隠れ宿

今、九州で一番の温泉街にある宿でこの稿を書いている。頂上に遊園地のある山の麓の敷地を流れる谷川をはさんで、各部屋一戸建て10室ほどの静かなたたずまいがその隠れ宿だ。2年前講演旅行の帰途、地元の病院長に薦められ半信半疑で泊まって病みつきになった。以来ニッポンに来るたび訪れるようになり今までに5、6回世話になった。

ペギー葉山によく似たおかみに「お帰りなさい」とチャーミングな笑顔で迎えられると、我が家に戻ったような気分になる。泊まるのはいつも同じ部屋。世話をしてくれる係りはいつものJさんだ。予約と同時に黙っていても、その手配をしてくれる気配りが嬉しい。関サバ、関アジ、城下カレイ、フグなど四季折々の活きのいい海の幸を板場の親方がウデをふるって食膳に上げてくれる。食事のメニューはその日に揚った魚次第というのもいい。

誰も居ない露天風呂を独りで占領し手足を思い切り伸ばす。裏山に吹き出る70度の源泉は江戸時代から何百年間も流れっぱなし。よくも尽きないものだとあきれてしまう。見上げるといつもなら杉の巨木から張り出した枝の葉陰に星が見える。今夜は生憎台風が運んできた雨。枝を伝った雨露の雫が見上げる額にぽつんと当たる。それも風情があっていい。

「センセはお仕事でいろんな宿にお泊りでしょ。宿のもてなしで一番大事なことは何でしょう?」コーヒーを淹れながらおかみが尋ねてくれる。「出会いの挨拶と朝飯だね。以前泊まって気に入ったからまた来たというリピーターは、誰もが一見客扱いを嫌う。おかみから『前にもお越しいただきましたね』という言葉を聞くのが嬉しい。それと出発日の朝ごはんの味はいつまでも記憶に残るからね。美味しい朝飯をまた食べたいという気持ちになるでしょ。あれ、いつの間にか営業の講義になってしまったね」こんな会話がまたいい。

(出典: デイリースポーツ 2008年10月9日)

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