百見は一聞に如かず

ニッポンに着いて3週間が過ぎた。古希を過ぎると人並みに朝早く目が覚める。起きたら反射的にテレビのスイッチをオンにする。毎朝5時半から、その売れっ子ぶりがギネスブックに収録された人気司会者のワイドショウを見る。画面では各社朝刊の切抜きに赤の傍線を引きアップで写しながら記事を読み上げる。「あれ、これは新聞のパクリではないの?」と思っていると、カメラが現場で撮ってきた映像がフォローし、司会者の名調子の解説が重なるという形式でショウは進む。

この番組はニュースのタイトルを紙で隠したり大きなパネルを回転させたりして見るものの興味をひくが、同じニュースを反復放映してくれるのがありがたい。3時間のオンエアの間、シャワーや朝食など恒例の行事で中座してもニュースを見落とす心配はない。ところがテレビで見る情報は頭に残らないのだ。コラムのネタの収集源としては、朝刊の活字に勝るものはない。

まだテレビが存在しない時代に少年期を過ごした年代には、聞くか読むかのどちらかが情報取得の手段だった。言葉で表現された概念を脳内で映像に転化できなければ知識にならない。たとえば「カナダのウイニペグでは視野360度に地平線が広がる」という教科書の記載は、読者の想像力により大平原の風景にかわる。想像が頭脳に描いた景色は百変化する。その百変化が創作や新技術開発などの創造能力を養う糧となるのだ。

最近社会人相手の講演をする機会が増えた。最前列に座りながら隣人と私語を続け、講演をまったく聞かない無礼なオトナがいる。ハナシの背景を想像する能力を欠いているから面白くないのだろう。学校でも先生のハナシを聞かない生徒が増えているという。「画像のほうが理解しやすい」という画像教育礼賛論者は、子らから想像力を奪い取り、ハナシの聞けない人間を育てていると知るべし。

(出典: デイリースポーツ 2008年9月25日)

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