「ヨコスカ海軍病院インターン物語」(1)
USネービーとハイネッケン

テラスの椅子にすわって沖を眺めると、岸の砂浜からエメラルド色をした内海が沖にむかってひろがる。その先1キロほど離れたところにあるさんご礁が、外洋からのうねりを砕いて白波を立てている。それから先は暗く冷たい深海の大海原だ。

水平線上に灰色の軍艦が隊列を組んで、西から東へと進んでいくのが見える。双眼鏡をあてた眼に、巨大な原子力空母、イージス艦、ヘリコプター空母の姿がとびこんでくる。太平洋を取り巻く各国の海軍は、2年に1度ハワイ沖に集結し、作戦名をリムパックと呼ぶ合同演習を行う。いまがちょうどその時期なのだ。

眼を凝らすと、オアフ島東海岸のカネオヘにある海兵隊基地の方角から飛んできた大型ヘリが空母に着艦している様子がみてとれる。各艦の艦尾にはためく国旗までは遠すぎて識別できないが、この国際合同演習には、はるばるニッポンから遠洋航海してきた自衛艦隊も参加している。自衛艦がハワイ沖で新型対空迎撃ミサイルの発射訓練をする予定という新聞の報道に、ミサイルが打ち出されるのはいまかいまかと目を凝らししばらく見ていたが、結局なにごとも起こらずがっかりした。

沖合に展開する艦隊は、人間の知恵と技術と費用の極限をきわめた超高性能の破壊兵器を満載している。ハイテクノロジーの究極の産物である現代の飛び道具は、正確かつ強力で、一度狙いをさだめたら相手の息の根をとめるまで追い続ける。人間同士が対面する戦いなら、気まぐれに情けをかけて相手を容赦することもあろう。

ところがレーダーに敵が捕捉されると間髪をおかず、ミサイルや砲弾が自動的に発射される自動制御システムには、人の感情が立ち入る余地がない。着弾により目標が破壊されたらミッションは成功と記録するのみ。その結果、恐怖におののき、傷つき、血を流し、苦しむ人の阿鼻叫喚や、海の藻屑と消える生命にはまったく頓着しない。


ハイネッケンビール

さきほどからテーブルのうえに載ったままのミドリ色をしたハイネッケンビールのボトルがびっしょり汗をかいている。すぐそのむこうで、ブーゲンビリアの赤い花がオレンジ色の雲を背景に、海からの微風に揺れている。冷たいビールをビンからじかにゴクリと咽喉奥に流し込む。旨い。
このミドリ色をしたボトルを手に沖を往く艦隊を眺めていると、40年前の想い出が鮮やかに蘇ってくるのだ。

1963年、医学部を卒業するとすぐ、ヨコスカの米軍基地内にある海軍病院のインターンとして1年間勤務した。ヨコスカ海軍病院インターンのポジションには、全国の医学部から100名余りの卒業生が応募し、学科の筆記試験と英会話の面接試験をパスした16名が院内住み込みのインターン生に選ばれた。
当時、ニッポンの病院にもインターン制度はあったが、月給が百円もでない無給だったから、この制度はまさに有名無実であった。こんな理不尽が永く続くわけがないとおもっていたら、何年かのちにインターン制度は完全に崩壊消滅した。
制度の是非よりも、予算のあるなしの都合で物事をきめるところがニッポンの役所である。インターン制度は、要不要の議論の前に、予算がないという理由で廃止になった。数十年を経過したのち、つい最近になって国が国家予算から月給30万円を出すようになり、医師の卒後研修制度は復活した。

米国海軍病院インターンのサラリーは一ヶ月50ドル。当時ののレートは1ドルが360円だったから、50ドルを日本円に直すと、毎月1万8千円もらえるのが魅力だった。ニッポンが高度経済成長の真っ只中にあった昭和38年、「月給1万6千8百円」という唄が流行った頃のことである。
病院の一角にインターンズクオーターズ(IQ)と呼ぶ一部屋2人、バス、トイレ、ロビー、学習室などが完備したインターン専用の宿舎が設けられており、ここで1年間寝泊りした。インターンの分際でありながら、宿舎の掃除、洗濯、ベッドメイクは全部専属のメイドがやってくれた。

当時も今も、ニッポンの病院で研修医の宿舎にメイドをつけて、部屋の掃除、下着やシャツの洗濯、ベッドメイクやリネンサービスなどをしてくれる病院は、ほとんど皆無である。わたしの知る限りでは、オキナワの中部病院研修医宿舎のみである。

1963年当時から、アメリカ本土の一般病院では、IQでのメイドサービスは当たり前のことだった。
のちに小児外科の研修医として1年を過ごしたボストンの小児病院でも、宿舎の清掃やリネンサービスは当然のごとく行われていた。或る日、そのワケを尋ねてみると、師と仰ぐ小児外科のF教授は極めて明快な答えをくれた。
「医療行為は医師の資格を持つものだけに許される特別な業務なのだ。その大事な仕事をする特別資格を持っている君たちに、部屋の掃除やベッドメイクのような雑事をさせてはもったいない。医師の1分1秒はすべて病人の治療に費やされるべき大事な時間なのだ。その貴重な時間を無駄遣いしてどうする。君達が医師になるまでには、1人につき100万ドル(1億円)にものぼる莫大な社会資本が費やされているのだ。そんな君たちに掃除やベッドメイクをさせると、出資者たる社会に対して申し訳がたたぬと思わないかね」
理路整然と言い含められるとなるほどと納得する。ニッポンの医療界には、若い医師にこうした経営論理を教えてくれる人がいない。医者を育てる基本姿勢に日米ではこれほどの違いがあるのだ。

海軍病院のインターンは、食事は院内の将校食堂で摂るよう命ぜられた。
各国海軍では将校と水兵の生活空間には明確な一線を引いて区別する伝統がある。大航海時代、大海原を航海中、水兵たちが数を頼んで引き起こした反乱に打つ手を欠いた上官の無念がそうさせた。以来海軍艦船の艦内では、将校と水兵の居住区の間には、堅牢強固な隔壁を設けて両者を隔離する伝統が生れた。
この習慣は陸上にある海軍病院でも生きていて、階級の違う将校と水兵が同じ食堂で肩をならべて食事をすることを禁じているという。
アメリカでは、この仕切りはUSネービーのみならず、あちこちの団体でみられる。アイオワ大学病院でも10年ほど前までは教授専用のダイニングルームが存在した。外部からの訪問者や医学生、研修医たちが使うカフェテリアでは、プラスチックのナイフ、フォークに紙ナプキン、トレイにとったランチがおわると、残骸をくず入れにすててトレイを戻さねばならなかった。
ところが、教授専用のダイニングルームでは、テーブルクロスのかかったテーブルに、本格的な瀬戸物の食器や銀のナイフとフォーク、リネンのナプキンが並び、専任ウエイトレスがサービスをする特別メニューの昼食がでた。
わたしは外科教授だから、勿論、この専用ダイニングルームでランチを食べる資格があった。だが外科医はつねに忙しい。内科や小児科の教授のように、ランチタイムを悠々とエンジョイしてはいられない。特別のランチ会議でもないかぎり、手術室のカフェテリアで医学生や研修医とともに、分秒を惜しみながらエネルギーの源を呑み込む毎日をすごしてきた。折角の特別待遇の機会を毎日捨て続けたのだから、思い返してみると、惜しいことをしたものだ。

何事につけ平等を至上とするニッポン社会の団体で、平のスタッフと要職にある人間とのあいだに、食事の場所やメニューで差をつけたら、国を挙げての大騒ぎになるだろう。だが、人にはそれぞれの能力、責任、貢献度によって、待遇に違いはあって当然だ。それが自然というものだ。この区別をはっきりさせているアメリカでは、団体に何事か重大な不都合が生じた場合、要職にある責任者がすべての責任を取るかわりに、日ごろは特別待遇を受けている。責任と権限、責務とインセンティブを上手く均衡する仕組みが作動しているのだ。
ニッポンでは、昨今、他人様から預かった年金を浪費した役人や、銀行や会社を破滅に導いた役員が責任を取って辞任したというハナシをめったに聞かない。甘い汁を吸うときだけは要職の職権を使えるだけ振り回し、不都合が暴露されると責任は全体に溶かし込んで、当の本人が連体責任の淵深く沈んで浮かびあがらぬような、巧妙な仕組みが造られているからだ。


海軍病院インターンの暮らし

ハナシを40年まえの海軍病院にもどそう。将校食堂では、入り口で入場料ともいうべきカネをはらってはいると、キッチンから出てくるものはいくらお替りしてもよかった。確かランチが40セント、ディナーは55セントぐらいだったと記憶する。インターン生たちは食べ盛りの25、6歳だったから、なかには血のしたたるステーキを5 枚もお替りして平らげるものもいた。
基地のなかには、病院のほかに、学校、劇場、教会、銀行、スーパーマーケット、野球場などがあり、まさにリトルアメリカであった。まだ戦後を引きずっていたニッポンの暮らしから、大学卒業と同時にこのリトルアメリカに抛りこまれると、これがハナシにきいたアメリカ社会だとおもってしまう。英語で会話するアメリカ人というだけで、自分より年下の衛生兵が大層なオトナにみえ、研修医を終えたばかりの若い軍医が大先輩に思えるのだった。

これは、日本が戦争に負けて以来、ニッポン人の心にながく尾を引いてきたアメリカンコンプレックス以外のなにものでもない。戦後の焼け跡からようやく立ち上がり、先をいくアメリカに追いつき追い越せが合言葉だった時代が、こんなコンプレックスを産んだ。 米国海軍の基地でリトルアメリカを経験することになった大学出たての青二才インターン生の目には、当時のニッポンのすべてが遅れてみえた。

しかし、アメリカ本土の大学で15年間、アメリカンの若者を教育する立場を経験した今、インターンだった当時を思い返してみると、海外の基地に住む人間が形成する小社会は、アメリカ本土社会を反映するものでないことがよく判る。沖縄の基地周辺に住むニッポン人に対して、不届きな犯罪を犯す米軍将兵の非行をかばう気はまったくない。だが、別の視点からみると、非行を犯す米兵たちは、ニッポンのハタチ前後の若造とおなじく、余りにも若く、若さゆえに愚かなのだ。

病院の敷地内は、禁酒区域である。病院の一角にあるインターン宿舎内での飲酒は、勿論、ご法度である。

仕事の終わったインターンが酒を飲みたくなれば、基地のオフィサーズクラブにいって酒を飲むことが許されていた。米軍の規則によれば、4 年制大学の卒業生が軍に入ると、身分は最低でも准尉だから、全員が将校になる。われわれニッポン人のインターンは医学部卒業生だから、当然、米国海軍将校に準じた待遇をうける。身分証を提示さえすれば、基地内では将校クラブは勿論、将校オンリーのテニスクラブ、ゴルフクラブ、ヨットクラブなどに出入りできた。

将校クラブに出入りする者は、ネクタイにジャケット着用が求められた。クラブ内では大声で談笑したり、酒に酔ってクダまいたりするのはご法度。紳士らしからぬ振る舞いをしてはならぬという決まりを聞かされていた。違反すると警備の海兵隊員につまみ出されると脅された。実際、泥酔した制服の将校が、海兵隊員二人に両方から腕をとられてつまみ出される光景をみたことがある。

だから、はじめて将校クラブで食事をしたときには、緊張のあまりコチコチになってしまい、何を食べたか全く記憶にない。覚えているのは、初めてのディナーの席で飲んだビールがハイネッケンであったことだけだ。

当時の日本は、まだ外国製品の輸入がいまのように自由でなかったから、輸入したタバコを洋モク、ウイスキーは、ジョニ黒だのジョニ赤と称して珍重された。オランダ生まれのハイネッケンビールは、巷のバーやスタンドで飲むことは不可能だった。そんな時代背景のなかで、医学部を出たばかりで外国かぶれの青二才がグリーンのボトルにはいったオランダのビールにのぼせ上がったのもむべなるかな。

或る日尋ねてきた従兄弟を将校クラブに案内し、
「これがハイネッケンというオランダのビールや。1合入りのミドリ色した小瓶がハイカラやろ。オレはいつもこれを飲んでるねん。旨いで」
得意の絶頂で解説したのが、昨日のことのようだ。
ネービーとハイネッケンが組み合わさると、愚かかりしあの頃のことが、ほろ苦く思い出される。

(イーストウエストジャーナル 2008年1月1日)

※「ヨコスカ米国海軍病院インターン物語」は、2008年に米国ハワイ州ホノルルの日系紙“イーストウエストジャーナル”に、16回にわたって連載した記事を転載しております。