テレビの画面にニッポンの家庭が映る。子ども部屋の居住スペースを、膨大な数のモノが占領している。勉強机の上にはパソコンと携帯電話。テレビとステレオを載せた本棚にはCDとマンガ本がぎっしり。その横にスタンドピアノ。ピアノの足元にはバイオリンとギターのケース、スケートボード、アイススケート靴、サッカーボール、野球のバットとグローブ。この部屋の住人は中学高学年か高校生だろう。
学校から帰ると友達とメールで交信し、塾に行き、週に何度かピアノとバイオリンのレッスン。その合間にギターを爪弾き、CDを聴き、スケートボードで遊び、野球やサッカーやアイススケートもするのだろう。持ちモノの総てを使いこなすスケジュールは分刻みだ。これほどめまぐるしいと、一つひとつを楽しむ感性が不足はしないか?
1952年中学3年生だったわたしの財産は、布製の肩掛けかばん、教科書、ノート、辞書、参考書少々、筆箱、月刊少年倶楽部、ビー球数個、野球のグローブで総てだった。部屋の壁に掛かる古い世界地図のニッポンは赤、カナダはピンク、アメリカは緑、中国は黄に塗り分けられていた。夜毎布団の中から地図を見上げては「あの緑色したアメリカに住んだら暮らしをするだろう?」と想像した。それが夢に繋がり、アメリカに移り住む動機となった。
無尽蔵に湧いて来る想像は限度を知らない。想いが未知のカベにぶつかると知的好奇心が刺激される。求める解答を参考書や書籍の中に見つけては夢中で吸収した。塾も受験もない時代だった。持ちモノの数や情報量ではいまのこどもたちと比ぶべくもないが、当時の私たちには、それぞれの感性、想像力それに知的好奇心を賦活し楽しむ十分な時間があった。
過密な予定と過剰なモノに埋もれて暮らす『過剰生活』では、人の感性は鈍化する。予定やモノを整理すれば、多少は感覚も鋭くなのでは?
(出典: デイリースポーツ)