無罪

4年前、36歳の男性産婦人科医師が29歳の妊婦に帝王切開を施行、取り上げられた子どもは無事だったが子宮内壁に癒着した胎盤を剥離している間に大量出血をきたした母親は命を失った。警察は医師を業務上過失致死として逮捕し、1ヶ月の拘留後検察は起訴に踏み切った。先週その裁判の一審判決が下され医師は無罪となった。

医療行為は患者と医師との間の診療契約に拠って行われる。インフォームドコンセントという書面で交わされる契約は、診療行為が患者に傷害を生じ結果的に死を招く可能性を承知の上で同意した万全の診療契約だ。

今回の裁判の争点の一つは万全の診療契約に基づいて実施された医療行為の結果を刑法で問うことが出来るか否か、そしてもう一つは手術手技の選択と実施が適正であったか否かの二つだと考えていた。

法廷は第一の争点の判断を避けた観がある。手術の結果が刑法に問われると、防衛本能が働いて小児外科や心臓外科のように困難な手術を手がける外科医になり手がいなくなる。よしんばいても難手術には挑戦しなくなるだろう。それでは難病の人は救われない。米国で診療行為の過誤が刑法で裁かれない理由はここにある。

第二の争点の胎盤の剥離手技が適正な選択だったか否かの判定は高度な知識と経験をもつ専門家でも難しい。手術中局面のすべては外科医の判断で展開する。判断の基準は外科医本人の技能に拠る。普遍性を欠くにも関らず法廷は適正であると判断した。

米国その他の先進国では全国統一基準により各科専門医を育成認定する制度がある。専門医試験に合格した医師にのみ該当科の診療活動を許している。日本の現状は医師でさえあればあらゆる診療活動を許可し、各科専門医の資格を規定し認定する制度を確立するに至っていない。今回の事例が制度設立の契機となるよう願っている。

(出典: デイリースポーツ 2008年8月28日)

「エンジョイしました」

海外向けのNHKテレビ番組は放映権の都合により、オリンピック競技の映像を放映しない。だから米国に住むニッポン人は、北島選手の晴れ姿やニッポン女性選手が柔道やレスリングで活躍する場面を目にすることは出来ない。やむなくオリンピックを24時間カバーしている当地のテレビ局にチャンネルを合わせると、写るのはチームUSAが連戦連勝する競技ばかり。自国選手に都合のいい場面しか写さないのはどこの国も同じだ。

金メダル8個を獲得したフェルプス選手の競泳や、飛びぬけて強い男女バスケットボールの試合など、いわば米国の国威昂揚場面ばかりが写る。なるほどオリンピックは言葉のない外交の場とはよく言ったものだ。感動したのは女子水泳自由形の米国代表41歳のトーレス選手。50メートル自由形決勝で、親子ほど年の差のあるドイツの選手にタッチの差で敗れたが銀メダルを獲得した。その健闘ぶりは今度のオリンピックのハイライトだった。表彰式でドイツ国旗が中央に掲揚されるのを見つめる表情には、金メダルを逸した口惜しさと、40過ぎてなお表彰台に立つ誇りが読み取れた。不屈の魂は世界中の熟年に奮い立つ力を与えてくれた。

NHKテレビも競技以外のインタビュー場面は放映する。敗れたニッポン選手が「悔いはない」「負けたが満足している」というのを聴くと強い違和感を覚える。まして予選落ちして「エンジョイしました」「楽しかったです」とは何事ぞ。町内対抗競技会ではないのだ。国の栄誉と誇りを一身に背負って闘いに臨み破れた人間が口にする言葉ではない。「口惜しい。次回ロンドンでは必ず勝ってみせる」となぜ言わせない。監督やコーチは何をしているのだ。ま、指導者たちも意味不明のコメントしか言えないのだから仕方がないか。それにしても負けて恥じないニッポン、これからどうなるのだろう。

(出典: デイリースポーツ 2008年8月21日)

昭和20年8月15日

昭和20年夏、少年Kは国民学校2年生だった。当時の生徒は町内毎に全学年が集まり、2列の隊列をつくって上級生の先導で登下校した。途中で空襲警報のサイレンが鳴り艦載機の爆音が聞こえると、全員道端の溝に退避。校門をくぐったあとも反復する空襲警報に教室に入らず、校庭一面に掘られた防空壕のなかで時間を過ごすという毎日だった。空襲の合間、上級生たちは松根油の元になる松の切り株の掘り起こし、低学年は乾パンの材料にするどんぐり拾いに励んだ。当然授業は遅れる。その遅れは夏休みを短縮して補われた。

その日、少年Kは朝からトンボとりにでかけた。不思議なことに昼すぎになっても空襲警報が鳴らない。屋外には人影なし。いつもと違う異様な雰囲気に急いで家に帰ると、母が茶の間のお膳に伏せて目頭を押さえていた。「どうしたん?」と尋ねると「日本は戦争に負けたんよ」と肩を震わせ泣き崩れた。
 
病身の母と姉との三人で暮らしたその後の半年間には、飢えのひもじさと、着る衣服も暖をとる燃料もなく凍える冬の冷たさしか記憶にない。過酷な飢えと寒さの体験が少年Kのその後の人生の基点となった。どんなに辛いことも、あの飢えと寒さの比ではない。同じ体験を分け合った同世代は艱難辛苦に耐え、わずか半世紀の間に日本を世界一の技術を持つ豊かな国に造りあげた。この50年間の急激な変遷は世界史上例を見ない驚異的発展と歴史家に認識されている。豊かさの指標はほぼ達成されたが、美しい国は目標としてインプットされていなかった。

人々は生活の豊かさと引き換えに心の美しさを失った。自分たちが耐えてきた轍を踏ませまいとする気持ちが、子等を甘やかし自己中心主義に溺れさせてしまった。そんな子等にも世界に挑まねばならぬときが遠からずくる。それを想うと気持ちが暗くなるのは、老年Kだけの杞憂であればいいのだが。

(出典: デイリースポーツ 2008年8月14日)

調査委員会

教育委員会は地方教育行政のすべてを取り仕切る。「すべて」には教師の採用試験も含まれる。その教育委員会の幹部が、教員採用試験の受験者から賄賂をとって試験結果を操作し、贈賄した受験者を採用してきたというから仰天した。

ニッポンでは、アジアの近隣諸国と同様に、政治家や官僚と企業間の贈収賄が日常的である。疑うなら過去1年間の報道を総覧してみるとよい。これほど度重なると市民もメディアも贈収賄は悪という感覚が薄れる。今度の事件も「またか」と軽く受けとめられ時の流れとともに忘れられるだろう。

だが、今度の事件を将来展望の立場から見るとコトは重大だ。教育の総元締めである教育委員会のトップが受験生から平然と賄賂を受け取り、試験結果を改ざんする。教師にならんとする人間が教職をカネで買うことに逡巡しない。こんな人間たちが生徒に「正義とは何か」を教えられるのだろうか?

「外部調査委員会の調査は進んでいるのかね?」アメリカンの友人が尋ねて呉れる。「いや、教育委員会内部で構成したチームが調査しているようだよ」「それでは徹底調査にならないよ。内部の人間は組織防御を最優先するからね。こんなケースの場合、米国だと企業のコンプライアンス担当の専門家や弁護士、それに一般市民で構成する第三者グループに調査を依頼する。教育委員会という組織の構成やその存続の是非を問わないと市民は納得しないよ」と友人は断言する。「ニッポン社会の仕組みをみると権力の分散が適切でないね。試験と採用を別々の組織がする仕組みだったら、今度の不祥事はなかったと思うよ」

そこで思い出すのが米国の病院監査の仕組み。認定するのは民間の病院認定合同委員会、認定結果を受けて認可を下すのは州政府だ。ニッポンの官は民の認定をそれほど尊重するかどうか、それが問題だ。

(出典: デイリースポーツ 2008年8月7日)