教える者と教わる者

会津若松のT病院から招きを受けて講演に旅立った。東海道と東北新幹線を乗り継ぎ、郡山から高速道路を1時間走ると白虎隊の会津若松に到達する。磐梯山を含む山並みに囲まれた会津盆地は海抜1,000米だから夏でも涼しい。講演では医師不足対策について持論の医師パーフォーマンス不足論を展開、解決策として診療スタイルの個人プレーからチームプレーへの変更と補助人員の充足を強調した。あとの席でも質問が続出し医師不足の深刻さが伝わってきた。

講演では演者と聴衆は充実感を共有する。ところが医学生や若いドクターを相手の授業や上級医師を対象のセミナーでは、米国ではありえない戸惑いに遭遇する。先日ある病院で若いドクターを対象に数回にわたる臨床学習方法論の授業を企画実施した。臨床学習の本質論に迫るテーマは抽象的でその理解には思考能力が問われる。案の定受講生代表が「授業を別の主題に変更して欲しい」と言いにきた。間をおかず秋に企画していた研修指導医セミナーの出席予定者から開催世話人を通じて「本質論より具体的な指導テクニックを教えろ」というリクエストが届いた。世話人は要求に応えて内容を変更しないと参加者が減って会が成立しないと脅す。セミナーを即座に白紙にもどしたのは言うまでもない。

本質論を省略し方法論から入るのが今ニッポンの知識人の常である。本質論から入るには“考える頭脳”と時間が要る。方法論からだと見て聴いてからだに覚えさせれば頭はいらない。易しくて誰にでも即できればいいという理屈だ。米国では教師と生徒は明確な区別をもつ。生徒に「何をどう教えるべきか」を決断するのがプロの教師だ。その決断に生徒がもっと易しいテーマをと内容の変更を求めることは教育の本質を愚弄する。この愚弄を社会が許すかぎり、ニッポン人の学力低下は止まらないだろう。

(出典: デイリースポーツ)

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