先週、33歳の男が書店のなかで店員と客の若い女性を刃物で殺傷し逮捕された。数週間まえには、二十歳過ぎの男が歩行者天国にクルマで突っ込んで歩行者をなぎ倒したあと、数人を刃物で殺傷した。いずれも犯人と被害者の間に、葛藤する人間関係はまったく存在していない。こうした無差別殺傷事件は今年になって8件も起きており、これまでで最も多いという。
事件のたびメディアは犯行の動機探しにやっきとなる。背後には疎通を欠いた親子関係があり、疎外感に抑圧された感情が爆発し犯行に至ったと、おしなべて動機づける。犯行前に親にむかって発信していたSOS信号を察知救済してやらなかったのは親の手落ちと暗に非難する報道論旨はアメリカの常識と琴線が合わない。
20歳過ぎたら一人前の大人だ。行為行動の全責任は本人にある。成人の行為によって起きた事件の動機を、親が子がと言って恥じないのはニッポン独特の文化である。
筆者の先代を勤めたアイオワ大学小児外科主任教授は、18歳の息子が大学入学を機に市内のアパートで独立するといったとき「お前が一人前のオトナとして、金銭面でも社会面でも責任ある行動を取ると約束するなら反対はしない」と引導を渡して独立を許した。息子は大学4年間をマックの店員をして生活を維持、親のすねをかじらずに卒業した。「親離れ、子離れは」誰もが通る人生の分岐点。だが今のニッポンではいつまでもフン切りのつかぬ親子が多い。事件の度に成人男と親との粘着をあって当然とするメディアの論調が、その後押しをしている。
挫折、孤独、疎外感など昔の男は口にするのも恥じた。辛さを耐えるのが「克己心」だ。幼い心に「克己心」を植えつけてやらなかったから、自己制御の出来ない人間が育った。それがいま無差別殺人事件を起こす。
(出典: デイリースポーツ 2008年7月31日)