基地の病院に住み込むインターン生活の最初の3ヶ月は、体中の皮膚に針がつき刺さるような違和感の連続だった。
昭和30年代の日本の平均家庭の暮らしを振り返ると、食事は畳の上に広げた折りたたみ式のお膳で箸と茶碗で、眠るのは勿論布団。石炭を炊いて沸かした風呂に入り、トイレは汲み取り式だった。
そんな日常から、リノリュウムの床で1日中靴をはいたままで過ごし、イスにすわったテーブルでナイフとフォークを使って食事し、寝るのはベッド。風呂のかわりにシャワー、トイレは便座に座って用を足す水洗トイレという異国の習慣に一変すると、馴れるだけでも大きなストレスがかかる。
あまつさえ、院内ではインターン同士間の会話でも、許される言葉は英語オンリー。言いたいことの半分も相手に伝えられないもどかしさは体験してみないと判らない。
張り詰めた気持ちの糸が切れかけた頃、タイミングよく、インターンとナースの間でソフトボール対抗試合という企画が持ち上がった。
中尉殿もユニフォームを脱いだら只のオンナの子
日ごろ院内で勤務中のナースたちは、髪をアップにひきつめて、白一色のユニフォームに身を包み、金色に輝く肩章もいかめしい海軍将校だ。
だが、この日だけは、肩までかかる長い髪を野球帽でまとめ、肌もあらわなタンクトップにハイレグショーツで登場する。こうなると誰がだれだかまったく見分けがつかない。海軍看護少尉や中尉殿も制服を脱いでしまうと、ただの女の子に変身するのだ。
草野球ならぬ草ソフトボールだが、両ダッグアウトの位置にはそれぞれにテントが張られ、両軍のベンチらしい配備になっている。
ネット裏におかれた巨大なクーラーボックスには、アイスチップが山と盛られ、病院長から差し入れられたビールやソフトドリンクのカンやビンがぎっしり埋まっている。
そばのグリルでは、バーベキューの炭火がガンガンと起こされ、米国本土から冷蔵船で運んできたソーセージや生野菜が大皿に山盛りされている。
女性にデレデレのアンパイア
今日の主審をつとめる外科医長のG大尉のプレーボール宣言により、ナースチームの先攻でゲームは始まった。
一番バッターは金髪をポニーテールにした長身のパッツィ。対するインターンチームのピッチャーは高校で野球部員だったというA君。レギュラーだろうと補欠だろうと、元野球部員には替わりはない。手元から繰り出す剛速球は、パッツィごときオンナの細腕で打てる球ではない。ストライクを2つたて続けにとったあと、3球目はど真ん中に入って見逃しの三振、とフィールドにいる全員が思った。ところがみんなの意に反し、G主審は「ワンボール、ツーストライク」と宣告する。
ニッポンでは、「ツーストライク、ワンボール」という具合に、ストライクをボールより先に数える。どちらかというと、ピッチャーに有利なカウントの仕方である。
アメリカではそれと反対にボールを先に数えるから、審判は常にバッターを贔屓にしているように思えるのだ。
やりたい放題の主審
ベンチを飛び出したインターンチームのキャプテンが、血相変えてG主審に詰め寄り
「それはないでしょう、大尉殿。ど真ん中のストライクですよ」
とクレームを付ける。
だが、先天的に女性に弱い大尉殿はガンとしてわれらがキャプテンの抗議を受け付けない。続く3球もすべてベース板のど真ん中を通過したが、ナースびいきの軟派中尉殿の判定ではすべてボール。パッツィは四球で出塁した。
たまりかねたわがキャプテン、タイムをとって再び審判に詰め寄る。
「女性に甘いのは大尉殿の勝手ですが、判定だけは公正におねがいします」
と請願したとたん、
「退場!」
とベンチを指さされてしまった。これにはインターンチームだけでなく、ナースチームまでもずっこけてしまった。
次のバッターのジュリーは、ボックスに入るなり、G主審を振り向いてとろけそうなウィンクを送る。
初球に向かってバットを一閃すると、これがなんと三塁線の外に出るゴロのファウル。それでも打ったジュリーは一塁目指して疾走する。形のいい足が一塁ベースを踏んだころあいを見計らってG大尉殿は
「いまの打球はフェア!」と宣告するのだ。
「冗談ぬきにしましょうよ。いまのはだれが見てもファウルですよ」
とわがチームのキャプテン代行が抗議すると、
「黙れ!シャットアップ。聴く耳をもたぬぞ」
だと。
ストライクは全部ボーク
ノーダウン一、二塁で、三番バッター登場。三番のドリスはボックスに入る前にタイムをとって主審に近づき、
「ジム、アンパイア姿もなかなかイカしてるわよ」
首に抱きつき、唇にブチュッと濃厚な口づけ。
グランドの全員があっけに取られて見守るなか、永いフレンチキスを楽しんだあとでプレー再会。
頭にきたピッチャーA君がプレートのど真ん中に剛速球を投じると、この女性に甘いアンパイア、すかさずタイムを宣告する。
A君の投球スタイルがボークだといって因縁をつける。理不尽な判定をのまされた挙句、こんどは投球フォームが気に食わぬとケチをつけられては、さすがのA君も堪らない。とうとう自慢の剛速球は封じ手にされてしまった。
こうなるとか弱いオンナのバッターでも、なんとかバットをボールに当てられる。
ナースチームのバッターがアウトになるのはフライやライナーを直接捕捉された場合のみ。アウトになりそうな平凡な内野ゴロはすべてファウル。野手が捕逸したファウルはヒットという勝手につくったルールによる審判の判定に、一回表が終わってスコアボードを見あげると、ナースチームは10点もの大量得点を獲得していた。
攻守入れ替えの合間はパーティ
攻守入れ替えの間に永い休憩をとり、敵味方会い交わってビールを飲み、ホットドッグにかぶりつくのがヨコスカ基地の慣わし。
ニッポンでは、たとえリクリエーションの親善ゲームとはいっても試合は試合。規則にのっとり、勝敗を決するまでクソ真面目にプレーするのが、日ごろなじんだ日本式の職場親善スポーツ精神というものだ。
ゲームが終われば勝ち負けを忘れて相手を讃え合うのもニッポン独特の美学。子どもの頃からそう教えられて育ったインターンチームの面々にとっては、ルールをへし曲げ、ゲームを破壊し、試合の途中で両軍混じりあいながらビールを飲むなんて犯罪に等しい。
予想外の展開は、クソ真面目を尊重するニッポン社会で育ったインターンにとっては、受け入れ難いカルチャーショックだった。
必殺“4の字固め”
やがて、野外宴会でみんながいい加減デキ上がった頃、G大尉のプレーボール宣言で、試合は再開となった。インターンチームの打者が巧みに外野を抜く長打を放つと、軟派アンパイアは恥じらいもなくファウルを宣告する。
打者が内野ゴロを打って1塁に向かって走りはじめる。するとファーストを守るローラは、待ってましたとばかりにベースを離れて走者に近寄ってくる。
本塁寄りの塁間で抱きとめ、引き倒し、馬乗りになり、走者の両脚の間に自分の長い脚を複雑にはさみ込み、“4の字固め”にしてしまう。その間に一塁のベースカバーに入った二塁手のキャロルが、野手からの送球を受けてアウト。
ローラに合流したキャロルは “4の字固め”で抑え込まれたインターンの身体のあちこちをなでたり触ったり。オンナ二人がかりのしたい放題を軟派の駄目アンパイアは見てみぬふり。
奥の手“電気アンマ”
インターンたちは、女性尊重というけしからぬ習慣があるアメリカでは、公衆の面前で女性のからだには一指たりとも触れるでないぞと聞かされてきた大和男児だ。
しかし、その反対の女性に触られるという想定外の状況への対処は、誰からも習っていない。触りにくる手を跳ね除けようとすると、必然的に相手のからだのあちこちに触れてしまう。それでは大和男児の掟に背いてしまうから、触らぬカミに崇りなしと無抵抗でいると、女どものワルサは増長するばかり。
「女どもよ、そのうち泣き面かかせてやるぜ」
と密かに決意するうちに、やっと打順が回って来た。内野ゴロを打って一塁に向かって走ると、またもやキャロルが抱きついてきて“4の字固め”で封じ込めにくる。
「やられた分は倍にして返すぜ」
とばかりに、4の字を形作るキャロルの長い両脚の間の、長と突き当たりの辺に片足を押し当て、奥の手の“電気アンマ”を喰らわせてやる。「ク、ク、ク、ク」と悶える表情は喜悦か苦悶か、40余年が過ぎた今も判別はつかぬまま。ま、どうでもいいことだが、あのとき思い切って尋ねてみればよかった。惜しいことをしたものだ。
結局、試合は一回終了時で10対0のコールドゲーム。全員ビールの飲みすぎでゲーム続行困難というのがコールドゲームの理由だった。勝利にはしゃぐナース全員から本格的接吻を唇に受けた大尉殿の口のまわりは各種口紅でまっ赤っ赤。人食い人種のようなご面相は、手術場や病棟で見るきりっとしたユニフォーム姿からは想像もつかぬ姿だった。
アソビ心の大切さ
このソフトボール大会で、アメリカ人の底抜けのアソビ心を知った。いまでこそニッポンでもアソビ心がもてはやされるが、1960年代には勤勉こそ人生、アソビ心は邪悪とみなされていた。
親善試合を境にナースとインターンの間のギクシャクした人間関係は大いに改善され、職場でのコンタクトにスマイルやジョークが交わされるようになった。
このイベントによって、インターン達の張り詰めた気持ちの糸が緩んだのはいうまでもない。
すべては“4の字固め”と“電気アンマ”の交換がもたらせた成果であると信じている。
(2008年5月1日付 イーストウエストジャーナル紙)