見た目だけの文化の国

年末に、12年間一度もバレずに偽医者をやり通した男が捕まった。診てもらった患者や、回りの人が不審に思わなかったのは、この男がホンモノの医者以上に医者らしく見えたからだ。裏を返すと、偽者が医者になりすましても見破れないほど、いまの医療はいい加減だということか?

ニッポンでは、患者は医者に診てもらっても、自分の病気について医者にしつこく問い詰めたりしない。だから医学知識のない偽医者でも勤まるのだろう。アメリカでは、医師の出身大学、医師資格、専門領域、専門医資格、研究分野から発表論文まで、あらゆる情報はインターネット上に開示されている。患者は医者が何者であるかを十分知ったうえで、受診の予約をとる。診察室に入ると、病気の本態は?手術以外の治療は?手術の方法は?今まで何人の手術をしたか?成功の確率は?これから先の人生への影響は?と質問攻め。わたしが仮に偽医者であれば、このやりとりでたちどころにボロがでる。

暮まで3ヶ月の沖縄滞在中、テレビ番組で児童誘拐犯罪の専門家と紹介された人が、「誘拐防止のためには、こども達に、不審な人を見かけたらよく注意するよう、しっかり教えることが大切だとおもいます」と結ぶのを聞いてあきれた。こんな無責任なセリフは、シロウトのわたしでも、恥ずかしくて口にできない。犯罪防止手段を提示し、それぞれの是非を論じて解説するのが、クロウトというものではないのか。

アメリカンの眼からみると、ニッポンのテレビに出てくる医療や児童犯罪その他の“専門家”たちには、見た目はそれらしく振舞っているが、問題点の把握と具体的解決策の提示を行わず、情緒的抽象論に終始する共通点がある。これでは専門家ではなくて評論家だ。

冒頭の偽医者も、人を見た目で判断する文化のニッポン社会だったから、12年も続けられたのだろう。

(出典: デイリースポーツ)

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