外科医不足:解決策はあるの?

「外科医不足がこのまま進むと、将来ガンや心臓病の手術患者は台湾や韓国へ行って手術を受けなあかんような時代が来るかもしれんと言うハナシを聞きました。センセ、ホンマでっしゃろか?」
「外科医不足問題を放置したまま先送りすると、本当にそんな事態が起きるかもしれませんよ」
「病人が外国へいって手術を受けなアカンて、殺生やおまへんか。アメリカでもこんな問題はあるんでっか?センセ、何とかしなはれ。」

大阪のオッチャンはどこでかで聞きこんだ妙な噂を種に、無情にも、わが老体をけしかけ鞭打つのだ。

「アメリカでは、医師は医大卒業後と同時に各科の卒後専門学校に入って、各科毎に決められた年月の研修を終え、はじめてその科の診療活動が許されるという全国統一の仕組みが出来ております。だから特定の科の医師が足りないという事態は生じていません。一時期、家庭医学科の医師になり手がなかったのですが、クリントン大統領のときの政府が、家庭医の紹介なしに他の専門医に直接診てもらっても健康保険はきかないという規則を設けたところ、いまでは医大卒業生の50%近くが家庭医を志望するようになりました」
「ふーん、やれば出来るもんでんな」
「いまアメリカには、各科の卒後専門学校が約2,000校あります。その定員充足率はほぼ100%ですから、社会への各科医師供給は安定しいます。日本のように各科医師志望者が年によって増減することはないのです」
「主要各科の専門学校の定員数は、内科医7,500名、家庭医学科医3,300名、小児科医2,700名、外科医1,500名、産科医1,200名、麻酔科医1,300名、救急医療科医1,400名と決っており、同数の医師が毎年誕生しております」
「ニッポンではなんでその定員がきめられまへんのや?」
「アメリカの医師たちは100年の紆余曲折を経てこの仕組み造りました。ニッポンの医師には、目先の損得に囚われず、将来を見据えて優れた制度を採択する勇気が求められています」
「ところで、センセは卒後専門学校ていいはりますけど、これは一体なんでんねん?」
「American College of Surgeons やPhysiciansと呼ばれる米国外科学会や内科学会は、実は卒後専門学校なのです。専門学校を修了したドクターが学会員になれる仕組みなのです」
「学会に入るのに卒後専門学校を出なあかんのでっか。アメリカのお医者はんは、医大卒業の資格だけでは医者できまへんのか」
「医師免許があれば患者の診察はできますが、卒後専門学校修了の資格がなければ、診療報酬を請求する資格がありません。たとえ請求しても、支払いを拒絶されてしまいますから、資格のない医師は生計が立たないのです」
「うまいこと仕組んでありまんな」
「この方法で各科の医師数をコントロールしているから、アメリカでは特定の科の医師不足は起こらないのです」

外科医になり手がいない!

「いま医学生たちは外科医になりたがらんのやそうでんな。このままやと将来ニッポンには手術をするお医者はんがおらんようになるというハナシをききました。ほんまでっか」

深刻な顔はいつもの大阪のオッチャンらしくない。

「そうなる可能性はありますよ。大阪の隣のH県は人口500万超ですが、国立と私立の医学部があります。毎年200人ほどの卒業生は2年の卒後研修を終えたあとで、内科や外科など本人が志望する科を選びますが、今年両大学あわせても、外科を選んだ若い医師たちはわずか7人だったそうです」

「500万に7人ではシロウト考えでも足りまへんな。それほど外科医はオモロないんでか?センセも外科医を永年やってきはりましたが、ホンマは後悔してはんのと違いますか?」

「外科医は人の命を救うため蓄えた知技の限りを尽くして病気と闘う素晴らしい職業です。外科医になると決めた10歳から今までの60年間、一度も後悔したことはありませんよ」

「ほな、何で若い人が外科を敬遠しますねん?」

「1人前になるまでの修業が苦しく長く、期間が明確でない、どの病院でも外科医不足なので休みがとれない、緊急手術は日夜を問わないので不規則な生活を強いられる、手術結果は外科医の技量で是非が決まるが、ニッポンの制度では相当の個人的報酬がえられない、そのくせ結果責任は外科医個人に重くのしかかる、それでサラリーは何等級何号俸の固定給で他科の医師と変わらないこと、などが敬遠される要因です」

「センセのハナシきいてると、外科医になってええことは一つもありまへんな」

「最近制度が変わって、手術結果を不満に思う患者や家族が警察に駆け込むと、外科医は業務上過失傷害の被疑者として取り調べられるようになりました。これが追い討ちをかけて外科に嫌気がさして止める人が続出し、それをみて医学生が外科を敬遠するようになってきたのです」

「日本の医療の将来はどないなりますねん。心配しまっせ」

「わたしも危惧しています」

「アメリカでも、外科医が警察によばれて手術結果を問われることはおますのか?」

「ありません。患者と医師の診療契約は、事故や失敗や過失の可能性をすべて含めた個人間の契約ですから、結果如何によって司直が介入する余地はないのです。外科医は合法的に他人様に傷害を加えることを許されている職業です。結果によって刑事罰を受ける可能性があるなら、保身のため外科医は必要な手術、困難な手術を回避する事態が生じます。回避は外科医の内なる気持ちが許しません。だから外科医が外科をやめ、医学生が外科を敬遠するようになったのです」

「どないしまんねん?センセ、なんとかならんのですか」

死の定義

日本では永年懸案だった臓器移植法が改正され、親権者の合意があれば幼い脳死者も臓器提供者になることが可能になった。今回の法案成立の過程で「臓器提供者にかぎり脳死を死と認める」という議論があったように記憶する。もし記憶が正確であれば、脳死は条件つきの死であり、死の定義にダブルタンダードを生じることになる。今日のように延命テクノロジーが発達した社会では、どこまでが生でどこからが死かという議論は異論続出でまとまりがつかない。

米国各州では州法に死の定義が定められている。アイオワ州法は死の定義を「二人の医師が別個に死亡と確認した人は死者と認める」と定めている。呼吸停止、心拍動停止、瞳孔散大、意識喪失、脳波の所見など技術的所見の詳細については一切触れていない。所見があろうとかなろうと、二人の医師が死と認めたら死なのだ。言い換えるなら、法律を作った州議会は「技術的な詳細はわれわれが定める範疇にない。医師たちが作ればよい」と医者に丸投げしたも同然だ。ありえないことだが、医師二人が共謀すれば、元気でぴんぴんしている人を死亡したことにもできるのだ。

アイオワ大学病院外科に赴任して間もなく脳死判定委員を拝命した。大学病院の定めた基準に従い数名の脳死患者を死者と判定したが、選ばれたもう一人の内科教授の判定との間に齟齬は生じなかった。だが生まれつき脳を欠く無脳児の死の判定には困った事態が生じた。大学病院の死の判定基準では「脳波の消失」が必須なのだが、脳のない無脳児は生まれる前から脳波を欠いているので、この基準に合わないのだ。誕生直後に人工呼吸を開始すれば、脳はなくても心臓はじめ他の臓器は正常に機能する。

はたと困った関係者一同、緊急会議を開いて善後策を練った。その会議にアイオワ州法が持ち出され、2名の医師の判定が合致すれば死と認めてよいと知ったのだった。人知には限界があり、すべての条件を満たす細かい技術的な定義は、かえって不都合を生むことがある。この例で、法はおおまかな原理原則を定めればそれでよいと強く実感した。