政治と宗教の話題はパーティの禁忌

「引退したので来年ワイフと一緒に日本を訪問する予定です。戦争が終った年に二十歳の米国陸軍兵士として日本に駐留して以来、日本訪問は二度目です。今回是非ヒロシマに寄ってみたいのですが、原子爆弾の被爆を受けた広島の人たちがアメリカ人旅行者にどんな思いを持っているか想像できません。ヒロシマの人たちの本音を教えてくれませんか?」この発言で、和やかなレセプションの空気が一瞬にして固まってしまった。

二十年前アイオワで中西部の小児外科医の集いを主催したとき、パーティ会場で他州大学の高名な外科教授から真顔でこんな質問を受け返答に困った。とっさに
「そういえば、ヒロシマではアメリカ人観光客がいまでも毎年10人ばかり行方不明になっているという噂ですぞ。いかれたら用心めされよ」
きついブラックジョークで場をつくろいかけたが、それをマジに受けた教授は
「やっぱりそうですか」と肩を落とす。
「ちょっと待って下さいよ。まさか本気で信じられたワケではないでしょ」
一呼吸おいて
「ごめんなさい。悪い冗談です。忘れてください。ヒロシマの人たちは被爆者の怨念を克服し、苦難の体験を平和達成への転機として、不戦の誓いとともに世界平和を祈願しています。ヒロシマに着かれたらお判りでしょうが、原爆を投したアメリカを非難したり恨んだりの言葉など、耳にされる機会は一度としてないでしょう」
すると教授の顔にありありと困惑の表情がうかぶ。
「それは人間の域を超えた寛容さです。人類の歴史を振り返ってみると、争いごとでは起因に関係なく被害者が加害者に復讐を果たすのが常ゆえ戦争の連鎖が断たれずに今に至っています。ヒロシマの人たちの底なしの寛大さ、それから発展した真摯な平和運動の展開は、それが本当ならこれまでの史観を変えなければなりません」
「ま、そこまで大仰に言われるほどのことはないでしょう。ヒロシマ訪問を楽しんでいらっしゃい」
ようやく重い会話が出口をみつけた。

この出会いで、パーティでは政治と宗教の話題は絶対にご法度という教訓がよく判った。
いま日米は友好国である。だが互いが敵同士として戦った第二次世界大戦に触れると、双方違う思いがタイムトンネルにのって当時に戻ってしまうのだ。
アメリカンの心情を代弁すると、当時の父や兄たちはナチと日本軍部相手の聖戦に命を捧げ勝利した。戦争に聖戦はないのは判っていても無理にも聖戦と思い込まねば、亡くなった父兄を弔えない。
その聖戦で負かした相手に詫びるいわれはない。このアメリカンに共通の原理原則を曲げては、命を捧げた父兄の霊は浮かばれない。大統領といえどもこの原理原則に逆らうと失脚の可能性大である。

だから大統領はヒロシマを訪れない。ヒロシマでオリンピックを開くと、選手も応援団が複雑な気持ちで困惑する国もでてくる。だからヒロシマでオリンピックを開催するのは難しい。
政治と宗教を禁忌とするのは、パーティもオリンピックも同じなのだ。