アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(6)

第4日目

石油基地プルドウベイから北極圏のツンドラの原野を走りぬけ、銀色に輝くパイプライン沿ってエゾ松の原生林を南に800キロ下ってたどり着いたのは、フェアバンクス郊外にプリンセスクルーズ会社が自社ツアー客のために立てた豪華なリゾートホテルだった。

二晩ぶりの文明のありがたみを満喫しながら、まずシャワーを浴びてアラスカ原野の埃を落とす。湯上りのさっぱりしたからだに、コットンの上下、薄手のセーターを着てダイニングルームに降りていく。

冬はマイナス60度

時計は午後8時をさすが、窓の外はまだ夕焼け雲。北極圏から大分離れたここフェアバンクスでもまだ白夜は続く。予約しておいたテーブルにつくと、リネンのテーブルクロスの上に野の花の一輪挿し。ナプキンで包んだナイフとフォークが乗っている。飯場のような宿で過ごした二晩も済んでみれば懐かしい。
「この時期、オーロラは出ないの?」
注文を聞きにきた中年金髪のウエイトレスに尋ねてみる。
「残念ですが、夏の間はめったに見られないのですよ。オーロラは冬の特別寒い日を好んで出るようです」
擬人法の表現が気に入って、しばらくウエイトレスと会話した。

「フェアバンクス生まれですか?」
「生まれも育ちもフェアバンクスです。ずーっとここで暮らしてきました」
「冬になると寒いんだろうね。一番寒いときで何度ぐらいまで下がったの?」
「わたしがまだハイスクールの学生だったから、40年ぐらい前だったかしら。冬の間は目が覚めるとすぐ、父がバックヤードの軒下に吊るしてくれた、温度計を見るのが習慣なのですが、それがマイナス60度を指した朝がありました。ええ勿論華氏の60度です。学校へ行こうと家を出て歩きはじめたのですが、体中に突き刺さるような寒さに途中で動けなくなり、全然知らない家の玄関のドアを叩いて中に入れてもらいました。家の中に入れてもらって、しばらく暖炉で暖まると元気になったので、家まで送ってもらって帰りついたら、ラジオやテレビで学校は小中高すべて休校というアナウンスをしているところでした。これがわたしの体験した一番寒い冬の日です」
「無事生存できてよかったね」
「ありがとうございます。あのときはホントウに死ぬかとおもいました」

華氏のマイナス60度を摂氏になおすと、マイナス45度ぐらいになる。アイオワ大学に勤務していたころ、気温が華氏マイナス30度になった冬を経験した。華氏マイナス30度は、計算してみると、丁度摂氏マイナス30度と一致する。ニッポンでは、確か北海道の旭川でマイナス30度になったと、少年時代に聞いた記憶がある。アイオワでマイナス30度になったときには、市役所の広報車が出動し、道を歩いている市民に外出禁止を命じて巡回した。マイナス30度だと、凍った道を歩いて転倒骨折し路上で動けなくなると、頑健な若者でも15分ぐらいで凍死するという。
中西部では毎冬約800人の人が路上で命を落とす。その多くは野原の真ん中の道路で運転中の車が故障し、携帯で助けを呼ぶが、救援隊が駆けつける間に凍死してしまうのだ。それよりさらに15度も低い温度とはどんな冷たさだろう。想像もつかない。

今夜のディナーはアラスカ名物の海鮮料理。ハリブット(オヒョウ)、サーモン、アラスカンキングクラブの中から好きなものを選び、焼く、揚げる、炒める、蒸す、ボイルするのうち、どれがいいかと尋ねてくれる。好みの料理の仕方を選んで頼み、アペタイザーの揚げたカラマリ(小型のイカ)やシュリンプカクテルなどを肴にワイングラスを傾けていると、アントレは大きなメイン皿に載ってでてくる。アペタイザーは食欲に更なる輪をかけ、ワインはその潤滑油の役目をする。もうこれ以上待てないという気持ちが頂上に達した頃を見計らって、タイミングよくアントレをだすのがレストランビジネスの成功のコツである。

マイナス60度から奇跡の生還をしたアイラブルーシーのルーシーのようなウエイトレスは、満面の笑顔でアントレを運んできてくれた。先にカミさんがボイルしたポーチドハリブットを頼んだので、アラスカンキングクラブをオーダーした。少々行儀は悪いが半分食べたところで皿を交換すると、一度のディナーで2種類の料理をエンジョイできる。これが家の慣わしになって永年になる。

分厚い白身のハリブットをレモン醤油で食べながら、開高健氏のアラスカ紀行を思い出す。たたみ1畳もの大きさのハリブットを釣り上げたときの快感がリアルに描かれた名エッセイだった。いまそのアラスカに居てハリブットの分厚い切り身にかぶりついているのだ。アラスカンキングクラブには、同じカニに違いはないのだが、わざわざベーリング海キングクラブと産地が明記してあるのが気持ちよかった。太い真っ赤な脚にイボイボがついているのが特徴のこのカニは、ホノルルのレストランでも食べられるが、なんといっても、冷凍にするまえの活きのいいヤツは味が違う。大きな皿に長さ25センチぐらいに切った脚が7、8本載ってくる。見た目堅そうに見える殻が、実はゴムホースのような感触なのが意外だった。出てきた脚を全部食べるとカニだけで満腹してしまいそうだが、カミさんに半分残してハリブットとトレードする。クリスピーなフランスパンのバケットとよく会う。カニと白ワインとフランスパンを代わる代わる口に運ぶと、デザートの入る余地はない。ニッポンのレストランはパン一切れに幾ら、コーヒーは一杯毎に幾らと細かく別チャージをとる。アメリカではどの州のどんな田舎町にいっても、食事についているパンとコーヒーは幾らお代わりしても料金はとらない。豊かさの本質の違いに、残念ながら多くのニッポン人は気付いていない。

当地にきてはじめて実感したのだが、ロシアとアラスカは太平洋と北極海を連絡するベーリング海峡をへだてて、わずか100マイルほどしか離れていないのだ。道理でアラスカ各地に出稼ぎにきているロシア人男女をそこここで見かけた。その昔、アラスカはロシアの領土だったが、当時のアラスカはまさに未開の地の果てだった。なんの価値もない人跡未踏の土地と見做されていた。だから、ロシアも気前よくタダ同然の取引でアラスカをアメリカに渡してくれたのだろう。のちにユーコン川沿いに金鉱発見され、20世紀初めには北極海沿岸に油田が見つかった。ゴールドラッシュ、石油ラッシュのつぎは天然ガスラッシュだと、アラスカンは口を揃えていう。天然ガスのパイプライン建設を請け負うのは、いまの勢いからすると韓国か中国だろう。そとから眺めると、日本のエネルギーとダイナミズムは昭和の終わりで尽き果ててしまったように感じられる。

酒に厳しいアラスカ州法

ディナーに付きもののワインは、いつもならグラスで注文するのだが、アラスカ縦断を祝ってカリフォルニア産Ferrano Canaroのシャドネーのボトルを1本もらった。食事が終わった時点で、ボトルにはまだ3分の2ぐらい残っている。なにしろアルコールは一滴たりとも口にしないカミさん相手では、グラスを飲み干しても気持ちが高揚しない。

ルーシーに似た金髪おばさんのウエイトレスを呼んで、ボトルを部屋に持って上がれるようにバケットやリネンの用意を頼む。
「あら、ごめんなさいね。それはできないことになっているのですよ」
「きちんとお金を払って買ったワインなのだから、このテーブルで飲もうとボクの部屋で飲もうと、それはボクの勝手でしょ。ホテルの内規が許さないというなら、そっちのほうが間違っているのじゃないの?」
「いえ、ホテルの内規ではないのです。アラスカ州法でそうきめられているのです。ホテルでもレストランでも、酒ビンを開けてもよい場所は同じ建物のなかでも限られた一部空間に許可を申請し、州が認めたスポットに限るとアラスカ州法で決められているのです。お客さんが、栓を抜いた酒ビンを手にしてそれ以外の場所を歩くと、歩かせたホテルは厳罰をうけ、場合によっては酒類の販売ライセンスが取り消される可能性があるのです。このレストランの中なら、勿論、開けたボトルをもっての行き来は自由ですし、お客さまのお部屋の中もオーケィです。ところが、その間にあるローカ、ロビー、エレベーターの中などは、栓を抜いたボトルを持って移動してはいけないと法律が禁じているのです」
「そのウラには、どんな理由があるの?」
「ゴールドラッシュ時代にさかのぼりますが、川から砂金を手にして戻ってきた男たちは気が荒く、サロンで飲んで酔うと暴れて手がつけられなかったそうです。酒場の中だけならともかく、ホテルでもレストランでもローカやロビーに酒ビン片手の男がたむろしていたら、普通のお客は恐ろしくて寄り付けませんわ。そこで州議会は飲酒場所を限定するため、栓なしボトルの所持禁止法案を成立させ、それが百年を超えたいまも効力を発揮しているというわけなのです」
「ふーん。そんなハナシ、初めて聞いたね。ではこうしたらどう?ボクたちはこのボトルに一切手を触れないで手ぶらでエレベーターにのって部屋の前までいってドアのロックを開け部屋にはいる。レストランのスタッフであるあなたが、ボトルを部屋まで運んでくれる。勿論、運賃はお支払いしますよ」
「ちっと待ってください。酒類を扱うライセンスを持っているスタッフを呼んできます」
テーブルにきた若い女性は、Ferrari Caranoが3分の2ほど残るボトルをアイスペールに突っ込んで、その上から仰々しくナプキンで包み隠し、目の高さに捧げ持って前を歩く。
部屋に着いてドアを開けると、
「ここで私の任務は完了です」
と宣言しながら、アイスペールを手渡してくれる。感謝の言葉とともに数枚のドル札を手渡し、ワインボトルの運搬儀式は無事終了したのだった。

アラスカの都市発祥の地フェアバンクス

フェアバンクスは、人口9万8千人。これでアンカレッジについでアラスカでは2番目に人口の多い街である。
20世紀のはじめ、一攫千金を求めてゴールドラッシュに沸くアラスカを目指した人たちは、この地に根を下ろして生活するなんてことは誰も考えなかった。金を掘り当てたらアラスカに用はない。つかんだ大金を故郷に持ち帰り家族と平穏に暮らすか、ビジネスを始める原資にするか、それとも酒とバクチとオンナに使い果たすかだ。いずれにしても、アラスカで生活するのは非現実的だった。

1901年、バーネットという小船の船長が、金鉱探索に必要な道具のつるはしや、食糧、衣類などの補給品を積んだボートでチェナ川をさかのぼり丁度この地に着いたところ、ボートが転覆して戻るに戻れなくなってしまった。川岸にテントを張って、補給品を河原にならべ思案に暮れていた丁度そのとき、フェリックスペドロという仲間が近くで金鉱を掘り当てた。それを見ていたバーネットは、そうだ、この地に建物を建てて、山師たちに補給品を売る商店を開けば一儲けできるぞと思いつき、早速着手したところ、これが大当たりした。バーネットの店を中心に人々が住み着くようになった集落がいまのフェアバンクスの始まりだという。フェアバンクス市にはアラスカ大学の巨大なキャンパスがあり、大学街としても知られている。郊外のリゾートからバスで街を訪れてみたが、うら淋しい田舎街は、中西部にある大学街と似たり寄ったりだった。

第6~7日目

フェアバンクスの2泊は、バスの旅で疲れたからだを癒すのに最適だった。今日は、ここから南東に200キロはなれた山中のリゾート地、デナリに移る。途中、野焼きのような煙が立ち上る山火事の側を通過した。アラスカでは毎年、10万件をこえる落雷によって引火する原野の火事が発生する。火事は燃えるにまかせ、一切消火活動はおこなわないという。ツンドラのコケの下に広がった火は、冬になって雪をかぶったその下で根強く燃え続け、春になって雪が消えると再び燃えはじめるという。野火が人家に近づいてくると地元の人間が消火に励むが、それ以外の野火は放置するのが常識だそうだ。
「原野はたまには燃えるほうがいいのですよ。害虫が死滅するし、灰は肥料になりますからね」
バスのドライバーが解説してくれる。
小高い丘のパーキングエリアから見下ろすと、大阪市ぐらいの面積が白煙をあげてくすぶっている。
「勝手に消えるまで数週間かかるでしょう。観光バスも迂回しないいと行けなくなるかもしれません」
中年の女性バスドライバーが淡々と話すのが、都会に住んでいるものの耳には奇異に聞こえた。これほど平然としていなければ、厳しいアラスカの自然には立ち向かえない。