8日目
アラスカ鉄道本線から観光船専用突堤まで特別に敷設された引込線を降りると、目の前の岸壁に全長300メートルの真っ白なコラルプリンセス号の巨体が横たわっていた。停車場から船まで100メートルほどの屋根付きの通路を歩いて、船の横っ腹に空いた乗船口から船内に乗り込むと、当直オフィサーが“ウエルカムアボード”と笑顔で迎えてくれる。純白のユニフォームに長身の身をつつみ、きりりと背筋を伸ばしたイケ面オフィサーの姿は、わがカミさんの心を強く揺さぶった。
「白人の男性ってユニフォーム姿になるとみんなカッコいいわね」
「仕事姿ならニッポンの男も捨てたものではないよ。手術着姿が表紙になって全米に配布された雑誌の外科医のボクを見て、カッコいいと言ったじゃない」と一言クギを刺しておく。
乗船手続きデスクにパスポートを提示し本人確認を受けると、次は顔写真撮影だ。しばらく待つあいだに、テロリストや凶悪犯罪で手配中の人物との照合が終了する。オーケィが出ると、空港のセキュリティゲートと同じ金属探知ゲートに進み、ナイフや銃など物騒なものを身につけていないか調べられる。ボディチェックのあとは手荷物のX線検査だ。すべての検査をめでたくパスすると免許証大のプラスチックカードと書類の入った封筒を手渡される。カードの裏には顔写真が焼き付けられていて、航海中の身分証明を兼ねている。このカードは自室のキー、船内での食事や買い物などのクレジット、それに上下船するときの通行証になるから常時身に付けておくようにと忠告をうける。
予約したキャビンはエレベーターで5階上がったDデッキ。延々と続く長い内廊下を歩いて自室に落ち着くとどっと疲れがでた。
キャビンは右舷側。つまり船の進行方向にむかって右側だ。今回予約したミニスィートの間取りは、入口からバスルーム、クローゼット、寝室、リビング兼ラウンジ、プライベートデッキの順の配置だ。寝室には通常サイズのツインベッド、インターネットに随時接続できる仕事デスク、ラウンジには4人掛けのソファと椅子、コーヒーテーブル、カクテルトレイ、冷蔵庫、書棚などが機能的に並んでいる。テレビは寝室とラウンジに1台ずつ。床から天井までガラス張りのスライディングドアを出るとプライベートデッキだ。隣室のキャビンとは板塀で仕切られプライバシーが保たれている。デッキには4人掛けのテーブルが置かれ、航海中カクテルを飲みながら舷側の手すり越しに海を眺められる仕組みだ。コンパクトながら各セクションのスペースにはほどほどの余裕があり、1週間の航海を快適に過ごすことができた。
アラスカを陸路縦断中、各地の宿から船あてに別送した荷物はキャビンに入れてあると聞いたが、あちこち探しても室内に見当たらない。最後にベッドの下をのぞいてみたら、スーツケース3つとダッフルバッグがきちんと並べられて鎮座していた。2,000人を超える乗客を扱いながら、プリンセスクルーズの手抜かりのないサービスの手際よさには改めて脱帽する。
デッキに出て舷側の手すりにもたれてみると20メートル下の波止場には乗船を待つ人の長蛇の列。9万トンを超える船が2,000人の乗客を飲み込む様子がみえる。午後8時の出航に合わせて正午過ぎから乗船受付を始めたという。行列には東洋人の姿がほとんど見あたらない。キャビンサービスにきた若いフィリピン人の部屋係のアンディに尋ねてみると、このクルーズには日本人のツアーグループはゼロ、韓国と中国から数人のグループがそれぞれ1組ずつ乗船しているとのことだった。
出航まえの必須事項である非難訓練をするから劇場に集まれという指示に従い、シアターフロアに上る。集まる船客は各人各様。千人を収容する座席がほぼ満席になった時点で、20人ほどのスタッフがステージや通路に立ち、ライフジャケットの着用方法のデモを行う。飛行機に乗るとフライトアテンダントが必ずデモをおこなうあの仕草と全く同じ。各デッキの両舷に吊ってある救命ボートの所在確認を終えて解散。
アラスカは白夜だから、午後7時を過ぎてもまるで昼間のような錯覚をうける。さすがに空腹を覚え、シャワーを浴び気分爽快になったところで食事に出かける。船内には本格的なフランス料理、イタリア料理のレストランを筆頭に、普通のアメリカ料理のメニューを出すレストランが幾つかのほか、ハンバーガー、ピザなどのファーストフード、バーやラウンジなども含めると食事のできる場所は10ヵ所を超える。乗客2,000人にクルーを併せると2,700人もの人間が載っている巨大豪華客船で、全員の胃袋を満たすには、毎日8,000食もの食事を調理する機能が必要だ。10幾つのレストランで足りるのかと心配したがあとで杞憂と判明した。喫水線から50メートルもの高さにあるデッキには、24時間フルオープンしているブッフェのカフェテリアがあり、真夜中、明け方を問わず、いつなん時でも食事ができる仕組みだ。ここでの食事代はクルーズ費に含まれているので代金の心配はいらない。フレンチやイタリアンレストランでは、メニューごとにチャージを取るが、街のレストランほど高くはない。好きなものを好きなだけすぐ食べられるカフェテリアは一度に1,000人ぐらいが座れるスケールだから、乗客多しといえども、行列をして待たされる心配はまったくない。
長い列車の旅で疲れていたので、いまさら予約やドレスアップの要るフレンチやイタリアンディナーはしたくない気分だ。航海初日のディナーはジーンズにスニーカーで入れるカフェテリアで済ますと決めた。エレベーターで最上階のデッキに上がってみると、全く気付かなかったが、船はすでに港を離れて大海原を疾走中。これには驚いた。
ドラが鳴り響き、ブラスバンドが演奏し、舷側に集った船客の投げる無数のテープが宙に舞う中を、船はボーっという汽笛を何度も鳴らしながらしずしずと桟橋を離れていくという物悲しい風景が、25年前まで住みなれた港コウベの船出のイメージだ。ところが今度のアラスカ航路では、最終寄港地のバンクーバーに着くまでの1週間、ほとんど毎日各地に寄港したが、出船時にはいつも船は音を殺して滑るように港を出ていくのだった。
白夜の北の海では9時すぎてもまだ水平線上に太陽が残っている。
日が沈まない風景を目にすると、身体も昼間と感じるのか夜特有の眠りを誘うけだるさが湧いてこない。眠れぬままに船の機能のあれこれについて想いを馳せてみる。
2,700人もの人間が1週間を過ごすこの船では、いったいどれぐらいの量の水を消費するのだろう。一人が1日2リッターの水を飲むとすると、飲み水だけでも毎日54トンになる。トイレ、洗顔、シャワー、風呂、プール、食器洗い、リネンの洗濯、甲板掃除などに使う水をあわせると、一体何百トンになるだろう。この船にはそれほど大量の真水を積み込んでいるのだろうか。気がかりになりだすとますます頭が冴えてくる。
キャビンのテレビで「コラルプリンセス号についてのあれこれ」というチャンネルに合わせてみると、本船には大掛かりな海水の脱塩装置によって、無尽蔵にある海水からいくらでも真水を造れる仕組みがあるという。道理でバスタブでもシャワーでも、栓をひねると痛いほどの勢いで水が飛び出してくる。
大航海時代、永い航海の果てに水を使い果たした帆船では、尽きかけている樽の残り水を一人占めにしようと狙う不届きものから命の水を護るため、キャプテンが武装したオフィサーを見張りにつけたというストーリーを読んだことがある。いまの航海では水はふんだんに使い放題。ロマンの欠片がまた一つ消えていった。
半世紀ほど昔、コウベ港に寄港した豪華客船は巨大な蒸気エンジンを積んでいた。それが間もなくディーゼルエンジンに替わり、いまや七つの海を往く最新鋭の客船は、灯油を動力源とするガスタービンエンジンで動く。このエンジンの原理はジエット機に使われているターボジェットと同じ。
医者になりたての頃、コウベ港を夕方出航する関西汽船のくれない丸に乗って、一晩中瀬戸内海を航行し別府の学会に出席したことがある。一晩中ゴトゴトというピストンエンジンの騒音と振動のせいで一睡もできなかった。音も振動もまったく感じないうちに9万トンの巨船が滑るように出航するなんて、むかし手塚治虫や小松崎茂の未来科学まんがが描いた想像の世界を超えるテクノロジーには驚愕するのみである。
手元の時計は午前3時。眠れぬままにキャビンからデッキに出て海を眺める。白夜の薄明かりに浮かび上がる目前の大海原は一面の白波。しぶきが20メートルの高さのキャビンまで飛んでくる。むかしの船乗りは白波のたつシケ模様の海面を「白うさぎが跳ぶ」と表現したがまさにその通り。テレビ画面のデータに目をやると、船はアラスカ沖の北太平洋の真ん中を、風速10メートルの向かい風に向かって時速50キロほどのスピードで航行中だという。それにしても、船上にいてびりとも揺れが感じられないのはなぜだ。幅30メートル、長さ300メートル、重量9万2千トンの巨体には、ジェット機旅客機同様数々のハイテク装置あって、横揺れ(ローリング)や縦揺れ(ピッチング)を最少に抑えるためにスタビライザーと呼ぶ小型の翼が水面下で船体の前後左右に突き出ており、これらが連動して船の揺れを抑え込んでいるという。沖にでたら波まかせ風まかせと唄われた船員魂の居場所やいずこ?