとても難しく、高額の報酬を提示しても名乗り出る者がいなくて、工期が遅れそうになりました。ひとつ間違うと命を落とす仕事ですから無理もありません。決死の覚悟で志願した技術者が居なかったら、パイプラインはとても開通しなかっただろうといわれています。35年前の彼らはホントウの英雄でした」
チャックの説明はよく判る。

それにも増して、総延長1,300kmにおよぶ直径1メートルのパイプとその付属品一切を納期に間に合わせたニッポンの製鉄業界は大変な事業をやり遂げたものだ。1本が10メートルとしても13万本を超える高品質のパイプを製造納入したニッポンの技術がなければ、溶接技術の英雄が何百人いたってパイプラインは画餅にすぎない。当時、ニッポンの男たちには昭和の意気込みがあったからこそ、この大仕事をやり遂げることが出来たのだろう。ニッポン製のパイプラインが30余年を経たいまも、米国のエネルギー補給に貢献しているとおもうと、ニッポン人はもっと胸を張って誇りとするべきだ。ツアーに参加したアメリカンの胸の内とは別に、独り秘かな想いは昭和のニッポンに飛ぶのだった。

未舗装の400キロを9時間かけて走り通すバスの旅の途中には、サービスエリアは一切なし。バスの後部にはトイレが設置されているが、これはあくまで緊急のためのもの。60人が常時使えば、タンクはすぐ一杯になってしまう。だが9時間も排泄をガマンすることは人間の生理に反する。
「トイレに行きたくなったら、言ってくださいよ。どこの道端にでも停めて差し上げます。男性は道路の対向車線の向こう岸、女性は降りたところのすぐ右側の道端がそれぞれのトイレだと思ってください。この原野では通行人はゼロですから、誰かに見られる心配はありません。カリブーかムース、たまにヒ熊に見られて恥ずかしいと思う人は別ですが」
グループの女性たちのなかで、これをジョークととらない人がいた。「あたし、死んでも道端でなんかで用は足さないわよ」だと。
アタマの固い人がいるのは、ニッポンもアメリカも同じ。

「さて、お待たせしました。ここでトイレ休憩にしましょう」
チャックは車内にアナウンスするとバスを広場に寄せて停めた。
小高い丘のうえに、2メートル四方のコンクリートの建物があった。
世界共通の男女のトイレマークがついているから、トイレなのだろう。あたりを見回してみても、人家らしきものは全くなし。
「このトイレは水洗ではありません。手洗いの水もありません。トイレットペーパーだけは十分ありますからご心配なく。貯め式ですが排気は十分ですから臭くはありません。順番にどうぞ」
チャックの言葉が終わらぬうちに、トイレの前に10人ほどの行列ができる。番がきて中に入ってみると、重い鉄の扉があるだけで窓は一切なし。
コンクリートの床に大きな穴が開いていて、そこに洋式のトイレが載っているだけだった。穴は深い。室内の空気はすべてこの穴に吸い込まれて、効率のいい通気孔から吸い出される仕組みになっている。臭気が全くないトリックはこれだと判った。
用をすませて手を洗わないと落ち着かない。こんなことならウェットティッシュを買ってくればよかったと反省しきり。チャックは手指消毒用のローションを使わせてくれた。こんなものでも、気は心だ。すこしは気休めになる。

トイレに並んでいる間に気付いたのだが、ニッポンの真冬の気候のアラスカに、1匹が2センチ大の蚊がごまんといてまとわりつく。バスの中にも開け閉めする乗車口から数十匹の蚊が侵入し、車内はひと騒動。
チャックはあわてもせず、テニスラケットを小型にしたような道具を持ち出し、蚊退治を始めた。ネットに蚊がふれると高圧電流が流れて瞬時に蚊の丸焼けができる便利な道具である。

トイレから1時間ぐらい進むと岩山が見えてきた。地図ではこのあたりからブルックス山脈に入り、標高2,500メートル位の峠を越えて平地に降りたあたりが今夜の宿、コールドフットの筈だ。

チャックはバスを道端の退避エリアに寄せ、ここでランチだという。
バスの床下にある貨物室からランチボックスの箱をとりだし道端に並べる。ときをまたず、またもや、蚊の大群が襲い掛かってくる。
ランチはターキーブレストのサンドイッチ、リンゴ一個、ポテトチップス、クッキーだった。

再び縦断道路を走る始めるとぬかるみの悪路が続く。今朝方降った雨のせいだ。山中に入ると急勾配を登りにかかる。曲がりくねって滑りやすい坂道を、北行きのトラックやタンクローリーが猛スピードでくだってくる。その都度バスを炉端に寄せて道を空けてやる。
齢18年目の中古バスとともに運命をチャックにあずけたツアーの60名は、宿への到着が少々遅れようとも、だれも文句はいわない。
安全第一のチャックに賛同するストックホル症候群のような、妙な心理が車内を支配していたのは、だれも否定しなかった。