高卒50周年記念クラス会

A高校第8回卒業50周年を祝うクラス会に出席するためホノルルから飛んできた。

50年前、マメタンという英単語集に目を通しながら通学した道の両脇は広々した畑で、校門の前には大きな池があった。畑の向こうには海峡越しに島の灯台が見えた。今や当時の牧歌的風景は完全に消失し、無数の住宅がひしめいている。

式典会場の前庭で軟らかい日差しを浴びながら集う友に、半世紀まえの姿はない。表情には生きてきた節目の数ほどの皺が刻み込まれているが、懐かしい面影が残っている。交わす言葉が引き金となって、半世紀もの間圧縮保存されてきた想い出の数々が、解きほぐされ湧き出てくる。人の記憶はいつ想っても神秘的だ。

式典に続く懇親会で挨拶に立った元生徒会長N君のハナシが興味深かった。

ボクらが入学した昭和28年というとサンフランシスコで講和条約がむすばれ、ニッポンがようやく独立を取戻した年だ。その数年前、当時ニッポンの総てを支配していたGHQから、全高校は教師の半数および校長を他校と交換せよという絶対命令が下された。各校にはびこる旧弊を一掃するこの荒療治の試みに、ボクらの学年がテストモデルにされたという。この半世紀前の真実は、Nのハナシで初めて知った。

教師の半分が入れ替わった高校に就任した新校長は、存分にガバナビリティを発揮し、新しい企画を実行に移した。

思い起こせば幾つか心あたりがある。それまで絶対視されてきた男女半々の共学クラスを廃止、生徒各自の将来プランに従い家庭、就職、進学別のクラスが生まれた。日本の将来は科学立国にあるという校長の信念に従い、理科系進学クラスがつくられ、Nや私はこのクラスに属した。

いま、混乱の最中で模索するニッポン教育界には荒療治が要る。思い切ってGHQがとったこの策を実施してみたらどうだ。民間校長がやめたりせずに済むのではないか。

(出典: デイリースポーツ)

日米大学人の違い

「講師のアメリカンドクターたちと接して感じたことですが、男性も女性も年齢は40を出たばかりなのに、知性、気迫、自信、気配りが講義内容や発言のそこここに溢れていて、熟したリーダーシップが感じられます。ニッポンの同年配の大学人たちと比べると、悔しいですが、大人と子どもほどの差があります。この違いは一体何処から来ているのでしょう」

西南学院大学の宮原哲教授が慨嘆なさる。

「そんなに褒められると、かれらを育てたわたしは照れてしまいます」

先月、ニッポンの研修指導医を対象に「研修医をいかに育てるか」というセミナーをホノルルで開いた。講師にはアイオワ大学医学部の教授、助教授あわせて8名が駆けつけてくれた。全教程を通じ、講義も質疑応答もすべて英語だから受講生は堪らない。そこで中1日、オールニッポン語の“息抜きの日”をつくり、コミュニケーションが専門の宮原教授を招いて、「医療現場の人間関係」と題する特別講演をしてもらった。かつて米国東部の大学で教鞭をとり、日米の大学事情に通じた宮原さんの指摘する日米大学人の違いには、いささか思い当たる背景がある。

「なる」文化の国ニッポンでは、医学部教授に「なる」ことに価値がある。教授は学内外で、教職の枠を超えた権力をもち、医療界に影響力を持つ。一旦就任すると、無能と判っても罷免される心配はない。

アメリカでは、教授に「なる」ことよりも、なったあと何が「できる」か、に重きを置く。医学部教授は、患者の治療内容、医学生や研修医の教育能力を継続的にモニター評価され、それに合格し続けなければ、淘汰される。この厳しい職場環境を耐え抜くためには、プロとしての知技を支える豊かな教養が要る。医学だけの専門バカでは勤まりきらない。日米大学人の違いは、貯えた教養量の違いにあると視た。

(出典: デイリースポーツ)

傍若無人のニッポン人ゴルファー

ホノルルに移るまえの下見で、ゴルフコースがクルマで10分以内にあるのを確かめ、いまの住まいを我が家と決めた。そのハワイカイゴルフゴルフコースで毎週火曜日、引退したビジネスマンのジョンやビルたちとラウンドを重ねて3年になる。3年も通い詰めるとフロントのスタッフは顔見知り。予約が一杯でも、前後のティータイムに隙間を空けて、“ドクターキムラスペシャル”と呼ぶ特別スタート時間を創造してくれる。

或る日いつものようにプレーしていると、「前の連中はプレーが遅い。多分初心者でゴルフのマナーを知らないんだよ。誰か行って教えてやらないと・・・」

ジョンは連中をニッポン人とみて、暗に私をけしかる。連中の前2ホールは無人の空き家。振りむくとカート4台が渋滞し、2組8人が険しい眼差しで腕組みしている。

渦中の若いニッポン人ゴルファーたちは、二人で1台のカートをフェアウイエイの真ん中に停め、それぞれがまず手ぶらでボールの側まで行き、クラブの選択をきめるとカートまで引き返し、クラブを手にして再びボールに歩み寄るという愚かな動きをしている。自分で状況判断ができないのは、日ごろ、世間や、親や、キャディに甘えているからだ。

セルフプレーのゴルフでは、プレーを効率よく進行するために、プレーヤー各自の判断が必須だ。どうしても遅れる場合には、潔く後のグループにパスさせる。

若者たちのグループに近寄って、「ちょっとあんたら、えらい遅れてまっせ。さっさとプレーするか、うしろの組をパスさせるか、どっちかにしなはれや」と言ってやった。礼の一言も返さずシカトを決めこむ無礼に、無性に腹が立つ。「他人の迷惑が判らぬアホども、我さえよければよいという悪習はニッポンに残して、出直して来い」と口に出しかけてやめた。ゴルファーは紳士たらねばならない。

(出典: デイリースポーツ)

鯨の季節

現役の外科医だった頃には、7時執刀の手術に間に合うように、毎日5時半に起きていた。4年まえに引退して以来、目覚めたときが起きる時間になってしまった。おもえば怠け者になったものだが、何十年間もしっかり働いて来たのだから、ま、いいか、と自分を甘やかす。こんな勝手が許されるのは、引退人間の特典だ。

8時過ぎに起きて、海に面したテラスのテーブルで朝食を摂る。メニューの定番は熱いコナコーヒー、オレンジジュース、トースト、それにハーフカットのパパイアだ。歳とともに卵とベーコンはメニューから消えた。ハワイで年中収穫できるパパイアは、青空市場で子どもの頭ほどのが、ひとつ60セントで売られている。このパパイアも、8月から9月にかけては、旬のマンゴーと交代する。

朝凪で波静かな海面に目をやると、ところどころで白い噴水が2、3メートルの高さに吹き上がる。ハナウマベイのあるココヘッドの岬を西に迂回し、ダイヤモンドヘッドの方角に向かう鯨の群れだ。さらに目を凝らすと、白黒の巨体が穏やかな海面を突き破って宙に舞い、しぶきを上げながら海に沈む。この眺めは壮大だ。双眼鏡で眺めると、体表を縦に走る縞の一本いっぽんが見てとれる。

ハワイでは12月から5月までの期間を「鯨の季節」と呼んでいる。毎年11月になると、4千頭を超える鯨が、寒いアラスカの海からの長旅を終えて、ハワイの近海に到着する。暖かいハワイの海に落ち着くと、子どもを産んで子育てに専念する。幾千キロを迷うこなくハワイにたどりつくには、体内によほど優れた衛星ナビが仕組んであるのだろう。5月になると再び北に向う長旅をし、アラスカの海に戻っていく。

自然の摂理とはいえ、暖かく安全な海での出産子育てのために、何千キロの移動をいとわぬ鯨に限りない愛しさを覚える。想いを人間に転じると、文明の陰に置き去りにしたものは多い。

(出典: デイリースポーツ)

メンターシップ

先週、ニッポン各地の病院で研修医を指導しているドクター35人にホノルルまで出張ってもらい、「研修医をいかに育てるか」と題するセミナーを主宰した。講師陣には、わたしの元同僚で現在アイオワ大学病院の各科研修を仕切っている研修指導の専門家8名を招いた。日本の医師研修制度は2年前に始まったばかりで試行錯誤を続けている。卒後研修90余年の歴史をもつ米国から学ぶことは多い。

講義に出てきたメンターシップという言葉の意味が判らない、解説してくれというリクエストを受講生から受けた。“Mentorship”と綴る言葉の語源はギリシャ神話のオデッセイの助言者で、その子の教育を託されたMentorに発する。「メンターシップは、古くから芸術や音楽など広い分野に使われてきた“師匠(メンター)と弟子の関係”と思ってください。師匠は弟子と1対1の関係にあり、知技を伝承するばかりでなく、匠の哲学と全人格を弟子に注ぎ教えることをメンターシップと称するのです。そこが単なる教師と生徒の関係との違いです」
「なるほど」
「1例をあげましょう。わたしは30余年前ボストンの病院で小児外科研修を受けました。師匠のフィッシャー教授は、当時南部の名門大学から主任教授として招聘されていました。招きを受けるべきかボストンに留まるべきか悩んでいましたが、教授は最終的には、ボストンに留まると決断しました。手術した患者8千人のカルテが入ったファイルボックスを指しながら、医師としていままで診てきた患者を見捨てて栄誉に走ることは良心が許さない、と弟子のわたしに告白してくれました。この大事な一言を弟子に伝えることに、メンターシップの意義があるのです」
「いいお話ですね。アメリカの大学教育の奥深さを初めて知りました」

今、ニッポンの教育の場はメンターの器量を持つ人材を欠く。今度のセミナーは主宰してよかった。

(出典: デイリースポーツ)