ドゥアー(Doer)

「いままで一緒にやってきて、ケンはホンモノのドゥアーだと判った。安心して小児外科を任せるから頼むよ」

私事でいささか面映いが、アイオワ大学で小児外科部長に任命されたとき、先代のボブソーパー教授から貰ったコメントだ。ドゥアーは文字通り、適切な判断を直ちに実行に移し全体を最善の結果にみちびく実務者という意味だ。外科医はすべからくドゥアーでないと務まらない。

米国の大学は、部長以上の人選時には全国紙に広告を出して広く一般から公募するのがコンプライアンスだ。幸い幾人かの候補者を退けて小児外科部長に任命されたが、「部長は担当する科の健全財政を維持する責任がある」と就任後に知らされた。着任直後の1年間は私の抜けた外科医のポジションは空席のままだったから、年に600例以上の手術を一人で引き受けざるを得なかった。部下の一人が退職したので半年間にわたって連日当直を余儀なくされもした。だが、それぐらいのことで音を上げてなるものか。平気な顔でやり通さねばアメリカ社会では生存できない。
当直外科医は、病院に10分以内に駆けつけられる範囲を出てはならないというのが規則だ。ゴルフをしていても、携帯が鳴ると中断して病院に駆けつけねばならぬ。だからカートには、いつでも抜けられるように、みんなと別れて一人乗りを常とした。
「スタッフの要求を全部受け入れていたら、科を仕切っていけなくなるぞ。ヒトの思いと科の存立を天秤にかけ二者択一の決断を迫られる時もある。そんな状況では、ためらうことなく科の存立に与するのが長たるものの義務だ。感情移入が過ぎると科は仕切れないと承知しろ」とボブは忠告してくれた。以来、重大な決断では「思い」を忘れることにした。

いまニッポンでテレビや新聞を見ていると、国防という国家にとって最重要課題が議論されている。人々の意見には「思う」という言葉があまりに多く使われる。国家の一大事にこんな情緒主導の議論で対処できるのかとアメリカンの思考は疑問を生む。いまのニッポンに必要なのは、ホンモノのドゥアー最高指導者なのでは?

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(2)
サイゴン発「空飛ぶ病院」定期便

「貴君はヨコスカ海軍病院の1963年インターン生に選ばれた。おめでとう。1963年3月15日07時00分、ヨコスカ米海軍基地正面ゲートに到着されたし。ヨコスカ米国海軍病院司令官」

憧れの米国海軍病院

100人の応募者の中から16人に選ばれたという朗報を受け取って間もなく、住んでいた街の近所の人から、何者かがわたしの身辺の聞き込みにきたと知らされた。不審におもいながらも調べるすべもない。
間もなくインターンの開始日がやってきた。広大なヨコスカ米国海軍基地の入り口に到着すると、ゲートを護る番兵の海兵隊員に何用かと問われた。司令官から届いた採用通知書を見せて、新人インターンであるむねを告げる。海兵隊員が病院に電話で連絡する様子が判る。基地の奥からピックアップにやってきた灰色のライトバンが病院の建物に横付けすると、ドライバーの水兵が集合場所の部屋までエスコートしてくれた。
前年秋の選抜試験は座間の陸軍キャンプだったので、ヨコスカを訪れたのは今度がはじめてだ。基地の広さにまずはびっくりした。

インターンの同期生は女性2人をふくめて全部で16名。出身校は東大が4人、日大が2人、あとは全国各医学部から一人ずつという配分だった。型どおりのオリエンテーションが済んで、割り当てられた2人一部屋のクオーターと呼ぶ居室に落ち着いた。これからの2週間は、3月末で海軍病院を去っていく先任インターンについて、仕事の要領を学ぶことになっている。新任インターンは前もって決められている先輩インターンとペアを組んで、2週間の短期間に可能な限りの知識と情報を詰め込まれるのだ。ペアを組んでくれた先任インターンのIさんは、優しい人柄で沢山のことを教えてもらった。

CIAの身元調査

クオーターのルームメートになった東大卒業生のU君は、同じ兵庫県出身で関西弁が通じる。
「採用通知がくるまえに、身元調べと称してうちの近所を嗅ぎまわった者がおるらしいんやけど、君にはそんなことはなかったか?」
「ああ、オレの実家でそんなことがあったというてたな」
一体だれがこんなことを?
これは、後日、海軍の情報担当官がCIAの仕業と説明してくれた。 アメリカ嫌いの友人に事情を話すと、
「CIAいうたらアメリカのスパイやないか。インターンかなんか知らんけど、スパイに身元調査までされて、米軍基地の病院みたいなところへよう行く気になったな」
と吐き捨てるようにいった。
米軍当局にしてみれば、医者とはいえ見知らぬ他国籍人間を機密がイッパイ詰まった海軍基地内に住み込ませるのだから、身元を厳しく調べるのは当然だろう。
それに先立つ3年まえの1960年には、日米安保改定反対デモが国中で渦巻いた。国会前で死者がでるほどの激しい反米デモに、国中の機能が停止した。そんな時代背景のなかで反米過激派の学生がインターンに姿をかえて基地に忍びこむのを阻止するためには、CIAによる身上調査は当然のことだと今なら理解できる。

2001年の初秋、米国で9/11テロ事件が発生して以来、市民生活を脅かすテロリズムに対抗するCIAやFBIなどの活動には、ニッポン国民からも多少は理解が得られるようになった。ところが1963年の日本の若者達の間では、アメリカだの米軍だと聞いただけでそのすべてを嫌悪し、否定するフリをするのがファッショナブルだった。丁度、東京オリンピックを次の年にひかえ高度経済成長が軌道にのり、その後長く続いた昭和元禄が胎動をはじめた年だった。

インターンの日課

ヨコスカ海軍病院インターンのユニフォームは、ワイシャツ、ズボンはもちろん、ベルトから靴にいたるまでオールホワイト。短く刈り込んだクルーカットに、黒のネクタイをきりっと締めて、胸にネームを刺繍した白衣をまとった姿は、我ながらカッコよかった。この姿に憧れてUSネービーのインターンに応募した者もいたと聞いた。
インターンの日課は多忙だ。16名を8名ずつの2組に分け、それぞれ左舷組、右舷組と呼んだ。勤務は2日48時間を、朝7時からあくる日の午後17時までの34時間ぶっ続けに勤務し、次の勤務が始まるまでの14時間が休息時間というシフトである。両弦二組を1日ずらせて回転させると、7時から17時までの時間帯は両弦16名全員で、17時以後翌朝の7時までの夜間は半舷の8名で、という勤務体制が出来上がる。この方式によって24時間、間断のない診療を継続することが可能だ。
平時の昭和38年に米軍基地の病院がなぜ24時間診療とおもわれようが、これにはワケがあるのだ。

サイゴン発「空飛ぶ病院」定期便

ベトナムではフランス軍がディエンビェンフーの戦いで敗退し撤退した。その後も継続する南北に分断されたベトナム人同胞間の紛争に、当時すでに米軍が関与していた。トナム戦争はトンキン湾で米国海軍の艦船が北ベトナム海軍の攻撃を受けたて始まったといわれているが、実際にはそれより大分前の1963年当時で5万人規模の米海兵隊が、すでに南ベトナム軍の軍事顧問と称して紛争に介入していた。米国の海兵隊は大統領の命令が下ると、直ちに紛争の地に飛び介入する使命をもっている。いまニッポンで紛糾しているオキナワの米国海兵隊普天間基地の移設問題を考える際、この海兵隊の持つ特命機能を第一義としない議論はすべて空論である。ニッポンの国防を担ってもらうためには、特命機能を発揮するに最も適した地理的位置、広さを提供するのが国家を預かるものの義務ではないのか。
米国海兵隊員は顧問とはいえ、前線に出れば弾にも当る。負傷した海兵隊員は連続テレビドラマ「MASH」に見るような前線病院で応急処置をうけたのち、後方の主幹病院にヘリで移送されて治療を受ける。その主幹病院でトリヤージとよぶ選別をうけたのち、高度医療が必要と判断された負傷兵が最終的に搬送されるのがヨコスカ基地にある米国海軍病院であった。
内部を「空飛ぶ病院」に改装したダグラスDC8は、負傷兵を満載し毎夕定刻にサイゴンを飛び立つ。7時間後の夜中過ぎには立川空軍基地に着陸する。ハンガーには巨大なトレーラーを「走る病院」に改装した軍用救急車が待ち構えていて、負傷兵を受け取る。全員の積み込みが終わると深夜のヨコスカ街道をひた走り、午前2時ごろ海軍病院に到着する。

当直インターン、真夜中の大仕事

当直インターンはこれからが大変。日中の激務で疲れた身体を休めていると、当番の衛生兵に起こされる。クオーターの中には非番のインターンも寝ているので、電話のベルで起こすわけにはいかぬ。クオーターのベッドサイドまで入り込んできた当直の衛生兵に揺り起こされ、ルームメートが目をさまさぬよう素早くユニフォームに着替えて負傷兵の待つ病棟にむかう。
当時も今も、アメリカの病院では、患者が入院すると直ちにインターンが病歴取得と診察をおこない、速やかに検査や治療に移るのが決まりだ。アメリカの病院は国、公、民、軍の区別なく、何時であろうと入院した病人は、直ちに治療を受ける権利を持つ。テレビの人気ドラマ「ER」を見るとその仕組みがよく描かれている。「いまは夜中だからとりあえず入院だけさせて、一応様子をみよう」などというニッポンの医療界独特の方便を見ることはない。
ベトナムから立川空軍基地経由で移送されてくる患者は、一晩に20人を超えることもあった。緊急手術は稀だったが、それでも入院と同時にインターンは診察し、診断に沿った治療計画を立ててカルテにすべての記録を記入し終えねばならぬ。

ワークアップ

入院時の診察は120項目に及ぶ質問から始まる。これが終わると、全身の視聴触打診を手順にしたがって進める。耳鏡で鼓膜を観察し、眼底鏡で眼底を見たあと、懐中電灯で咽喉を診る。心音と呼吸音を聴診し、腹部触診にうつる。知覚,触覚、痛覚、神経筋肉反射などの神経学的検査をおえたあと、直腸に指を入れて触診する。これら所見の正常異常にかかわらず、すべてをカルテに記入する。手抜きをして大事に至った場合には、インターン研修を終了させてもらえぬ可能性がある。インターンを終えなければ、医師免許をもらうこともできない。
この入院時の病歴、診察、治療プラン、指示をふくめた一連の仕事をワークアップと呼ぶ。ワークアップには、要領よくやったとしても、一人につき最低1時間はかかる。まして、英語に不慣れなインターン相手だからと手加減は一切してくれない海兵隊員を相手のワークアップだと、一人につき2時間はたっぷりかかるのだ。一晩のうちに20人もの患者が団体で入院すると、内科、外科合わせて4人の当直インターン全員が徹夜で頑張っても、仕事を朝まで持ち越すのが常だった。
手元にある当時の研修記録をみると、わたしは1年間に約600名のワークアップをしている。すなわち、600の心臓を聴診し、600の肛門に指を入れて直腸を探り、1200の枚の鼓膜と眼底を観察している。若い医者が同じ期間に同じ数の臨床経験を積むことの出来る病院は、当時の日本には存在しなかった。

産科が10月に多忙なワケ

秋に配属になった産婦人科ではふた月でお産を60回も経験した。「海軍病院で産婦人科やお産やなんて、冗談が過ぎまっせ」というなかれ。基地内はもちろん横浜の根岸キャンプあたりまで含めた周辺のリトルアメリカには、第7艦隊乗組員の家族が3万人ほど住んでいる。
クリスマス休暇になると艦隊勤務の乗組員は久し振りに陸にあがる。その日を待ちに待っていたカミさんと、ここぞとばかりにベビー造りに励むのだ。その結果、秋にはお産ブームとなってひと月に30人ものベビーが生れるというわけだ。亭主が作戦で沖に出ている数ヶ月の空閨を嘆く金髪碧眼のカミさんに言い寄られたのも、今となっては懐かしい想い出だ。

(2008年2月1日付 イーストウエストジャーナル紙)
2010年5月改定加筆

春まだ遠い大阪 

「近いうちにホノルルを発ってニッポンへ行く予定です」
3月末、大阪のオッチャンに電話で予定を報せた。
「センセは今きたらアカン。ここ当分はハワイに居はったほうがよろし。ニッポンにきたらハラの立つことばっかりで憤死しまっせ」と諌めてくれた。大阪に着いて一杯やりながら、「一体何にハラを立てているのです?」と尋ねてみる。
「政府でんがな。国に莫大な借金があるというのに税収の倍以上の予算を組んで、全国のこども一人に2万ナンボの金をばらまいてますねん。親さえニッポンに住んでたら、おるかおらんか判らん外国人の子どもにまでも支給するんでっせ。おまけに高校生の月謝もタダにするいうてますねん。若者を自立の出けん人間に育てて世間にひりだすようなもんやおまへんか。みーんな元はというとわしらが納めた税金でっせ。これが怒らずにおれまっかいな」
「ばら撒きのほどこしは、それでなくても自己中心的な現代ニッポン人の非自立性を増悪させる愚策です。勿論仮定のはなしですがアメリカでこんな“ばらまき愚策”が実施されたら、納税者による大統領のリコール運動は必至ですな」
「ニッポンは戦争で焼け野原になったあと、ワシら昭和の人間が必死に働いて豊かな国に作り上げたんやおまへんか。それが近いうちに崩壊し消滅するやろと賢い人が他人事みたいに予言してまっせ。テレビに出てくる総理の顔をみるたびに、巨額の脱税をしても言い訳さえ上手にすれば刑事罰から逃れられるんや、ニッポンは正直者がバカを見る国になってしもたと思うと、嫌悪感がつのって気分が滅入るんですわ」
脱税を善良な市民に対する敵対行為とみなすアメリカでは、数万円の脱税でも懲役刑。10億円だと懲役20年が相場だという。
こんどニッポンでは、飲むたびにみんなから悲観的展望と愚痴を聞かされる苦い酒。閉塞感はあっても、まだ楽しい酒だった去年の暮れと大違いだ。オッチャンが「いまきたらアカン」といってくれたワケがこれで判った。
ハワイに留まっていたほうが、憤死する心配もなくてよかったかな?