ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(5)
日米対抗ソフトボール大会:インターンvsナース

基地の病院に住み込むインターン生活の最初の3ヶ月は、体中の皮膚に針がつき刺さるような違和感の連続だった。
昭和30年代の日本の平均家庭の暮らしを振り返ると、食事は畳の上に広げた折りたたみ式のお膳で箸と茶碗で、眠るのは勿論布団。石炭を炊いて沸かした風呂に入り、トイレは汲み取り式だった。
そんな日常から、リノリュウムの床で1日中靴をはいたままで過ごし、イスにすわったテーブルでナイフとフォークを使って食事し、寝るのはベッド。風呂のかわりにシャワー、トイレは便座に座って用を足す水洗トイレという異国の習慣に一変すると、馴れるだけでも大きなストレスがかかる。
あまつさえ、院内ではインターン同士間の会話でも、許される言葉は英語オンリー。言いたいことの半分も相手に伝えられないもどかしさは体験してみないと判らない。
張り詰めた気持ちの糸が切れかけた頃、タイミングよく、インターンとナースの間でソフトボール対抗試合という企画が持ち上がった。

中尉殿もユニフォームを脱いだら只のオンナの子

日ごろ院内で勤務中のナースたちは、髪をアップにひきつめて、白一色のユニフォームに身を包み、金色に輝く肩章もいかめしい海軍将校だ。
だが、この日だけは、肩までかかる長い髪を野球帽でまとめ、肌もあらわなタンクトップにハイレグショーツで登場する。こうなると誰がだれだかまったく見分けがつかない。海軍看護少尉や中尉殿も制服を脱いでしまうと、ただの女の子に変身するのだ。
草野球ならぬ草ソフトボールだが、両ダッグアウトの位置にはそれぞれにテントが張られ、両軍のベンチらしい配備になっている。
ネット裏におかれた巨大なクーラーボックスには、アイスチップが山と盛られ、病院長から差し入れられたビールやソフトドリンクのカンやビンがぎっしり埋まっている。
そばのグリルでは、バーベキューの炭火がガンガンと起こされ、米国本土から冷蔵船で運んできたソーセージや生野菜が大皿に山盛りされている。

女性にデレデレのアンパイア

今日の主審をつとめる外科医長のG大尉のプレーボール宣言により、ナースチームの先攻でゲームは始まった。
一番バッターは金髪をポニーテールにした長身のパッツィ。対するインターンチームのピッチャーは高校で野球部員だったというA君。レギュラーだろうと補欠だろうと、元野球部員には替わりはない。手元から繰り出す剛速球は、パッツィごときオンナの細腕で打てる球ではない。ストライクを2つたて続けにとったあと、3球目はど真ん中に入って見逃しの三振、とフィールドにいる全員が思った。ところがみんなの意に反し、G主審は「ワンボール、ツーストライク」と宣告する。
ニッポンでは、「ツーストライク、ワンボール」という具合に、ストライクをボールより先に数える。どちらかというと、ピッチャーに有利なカウントの仕方である。
アメリカではそれと反対にボールを先に数えるから、審判は常にバッターを贔屓にしているように思えるのだ。

やりたい放題の主審

ベンチを飛び出したインターンチームのキャプテンが、血相変えてG主審に詰め寄り
「それはないでしょう、大尉殿。ど真ん中のストライクですよ」
とクレームを付ける。
だが、先天的に女性に弱い大尉殿はガンとしてわれらがキャプテンの抗議を受け付けない。続く3球もすべてベース板のど真ん中を通過したが、ナースびいきの軟派中尉殿の判定ではすべてボール。パッツィは四球で出塁した。
たまりかねたわがキャプテン、タイムをとって再び審判に詰め寄る。
「女性に甘いのは大尉殿の勝手ですが、判定だけは公正におねがいします」
と請願したとたん、
「退場!」
とベンチを指さされてしまった。これにはインターンチームだけでなく、ナースチームまでもずっこけてしまった。
次のバッターのジュリーは、ボックスに入るなり、G主審を振り向いてとろけそうなウィンクを送る。
初球に向かってバットを一閃すると、これがなんと三塁線の外に出るゴロのファウル。それでも打ったジュリーは一塁目指して疾走する。形のいい足が一塁ベースを踏んだころあいを見計らってG大尉殿は
「いまの打球はフェア!」と宣告するのだ。
「冗談ぬきにしましょうよ。いまのはだれが見てもファウルですよ」
とわがチームのキャプテン代行が抗議すると、
「黙れ!シャットアップ。聴く耳をもたぬぞ」
だと。

ストライクは全部ボーク

ノーダウン一、二塁で、三番バッター登場。三番のドリスはボックスに入る前にタイムをとって主審に近づき、
「ジム、アンパイア姿もなかなかイカしてるわよ」
首に抱きつき、唇にブチュッと濃厚な口づけ。
グランドの全員があっけに取られて見守るなか、永いフレンチキスを楽しんだあとでプレー再会。
頭にきたピッチャーA君がプレートのど真ん中に剛速球を投じると、この女性に甘いアンパイア、すかさずタイムを宣告する。
A君の投球スタイルがボークだといって因縁をつける。理不尽な判定をのまされた挙句、こんどは投球フォームが気に食わぬとケチをつけられては、さすがのA君も堪らない。とうとう自慢の剛速球は封じ手にされてしまった。
こうなるとか弱いオンナのバッターでも、なんとかバットをボールに当てられる。
ナースチームのバッターがアウトになるのはフライやライナーを直接捕捉された場合のみ。アウトになりそうな平凡な内野ゴロはすべてファウル。野手が捕逸したファウルはヒットという勝手につくったルールによる審判の判定に、一回表が終わってスコアボードを見あげると、ナースチームは10点もの大量得点を獲得していた。

攻守入れ替えの合間はパーティ

攻守入れ替えの間に永い休憩をとり、敵味方会い交わってビールを飲み、ホットドッグにかぶりつくのがヨコスカ基地の慣わし。
ニッポンでは、たとえリクリエーションの親善ゲームとはいっても試合は試合。規則にのっとり、勝敗を決するまでクソ真面目にプレーするのが、日ごろなじんだ日本式の職場親善スポーツ精神というものだ。
ゲームが終われば勝ち負けを忘れて相手を讃え合うのもニッポン独特の美学。子どもの頃からそう教えられて育ったインターンチームの面々にとっては、ルールをへし曲げ、ゲームを破壊し、試合の途中で両軍混じりあいながらビールを飲むなんて犯罪に等しい。
予想外の展開は、クソ真面目を尊重するニッポン社会で育ったインターンにとっては、受け入れ難いカルチャーショックだった。

必殺“4の字固め”

やがて、野外宴会でみんながいい加減デキ上がった頃、G大尉のプレーボール宣言で、試合は再開となった。インターンチームの打者が巧みに外野を抜く長打を放つと、軟派アンパイアは恥じらいもなくファウルを宣告する。
打者が内野ゴロを打って1塁に向かって走りはじめる。するとファーストを守るローラは、待ってましたとばかりにベースを離れて走者に近寄ってくる。
本塁寄りの塁間で抱きとめ、引き倒し、馬乗りになり、走者の両脚の間に自分の長い脚を複雑にはさみ込み、“4の字固め”にしてしまう。その間に一塁のベースカバーに入った二塁手のキャロルが、野手からの送球を受けてアウト。
ローラに合流したキャロルは “4の字固め”で抑え込まれたインターンの身体のあちこちをなでたり触ったり。オンナ二人がかりのしたい放題を軟派の駄目アンパイアは見てみぬふり。

奥の手“電気アンマ”

インターンたちは、女性尊重というけしからぬ習慣があるアメリカでは、公衆の面前で女性のからだには一指たりとも触れるでないぞと聞かされてきた大和男児だ。
しかし、その反対の女性に触られるという想定外の状況への対処は、誰からも習っていない。触りにくる手を跳ね除けようとすると、必然的に相手のからだのあちこちに触れてしまう。それでは大和男児の掟に背いてしまうから、触らぬカミに崇りなしと無抵抗でいると、女どものワルサは増長するばかり。
「女どもよ、そのうち泣き面かかせてやるぜ」
と密かに決意するうちに、やっと打順が回って来た。内野ゴロを打って一塁に向かって走ると、またもやキャロルが抱きついてきて“4の字固め”で封じ込めにくる。
「やられた分は倍にして返すぜ」
とばかりに、4の字を形作るキャロルの長い両脚の間の、長と突き当たりの辺に片足を押し当て、奥の手の“電気アンマ”を喰らわせてやる。「ク、ク、ク、ク」と悶える表情は喜悦か苦悶か、40余年が過ぎた今も判別はつかぬまま。ま、どうでもいいことだが、あのとき思い切って尋ねてみればよかった。惜しいことをしたものだ。
結局、試合は一回終了時で10対0のコールドゲーム。全員ビールの飲みすぎでゲーム続行困難というのがコールドゲームの理由だった。勝利にはしゃぐナース全員から本格的接吻を唇に受けた大尉殿の口のまわりは各種口紅でまっ赤っ赤。人食い人種のようなご面相は、手術場や病棟で見るきりっとしたユニフォーム姿からは想像もつかぬ姿だった。

アソビ心の大切さ

このソフトボール大会で、アメリカ人の底抜けのアソビ心を知った。いまでこそニッポンでもアソビ心がもてはやされるが、1960年代には勤勉こそ人生、アソビ心は邪悪とみなされていた。
親善試合を境にナースとインターンの間のギクシャクした人間関係は大いに改善され、職場でのコンタクトにスマイルやジョークが交わされるようになった。
このイベントによって、インターン達の張り詰めた気持ちの糸が緩んだのはいうまでもない。
すべては“4の字固め”と“電気アンマ”の交換がもたらせた成果であると信じている。

(2008年5月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

日米大学の違い

「貴学の優れた研修医制度を一度見学したいのですが、わが大学は見学を公務派遣扱いにしてくれないのです。そこで相談ですが、今回の私の訪問を貴学からの公式招聘として役所に納得させるため、往復の旅費および滞在費のすべてを貴学持ちで招くというニセ手紙を一通いただけませんでしょうか。勿論、費用は全額わたしが私費で支払いますので、貴学は勿論、センセにも絶対にご迷惑はお掛けしません」

アイオワ大学教授在任中に、こんな手紙を何度も受け取った。「見学を許す側がさせてもらう側の費用負担をしてまで招聘するのは道理に反する。一体何事だ」といぶかるのは日本の役所特有の事情を知らない人。そのウラには哀しいワケがあるのだ。

日本の国立大学教授は、自身の教育学術活動上必要な情報を他国の大学で見聞することが重要と自ら判断してもそれを直ちに実行できない仕組みだ。教授は学内で教育研究に従事するのが本来の任務であり、海外施設見学の是非は当人の判断に任されていないからだ。ところが海外の大学から旅費滞在費支給保証の上で招聘された場合には海外出張が許される。背反する事象を組み合わせて不可能を可能に変える苦肉の策が冒頭に掲げたニセ手紙なのだ。

大学を仕切る文科省の担当係官は、たとえば教授が海外施設訪問中に不慮の事故に遭遇しても、規則に準じた手続きさえしていれば責任を問われることはない。ニセ手紙と判っていても招聘出張許可の書類に判子をついてくれる。
大学の頭上にいる文科省が、教授の学術活動の細部まで手も口も出す日本の国立大学と比べると、米国の大学は学の独立の原理原則を護っている。教授は自身の教育学術活動の是非を自らの判断によって実行する自己完結型の存在である。大学に働く事務官はすべてわれわれ教授の活動を支援するための存在である。

先日ある国立大学から講演を頼まれ喜んでお受けした。だが手続きの途中、担当事務官から、英語でいうとyou must調の文章で、印鑑や預金通帳を持参せよなどいう命令を通達され、直ちにこの招きを断った。

豊饒日本、衣食余って礼節を忘れているのでは?

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(4)
昭和38年の空襲警報

突如、鳴り響くサイレンの音。
院内各所にある頭上のスピーカーから、
「総員に告ぐ。識別不能の航空機が西南の海上を接近中。警戒警報発令。全員各自の持ち場に戻って待機」
早口のアナウンスが轟く。
これが発令されるとインターンは、直ちに持ち場の病棟に戻らねばならぬ。患者を運びだすストレッチャーの手配などしていると、追い討ちをかけるように、
「識別不能機さらに接近。空襲警報発令。総員退避開始」
と命令が下る。
救急医薬品を容れたバッグを背中に背負った衛生兵とともに、病室で動けない患者を素早くストレッチャーに乗せ、道路を隔てた向かい側にそびえる岩山に向かって移動する。
ヨコスカ米国海軍基地内に点在する小高い岩山には、太平洋戦争の終焉が近づいたころ、日本帝国海軍が掘った横穴防空壕が無数にある。
戦い終わって基地の新しい主となったUSネービーは、その横穴を識別不能の航空機による空襲の際の患者退避壕として使っているのだ。
ベトナムの戦場で重傷を負い、サイゴン定期便で運ばれてきた海兵隊員の患者を乗せたストレッチャーを押して、やっと壕の入り口にたどりついた頃、
「防空演習解除。総員(オールハンズ)本来の任務に戻れ」
と新しい命令が下って、月に一度の防空演習は終わる。

戦後18年目の防空演習

ときは昭和38年。
東京オリンピックの前年に防空演習を体験したニッポン人は、われわれヨコスカ米国海軍病院インターン以外にいないだろう。
「戦後18年、平和の真っ只中で防空演習だと?冗談もいいかげんにしろよ!」
と言う人は、米国海兵隊が抑止力でないというのと同じホントウの平和ボケ。ことの真相に無知なのだ。
国際間のウラでのせめぎあいのホントウの事実を知ると、笑い事では済まされない。
昭和38年にニッポン国籍の民間人であるインターン生が勤務した病院は、実は戦時下の米国海軍病院だったのだ。

極東におけるUSネービーの役割

朝鮮戦争は昭和28年に停戦協定が結ばれて以来、南北境界線で戦火は交わされていない。だが、停戦は和平条約ではない。停戦であるから、戦火はいつ再燃するかわからない。だから米軍のスタンスはあくまでも臨戦態勢だ。それにベトナムの戦場からは、軍事顧問とはいえ、毎晩負傷兵が空輸されてくる。
戦場に赴くことのないニッポン人インターン生が戦闘に巻き込まれることはありえない。
だが、戦地からの負傷兵の治療に当たるからには、インターン生も極東における米軍の役割を知っておくべきだという理由で、或る日海軍司令部から派遣された広報将校から「極東におけるUSネービーの役割」という演題の講義を受けることになった。この講義は当時のニッポンと米軍の立場関係を知るのには、大変興味深い内容だったのでいまでも記憶に残っている。
横須賀を基地とする米国海軍第7艦隊は、キティホーク、コンステレーションなどフォレスタル級8万トンクラスの大型空母一隻をそれぞれの主力とし、ミサイル巡洋艦、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、補給艦など数十隻で構成する戦術空母団の3群を保有する。空母団3群は日本の横須賀、グアム島、フィリピンのスービック湾の各基地を定期的に巡回し、極東の防衛に当たっている。
月に一度の防空演習の際、仮想敵機とされる識別不能の航空機は、中国東岸の基地から東シナ海を北上してくる中国空軍機が想定されていた。米ソ冷戦の最中だったので、仮想敵機は当然ソ連機だと思っていたが広報将校の講義では、当時中共軍と呼ばれていた中国空軍機だというから驚いた。
いまにして思うと、朝鮮半島で停戦中の相手は中国と北朝鮮だったのだから、なるほどと納得がいく。

スクランブル!

防空網のレーダーが「識別不能機」を捉えると、時をまたずニッポン国内の米軍基地から戦闘機が仰撃に飛び立つ。これをスクランブルと呼ぶ。日本近海に接近する中国機の挑発行為は1年間に300回を超えるスクランブルを惹起した。中国機は米軍機と接触する一歩手前で反転撤退するのが常だった。両軍機が戦火を交えるに至らなかったとはいえ、一触即発の反復ではあったのだ。
米国海軍にスクランブルが発令される場合は、「識別不能機の接近」よりもスケールの大きい緊急事態が背後にある。たとえば、台湾海峡に多数の艦船が集結中という事態が生ずると、ヨコスカ米国海軍基地の港内に停泊中の全艦船に緊急出航命令がでる。
空母というものは洋上を風上にむかって全速力で航行している状態になければ、載せているジェット戦闘機を発進させることはできない。港につながれたままの空母は、巨大な鉄の洗面器のようなもので、防衛にも攻撃にも、何の役にも立たない。
ヨコスカ基地ですごした1年の間に、数回の空母出動命令が発令された。これが発令されると、ヨコスカのダウンタウンを巡回しているSP(警備当番)は緊急体制を敷く。バーやキャバレーを1軒ずつまわって乱痴気騒ぎの真っ最中の水兵たちを狩集め、酔っていようが正気だろうが、巨大な兵員輸送トラックに押し込み、艦に送り込むのが彼らSPの任務だ。
キティホークのような巨大な空母には4千人を超える乗組員が乗っている。停泊中に何度か訪れたキティホークは、長さ300メートル、幅60メートルのフライトデッキをもち、その内部構造は11階建ビルに匹敵する巨大な建造物である。
シックベイと呼ばれる艦内病院には100床の入院病床があり、胸部外科、一般外科、脳外科、麻酔科、一般内科などの専門医7、8名のほかに、多数の衛生兵が勤務している。一旦ことが起きても、艦内で大抵の手術はできるように備えているのだ。
USネービーは艦内での飲酒を固く禁じている。艦内でスコッチやラム酒を飲む伝統をもつ英国のロイヤルネービーと比べると、USネービーは規律の厳しさが一段違うと案内係の水兵は胸を張る。
艦内には銀行、郵便局、教会のほかテレビ局もあり、ちっとした街である。丁度訪れたとき、艦内スタジオではタレント顔負けのクルーがトークショーのビデオ撮りをしていた。
空母が港に入って半舷上陸許可が出ると、2千人にのぼる乗組員が、艦を離れてオカにあがる。
妻帯者は帰港をまちわびる家族のもとに戻って、短い休暇を過ごす。独身のクルーたちはトウキョウ見物や富士箱根一泊旅行に出かける。
ヨコスカ近郊のアパートでガールフレンドとスティーミーな時間を過ごすものもいる。それぞれのスタイルでくつろいでいるとき、スクランブルが発令されると直ちに港に戻り、艦を沖に出さねばならない。

誰のためのスクランブル?

クルーが休暇を中断し任務に戻るのは一体誰のためかと考えてみると気が重い。セーラーの殆どは20代のヤングアメリカン。当時米国は徴兵制度を敷いていたから、クルーのなかには大学で勉学の途上、徴兵されてやむなく入隊したものも少なくなかった。
そんな若者の中には、
「日本という国をオレたちが護ってやっているのに、お前たちニッポン人はノーテンキにも安保反対だの再軍備反対だのと寝言を抜かす。自分の国を自分で護りもしないで、一体何様のつもりだ!」
と激憤する者もいた。
言われてみるとその通り。一言の反論もできない。
おそらくこれがアメリカンの市民感情を代表した意見だろう。ニッポン人も国際問題を論ずる際、現実に即した市民感覚で思考するといま何をすべきか判るだろう。
軍人は上官の命令に背くと軍事裁判にかけられ厳罰をうける。
在日米軍の若い兵士たちが、軍の命令に従い命を賭けて護るのは母国の米国ではない。彼らにとってはアカの他国であるニッポンなのだ。そのニッポンでは、おとなもこどもも安保反対、再軍備反対、平和憲法擁護を叫んでいる。平和愛好の姿勢さえ見せていれば、隣国がニッポンを攻める筈がないと信じている。

基地の塀の外からはスピーカーを通してヤンキーゴーホームと叫ぶデモ隊の声が聞こえる。
その最中でも、USネービーの若者たちは、そんなニッポンを護るために、愛する人のもとを離れてスクランブル発進するというのに。
護ってもらっている者が庇護者を誹謗する論理の矛盾に気づかなければ、愚者の集りと呼ばれても仕方があるまい。
現代ニッポンの老若を毒している度し難い自己中心主義は、1960年代の安保騒動の頃、矛盾だらけの戦後処理に目をつむり、国としての本来の姿を真剣に議論することなく、半世紀もの間先送りしてきた結果、今の普天間基地移転問題を招いているのだ。

(2008年4月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

金沢抒情

冷たい北風と氷雨で明け暮れた4月が終わって、やっと春らしい日差しとなったが、新緑にはまだ程遠い5月初旬金沢を訪れた。ホノルルから国際電話で予約しておいた「ほたる屋」で食事し、駅前のホテルに一泊して翌朝のサンダーバードで大阪に戻る、という単調な旅程の金沢詣でをするようになって、7、8年になる。 

アイオワ大学外科教授をやめたあと、ホノルルに住まいの本拠を構えながらも、1年の半分をニッポンで過ごすようになって10年が過ぎた。春と秋は、大阪の我が家を基地にして顧問をしている幾つかの病院を巡り、大学や民間団体で講演をし、その合間に旧友たちとのゴルフや、大阪の旨いもんめぐりにとち狂うという、多忙なスケジュールだ。その定番に「ほたる屋」の晩飯が加って以来、金沢を訪れずにはホノルルに戻れなくなった。それほどに「ほたる屋」の料理にのめりこんでいるのにはワケがあるのだ。

そもそもの出会いは、古都めぐりを好む家内が一人で金沢を訪れ、ちょうど茶屋町に着いたころ昼時になったので、予約もなしに暖簾をくぐったのが「ほたる屋」だったのだ。カウンター席に座った家内は、料理の旨さと、おんな一人のランチを気持ちよく食べさせてくれた板前氏にいたく感激し、次回には亭主を連れてくると約束して大阪に戻った。

そしてその年の晩秋に金沢を訪れた。花街の風情がのこる石畳の通りの角にある「ほたる屋」で板場を預かる花板のMさんは、ハスキーボイスで人懐こい話し方をする中年男性。威張りもせず卑屈にもならず。そうした人とは長続きする。

ブリ起しという冬の雷で眠りをさました寒ブリの造りやブリ大根などブリづくしが続々と出てくる。どれを食べても旨い。熱燗の金沢の地酒が日本海の海の幸によくあう。芸術のようなその日その日の献立は、前日にMさんが市場の食材を吟味しながら決めるという。これまで同じ料理が出た記憶がないのもむべなるかな。

店の中には200年前に使っていた井戸が残っている。以前は屋外にあったのが増築で屋根の下に入ったという。その水はその気になればいまでも使えるそうだ。壁の一部を斜めにそいで、2世紀もの間に塗り重ねてバウムクーヘンのようになった壁の層を、一目で見られるように粋な工夫がしてある。物言わぬこの壁は、加賀百万石の武士から現代のビジネスマンまでの、いろんな時代の日本人を眺めてきた。もし壁がもの言えるとしたら、今の日本の体たらくを一体何にたとえることだろう。

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(3)
外科医の育て方:日米の違い

「婦長、これがこんど外科にローテーションしてきたインターンのケンだ。いつもの練習用パックを渡してやってくれ」
一般外科医長のジムギャラント海軍軍医大尉が引き合わせてくれた手術室婦長は、金髪、ショートカット、ナース帽に太い金色の線が三本入った海軍看護少佐殿だった。二人の会話を聴いていると、外科医長殿は上官にあたる婦長にこんなぞんざいな口をきいていいのかと心配になるほどカジュアルな口ぶりだ。あとで判ったことだが、海軍でも病院だけは別世界。手術室内では外科医とナースの人間関係は、シャバの病院とかわらないのだ。
「いいわよ、ジム」
応えた少佐殿の婦長から手渡された練習用パックには、実際の手術で使うホンモノの摂子、止血鉗子、持針器、縫合針、鋏、縫合結紮糸などの手術器材がひと揃い入っていた。外科インターンはこの器材をつかって、手術のシミュレーションをするように義務づけられている。
ニッポンの病院でも研修医に手術のシミュレーションを義務付けると研修成果が大いにあがるのだが、高価な器材の員数に限りがあるからという理由で、実現していない。


外科医のお道具

パックに含まれる摂子という道具は、世間ではピンセットと呼ばれている。これは傷を縫合する際、皮膚や組織を摘み上げて縫合針の刺入を助ける役目をする道具である。
持針器は半円形に曲がった縫合針を把持するためのプライヤーのような形をした器具だ。熟練外科医は、縫合針の方向やからだの組織に刺入する際の力加減を、自らの手指のごとく制御する。持針器につけた針が通過する人体組織は、通常ぐにゃっとした餅のような感触である。手術にはこれに、目分量で目安をつけて正確に針を通す技術が求められる。
縫合針は、曲がったものや縫い針のように真っ直ぐなものなど、多様だが、一番よく使われるのが半円形に曲がった針だ。
曲線を描く針を、持針器に掴んでからだの組織を縫うのは、見た目ほど易しくはない。日ごろからシミュレーションを何千回も重ねて訓練を積んでおかねば、いざというときの役には立たぬ。
鉗子は切断端から血を噴いている血管を、周囲の組織と一緒に把持することによって、出血を止める道具である。出血点を的確に見極め、迅速に止血するためには、鉗子を手指のごとく操る技能が要る。そのためには、日ごろから鉗子を閉じたり開いたりする訓練をかさね、いざというときに備えるのが肝心だ。
外科手術に使う鋏は刃の部分が曲線を描くものが多い。外科医はこの鋏を、効き手の親指と薬指をつかって自在に操る能力が要る。
手術で皮膚切開にはメス(ナイフ)を使うが、その他の臓器や組織を切るのには、ほとんど鋏を使う。鋏は、組織の剥離や、縫合糸や結紮糸の切断に、欠かせぬ道具である。鋏を自在に使えるようになったら、外科入門の入り口を通過したようなものだ。
結紮や縫合に使う糸は、絹、羊の腸、木綿、化学合成物質などを原料とした、大小さまざまなサイズのものがある。小包の紐ぐらいの太さから、赤ちゃんの髪の毛より細いものまで、
用途は多様だ。切れた血管を鉗子で掴んでおいて、これを結紮糸で縛ると止血は完了する。一度の手術で、縛る血管の数が100本を超えることは珍しくない。

手術の基本動作

「手術の基本動作は、まず麻酔によって痛みを消した皮膚をナイフで切開する。皮膚を切ると血管も切れて出血するから、これを鉗子で止める。止めた血管端を結紮糸で縛る。縛った糸を鋏で切る。この手技を繰り返して傷んだ臓器や組織を切除する。病巣を切除したあとは、腸でも肺でも心臓でも再構築が必要だ。再構築は、まずピンセットで組織をつまんで、持針器で糸をつけた縫合針を把持し、針を組織の中を通して縫い合わせ、糸を縛って組織を接合させる。そして余分な糸は鋏で切る。この基本的動作を何十回となく繰り返して手術は終わる」
長いローカを並んで歩きながらギャラント医長は噛んで含めるように説明してくれる。


シーツを縫って手術の練習

「外科のインターンは、今言った基本動作を完璧にマスターしなければならない。さきほど婦長からもらったパックの中にある器具を使って、毎晩ベッドに入ったあと、眠るまえにシーツを縫う練習をしろ。
シーツのしわを二つ並べ、ひとつずつを摂子で摘み挙げ、持針器につけた針で縫う。縫った糸は縛り、余分の糸は鋏で切る。シーツにボールペンでマークをつけ、これを出血点に見立てて鉗子を掛け、結紮糸で縛り、余った糸を鋏で切る。これから2ヶ月間外科のインターンでいる間、これを毎晩寝る前の日課とすること。何回しろとは言わないが、成果は手術のアシスタントをさせるとすぐ判る。それとは別に、縫合糸の結紮練習を毎日2千回。2千ノット結んだ編み紐を、翌朝オフイスに持ってきてわたしに見せること」


毎晩2千回の糸結び

大変なことになったが、これがホントウの外科臨床研修というものだ。外科をローテーションした2ヶ月間、毎夜眠い目をこすりながらシーツを縫い、2千回の糸結びを繰り替えした。翌朝、2千回結んだ証拠の編み紐を手渡すと、ギャラン医長は「よくやった」の一言とともにライターの炎で火をつけ燃やしてしまう。
「こうして燃やすのにはワケがあるのだ。キミたちは思いもよらぬだろうが、以前、この編み紐を見たあと屑籠に捨てていたら、それを拾って自室に持ち帰り、その夜は糸結びをサボったくせにしたフリをして、前日持ち帰った編み紐を証拠として翌朝わたしに見せた悪賢いヤツがいた。それ以来、編み紐は見たらすぐ燃やすことに決めたのだ。悪く思うなよ」
考えることは先輩たちもみんな同じ。秘かに画策していた編み紐再利用の企みは、空しくも編み紐を燃やすあわい煙と共に消えていった。

外科医の育て方:日米の違い

ニッポンの医学部では、将来医師になるものは医学知識を身につけ理論をマスターさえすればそれでよしとする。医師国家試験にも臨床の実技は含まれていない。臨床研修は「見て習えばいい」という共通の理解がある。
一方、アメリカの医療界では、医学は実学であり、診療は実務であるという認識にたつ。だから医学生や研修医にまず実技の基本を教え、診療の現場で実習させようとする。この違いはどこから来たのだろう。
調べてみると、ニッポンの大学医学部での教育カリキュラムが文部科学省の役所の発想から生まれたのに対し、アメリカでは医師会と医学部長会が構成する医学教育連絡協議会(LCME)という医師の集団が企画している。この協議会のメンバーは現役の臨床医という資格限定があるのだ。
現役の臨床医が次世代医師の教育研修方針を決めると、臨床研修は単に「見学する」だけでなく「実際を経験させる」という方向に向く。医師の資格を得た者は、臨床医として診療の実務に就き、国民の健康維持に貢献するべしという理念に忠実に従う。
ニッポンの「見て習え」方式だと、医学部を卒業したあと何年を修業したら一人前の内科医や外科医になれるのか見当がつかない。ウダウダしている間に年月がすぎて、ようやく一本立ちになったときには、停年まであと数年もない年齢に達していたという笑えないハナシもある。
米国では、医師国家試験を合格して医師資格を取得しただけの医師が手術をしても、報酬を得ることは不可能だ。内科、外科、小児科など、各科それぞれに定められた期間に一定の臨床研修を修了し、専門医試験に合格して資格を取った医師にのみ、診療報酬を請求する資格が授与されるのだ。
日本の医療界には、このような縛りが存在しないから、医師免許を持っているだけという未熟な医師が世に放たれて、無辜の患者を手術するという事態が、放置されたままになっている。
ギャラント外科医長は、小学四年生にして外科医を志望し、その目的のために医学部に進学卒業したわたしを、2ヶ月間真剣に、外科医にするべく仕込んでくれた。この2ヶ月がなかったら、外科医以外の途に進んで、違った人生展開になっていたかもしれない。
インターンから30年を過ぎた頃、その後のジムの消息を耳にした。海軍軍医を退役した彼は、米国某所で悠々自適の暮らしをしているという。できれば一度会ってみたいと思っているうちに15年の年月が過ぎて、いまはどうしているか判らない。
人生はままならぬように出来ている。

シミュレーションの成果

実際、婦長に渡された道具をつかって、毎夜シーツを相手に手術のシミュレーションを繰り返して1週間もすると、道具が手につくようになってくる。
糸結びも延べ1万回を超えたあたりで、3回結ぶのに1秒とかからないようにってくる。手術室に入って実際の手術のアシスタントをしながら、外科医の道具の使い方をみて「なるほど、この状況では持針器をこのように動かすのか」などと納得するのもこの頃だ。
実地訓練の成果がこのレベルに達すると、手術が断然面白くなる。指導医に命じられる前に、相手の動きを読んで先回りして手出しができると、お褒めの言葉をいただける。
「ひとつやってみろ」と手技の易しい手術をさせてもらえる。外科の根本は実学実務にあって、実力がものを言う世界なのだ。

手術はタイガーのゴルフと同じ?

インターンから40余年の年月が流れた。わたしはアイオワ大学の外科教授になり、アメリカンの医学生や外科志望の研修医を数多く育ててきた。
「手術はひと口に言うと、タイガーウッズのゴルフのようなものだ」
小児外科に回ってくる医学生や研修医に最初にいって聞かせる言葉がこれだ。そのココロは
「テレビのゴルフ中継でタイガーのプレーを見ていると、誰でも簡単にバーディが取れるように見えるだろう。それと同じで、手術室でわたしの背中から眺めていると、大きな小児ガンでも簡単に切除できるように思える。だが実際自分でやってみると、ゴルフも手術も『見る』と『する』では大違いだと判るだろう」
インターン時代、毎朝編み紐に火をつけて燃やしたギャラント医長と、教える立場になった自分の姿が、気持の中で重なる。医者の駆け出しの頃、アメリカンの師匠から教わった外科の知技心を、いま同じアメリカンの次世代外科医に返還する。この廻り合わせを思うたび、インターン時代のあれこれが鮮明に甦る。

(2008年3月1日付 イーストウエストジャーナル紙)