惻隠の情

首相の突然の辞任のあと国政の空白を避けるため間をおかず自民党総裁選が実施された。党内大勢の支持を受けたF氏と現職幹事長のA氏が立候補したが戦う前から勝敗の行方は決まっていた。

結果はともあれテレビの公開討論会で見た両候補の違いが興味を惹いた。司会者の投げかけるテロ対策活動継続、年金不正、靖国神社参拝問題などについて、まるで他人事のような答えかたをするF氏は評論家のように見える。対するA氏は自分の想いを交えて自分の言葉で聴くものに判りやすく述べる。F氏が手段手法の適否を基盤に論を張ると、A氏は本質論に照らし合わせた持論を展開する。F氏が過去の自己評価なら、A氏は将来ビジョン。何事もプリンシプルに拠って立つアメリカの思考方式に慣れたわが身は断固A氏に組する。それにA氏は笑顔が素晴らしい。解散選挙になったら党の顔としてはA氏のほうがうけるのではないか。

候補間の質疑応答では、5年前の当時官房長官だったF氏が、国際間の約束を重視し帰国したばかりの拉致被害者を北朝鮮へ送り返すべしと言ったのはホントウか、とA氏が問い糾しのには驚いた。惻隠の情を尊ぶニッポンでは、通常相手をここまで追い込むことはしない。この直裁な質問にあいまいに言葉を濁したF氏に対し、A氏がさらに突っ込む愚を避けたのは、ニッポン人の感覚に照し合せて良い判断だった。

惻隠の情で思い出すのは、ロスの小児外科教授が引退する記念式典に招かれ出席したときのことだ。記念講演をした外科医が、招待されていながら、引退していく教授のライフワーク研究の不都合をあれこれとあげつらうのを聞いて当惑した。隣に座るアメリカンに「惻隠の情を尊ぶニッポンの心は不快に思う」と打ち明けると「この国では友情と仕事の評価は別物だから構わない」だと。A氏もこれに倣ったのかな?

(出典: デイリースポーツ)

ドクターストップ

安倍首相の突然の辞任発表は瞬時に世界に伝わった。海外メディアは「任務遂行が不可能と判断したから辞任するのは、ハラキリと同じメンタリティで無責任」と報じた。国内メディアも所信表明演説直後の辞任は無責任と報道した。テレビは街頭で女性に「選挙で負けた時に辞めればよかった。今になって無責任」と語らせ、中年男には「年金問題解決の約束をどうしてくれる!」と憤らせた。あれもこれもみんな責め言葉ばかり。

翌日首相は大学病院に緊急入院。主治医は「機能的胃腸障害」という診断名を付けたが、わたしは「燃え尽き症候群」であると推察している。自衛隊の対テロ給油作戦の継続は世界への公約だ。これを国内事情でいま中断することは国防上重大な問題を招く。首相はこの公約の実現にむけ、最大野党党首との会談に風穴を見出そうと一縷の望みをかけたが断られたものと思い込み、最後の一灯が燃え尽きたのだろう。辞任会見でも会談を断ったと思い込んだ野党党首への怨嗟の言葉を反復した。

「燃え尽き症候群」は要職にあって責任感の強い人に見られる。与えられた重要な任務が人為的な理由で遂行出来ないと知ると、絶望のあまり虚脱に陥る。外科医であれば、生命を救う知識、技術、経験、情熱、気力のすべてを修めているのに、行政の無為無策、病院幹部の無能などが理由で患者治療が存分に実行できないとき、燃え尽きて外科医を辞める。

あとで振り返れば予兆と思い当たる節があっても、重責にある人を「燃え尽き症候群」と診断し職務にドクターストップをかけるのは難しい。「燃え尽きる」というイメージが職務復帰後に汚点として残るからだ。「燃え尽き症候群」に罹るのは無能でもなければ、恥でもない。むしろ職務に総てを燃焼し尽くした証しと見做すべきだ。安倍首相の早期回復を祈願する。

(出典: デイリースポーツ)

教育は真剣勝負だ

アメリカの外科医は、医学部卒業後、師匠について各種手術を5年間修業し、筆記と口答の専門医試験にパスして初めて単独でメスを持つことが許される。専門医資格はなくても医師免許さえあれば手術は出来る。だが病院は外科専門医資格のない医師には手術室の使用を許さないし、仮に手術したとしても、保険会社は手術料金の支払いを拒否する。

修業中の外科志望医らは、その態度如何によっては途半ばにして、師匠に引導を渡されることもある。そうなると生涯外科医になることは出来ない。だから若い医師にとって修行中の毎日は真剣勝負だ。外科研修医は一般外科のほかに小児外科や心臓外科などの高度専門科を巡り外科全般を広く修める仕組みになっている。

ある時わたしが主任教授を勤めている小児外科に6フィート4インチ(190センチ)というアメリカ人の中でもとりわけ大男の研修医が巡ってきた。172センチのわたしとは実に18センチもの身長差だ。手術台を中にして向かい合わせに立つと彼の胸の辺りしか目に入らぬ。その若者が麻酔医にむかって「手術台を8インチ(約20センチ)高くして」ナースには「ドクターキムラにステップを2枚」と命じた。ステップというのは外科医の足の下に置く踏み台のことだ。この若造、師匠のわたしに無断で場を仕切るとは分際をわきまえぬ奴。懲らしめてやらねばならぬ。「台の高さはこのまま、ステップは不要」と宣告し手術を始めた。腰より低い手術台に向かい背中を極端に曲げた姿勢で手術をすると大変な苦痛を生じる。背中の痛みでおのれの不遜をようやく悟ったこの若者、「ドクターキムラ、先ほどは出すぎた真似をして済みませんでした」判ればいい。返事の替りは「手術台を8インチアップ!わたしにステップを2枚!」

この痛みを忘れるでないぞ。

(出典: デイリースポーツ)

診療回避をしたら即解雇

先週、酷暑の大阪から2ヶ月ぶりにホノルルの我が家に戻った。赤とんぼが飛び交う蒼い空を見上げると早や秋を報せる鰯雲。気温は28度前後だが湿気が少ないので爽やかだ。家で昼間エアコンを使うのは1年のうちほんの数日。貿易風の通り抜けが家屋全体を冷却してくれる。

8月の大阪が煉獄とするとハワイは天国。世界中の人が住みたがるわけだ。ところが天国でも手に入らぬモノがある。四季の移り変りと折々の味覚だ。夏の京都のはも料理、今が旬の秋刀魚、そしてもうすぐ松茸。味覚に引寄せられ、9月末にはまた大阪暮らしに戻るつもりでいる。

今回ホノルルに帰った翌日、妊娠6ヶ月で陣痛が始まった妊婦が救急車で運び込まれた10箇所の病院で診療を断られ、結局流産し胎児は死亡したというニュースが当地でも報じられた。ある病院では当直医師が他の患者の治療中だったので、当直事務員が救急車に「当院では受付けられない」と伝えたのが波紋を呼んだ。

「完璧主義のニッポン社会で、医療にこんなピットホールがあるなんて信じ難いですわ」ハワイ在住数十年の女史が憤る。「こうした場合には、米国では混乱を避けるため、わたし達医師が救急車の乗員と直接無線で交信します。アイオワ大学病院各科は数名の当直医を置いていますが、非番の医師全員にも緊急呼び出しの順番がつけられているのです。こんどの切迫流産例のように、当直医の手が塞がっているときに新たな緊急患者が来ると非番の医師が順番に呼び出されて診療をするのです。ナースも同様に呼び出されるというシステムです」「万全の対策だわね」「病院に来た患者は全員治療するというのがアイオワ大学病院の理念です。この理念に反して診療回避をしたスタッフは解雇される可能性があります」「随分厳しいのね」「人命を預かる仕事だから当然のことです」

(出典: デイリースポーツ)