『とりあえず』

「何になさいます?」「とりあえずビールを頂戴」「はい、すぐお持ちします」先日旧友と一杯飲んだ店の女性との会話だ。同じ会話は全国各地で毎晩何万回と繰り返されていることだろう。
とりあえずビールの『とりあえず』って英語ではどない言うねん?」友に尋ねられ絶句。適当な訳が見当たらぬ。『とりあえず』の替わりに『一応』というのもある。両方とも決断しかねる場合に使われる意味不明語だが、聞き手には「あうん」の呼吸でわかる。日常の会話では意味不明でもかまわないが、重篤で危急の状況で使われると問題だ。

たとえば船のブリッジを仕切る人が「船長、左舷に漁船発見!」「よし、とりあえず面舵30度」とは言えない。旅客機のコックピットで「キャプテン、右30度に機影接近!」「ラジャー。一応左に旋回急下降せよ」というのもまずい。ボイスレコーダーに残ると困ったことになる。

つい先日ある病院で研修医の症例検討会に出席した。45歳も年下の孫のような研修医が病人の治療経過を報告し出席者全員から批判と意見を仰いで糧とする勉強会だ。若いセンセ「この時点でとりあえずレントゲン写真を撮りました」に続いて「とりあえず入院してもらい経過観察することにしました」「検査のあと、とりあえず点滴をして一応様子を見ることにしました」「翌日症状軽快したのでとりあえず退院してもらいました」と報告。聴いていると決断出来ずに腰が退けているのが見て取れる。

「キミの報告を聴いていると、『とりあえず』の応急処置だけで、本格的な診断治療を先送りした印象を受ける。病気の治療には厳しい選択と決断が必須だ。『とりあえず』や『一応』で治療される患者さんの立場に立って考えてごらん。その心情が判るだろう。『とりあえず』で済ませるのはビールだけにしておけよ」と苦言。判ってくれたかな?

(出典: デイリースポーツ 2008年6月12日)

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