ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(3)
外科医の育て方:日米の違い

「婦長、これがこんど外科にローテーションしてきたインターンのケンだ。いつもの練習用パックを渡してやってくれ」
一般外科医長のジムギャラント海軍軍医大尉が引き合わせてくれた手術室婦長は、金髪、ショートカット、ナース帽に太い金色の線が三本入った海軍看護少佐殿だった。二人の会話を聴いていると、外科医長殿は上官にあたる婦長にこんなぞんざいな口をきいていいのかと心配になるほどカジュアルな口ぶりだ。あとで判ったことだが、海軍でも病院だけは別世界。手術室内では外科医とナースの人間関係は、シャバの病院とかわらないのだ。
「いいわよ、ジム」
応えた少佐殿の婦長から手渡された練習用パックには、実際の手術で使うホンモノの摂子、止血鉗子、持針器、縫合針、鋏、縫合結紮糸などの手術器材がひと揃い入っていた。外科インターンはこの器材をつかって、手術のシミュレーションをするように義務づけられている。
ニッポンの病院でも研修医に手術のシミュレーションを義務付けると研修成果が大いにあがるのだが、高価な器材の員数に限りがあるからという理由で、実現していない。


外科医のお道具

パックに含まれる摂子という道具は、世間ではピンセットと呼ばれている。これは傷を縫合する際、皮膚や組織を摘み上げて縫合針の刺入を助ける役目をする道具である。
持針器は半円形に曲がった縫合針を把持するためのプライヤーのような形をした器具だ。熟練外科医は、縫合針の方向やからだの組織に刺入する際の力加減を、自らの手指のごとく制御する。持針器につけた針が通過する人体組織は、通常ぐにゃっとした餅のような感触である。手術にはこれに、目分量で目安をつけて正確に針を通す技術が求められる。
縫合針は、曲がったものや縫い針のように真っ直ぐなものなど、多様だが、一番よく使われるのが半円形に曲がった針だ。
曲線を描く針を、持針器に掴んでからだの組織を縫うのは、見た目ほど易しくはない。日ごろからシミュレーションを何千回も重ねて訓練を積んでおかねば、いざというときの役には立たぬ。
鉗子は切断端から血を噴いている血管を、周囲の組織と一緒に把持することによって、出血を止める道具である。出血点を的確に見極め、迅速に止血するためには、鉗子を手指のごとく操る技能が要る。そのためには、日ごろから鉗子を閉じたり開いたりする訓練をかさね、いざというときに備えるのが肝心だ。
外科手術に使う鋏は刃の部分が曲線を描くものが多い。外科医はこの鋏を、効き手の親指と薬指をつかって自在に操る能力が要る。
手術で皮膚切開にはメス(ナイフ)を使うが、その他の臓器や組織を切るのには、ほとんど鋏を使う。鋏は、組織の剥離や、縫合糸や結紮糸の切断に、欠かせぬ道具である。鋏を自在に使えるようになったら、外科入門の入り口を通過したようなものだ。
結紮や縫合に使う糸は、絹、羊の腸、木綿、化学合成物質などを原料とした、大小さまざまなサイズのものがある。小包の紐ぐらいの太さから、赤ちゃんの髪の毛より細いものまで、
用途は多様だ。切れた血管を鉗子で掴んでおいて、これを結紮糸で縛ると止血は完了する。一度の手術で、縛る血管の数が100本を超えることは珍しくない。

手術の基本動作

「手術の基本動作は、まず麻酔によって痛みを消した皮膚をナイフで切開する。皮膚を切ると血管も切れて出血するから、これを鉗子で止める。止めた血管端を結紮糸で縛る。縛った糸を鋏で切る。この手技を繰り返して傷んだ臓器や組織を切除する。病巣を切除したあとは、腸でも肺でも心臓でも再構築が必要だ。再構築は、まずピンセットで組織をつまんで、持針器で糸をつけた縫合針を把持し、針を組織の中を通して縫い合わせ、糸を縛って組織を接合させる。そして余分な糸は鋏で切る。この基本的動作を何十回となく繰り返して手術は終わる」
長いローカを並んで歩きながらギャラント医長は噛んで含めるように説明してくれる。


シーツを縫って手術の練習

「外科のインターンは、今言った基本動作を完璧にマスターしなければならない。さきほど婦長からもらったパックの中にある器具を使って、毎晩ベッドに入ったあと、眠るまえにシーツを縫う練習をしろ。
シーツのしわを二つ並べ、ひとつずつを摂子で摘み挙げ、持針器につけた針で縫う。縫った糸は縛り、余分の糸は鋏で切る。シーツにボールペンでマークをつけ、これを出血点に見立てて鉗子を掛け、結紮糸で縛り、余った糸を鋏で切る。これから2ヶ月間外科のインターンでいる間、これを毎晩寝る前の日課とすること。何回しろとは言わないが、成果は手術のアシスタントをさせるとすぐ判る。それとは別に、縫合糸の結紮練習を毎日2千回。2千ノット結んだ編み紐を、翌朝オフイスに持ってきてわたしに見せること」


毎晩2千回の糸結び

大変なことになったが、これがホントウの外科臨床研修というものだ。外科をローテーションした2ヶ月間、毎夜眠い目をこすりながらシーツを縫い、2千回の糸結びを繰り替えした。翌朝、2千回結んだ証拠の編み紐を手渡すと、ギャラン医長は「よくやった」の一言とともにライターの炎で火をつけ燃やしてしまう。
「こうして燃やすのにはワケがあるのだ。キミたちは思いもよらぬだろうが、以前、この編み紐を見たあと屑籠に捨てていたら、それを拾って自室に持ち帰り、その夜は糸結びをサボったくせにしたフリをして、前日持ち帰った編み紐を証拠として翌朝わたしに見せた悪賢いヤツがいた。それ以来、編み紐は見たらすぐ燃やすことに決めたのだ。悪く思うなよ」
考えることは先輩たちもみんな同じ。秘かに画策していた編み紐再利用の企みは、空しくも編み紐を燃やすあわい煙と共に消えていった。

外科医の育て方:日米の違い

ニッポンの医学部では、将来医師になるものは医学知識を身につけ理論をマスターさえすればそれでよしとする。医師国家試験にも臨床の実技は含まれていない。臨床研修は「見て習えばいい」という共通の理解がある。
一方、アメリカの医療界では、医学は実学であり、診療は実務であるという認識にたつ。だから医学生や研修医にまず実技の基本を教え、診療の現場で実習させようとする。この違いはどこから来たのだろう。
調べてみると、ニッポンの大学医学部での教育カリキュラムが文部科学省の役所の発想から生まれたのに対し、アメリカでは医師会と医学部長会が構成する医学教育連絡協議会(LCME)という医師の集団が企画している。この協議会のメンバーは現役の臨床医という資格限定があるのだ。
現役の臨床医が次世代医師の教育研修方針を決めると、臨床研修は単に「見学する」だけでなく「実際を経験させる」という方向に向く。医師の資格を得た者は、臨床医として診療の実務に就き、国民の健康維持に貢献するべしという理念に忠実に従う。
ニッポンの「見て習え」方式だと、医学部を卒業したあと何年を修業したら一人前の内科医や外科医になれるのか見当がつかない。ウダウダしている間に年月がすぎて、ようやく一本立ちになったときには、停年まであと数年もない年齢に達していたという笑えないハナシもある。
米国では、医師国家試験を合格して医師資格を取得しただけの医師が手術をしても、報酬を得ることは不可能だ。内科、外科、小児科など、各科それぞれに定められた期間に一定の臨床研修を修了し、専門医試験に合格して資格を取った医師にのみ、診療報酬を請求する資格が授与されるのだ。
日本の医療界には、このような縛りが存在しないから、医師免許を持っているだけという未熟な医師が世に放たれて、無辜の患者を手術するという事態が、放置されたままになっている。
ギャラント外科医長は、小学四年生にして外科医を志望し、その目的のために医学部に進学卒業したわたしを、2ヶ月間真剣に、外科医にするべく仕込んでくれた。この2ヶ月がなかったら、外科医以外の途に進んで、違った人生展開になっていたかもしれない。
インターンから30年を過ぎた頃、その後のジムの消息を耳にした。海軍軍医を退役した彼は、米国某所で悠々自適の暮らしをしているという。できれば一度会ってみたいと思っているうちに15年の年月が過ぎて、いまはどうしているか判らない。
人生はままならぬように出来ている。

シミュレーションの成果

実際、婦長に渡された道具をつかって、毎夜シーツを相手に手術のシミュレーションを繰り返して1週間もすると、道具が手につくようになってくる。
糸結びも延べ1万回を超えたあたりで、3回結ぶのに1秒とかからないようにってくる。手術室に入って実際の手術のアシスタントをしながら、外科医の道具の使い方をみて「なるほど、この状況では持針器をこのように動かすのか」などと納得するのもこの頃だ。
実地訓練の成果がこのレベルに達すると、手術が断然面白くなる。指導医に命じられる前に、相手の動きを読んで先回りして手出しができると、お褒めの言葉をいただける。
「ひとつやってみろ」と手技の易しい手術をさせてもらえる。外科の根本は実学実務にあって、実力がものを言う世界なのだ。

手術はタイガーのゴルフと同じ?

インターンから40余年の年月が流れた。わたしはアイオワ大学の外科教授になり、アメリカンの医学生や外科志望の研修医を数多く育ててきた。
「手術はひと口に言うと、タイガーウッズのゴルフのようなものだ」
小児外科に回ってくる医学生や研修医に最初にいって聞かせる言葉がこれだ。そのココロは
「テレビのゴルフ中継でタイガーのプレーを見ていると、誰でも簡単にバーディが取れるように見えるだろう。それと同じで、手術室でわたしの背中から眺めていると、大きな小児ガンでも簡単に切除できるように思える。だが実際自分でやってみると、ゴルフも手術も『見る』と『する』では大違いだと判るだろう」
インターン時代、毎朝編み紐に火をつけて燃やしたギャラント医長と、教える立場になった自分の姿が、気持の中で重なる。医者の駆け出しの頃、アメリカンの師匠から教わった外科の知技心を、いま同じアメリカンの次世代外科医に返還する。この廻り合わせを思うたび、インターン時代のあれこれが鮮明に甦る。

(2008年3月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

1 thought on “ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(3)
外科医の育て方:日米の違い

  1. 興味深い記事をありがとうございます。
    私は、40過ぎの人間ですが、この歳になりいろいろと身体や病、医療と興味を抱きました。ニュージーランドで約10年間過ごし、日本の医師や、方針が異なることに驚きました。良い悪いは有りますが。
    教育は、未来をつくることにあります。少子化な日本において、未来を思うと教育の重要性は、日々大切になると思うのですが、残念なことが多く、子供らに申し訳なく、どうしようもなく、もどかしさがつのります。
    今年か、来年にもまた、日本を離れる予定ですが、日本の方向をただ、ただ、案じます。
    ではでは。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です