二輪の可憐な花

「オー、ノー。あなたたち二人がニッポンに帰ってしまったら、病院のローカに咲いた二輪の可憐な花が失われてしまいます。入院患者や他のスタッフたちも、さぞ落胆することでしょう」

先代外科教授のボブが発した言葉の直訳である。だが、これだけでは何を意味するか判らない。少し長い話になるが、背景を知らずには理解できないので解説する。

5年前まで、大阪の愛仁会という愛人バンクと間違えそうな名前の医療法人は、経営スタッフやナースの幹部候補生を半年間もアイオワ大学病院に預け、病院経営の勉強をさせていた。当時、ニッポンの病院関係者の間では異例の決断と評されたが、愛仁会が病院経営で全国トップクラスに躍り出たいま、10年間続いたこのプログラムにはそれなりの成果があった。ある年、半年間の課程を無事に終えた主任ナース二人が帰国の挨拶に訪れた際、ボブが発したのが冒頭の言葉である。それを聞いて一瞬ぽかんとしたふたりの女性、言葉の意味するところを知ると、「あーら、まあ、どないしましょう。こんなお言葉、生まれてはじめていただきました」と表情は歓喜に変わる。そばで傍受していて「ボブはやっぱりアメリカンのおとこや。オジンのクセに、おんな心をヒットする言葉をすらーっと出しよる」といたく感心した。“可憐な花“と呼ばれて喜ばないおんながいたら、一度会ってみたいものだ。

ボブは医学生たちが投票で決めるベストティーチャー賞を幾度も受賞した教授の鑑である。講堂でする講義でも、ベッドサイドで医学生とマンツーマンの臨床実習でも、これぞ医学教育という感銘を与えてくれる名教授だった。そのボブが教えてくれた原則は只ひとつ。人は誰でも密かな誇りを持つ。そこを褒められて嬉しくない者はない、だと。

学生や若い医者を怒鳴りつけてばかりいるセンセ、耳が痛かったらごめんなさい。

(出典: デイリースポーツ)

熟年離婚

ニッポンからのテレビ番組で、いまや流行語となった熟年離婚を論じるのをみた。定年と同時に妻に捨てられる亭主が増えているそうだ。輪をかけるように、来年の春以後の定年離婚では、退職金は夫婦間で均等に折半するよう法律がかわるという。熟妻たちの約半分が、この日が来るのを待っているというから、熟亭どもにとってはただ事でない。番組はあと1年したらどっと増える熟年離婚が社会問題になるだろうと結んだ。

カミサンたちが、長年連れ添った亭主を捨てる決断をする理由が面白い。亭主から「ありがとう」の一言が一度もないというのが理由のトップだ。食事を作っても「美味しい」とも「まずい」ともいわぬ。ヘアスタイルを変えてもドレスを新調しても関心をもたず、なにも言わない鈍感亭主に怒りと嫌悪は蓄積する一方。こんな男は捨てられても仕方がない。

アメリカは夫婦の6割が離婚する離婚王国である。離婚の修羅場を日常的に目にしていると、男も女も悲劇を避ける知恵がうまれる。わたしの先代教授だったボブの家に招かれると、夫人手作りの料理に「ダーリン、これは旨いよ。世界一だ。ケン、ユーもそう思うだろ」と、ウインクしながら賛辞を催促する。これが度重なるとこちらも心得たもので、「ボブ、ユーは世界一ハッピーな亭主でっせ。こんな旨い料理、他では毎日食べられしまへんで」と、上方英語ですかさず相槌をいれてやる。

ボブは結婚記念日や夫人の誕生日には、プレゼント、花束、カードを欠かさず贈る。月に3、4回は夫婦ふたりだけで外で食事をする。結婚式を挙げて以来の何十年間、「アイラブユー」の一言はかならず1日一回。

アメリカの男たちは結婚を維持するため莫大な時間とエネルギー、それに人生の経費としてのカネを遣う。それと比べてニッポンの男たちは努力が足りない。捨てられてからでは手遅れですぞ。

(出典: デイリースポーツ)

花火で占うホノルルの景気

去年のクリスマスには、何年かぶりに、ツリーをたてて灯をともし、七面鳥を焼いた。10キロを超える巨大な鳥を丸ごとオーブンに入れて待つこと8時間、表面がこんがり狐色になると食べごろだ。焼き立てのターキーにナイフをいれ、湯気の立つ白身や赤身を骨から外し、それぞれの皿に取り分けるのは男の仕事だ。

グレービーソースをたっぷりかけたマッシュドポテト、にんじん、サンド豆、とうもろこし、赤カブなどの温菜と一緒に盛り付けたターキーは、真っ赤な色の甘いクランベリーソースで食べると旨い。

数組の親しい友人を招いたクリスマスパーティは夜半過ぎるまで盛り上がった。だが、椰子の葉越しに見える太平洋を背景に、明日のゴルフの相談をするノースリーブやポロシャツ姿を見ていると、クリスマス気分はあせていく。

クリスマスといえば、アイオワで過ごした15年の間、毎年外は零下20度の凍りつくような雪景色、家の中では暖炉で燃える薪が、音をたててはじけていた。樅の生木のクリスマスツリーからは森の香りが漂い、ホワイトクリスマスのメロディを聴きながら、焼きあがるターキーの匂いに心は弾んだ。クリスマスは、やはり、北国にかぎる。

大晦日、今年最後の太陽が水平線に沈むのを待ちかねて爆竹が鳴り、そこここの家の庭から花火が打ち上げられる。今やホノルル名物となった家庭用の打ち上げ花火は100メートルほどしか上がらないが、それでもドン、シュッ、パッと本格的な順を踏む。打ち上げ花火のセットは8千ドル(約100万円)もするという。常人は手が出せないどころか、100万円を一晩で煙にするほどアホでもない。それでも我が家の町内には、100万円位痛くも痒くもない御大尽が何人も住んでいる。お蔭で100万円の打ち上げ花火を間近で見せてもらった。花火の数で景気を占ってみると、今年は確実に回復に向かっているようだ。

(出典: デイリースポーツ)

見た目だけの文化の国

年末に、12年間一度もバレずに偽医者をやり通した男が捕まった。診てもらった患者や、回りの人が不審に思わなかったのは、この男がホンモノの医者以上に医者らしく見えたからだ。裏を返すと、偽者が医者になりすましても見破れないほど、いまの医療はいい加減だということか?

ニッポンでは、患者は医者に診てもらっても、自分の病気について医者にしつこく問い詰めたりしない。だから医学知識のない偽医者でも勤まるのだろう。アメリカでは、医師の出身大学、医師資格、専門領域、専門医資格、研究分野から発表論文まで、あらゆる情報はインターネット上に開示されている。患者は医者が何者であるかを十分知ったうえで、受診の予約をとる。診察室に入ると、病気の本態は?手術以外の治療は?手術の方法は?今まで何人の手術をしたか?成功の確率は?これから先の人生への影響は?と質問攻め。わたしが仮に偽医者であれば、このやりとりでたちどころにボロがでる。

暮まで3ヶ月の沖縄滞在中、テレビ番組で児童誘拐犯罪の専門家と紹介された人が、「誘拐防止のためには、こども達に、不審な人を見かけたらよく注意するよう、しっかり教えることが大切だとおもいます」と結ぶのを聞いてあきれた。こんな無責任なセリフは、シロウトのわたしでも、恥ずかしくて口にできない。犯罪防止手段を提示し、それぞれの是非を論じて解説するのが、クロウトというものではないのか。

アメリカンの眼からみると、ニッポンのテレビに出てくる医療や児童犯罪その他の“専門家”たちには、見た目はそれらしく振舞っているが、問題点の把握と具体的解決策の提示を行わず、情緒的抽象論に終始する共通点がある。これでは専門家ではなくて評論家だ。

冒頭の偽医者も、人を見た目で判断する文化のニッポン社会だったから、12年も続けられたのだろう。

(出典: デイリースポーツ)