アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(2)

第2日目:プルドウベイ

昼すぎに出るアラスカ航空のB737ジェット旅客機で、1,000キロ離れた北極海沿岸にある石油基地のプルドウベイに向かう。1時間半の空の旅だが、200人乗りの旅客機に乗っているのはツアーグループの60人だけ。
機上から下をみると、雲の上にマッキンレー山が聳え立つのが見えた。コウベに住んでいたニッポンの英雄登山家、植村直巳さんが永眠している山だ。思わず合掌。

1時間ぐらい飛んだ地点で、雲の切れ目から大地が見えた。緑の途絶えた裸土の平原が無限に続く。ツンドラ地帯では真夏でも地表50センチの表土より下は永久凍土である。表土に生えるのは雑草や苔類だが、地下に根を張ってそだつ樹木は生存できない。北極海岸から300キロぐらい南にさがると、はじめての森が出現する。

石油会社の職員以外に住む人のいないプルドウベイに、ジェット旅客機が発着できる本格的な空港があるのかどうか心配していたが、無事着陸してほっとした。
ここプルドウベイに油田が発見されて40年あまりになる。この全米一の石油基地には、6千人もの人が常時働いている。この人たちにとってアンカレッジまでの空路は、文明圏との往来に欠かせぬ唯一のルートだ。油田開発の黎明期にはジェット機の飛べる空港建設が最優先されたという。

ノーススロープと呼ばれるプルドウベイ一帯はエスキモーだけが住む未開の土地だった。20世紀のはじめにこの地を訪れた探検家は、エスキモーたちが、自然に地表に湧き出た石油を料理や暖房に使ってると記録している。

時代が過ぎて、この石油を採掘して文明圏に持ち帰ると商売になると考えた人間が出てきた。持ち帰るといっても、氷に覆われた北極海にタンカーを差し向けるのは至難のわざだ。そこで、様々な方策が検討されたという。

案のひとつは、強力な砕氷装置をつけたタンカーを建造し米ロを隔てるベーリング海峡を通過させて北極海に送り込む。アラスカ最北端のバロー岬を迂回しプルドウベイにたどり着き、原油を積み込んで同じルートで太平洋に戻るというものだ。しかし冬の北極海の航行は危険が多すぎるうえ、採算が取れる量を運びきれない。

次なる案は、潜水タンカーを建造し結氷の下を航海して原油を運びだすという計画だったが採算不足で却下。結局人跡未踏の地下の宝物は手付かずで眠らせるしかないという結論に達した。
その後1920年ごろ、米国海軍が行った調査では油田は存在しないという結論だったが、1968年に油田探索チームが行った大掛かりな試掘で、プルドウベイの地下に大油田が眠っているのを発見した。
大油田の発見はアラスカにゴールドラッシュ以来の大ブームをもたらせた。おりしも中東では数次にわたる中東戦争が勃発したせいで、原油価格は世界的に高騰し、それまで採算面から消極的であったプルドウベイの原油採掘計画は、一気に商業ベースに乗る可能性を帯びてきた。
1972年には、米国議会はアラスカを南北に縦断する1,300キロのパイプライン建造を承認し直ちに着工した。5年後の1977年、北極海の地下からくみ出されたアラスカ原油が完成したばかりのパイプラインを通って太平洋岸の港から積み出された。

プルドウベイ空港には空港ビルというものが存在しない。
木造平屋の田舎のバスセンターのような、ビルと呼べない建物があるだけだ。したがってボーディングブリッジもない。
発着便の乗客はタラップを上がり降りなければ、機内と地上を行き来できない。昭和30年代の羽田空港を思い出させる。

バス停の建物を出ると、チャックという名の中年男が待っていた。
「ようこそプルドウベイへ。チェックインした荷物はあとで運ばせますから、皆さんバスに乗ってください」
チャックはトラックのドライバーからプリンセスクルーズ専用バスの運転手に転向して15年になる。もっぱらプルドウベイと自宅のあるフェアバンクス間の800キロを1泊2日で、ツアー客を乗せて往復するのが仕事だ。1週間に2往復すると次の週は休養。彼はこのシフトが気に入っているという。

バスが1キロも走らぬうちに着いたのは今夜の宿、アークティックカリブーイン。「北極海トナカイの宿」とでも訳そう。

コンテナーを幾つも並べたような木造平屋建てに、幾つもの小さな窓が空けてあるから、なんとか宿舎とわかる。

「プルドウベイのリッツカールトン、カリブーインにようこそ」
空軍ジャンパーをきた髯面の小男が出迎えてくれた。
この宿のマネージャーだという。
「プルドウベイの季節は、6月から8月までの短い夏と9月から5月までの長い冬の2季しかありません。皆さんのように4季のある土地に住んでいる人には、真っ暗な冬がどんなものか想像もつかないでしょう」
という。すかさず、
「なに、季節の変化の少なさでは、もっと上がありますよ。わたしの住んでいるハワイは、年中長ーい夏だけの1季です。どうだ参ったか」
不安まじりの真剣な顔で聞いていたツアー客全員、大笑いで場はなごんだ。
「冬もわれわれのような観光客はきますか?」
という質問がでる。
「アラスカクルーズは9月中旬までオフシーズンです。プルドウベイ北極海ツアーは、8月中旬でオフ。来年5月まで休業です」
「オフの間、皆さんはどうなさるの?」
「わたしは家族の待つサウスダコタのわが家に戻ります。12人いるスタッフは州の南にあるフェアバンクスやアンカレッジに戻って冬を過ごします」
「プルドウベイでホテルビジネスを始めたワケは?」
「高額の収入が保証されているからです。石油会社と契約すると、職員の宿舎確保のため、高額の料金を支払ってくれます。わたしもスタッフも、夏の3ヶ月間ここで働くと、ほぼ1年分の生活費を稼ぐことができるのです。いわば辺地手当てですな」

キーをもらって部屋に入ると、3×5メートルの小部屋。
「なんじゃ、これは」
古材を再利用した合板の壁にはペンキも塗ってない。壁の一部を切り取った小窓から外をみると、ホームレスの掘っ立て小屋の外観を呈する隣の棟の外壁がみえる。どこかで見たと思ったら、映画でみた捕虜収容所にそっくりだった。
これが今夜のねぐらだ。
建設現場の飯場と見まがう宿舎ながら、暖房、シャワー、水洗トイレ、電話、小型ながらテレビも完備している。L字型に配置されたベッドの一つがカミさん、もう一つが私の寝床である。

「晩飯は逗留中の作業員の食事が済んだあとの午後8時ごろ、各自食堂でたべてください」
8時まではまだ4時間ぐらいある。
部屋で一休みしたあと、迎えにきた会社のバスで石油基地を見せてくれるという。石油基地の警備は厳しく、グループの60名各自の写真つき身分証明証を求められた。
「今のご時勢ですから、へんな手合いが油田に爆弾をしかけないとはかぎりません。用心に越したことはありません」
持ち物はパスポート、財布、カメラだけが許された。

プルドウベイ全体で、1日の産油量は200万バレルを超えたこともあったが、いまは80万バレル程度に抑えているという。
樹木一本もない関東平野ぐらいの大きさの平地に、何本もの油井のタワーが立っている。油井タワーは海中にも立っていて、思わずルイジアナ沖の石油漏出事故に想いを馳せめぐらせられた。

広大な産油基地内の原野に盛り土をして造った未舗装の道路を、ホテルから40分ぐらい走ると、北極海の波打ち際に出る。北極点から1,600キロぐらい離れているという。北の空には鉛色した厚い雲がたちこめ、吹き寄せる風は肌を切るほど冷たい。気温は摂氏2度だが、身体を吹き抜ける冬の風によって体感温度は零下3度に下がる。

バスは渚から200メートル手前で止まった。ここから渚までは歩いていけとドライバーは言う。
「先週、このあたりで白熊を見かけました。流れている氷山に乗って岸までくるのです。白熊はアザラシやオットセイなどの大型動物を日常的に食べているので、人間も餌だと思っています。この極地帯で人間を怖がらない唯一の野獣ですから、遭遇すると獲物だとおもって近寄ってきます。早く発見して逃げるのが唯一助かる方法だと思ってください。波うち際のあたりでは、特にあたりに気をつけてください」
アメリカは自己責任の社会だ。白熊に喰われても誰も責任を取らないとの宣告と受けとめた。
そういわれると、もしも砂山の蔭から白い巨体がぬっと現れたらどうしようと、恐ろしさが先にたって、北極海に到達したという感激に浸りきれなかった。

下はジーンズ、上はカシミアのセーターを2枚重ねて、その上にコットンのスタジオジャンパーを重ね着しているが、北風に立ち向かうとたちまち体温が下がる。前にすすめなくなる。波打ち際まであと100メートルがなかなか到達できない。それでも意を決して歩を進め、やっとたどり着いた北極海の水に手をつけてみる。飛び上がるほど冷たい。タオルで拭くのもほどほどに、かじかんだ両手をセーターの襟もとから首筋に入れて温めてみるが、なかかな元に戻らない。
風速20メートルほどの寒風がぴゅーぴゅー吹いているなかで、ジーンズを膝までめくりあげ、スニーカーをぬいで、裸足で浅瀬に入っている人もある。
断っておくが、このツアーのグループ60名は、わたしとカミさんを除いては全員が白人。殆どがアメリカ人だが、ロシア人のカップル、イスラエルから数組の老夫婦もいた。
人種間の耐寒機能を比較した研究によると、寒さに一番強いのは北米に住む白人。世界一弱いのがニッポン人、南部中国人、それにインド人という結果が報告されている。白人アメリカ人とニッポン人では平均体温が1度も違う。
ジーンズのすそを捲り上げ、冷たい海水に浸して濡れた足を拭きもしないで、北風の吹く砂利の浜辺を走りまわり嬌声をあげるアメリカン男女の姿を見ていると、違う生物の群れを見ているような気がした。

宿に帰ると、暖かい食事が待っていた。
朝夕賄いつきの学生下宿を思い出させるシステムだ。キッチンでは中年の女性が数人の若い男女に指示をだして、みんなきびきびと効率よく働いている。
マッシュドポテトもパウダーのまがい物ではなくて、皮つきのホンモノ。グレービーソースをたっぷりかけたポテトの脇にボイルしたブロッコリーをのせてる。今夜のメインは焼きたてのロースとビーフ。中年のおばさんが、注文に応じた厚さにカットしてくれる。ロースとビーフにつきもののホースラディッシュも、パウダーではなくて、フレッシュのホンモノで感激した。
1.5インチ(約4センチ)の厚みにカットしたビーフの塊を皿に載せてもらって、テーブルにつく。
サラダ、デザート、飲み物、フルーツもセルフサービスで食べ放題。ただ、この手の宿の食堂では、アルコールはご法度だ。持ち込みのワインやスコッチを各自の部屋で飲むしかない。