生死の判断は難しい

5月10日付けの新聞は、入院中の末期ガン患者の人工呼吸器を外した某市民病院の外科部長に対し、捜査当局は患者の死を招くと認識しながらの行為に殺意があったと判断し、殺人容疑で書類送検する方針だと報じた。

従来人の死は自然に呼吸が停まり心拍動が停止した時点が臨終とされてきた。ところが生命維持装置の開発導入によって臨終の様相は一変した。装置が呼吸や心拍を再起動させると意識も戻る。意識が戻れば痛みの感覚や恐怖も心に宿る。回復の見込みのない人生の終焉を装置で無理やり延長され、余計な苦痛を強制されるのは、当の本人にとってさぞ辛かろう。装置さえなければ恐怖や痛みに耐えることもなく静かに逝けるのに。いや、恐怖心や痛みも命あればこそ、1分1秒でも永く生きていたいのが人間だ。装置を止めるのはもってのほか。白黒つけるのは世論でも法でもない。哲学の命題に結論が出ない間にも、診療現場は決断を迫られる。

米国大学病院で現役小児外科医だった当時の判断と選択の経験を紹介しよう。重症小児患者の装置を外す決断は親権者に委ねる。ケアに携わる医師団が、患児は絶対に救命不可能と判断すると、患者家族と支援者、ナースや技師を含めた医療チーム全員でオープン集会を何度も開く。患児の呼吸、循環、腎臓の管理を担当してきたそれぞれの専門医が、各臓器機能の現状を砕いた言葉で家族に説明する。迷った家族が他院にセカンドオピニオンを求める場合には資料を提供し協力する。納得した親が同意書に署名すると、鎮痛剤投与の点滴ルートを残して全装置を取り外す。まもなく患児は安らかに逝く。

米国の入院患者は複数科の医師チームで診療する。判断に密室性がないので法廷もその判断を尊重する。冒頭に述べた外科部長の市民病院もチーム診療を導入していればよかったのにと思う。

患児が逝ったあともケアはまだ終らない。決断した親はあれでよかったかと悩み続ける。1週、3週、2月の間隔で電話をかけ、落ち込んだ親を励ますのも小児外科医の仕事である。

(出典: デイリースポーツ 2008年5月15日)

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