地震で壊滅した玄界島の住宅の光景に続いて、体育館に収容された被災者の姿が、テレビの画面に映し出される。
「被災者の方々は、当分ここで暮らすことになるでしょう」というレポーターの報告を聞いて、無性に腹が立ってきた。
神戸、新潟と重なる大震災を経て、「被災者は体育館に収容」というマニュアルが出来上がったようだ。対策本部も役所だから前例に倣ったのだろう。だが、本当にそれでいいのか?
冷たく硬い床に座り、手足を伸ばせば見知らぬ隣人に届く。遮る衝立もない猫の額ほどの狭いスペースで、数枚の毛布と僅かな生活用品をあてがわれ、さあここで暮らせといわれてみよ。その惨めさ、哀れさを誰が知る。あまりの無情に大声で思い切り泣きたいが、すし詰めの館内で、ひと目を気にすれば、それもかなわぬ。まるで被災を罰せられているようで、気持ちは落ち込む一方だ。
災害対策の企画責任者は、自身が一度木の床の上で寝てみるとよい。「被災者は体育館に収容」というステレオタイプな発想が、どれほど非情か判るだろう。過去に引越しの際、家具の到着が間に合わず、板の間の床で寝たことがあるが、一睡も出来なかった。
今の日本には、被災者救済に必要な人、カネ、モノ、技術は全部揃っている。欠けているのは、知恵と器量とホンモノの思いやりだ。被災者がいま一番欲しいのは、プライバシー、風呂、温かい寝床だろう。これは、ホテルや旅館を借り上げれば、かなわぬ願いではない。全世界から集まる義援金には、この願いの実現に向けた賛意が、たっぷり含まれている筈だ。
アメリカ中西部の大水害時、クリントン大統領は現地に泊まりこんで、被災者救済を陣頭指揮した。国庫から低利長期返済のカネを貸し出し、その資金で被災者は生活を速やかに立て直した。この快挙をみて、税金を真面目に納める気持ちになったほどだ。日本でなぜ同じことが出来ない?
(出典: デイリースポーツ)