誰の子?

40年ほど前ボストンで小児外科の主任研修医としてF教授に師事していたときのこと。ガンと診断された3歳の男の子が両親に付き添われ切除手術のため小児外科を訪れた。愛児のガンは生死に関る深刻な事態だ。動?してすすり泣く母親を父親は胸に抱きとめ慰めている。その微笑ましい姿はどこから見ても愛し合い信頼し合う夫婦のそれだった。

入院手続きを終えた患児を病室に移し詳細な病歴を取り診察を終えたインターンのSから呼び出しコールが入った。「父母とも血液型はA型ですが子どもはAB型です。誰か別人の子どもでしょうか?父親は生後間もなく生殖系の先天異常をドクターFに手術してもらったそうです」A型の両親から生まれた子どもの血液型はAかOに限られる。ならばことは深刻だ。この件を誰にも口外しないようSに念を押して電話を切った。

教授室に赴き師に尋ねると「この男性の手術は記憶にある。確か両側精管欠損で父親にはなれない筈だが。もう両親には話したのか?」とF教授。「まだです」「ならばこの件は伏せておいたほうがいい」「なぜです?患者にはすべての事実を知る権利があります」合流してきたSも一緒に教授に詰め寄る。

「人は誰でも触れられたくない心の傷がある。その傷を医者がほじくり返してどうする」「でも不告知を理由に訴えられたら裁判で負けますよ」「医療のゴールは健康の回復がもたらす患者と家族の幸せだ。世間には不都合を知りながら知らぬフリをして生きている人もいる。そっとしておくのも医道のうちだ。権利だ訴訟だといきりたつ前に、子どものガンを治すのがキミらの使命だ」師の心の大きさに触れた気がした。

歳月が過ぎ、わが師はハーバード大学教授を引退した。引退式典では弟子を代表し「あなたのようなメンター(師匠)になるのが弟子であるわたしの夢です」と挨拶した。達成はいまだ前途遼遠だ。

(出典: デイリースポーツ 2008年9月4日)

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