哲さん、よかったよ

数年前、内館牧子さん原作のNHK連続ドラマ「わたしの青空」で、バズーカというボクシングジムのおやじ役をやった渡辺哲さんの一挙一動に強く魅かれファンになった。その哲さんとデイリーで隣同士のコラムを分け合って1年余り、一度ステージを観たいと願ってきた。願いかなって先月の末、「田中角栄はかく語りき」と題する独り芝居をみる機会をもらった。

下北沢の芝居小屋ザ・スズナリにたどり着いた晩は、夜空に小雪が舞う寒い夜だった。超満員の小屋に押し込まれ、椅子に座って見回すと、元田中派の重鎮だった政治家夫妻がすぐ前に座っている。闇将軍とよばれた田中元総理の強烈な個性を、哲さんがどう演じるか検証にこられたのだろう。

「皆さん、わたしが田中角栄です」という大音声のセリフで幕が開くと、スポットライトに浮かぶ哲さんの姿は、誰もが知っているホンモノにそっくり。まるで田中総理があの世から舞い戻ってきたかのようだ。若かりし日の総理が、政界にデビューして以来、節目節目に行った演説のさわり部分を繋ぎ繋いで延べ1時間もの独り語り。何10ページにも及ぶ台本の膨大なセリフを完全に覚える作業はさぞや辛かったろう。

越後の無名青年が東京に出てきて政界にはいり、年月とともに膨大な力を集積し、やがては最高権力者にのし上がっていく過程を、哲さんは、身振りや口調の絶妙な技で演じわけた。

田中総理の節目の演説はいまでも観客の記憶に残っている。それを物まね上手に演じさえすれば、観客は自分の記憶と照合し、驚き喝采してくれる。だが家庭人としての総理は誰も知らない。余人の知らぬ姿を演じて見せるのが役者だ。哲さんは総理の家庭人としての姿をしっかり見せてくれた。

1時間半の長丁場に魅了された観客から割れんばかりの拍手とスタンディングオベイションでフィナーレ。哲さん、よかったよ。

(出典: デイリースポーツ)

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