鯨の季節

現役の外科医だった頃には、7時執刀の手術に間に合うように、毎日5時半に起きていた。4年まえに引退して以来、目覚めたときが起きる時間になってしまった。おもえば怠け者になったものだが、何十年間もしっかり働いて来たのだから、ま、いいか、と自分を甘やかす。こんな勝手が許されるのは、引退人間の特典だ。

8時過ぎに起きて、海に面したテラスのテーブルで朝食を摂る。メニューの定番は熱いコナコーヒー、オレンジジュース、トースト、それにハーフカットのパパイアだ。歳とともに卵とベーコンはメニューから消えた。ハワイで年中収穫できるパパイアは、青空市場で子どもの頭ほどのが、ひとつ60セントで売られている。このパパイアも、8月から9月にかけては、旬のマンゴーと交代する。

朝凪で波静かな海面に目をやると、ところどころで白い噴水が2、3メートルの高さに吹き上がる。ハナウマベイのあるココヘッドの岬を西に迂回し、ダイヤモンドヘッドの方角に向かう鯨の群れだ。さらに目を凝らすと、白黒の巨体が穏やかな海面を突き破って宙に舞い、しぶきを上げながら海に沈む。この眺めは壮大だ。双眼鏡で眺めると、体表を縦に走る縞の一本いっぽんが見てとれる。

ハワイでは12月から5月までの期間を「鯨の季節」と呼んでいる。毎年11月になると、4千頭を超える鯨が、寒いアラスカの海からの長旅を終えて、ハワイの近海に到着する。暖かいハワイの海に落ち着くと、子どもを産んで子育てに専念する。幾千キロを迷うこなくハワイにたどりつくには、体内によほど優れた衛星ナビが仕組んであるのだろう。5月になると再び北に向う長旅をし、アラスカの海に戻っていく。

自然の摂理とはいえ、暖かく安全な海での出産子育てのために、何千キロの移動をいとわぬ鯨に限りない愛しさを覚える。想いを人間に転じると、文明の陰に置き去りにしたものは多い。

(出典: デイリースポーツ)

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