ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(10)
点滴ビンを揺すれ

「おい、キミ、この試料を検査室に持っていってUAをスタットでやってくれや。検査室は中央ローカをわたった向こう側だ」
いつもより比較的ヒマな夜、救急外来で先輩インターンに呼び止められ、ビーカーに入った生暖かい麦わら色の液体を手渡された。
この試料が尿だとは、つい2・3日まえまで学生だったわたしでも見ただけでわかる。
UAというのはアメリカの病院業界用語で、尿一般沈査試験のこと。
尿中に糖や蛋白は出ていないかを調べたあと、遠心分離機にかけて試験管の底にたまった固形成分をとりだし、ガラス板のうえにひきのばして、赤血球、白血球、上皮細胞などを観る。
スタットは「今すぐ」という意味だ。
テレビの「ER」という番組を英語バージョンで見ていると、スタットという言葉が頻繁に出て来る。それほどに、ER(救急外来)では「今すぐ」という処置が多い。
「ラジャー(了解)」
習い覚えたばかりのネービー業界用語でかっこよく応えて、ビーカーを手に検査室に小走りで向かった。

ジョブディスクリプション

競争率6倍という難関だったヨコスカ米国海軍病院インターン採用試験に合格し、胸膨らませて基地のゲートをくぐった1963年当時、尿検査のような簡単な検査は当直インターンの仕事だった。あれから半世紀近く経ったいまのアメリカの病院では、検査はすべて検査技師が受け持つ。スタッフであろうとインターンであろうと、ドクターは検査に一切手出しをしてはならぬという院内規約がある。
他部門の職域を侵してはならぬというきびしい職種仕分けが守られているのだ。こんな環境でちょっと気を利かせて、あるいは手助けとして、自分の領域以外の仕事に手を出すことは固く禁じられている。
場合によっては、検査技師資格のないドクターによって不適正な検査をされたことは患者の権利の侵害だと、医療訴訟を起こされる可能性を秘めている。訴訟になると病院は監督責任を問われ、敗訴すれば何億円という賠償を取られる。
ニッポンのある病院で、ドクターが患者からの予約電話の受け付け業務をしている現場を見たことがある。また、受診にきた患者のカルテを、保管庫から出し入れするのもみた。およそ医師としてのジョブとは程遠い雑用をさせられている診療現場をしばしば見かける。
手術が長引くと、勤務時間が終わったからといって帰宅するナースのかわりに、ドクターが手洗いして道具出し係のナースの仕事を受け持つ場面も経験したことがある。
それもこれも、病院経営のシロウトが責任者になると、こんな結果を招くという実例である。

思いもかけぬ訴訟理由

余談になるが、今の時代、どんなにつまらない理由で医療訴訟を起こされるか一例を紹介しよう。
カリフォルニアの小児病院で、そけいヘルニアのある学童が夏休みに小児外科医の手術を受けた。
ソケイヘルニアという病気を説明すると、終末胎児期まで腹腔の背中のほうに位置していた睾丸が、陰嚢ないにすべり出る際、腹腔内のすべての臓器を覆う腹膜という膜をひっぱって降りてくる。睾丸を覆う腹膜の袋は、その入口が自然に閉塞し、腹腔との連絡を絶って、陰嚢のなかで落ち着く。ところが袋の口が閉じないままで生まれるこどもが20人に1人ぐらいの割合でいるのだ。開いたままの袋のなかに、腸や卵巣などが入り込むとソケイ部がふくれてヘルニアが発見される。ヘルニアを放置すると不快感があり、袋の中にはまり込んだ臓器がしめつけられて痛い。学童期の集団生活がはじまると、他のこどもと比べて自分の異常に気づき、性格が内向的になるという不都合がある。
小児外科医の仕事の半分は、ソケイヘルニアの手術である。熟練した小児外科医の手にかかれば、20分ほどの手術で根治する病気である。
さて、こどものヘルニア手術は成功し、二度とヘルニア悩む心配はなくなった。それまで家にひきこもりがちだったこどもが、外で友だちと遊ぶようになり、両親をよろこばせた。
ところが、この子は新学期を迎えると、クラスでの成績ががくんと落ちてしまった。両親は学業成績の低下は、夏休の間にしたヘルニア手術のせいと信じて、手術した小児外科医を医療過誤で訴えた。わたしの推察では、ヘルニアから開放されたこの子どもは、トモダチと存分に遊べるようになり、その分だけ勉強しなくなった。その結果成績が下がったのだろう。何事も他人のせいするのがヒトの常。訴えられた小児外科医は「成績の低下が手術のせいではない」ことを立証する義務を負わされが、証明できる筈もなく敗訴した。
ニッポンの病院では、些細な不満を我慢できないで、医師やスタッフに対して暴力事件を起こす患者が急増している。
「困難な手術が上手く運んでよかった、患者も喜んでくれるだろうと秘かに満足感に浸っていると、『傷跡が汚いやないか。どうしてくれる。訴えたろか』とねじ込んでくる患者がいるのです。がっかりして、外科医を止めたくなりますよ」
友人の外科医は肩をおとす。
自分に関しては完璧主義をとおし、他人に対しては憐憫のかけらも持たぬ人間が増えている。日本でも理不尽な医療訴訟が急増するのは時間の問題だろう。
そのときになって、まわりに外科医がいなくなって困るのは誰かを考える時ではないのか。

検査試料は紅茶

ハナシを海軍病院に戻そう。
ビーカーの液体に検査用紙を浸してみると、糖分は強陽性だが蛋白はゼロ。遠心分離機にかけて、試験管の底にたまった沈査を顕微鏡で観察しようにも沈査がない。
これはおかしい。
検査を命じた先輩インターンに尿にしてはつじつまが会わぬと報告すると、
「その通り。渡した試料は、実は呑みかけの紅茶だったのだ」
といわれて唖然とした。
「去年、新入りのとき先輩にやられたことを、今年キミに申し送っただけだ。これは海軍病院の伝統だから悪くおもうなよ。腹が立ったら、来年の新入りインターンに申し送ってくれ」
だと。
言うまでもなく次の年、新入りインターンにきっちりと申し送った。
1960年代は、今とくらべると世間全体が寛大だった。いまこんなワルサをすると、新入りインターンの中にはマジで訴訟を起こすものもいるだろう。
せち辛い世の中になったものだ。

点滴ビンを揺すれ

海軍病院で4月1日から勤務に就く新入りインターンは、2週間ほどまえの3月15日から院内に住み込み、3月末で研修を修了する先輩インターンについて仕事の要領を学ぶという仕組みになっている。
二人部屋の本来のインターン宿舎には、まだ先輩インターンが寝起きしているから、新入りインターンが使うことはできない。16名の新入りインターンを寝起きさせるため、急遽閉鎖中の将校用の病棟を開いて衝立で書割り、ベッドを並べて急場しのぎの宿舎が作ってあった。
真っ白なベッドのシーツのうえに洗濯したてのパジャマがきちんとたたんで置いてあったのが強く印象に残って、50年を過ぎたいまでも忘れられない。

それから1年が過ぎて、こんどは先輩インターンとして新入りインターンにあれこれ教える番がきた。
「今日は点滴の仕方を教える。まず輸液瓶の表に貼り付けてあるIDラベルと患者の腕に巻かれたIDタグを照合し、病院番号、氏名、性別、生年月日が一致しているのを確かめろ」
いまは世界中どこでも、輸液の容器にはビニールのバッグを使っているが、1963年当時は、まだガラスのビンが使われていた。
「つぎに輸液ビンを支柱に吊るす。高さは患者から約1メートル。輸液ビンのゴム栓に点滴セットの針を差込み、点滴チューブ内を輸液で充満する。その際、ベントの注射針を刺すのを忘れないこと。これを忘れると、点滴が途中で止まってしまう。
次に、患者の左右どちらでもいいが、上腕部にゴム管の躯血帯をまいて、浮き上がってきた前腕の皮下静脈を指先の軽いタッチで探る。いいか、このタッチの感覚は、デートのとき彼女の○○○○に触れるのとおなじぐらいデリケートなタッチでやるのがコツだ。
ここぞと思う静脈を見つけたら、その上の皮膚を半径1インチ(2.5センチ)の円形を描くように、70パーセントのエタノールで消毒する。利き手の親指と中指で注射針を保持、人差し指で方向をコントロールしながら、静脈内にゆっくり刺入する。この際、反対の手を患者のひじの後ろにあてて、腕をしっかり固定する。針が静脈に入ると、血液が逆流してくる。そこで、針をもう一押し前にすすめ、患者の腕をつかんでいる手の親指で針の入っている部分をしっかり押さえ、針が抜けないようにしておいて、利き手で躯血帯をはずす。つぎに、利き手でバンドエイドをとって、刺入部を固定する。それがすんだら、点滴の速度を調節する」
点滴の仕方ひとつを説明するのに、これほどの言葉数を費やさねばならぬとは、この稿を書いてみてはじめて知った。
点滴でこれほどの字数なら、手術となると簡単なものでも、その手順の解説には軽く10ページを費やすことだろう。
処置や手術は手順書をみながらするわけにはいかぬ。火災の現場で消火ポンプの使用手引書をみながら操作できないのと同じだ。
医療の現場で処置の手順を間違えると命に関わることがある。いまふと気づいたが、過去40年間に覚えた何百という処置や手術の手順を今でも全部暗記していて何時でも使えるということは、素晴らしいことではないのか。このまま患者に用立てることなく、南洋の絶海の孤島で朽ち果てさせるのは惜しい気もするが、もう診療の現場には戻ることは絶対にない。

新入りインターンは教えた手順どおり点滴を終了した。そこで恒例の特別指導の始まり。周りを囲むナースも衛生兵もこの時がくるのをいまかと待ちわびている。
「よーし、よくやった。君の点滴手順は完璧だ。だがな、よく聴けよ、お若いの。ひとつ言い忘れたことがある。点滴のビンは詰所の倉庫で眠っていた間ケースのなかでは立っていたわけだ。するとどうなる?中身のブドウ糖はビンの下に沈殿するだろ? だったら点滴ビンを支柱に吊るしたあとで軽くゆすって中身を均等に混ぜてやる必要がある。どうだ、この理屈、お判りかな?」
「はい、よく判ります」
「だったら、やることは判るだろ? さあ、早く戻って点滴ビンを揺すってこい」
「はいっ」
元気イッパイの返事とともに点滴ビンを揺する姿をみて、その場にいるもの皆、笑いをこらえるのに苦悶する。たかが10%ほどのブドウ糖が何年経ってもビンの底に沈殿するワケはない。理屈では判っていても、先輩にいわれると真実に思えるのだ。これが実学と理学の違いだろう。
真剣な顔つきで点滴ビンを揺する新入りインターンを見ながら、ちょうど去年の今頃、点滴ビンを揺すったオレは純情だったなと感傷にふけるのだった。

(2008年10月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(9)
営倉の仇を病棟で討つ

「あの野郎、オレのケツをわざと撃ちやがった。病院を出たら、ぶっ殺してやる。生かしちゃおかねぇぞ。クソ野郎め」
救急医療センターのストレッチャーの上で、うつ伏せのまま仔牛のように巨大な身体を震わせ、歯がみしながら怒り狂っているのは海兵隊の軍曹。
顔は、オリーブと白のまんだら模様の迷彩色が塗られている。
素面でも獰猛な容貌がメイクアップで一段と恐ろしさを増している。
肩近くまで捲り上げた迷彩服の袖から突き出ている丸太ん棒のような太い腕には、地球と錨とライフルをあしらった海兵隊のシンボルマークの入墨が彫られている。
両足には泥まみれの戦闘ブーツを履いたまま。つま先から両脚を上にむかって視線を移動させると、尻のあたりで迷彩ズボンが切り取られ、血に染まったガーゼが当たっていた。

事故は富士の裾野で起きた

負傷事故は来院の1時間ほどまえ、富士の裾野の演習場で起きた。
鬼軍曹の率いる米国海兵隊00分隊の10名ほどの隊員たちは、実線さながらのフルコンバット装備を身につけ、匍匐前進で敵陣に迫る模擬戦闘の訓練中だった。
匍匐前進は、地面にはいつくばって、にじり寄るように敵陣に向かって前進することを意味する。
実戦の模擬演習だから、勿論、小隊の各自が手にするM16ライフルには実弾が込められている。不慮の発射事故を防ぐために、利き手の人差し指は引き金からはずしているのだが、それでも何かの拍子に、指が掛かって暴発する可能性はある。
往年の人気テレビドラマ「コンバット」に出てくるサンダース軍曹の勇姿を思い浮かべるまでもなく、戦線で分隊の指揮をとるのは軍曹だ。部下から信頼される指揮官は、常に最も危険なポジションの先頭に立つ。過去の戦闘データでは軍曹の致命率が最も高いという。危険を承知で先頭に立つ軍曹の命令とあればこそ、部下はどんなにリスクの高い任務でも二つ返事で引き受ける。

鬼軍曹はうしろに眼が要る?

軍曹が負傷したのは、いつものように小隊の先頭にたって、敵陣ににじりよる訓練の最中だった。訓練だから敵陣から攻撃は受けない筈だったが、弾は後ろから飛んできた。
海兵隊のヘリで、現場から軍曹に付き添ってきた衛生兵のレポートによると、軍曹すぐ後ろを匍匐前進していた部下のひとりの人差し指が誤って銃の引き金にかかってしまった。地面を這って移動運動中の前腕の筋肉に力が入り、運悪くその指を動かしてしまった。その結果暴発した銃口の真ん前に、偶然にも同僚の尻があり、それが選りによって軍曹のケツだったというのだ。なるほど、それで軍曹が吼えまくっているわけが納得できた。
米国の軍隊は、海軍、海兵隊、陸軍および空軍がそれぞれ分離独立し、併せて国防4軍と呼ばれている。海兵隊は、第二次大戦以前には海軍陸戦隊と呼ばれネービーの一部であったが、戦後分離独立したあとも当時の伝統を受け継ぎ、負傷兵は海軍病院で治療をうけるきまりのままである。
USマリンと呼ぶ海兵隊は、世界最強の軍隊を自負する。USマリンの新入隊員は、最初の数ヶ月間、ブートキャンプと呼ぶ訓練施設で鍛えられる。教官の鬼軍曹が新米の兵士たちを鍛えシゴク状況は、テレビのドキュメンタリー番組や映画で見るとおりである。海兵隊員に聞くと、訓練の現実は映画よりもはるかに厳しいという。
ブートキャンプを卒業し一人前の海兵隊員として実戦部隊に配属されると、教官のかわりにこんどは小隊を率いる鬼軍曹がいて、キャンプと同じように隊員を鍛えあげる。隊員の中には日ごろの厳しいしごきに対し、軍曹を恨みに思う輩もいる。だから、前線にでると、前の敵より後ろの味方から弾が飛んでくる可能性は、軍曹自身も十分自覚しているそうだ。
だから受傷時に、軍曹は恨みをもつ部下が、事故に見せかけて自分を撃ったに違いないと反射的に信じ込んだ。
「生かしてはおかぬ。ぶっ殺してやる」という物騒なセリフを吐く背景には、こんな事情があったのだ。
軍曹は間もなく手術室に移され、麻酔下に傷を洗浄、汚染創面を切除する処置により大事に至らず、数日で退院した。入院当初の数日間は部下に仕返しを誓った軍曹だったが、落ち着いてくると、ヤクザもどきのセリフは吐かなくなってきた。こうした場合、上官の配慮で兵士は他の部隊に配転されるのが普通だという。

銃創治療方法の移り変わり

小銃であれ拳銃であれ、銃で撃たれて負傷した患者を診るのは、ニッポンで外科医をするかぎり日常的に遭遇することは稀である。
インターンを終えたあと、5年ぐらい在籍した大学病院の外科では、同僚のハンターに散弾銃で誤射され、ペレットと呼ぶ小さな鉛の弾を無数に受けた患者を診た記憶があるだけだ。
ところが、アイオワ大学病院の小児外科部長になってからの10年足らずの間に、銃弾を喰らったこどもの患者を7、8人は治療した。「銃を規制もしないで野放しにしているアメリカは、こども同士がドンパチの犠牲になる野蛮な社会なのだ」と決め付けないで欲しい。
治療した患者はすべて暴発事故の犠牲者たち。
父親に連れられて鹿狩に行った12歳が、ライフルをかかえて夜道を歩いている間に、睡魔に逆らえず前にことんと倒れた拍子に、すぐ前を行く兄ちゃんを撃ってしまったという例があった。弾は重要臓器を避けていたので、兄ちゃんはいまでも元気でいる。よかった。
またあるときは、銃庫に鍵をかけ忘れた父親の留守のあいだに、訪ねてきた友だちに拳銃をだして見せびらかせているうちに、引き金に手がかかって暴発したという15歳。弾は幸い頭蓋骨と頭皮の間の隙間を1周しただけで、脳や神経にはまったく傷害なしという幸運な例だった。
散弾銃の暴発を腹部に喰らった12歳。
開腹すると小腸大腸に散弾による無数の穿孔が見られた。挫滅のひどい腸管を切除し、穿孔を縫合して修復、腸管内に空気を送って、見逃した穿孔のないことをたしかめ、結腸に人口肛門を造って手術を終えた。このこどもの治療には、銃創治療の経験豊かな成人外傷外科医にジョインしてもらい、多くのことを教わった。散弾銃による腹部受傷の場合には、結腸に人工肛門造設が必須であるという。そのワケは考えてごらん。

体内に入った銃弾は柔らかい組織の中を迷走しておもいも拠らぬ場所に定着する可能性がある。ヨコスカ海軍病院でインターン中に習った銃創の治療方針は、「X線検査やその他の方法で位置を特定した銃弾は外科的に除去する」だった。それから40年後の2000年に大学病院で教えている治療方針は、「弾の位置が重要臓器に接近している場合には、外科的に除去しないで放置する」に変った。
拳銃やライフルでのドンパチが業務の一部であるギャング団の業界では、体内に何発もの銃弾を抱えた御仁もある。こんな御仁がER(救急医療センター)に運びこまれると、何発もの銃弾がX線写真に写っていて、最新のドンパチで貰った弾がどれか判別がつかない。こんな場合には、前の入院先に連絡して当時のX線フイルムを電子的に送信してもらわねばならない。わたしの科ではないが、こんな患者も外科全体のカンファレンスで何度かプレゼンされた。

営倉の仇を病棟で討つ

あるとき、海軍病院の内科病棟に勤務するSという衛生兵が、非番の晩にヨコスカの街に繰り出し、バーやキャバレーを何軒もはしごしたあげく泥酔し、ショアパトロールとよぶ米国海軍陸上警邏隊員に逮捕され、基地の営倉にぶちこまれた。ブリッグと呼ばれる営倉は、丁度海軍病院のウラの道路を隔てた向こう側にある。
裏庭にある病院スタッフ専用のプールとは金網一枚を隔てるのみ。オフのウィークエンドにプールサイドで寝そべっていると、すぐ目の前のオリの中を、ブルーの作業服にダンギャリーとよぶベルボトムのジーンズをはかされた収容者たちが二列縦隊で行進させられている光景が目に入る。
号令をかける看守は、軍隊での位が最も低い水兵の役割と規則できまっている。縦割り社会の軍隊では、自分より位の低いものから、
「おいこら、貴様、もっとしっかり背筋を伸ばせ。だらだらしないでまっすぐ歩け」などと頭ごなしの命令を受け、これに絶対服従させられることほど、自尊心をひどく傷つける屈辱はない。
それが嫌なら、二度と営倉に戻って来るなという戒めが込められている。日本語の営倉という言葉には、旧日本軍のサディスティックな憲兵が待ち構える暗い穴倉のような監獄で、収容者がなぶられるイメージがある。米軍のブリッグは、高い金網のフェンスで囲まれた鳥かごのような造りで、中庭には綺麗な緑の芝生が植わっていて、旧日本軍のそれとはいささか趣を異にする。それでもブリッグに収容されると、人格まで変ってしまうと経験者のSはいう。
ブリッグで屈辱的な数日を過ごしたSは、懲罰期間を無事勤め上げ、再び任務に戻ってきた。それから間もなく、ブリッグでSをいびり尽くした警備兵の下級水兵が肺炎になって、こともあろうに、Sの勤務する内科病棟に入院してきたのだ。
「あの野郎、ブリッグのなかではさんざん威張りくさって、このオレに毎日腕立て伏せを何百回もさせやがった。こんどはオレがちょいとばかり可愛がってやる番だぜ」
といきり立つ。
内科医長から、いまは患者になったブリッグの警備兵に抗生物質の筋肉内注射をするようにとの指示がでた。通常、筋肉内への注射は23Gという比較的細い注射針でおこなう。注射針は細いほど刺したときの痛みが少ない。頭の毛髪ほどしかない27Gの注射針が量産されるようになった今、皮下および筋肉注射ともに27Gを使うことが多くなった。
ところが、秘かな仕返しをたくらむSは、輸血に使う太い18Gの注射針をわざと選んで、その針先を折り曲げて鈍にし、いまは哀れな患者となりはてた警備兵をうつぶせにして、尻の皮膚をこじるようにしながら、先の曲がった針を押し込んでいく。針がにじるような動きをするたび、あわれな警備兵の患者は、大げさな悲鳴をあげる。この陰険な復讐行為は、あまりの痛さに音をあげた患者の警備兵が内科医長に直訴し、Sが担当を外されて終わった。
「こんどブリッグにぶち込まれることになったら、もっと残虐な復讐を受けてもしらないぞ」
とSに言ってやったが、
「そのときはそのときのこと」と知らぬ顔。これ位の極楽とんびでなければ、軍隊では生きていけない。

40年も前のことのあれこれを思い出すと、記憶に残るのは強いインパクトを受けたことばかり。断っておくが、米国海軍病院では、いつもこのシリーズに書いているような、ヘンな事件ばかりが起きていたわけではない。これを読んでアメリカに対する偏見を増悪させないように願っている。

(2008年9月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(8)
世界一ケッタイな患者

軍隊というところでは、シャバの常識では想像もつかぬことがしばしば起こる。
外来クリニックで患者を診ていると、奇想天外の出来事にでくわした。
生涯二度と診ることはないと思われる珍患者に出合ったのは、神経内科に配属されていたときのことだった。

神経内科

いきなり余談になるが、神経内科というのは、文字通り神経の内科的な病気の診断と治療を担当する分野である。
ところが1963年当時のニッポンでは、神経内科は精神の異常を診断治療する精神科と併せて、精神神経科と呼ばれていた。この二つの科を併合することには、医学的見地からみても明らかに無理であったが、都合にあわせて矛盾に目をつぶるのは、ニッポンの役所の得意とするところだ。

精神神経科

うつ病や認知症、それに心因症などの診断治療は、精神科の仕事である。一方、脊髄の変性疾患や坐骨神経痛の治療は、神経内科の分野だ。この二つの専門分野を一つの科にはめ込むことは、たとえていえば、稲作の水田にトマトを植えるようなものだ。精神科と神経内科が分離し、稲は田んぼでトマトは畑で栽培されるようになるまでには、かなりの年月を要した。
その間、神経痛のような神経内科的疾患に苦しみながらも、精神神経科を受診すると、近隣から精神病者と見做されるのを恐れて、受診を拒む人も珍しくなかった。

懐かしの花柳科

余談ついでに、同じような経緯をたどった科名を挙げると、筆者がまだ医学生の頃、皮膚泌尿器科と呼ばれた科があった。この科はのちに皮膚科と泌尿器科に分離したのだが、巷では別名、花柳科と呼ばれていた。
皮膚科と泌尿器科が水と油ほど違うのは、今なら子どもでも判る。ところが半世紀前の医療行政はこの二つを融合し皮膚泌尿器科と呼んだ。そのワケを解説してみよう。
梅毒は感染して3ヶ月を過ぎた頃、バラ疹とよぶ特有の皮膚所見がみられる。皮膚にバラの花が散ったようにみえるバラ疹を診るのは皮膚科医である。一方、淋病に罹った人は1週間以内に尿道の炎症を起こしてペニスの先から膿が出る。淋病の尿道炎を治療するのは、当然のことながら泌尿器科医である。
ここからが屁理屈の真髄だ。
梅毒も淋病も、ともに花柳界の花街で遊んだ結果罹患する性病だから花柳病と呼ばれた。
ここからが面白い。
梅毒も淋病もともにエッチによってうつる花柳病だから、それを治療する科は、二つ併せて皮膚泌尿器科にしてしまえ、という理屈がまかり通って、そう呼ばれるようになったという。
こんな詭弁でものを決めても、どこからも文句が出ないで済んだおおらかな時代ではあった。

花街はカガイかハナマチか?

余談ばかりが続くが、先日テレビのアナウンサーが花街をカガイと呼ぶのに出くわし仰天した。広辞苑を開くと、確かにカガイも載っている。だが花街はハナマチと言うほうが耳ざわりがよい。「ハナマチの母」という演歌の名曲が「カガイの母」ではさまにならない。
念のためにと角川新国語辞典を引いてみると、不思議なことにハナマチは削除されている。そういえば、これもこの間、南氷洋(ナンピョウヨウ)をミナミヒョウヨウと読んだ女性アナウンサーがいた。女子アナが、他人様(ヒトサマ)をタニンサマと読むのも聞いたことがある。
中央卸売市場は、20数年まえにニッポンを離れたときには、たしか中央卸売イチバといっていた。これをいつのまにか中央卸売シジョウと呼んでいる。「市場(イチバ)で晩のおかずに鰯のてんぷらを買う」というところを、「シジョウで晩のおかずを買う」というと、鰯のてんぷらを株屋で買うような気がするではないか。
言葉というものは、世につれ時代につれて変わると承知してはいるが、それほどに変える理由があるのか。あるならその証拠を示してみよ。
美しい日本語をみんなに示す役割を期待されているアナウンサーが、あまりにもオカシなニッポン語を使って平気でいるのは尋常でない。このまま進んでいくと、たとえば、「原子力」をハラコカと読む女性アナウンサーが現れても不思議はない。
そのときがきたら、腹の底から笑い倒してやろうと、密かに期待しているところである。

世界一ケッタイな珍患者

大変遠回りしてしまったが、ハナシをヨコスカ米国海軍病院の神経内科に戻そう。
或る日、外来受付に基地高官の奥方と称する女性から電話がかかり、ジョンだかトムだかが、腰が立たなくなったから診てほしいというリクエストの予約を受け付けた。予約をうけた衛生兵は、多分、息子がスポーツのしすぎか何かでそうなったのだろうと想像しながら、手順どおり診察予約を受け付けた。
さて、診察の当日、訪れた患者をひと目見てスタッフ一同仰天した。高官夫人の腕にだかれて来たのは、なんとペットの子ザル。
「お門違いじゃございませんか。ここは人間を診る海軍病院ですよ」
と言って引き取ってもらおうとしたところ、診察室から飛び出してきた神経内科医長の海軍中尉殿に止められた。中尉殿は、無体にも、この珍患者を受け付け手順どおり病歴をとって診察しろという。

26歳のインターンの未熟な心は、「アホらし。毎日の患者の診療は真剣勝負だと思えと教えているくせに、こんな猿芝居をマジでしろとは何事ぞ。納得できない」と謀反を起こす。
亭主に下った最高司令部の命令とは言え、生まれ育った国を離れて、東洋の異国のなかにポツンと鉄条網に囲まれて隔離された基地暮らし。
地位上昇志向人間の亭主は、本国恋しさ、心細さに耐えかねているオンナごころを理解するはずもなく、一人寂しさを紛らわすため、のべつ幕なしにバーボンを飲みつづける。
生きがいといえば、ただひとつ。
酔っ払いでダメなママでも、つぶらなひとみに愛しさを込めて見上げてくれる最愛のモンキーちゃんがいるから、今日も生きていける。
こんなウラ事情に想いを馳せることが出来るのも、数々の人生を眺めながら70年も生きてきたからこそ。26歳の当時では、ただただ、酒臭いママに腹を立てるだけだった。

中尉殿のこわばった表情を見ると、これにはウラになにかワケがある、ここは命令に従い事態がどう発展するかみるべし、と決断し、型どおりに腰の抜けたモンキーちゃんをあやしながら診察をはじめた。
「どうしたの?どこが痛いのかな?」
と病歴をとりはじめると、ママが替わりに答えてくれる。
「ちょっと診せてちょうだいね」
診察をするフリをする。
ママの高官夫人は、真っ昼間というのに吐く息がモーレツにバーボン臭い。あまりのアホらしさに、噴き出しそうになるのをこらえながら真似事だけの診察を終え、母子ならぬママとモンキーを中尉殿の診察室に案内した。
中尉殿は、ろれつのまわらぬキッチンドリンカーの高官夫人を相手に、大真面目な顔で病歴をとったあと、子ザルの小さな胸に聴診器をあてて診察をする。モンキーちゃんの肘や膝の関節をハンマーでたたく仕草はプロの技。さすが専門医資格を取得したホンモノの神経内科医だ。
これが本当のサル芝居だなと思って見ているうちに、診察を終えた中尉殿は、これ以上はないという深刻な表情で、
「診せていただいたところでは、あまりよくありませんね。診断の結果はのちほど書簡にしてお宅あてに送ります」
と告げるのだった。
肩を落としたアル中夫人が子ザルを抱えて、ドアの向こうに消える。
緊張から開放された中尉殿と眼が会う。
わっと吹きだした二人は、5分間も笑いが止まらなかった。

女帝には勝てぬ

亭主が権力を持つと自分まで女帝になった気分になるオンナは、どこの世界にもいる。取り巻き連中は、蔭ではボロクソにけなしながらも、面と向かうと祟りを怖れて逆らわぬ。
それをいいことに、愚かなおんなは、このワタシにはそれだけの力があるからだわと有頂天。ここまで病膏肓に入ると、目は見えず、耳は聞こえず、思考は停止。
女帝は常に孤独で寂しい。その寂しさを紛らわすため、キッチンでバーボンをあおる。独り酒場で飲む「悲しい酒」と通じるものがある。
反対に亭主の権力増大に反比例し謙虚さが増す奥方も世間にはいる。おなじ女帝でも、こちらは人気絶頂疑いなし。

中尉殿、今はいずこに?

中尉殿のハナシによると、診察の前夜、アル中夫人から宿舎に電話があったという。なんといっても相手は高官夫人だ。横車的リクエストを拒絶するには相当の根性が要る。
中尉殿はしばし葛藤したのち、院内に波風立てぬため、珍患者の診察を承諾したのだという。
「中尉殿がアメリカ本土の民間病院に勤務しておられたとして、市長や議員など町のビッグショットの奥方がペットを診てくれとゴネ押ししてきた場合、モンキーちゃんをよろこんで診察されるのでありますか?」
「そんなバカな。これは海外の基地という特殊社会ゆえの特別サービスだよ。モンキーちゃんよりも、海外基地暮らしの淋しさに耐えかね、キッチンでバーボンをあおるママを救うことが出来れば、というのが本音で決断したまでさ」
この中尉殿はもうとっくに海軍も神経科医も引退している筈。
半世紀にわたってまったく音信不通だが、ひょっとするとホノルルでのんびり暮らしているかもしれない。
出来れば、一度会ってみたいものだ。

(2008年8月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(7)
ジェット戦闘機に轢かれた患者

救急医療センターに詰めていると、突然、房総沖を航行中の空母から緊急連絡が入る。

「フライトデッキで事故発生。患者は現在ヘリコプターで転送準備中。仮診断は高度熱傷、骨盤骨折、左大腿骨骨折。骨折はX線フィルムで確定。
簡略病歴は、ジェット戦闘機がカタパルトで発進中、退避の遅れたクルーがジェット機の車輪に骨盤と左大腿を轢かれて転倒。倒れたところに、ジェットエンジンから噴出する高熱排気ガスを全身に浴び、体表面積の30パーセントに3度熱傷を受傷。現在輸液続行中。
意識、呼吸および血行動態は安定。ヘリコプターのヨコスカ海軍病院到着予定は約40分後。スタンバイよろしく」

外部から救急医療センターに入ってくる無線連絡は、すべて天井のスピーカーを通し、センター勤務するスタッフ全員の耳に入る仕組みになっている。救急医療ではスタッフ全員が情報をオンタイムで共有することが重要なのだ。口から耳への伝達回数が増すごとに、情報が修正歪曲されるのは、他の業種の現場でも同じこと。
その愚を避けるには、スピーカーでいっせいに報せるのがベスト。

救急医療センターの天井のスピーカーが吐き出す会話にもらさず耳を傾けていると、ヨコスカ市内を巡回中のショアパトロール(海軍警備隊)からの無線はもちろん、太平洋上を航行中の艦船のシックベイ(艦内医務室)や、飛行中の医療ヘリから入ってくる情報のすべてを聴くことができる。処置室で患者の傷の縫合をしながら、次に送られてくる患者の状態を、前もって知ってケアの段取りをつけることも可能である。
その仕組みは便利で有用なのだが、交わされる英会話はおそろしく早口のうえ、無線特有のガーガーピーピーという雑音で聞き取り難い。おまけにネービーの業界用語が頻繁に出て来る。それに緊急事態に直面した送信側当事者の興奮が重なると、それまでの人生をニッポン語世界にどっぷり浸って生きてきた新米インターンには、殆ど理解できない。
駅前英会話教室で教わる英会話は、こどもだましのようなもので、まったく役に立たない。

難解なネービー業界用語

USネービーでは、トイレをヘッドと呼ぶ。
朝顔型をした小便器はジョン、排尿行為そのものはピス。
壁はブーケ、天井はオーバーヘッド、床はデッキだ。
たとえば、市内の路上からショアパトロールが送ってくる「こちらSP。ヒットザビーチ中のセーラーが,バーのヘッドでピスの最中、ブーケにもたれたらデッキに倒れジョンで頭(ヘッド)を打った。意識はあるが頭部の裂傷から出血少々。現在病院の救急医療センターに向かって移送中」
こんな会話は、駅前英会話教室の教師でも、なんのことやら判るまい。ちなみに「ヒットザビーチ」というフレーズは、非番のときに離艦許可をもらって上陸することを意味する。

「空母の上でヒコーキにはねられた患者が、ヘリで運ばれて来るからスタンバイせよ」という情報も、当直のコアマン(衛生兵)に繰り返して解説してもらい、やっと全文を理解できた。
やがて東の空から、轟音とともにローターが二つもついた巨大なヘリコプターが飛来し、病院の中庭のヘリポートに騒音と砂埃をまきちらしながら着陸する。インターンは、ストレッチャーを押すコアマンとともに回転しているローターの下をかいくぐり、ヘリまで病人をもらいうけにいかねばならぬ。
何年もあとになって、この光景、どこかで見たぞと気づいてみたら、朝鮮戦争時の陸軍野戦病院を描いた超人気テレビドラマの「マッシュ」にそっくりなのだ。ドラマを演じる役者は、危機一髪でも死ぬことはないが、現実に直面する当事者は、ローターに頭を吹き飛ばされると確実に命を失う。
ヘリから降ろされた熱傷と骨折の二重の重傷を負った水兵は、外科と整形外科のチームによる手厚い治療の甲斐あって一命をとりとめた。後日無事退院し空母の任務に戻っていったという。
この患者は戦闘機の車輪に轢かれたのだから、ニッポン風のクソ真面目な定義をすると「軍用航空機によって惹起せしめられた輪禍の犠牲者」とでも言うのだろう。なんと呼ぼうと病人は病人だ。インターンを終えたあと、外科医人生の40余年の間に様々な患者を診てきたが、「ヒコーキに轢かれた患者」はこの水兵が始めての最後だ。総務省消防庁に集計されている全国の救急車による搬送記録のなかにも、おそらく「ヒコーキに轢かれた患者」はいないのではないか。

電線に引っ掛った戦闘機

「ヒコーキによる交通事故」ではないが、似たようなヒコーキ事故で両下腿骨折をした海兵隊戦闘機のパイロットが運ばれてきた。
厚木基地の滑走路で海兵隊の戦闘機が、タッチアンドゴーと呼ばれている着陸と離陸の反復演習の最中、離陸時のエンジン出力が不十分だったため、機首が上がりきらず、基地のすぐ外を横切る電線に降りたままの車輪を引っかけてしまった。
失速した機は数百メートル先に墜落炎上したが、パイロットは間一髪の判断により座席射出装置のレバーを引いて、クラッシュ寸前の機のコックピットから座席ごとの脱出に成功したのだ。
だが、不運なことにパラシュートが開くには高度が低すぎたため、そのまま着地。その際パイロットは両足を骨折してしまった。幸い主要臓器の損傷は奇跡的に免れ、命には別状を生じなかった。
生と死と紙一重の体験をしたこの海兵隊将校、入院後の一週間は極度の興奮状態が続いて、インターンやナースが部屋に入ると、喚きたて吼えまくって寄せ付けてくれぬ。
大量の神経安定剤投与も効を奏さず、まったく手が付けられなかった。死の恐怖に晒されると人間はここまで崩れるものかと恐ろしかった。心身の回復に数ヶ月を要したが、退院直前に将校クラブで会ったときには、普通の会話の交わせる紳士のたしなみを取り戻してくれた。受傷まもなくの期間、極度の興奮状態と平静の両極を行き来する情念の揺れ動きがとても印象的だったこの男性の経過詳細はいまでも鮮明に記憶に残る。

大女優シャーリーマクレーンと出会う

もう一人の忘れられない患者は、当時世界の銀幕を揺るがせたハリウッドの大女優シャーリーマックレーンのご亭主だったスチーブパーカーだ。シャーリーといえば、その頃ジャックレモンと共演した「アパートの鍵貸します」の好演ぶりが妙に記憶に残っていて、「隠れ追っかけ」を自称していた時期にいた。だから亭主が入院したときいたとき、もしかしたら出会うチャンスが訪れるかもしれないと、秘かな期待をしたものだ。
ハリウッドの映画プロデューサーで大のニッポン贔屓のスチーブパーカーは、シャーリーと結婚したあとしばらくニッポンに滞在し、越後方面にスキー旅行にでかけた。ゲレンデをスキーで滑降中に転倒し、足を骨折して海軍病院に運ばれてきた。

余談になるが石原裕次郎や小島正雄など有名人がスキーゲレンデで足を骨折する事故が頻発したのも、なぜかその頃だった。

半世紀まえのニッポン国内には、アメリカンのセレブを入院治療するための医療施設がなかった。英語を自在に話せる各科の専門医やナース、電話、トイレ、シャワー、冷暖房の付いた個室の病室、ビーフやポークにグレービーのかかったマッシュドポテト、冷えたフレッシュレタスに各種ドレッシング、アイスクリームにコーヒーか紅茶という1950年代にアメリカ映画に繰り返し登場したメニューの食事を作って出せるキッチンを備えた病院は、日本中どこを探しても存在しなかった。
だからスチーブパーカーのようなアメリカンのセレブが、ニッポンで病気に罹ったり事故に巻き込まれたりした場合、民間人であってもヨコスカ米国海軍病院の将校専用病棟に入院して治療を受けるか、飛行機をチャーターしてアメリカ本国に戻りかの二者択一だった。
ただしそれができるのは有名人の大金持ちに限ってのこと。ネービーは慈善事業ではないが、多額の税金を気持ちよく支払ってくれるアメリカンは大切にする。

亭主のスチーブが骨折入院したならば、嫁のシャーリーが見舞いに来るのは当然だ。ならばスチーブのケアにあたるインターンは、大女優シャーリーマックレーンに遭う機会があって当然である。という屁理屈が現実となり或る日シャーリーに出会った。
場所は海軍病院の真ん中を貫く長いローカだ。
向こうから、薄いサングラスをかけた小柄な女性が歩み寄ってくる。僚友のY君が、
「あれがパーカーの女房だよ。おまえ、話しかけてみろよ」とけしかけてくれる。
「ミセスパーカーですね。はじめまして。わたしはインターンのDr.キムラです」
自己紹介すると、
「シャーリーと呼んでくれていいわよ。主人をケアいただいてありがとう。彼はいつ頃退院できるのかしら」
「もうすぐだとおもいます」
定番の返事をすると、
「そうだと嬉しいわ」
定番の返事が返ってきた。
シャーリーはラベンダー色をしたカシミアのサックドレスを着て、同色の帽子を頭に載せ、両手にシルクの白い手袋をはめていた。立ち話がおわわり、別れに交わした握手で握った手の平の感触と、馥郁たる香水の香りが、26歳の若者の大容量メモリーにしっかり記憶されており、いまでも再生可能状態にある。

(2008年7月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(6)
Dr. フォーセットに習った患者接遇術

1963年から47年を経たいまも、ニッポン国内の米軍病院のインターンに応募する医学生は跡を絶たないが、それにはワケがある。そのワケを知るには、米国の卒後研修制度を理解する必要がある。

米国の医師卒後研修制度

米国の医師卒後研修制度は、いまをさかのぼる98年まえ、1913年に端を発した。それ以来、ほぼ1世紀間の試行錯誤を重ねて改良を加えてきた。
いま米国の医学部卒業生は、卒後医学教育認定評議会(ACGME)が指定した研修認定病院で、科別に定められた期間を、研修指導医の指揮のもとで、所定の臨床実習と専門とする学科の系統授業を受けなければ、研修を終えることができない。
研修を修了しないと、研修した科の専門医試験の受験資格がない。専門医試験にパスして専門医資格を取得しなければ、外科医、内科医、小児科医など専門家医師として開業することはできない。仮に開業したとしても、保険会社は被保険者の診療費を支払ってくれない。非専門医には、医療費を請求する資格はないのだ。
専門医資格のない医師は、病院に勤務することは不可能である。資格のない医師に診療を許した病院は、病院評価合同委員会(JCAHO)の認定を取り消される。そうなると入院や外来診察の医療費の請求受領が出来なくなる。このように入り組んだ相互力学によって、医療の質が維持される仕組みが出来上がっている。
一方、日本では医師国家試験に合格して得た医師免許があれば、いかなる診療を行っても合法としている。だから昨日まで内科医をしていた医師が、今日からメスを持つ外科医でございと名乗って患者を手術しても許されるのだ。こんなニセ外科医の治療をうける患者の身になってみれば、これほど市民を愚弄する制度に憤怒せずにはいられまい。
米国で医師免許がオールマイティの効力を失って30年近くになる。
医師免許は研修医として診療に従事するために必須のものであるが、研修を終えて各科のライセンスすなわち専門医資格をもって、はじめて単独で診療がゆるされるというダブルセーフティが出来上がっているのだ。
というワケで、医学部卒業生は全員が卒後研修を受ける。
ヨコスカ米国海軍病院のインターンがいまでもニッポンの医学生の間で人気があるワケを謎解きしてみよう。
将来、米国にわたり、どこかの研修病院で5年間の外科研修をうけ、さらに2年間の小児外科研修をうけて修了した暁には、米国のどこかの大学で、小児外科医として、また教壇にたつ教授として活躍したいと願う日本の若者がいるとしよう。この若者がヨコスカ米国海軍病院でインターンを終えたとしても、米国の研修プログラムは一部たりとも研修の足しという解釈はしてくれない。
だが、米国の医学教育や診療のシステムに慣れる、指導医から推薦状を書いてもらえる、なににもまして1年間英語社会に暮らすと英会話が上達するなどの利点がある。だから、ヨコスカ米国海軍病院でインターンをするためには、いまでも厳しい競争に勝ち残らねばならない。

国試浪人は医師不足の一因

米国の医学生たちは医学部卒業前に医師国家試験を受ける。この試験をパスしなかった学生は医学部を卒業させてもらえない。留年して勉強をしなおし、国家試験に再度挑戦するしかない。国家試験という本来だれでもパスする資格試験に合格できない学生を育てた医学部は、そんな学生を再教育しなおし、次回にこそ必ず合格させる責任を負うべきである。
ニッポンでは、医学部卒業が医師国家試験の受験資格とされている。だが、現実は厳しい。受験者の1割は合格できない。
不合格者たちは「医学部は出たけれど医師に非ず」という身分の国試浪人と呼ばれる存在になる。次の試験まで、国試予備校に通っている間は医師として診療活動することはできない。これがいま問題の医師不足の一因となっている。
米国にハナシをもどすと、研修医は医師であるから診療行為は出来るが、専門医資格を持たないので診療報酬の請求はできない。診療報酬が請求できなければ職業人としてひとり立ちできない。
このようなシステムを確立することで、未熟医師が起こす医療事故を未然に予防し、患者に不幸な結果をもたらすことの防止策として役立てている。
ニッポンでは、医師国家試験に合格すると、医師としていかなる診療活動を行うことも許される。未熟な医師でも、その診療行為にたいして診療報酬を受け取ることもできる。
これをクルマの運転にたとえると、運転の実地試験を省略し、学科試験のみに合格したドライバーが、いきなり運転席に座って市内を走り回るようなものである。先進国の中で医師の資格審査が一番ゆるやかなのがニッポンであることを、ニッポン国民はもっと知るべきである。
去年からニッポンでも、医学部を卒業したあとの2年間、各科を巡る卒後研修が必須になった。ところが、これら研修医の診療行為であっても、病院は診療報酬を請求し、健康保険団体から診療報酬の支払いを受け取れる仕組みなのだ。この理不尽を放置したまま先送りするところが、ニッポンの特異性なのだろう。
一方、米国でも10年余りまえに、研修医の診療行為を指導医が行ったことにして診療報酬を請求した大学病院があった。ある日、この病院のおこなった診療報酬不正請求は詐欺行為としてFBIに摘発され、過去10年にさかのぼって百億円を超える罰金を支払わされた。どこの国でも医療制度には問題は多々あるが、米国では患者、すなわち市民の生命と権利を保護するため、医療の質を保証する仕組みだけはしっかり稼動している。先進国のなかで医療の質の担保が一番薄いのはニッポンであることを銘記すべきである。

「習い、施し、教える」

市民の生命と権利を保護するため、医師はなにを為すべきか。
「習い、施し、教える」ことが、全米の医師の間では、暗黙の約束になっている。
この約束は、「先達から習った知技を、患者の治療に役立て、後輩に教え継いでいく」、という意味だ。実際、すべての医師はこの不文律を守らざるを得ない仕組みになっている。
この約束を守らない医師は、病院で診療をする権利を剥奪される可能性を秘めているからだ。 ヨコスカ米国海軍病院のスタッフ医師たちもこの約束を厳しく守っていた。
ニッポンの病院の医局では、若い医師を集めて内科や外科の系統授業をする伝統が全くない。「教え、実施し、教える」という、代々の医師の間に言い伝えるべき約束ごとが存在しないからだ。
かわりに「先輩の手技を見て技を盗め」だの、「一人前の医者に向かっていまさら授業なんかできるものか。知識は自分で勉強して身につけるものだ」という声が大きい。これでは、いつになっても、いい医者を育てることはできない。

Dr. フォーセットに教わった患者接遇術

「『次の患者さん、どうぞ』とナースに呼ばれて、患者はキミの診察室に入ってくる。そのとき、医師であるキミはどちらの方向を向いているべきだと思うか?」
40年まえ、ヨコスカ米国海軍病院内科医長Dr. フォーセットが、内科の授業で前列に座ったインターンに尋ねた質問はいまでも鮮やかに思い出される。
病気の定義や症状、検査の選択や治療方法ばかりを教えるニッポンの医学部では、こんな質問をする教授はいないから、インターンの誰もが答えられずに黙っていると、
「入り口のドアの方を向くが正解だよ」
と教えてくれた。
その理由が興味深かった。
「医者に診てもらいに来る病人は、どこか具合が悪いからだ。何処が悪いのか判らないまま、最悪の場合これで命を失うかも知れないという不安を抱えている。これは命に関わる大問題だ。その大事な問題を解決してくれると期待している医師が、初めての遭遇で、自分に背中を向けていたら、患者はどう感じると思う?」
説明を聴いてなるほどと強く感動し頭の中の記憶の倉庫にきっちりと収納したから、いまでも鮮明に思い出せる。
後年、アメリカに移ったあと同僚の教授たちのオフィスを覗いてみると、デスクは全部入り口に向かっているのに感心した。
それと正反対に、ニッポンの病院では、医師のデスクは壁に向けて置くのが常である。目の前の壁にレントゲンのフイルムに目を通すためのスクリーンが掛かっているから、というのがその理由だ。患者よりもレントゲンフィルムのほうが大事なのかという議論が生まれる。だが、その議論は別の機会に残して置くことにして、ハナシを進めよう。
患者がオフィスに入ってきても、医師の視線が反対の方向を向いていると、患者はどんな第一印象を持つだろう。小ばかにされたと思うのが正解だろう。患者から信頼を得るのは困難だと思うべし。

患者とは視線を外す位置で

「患者の座る椅子は、キミのデスク越しに真向かいになるような配置にしてはいけない。なぜか判るものはいるか?」
Dr. フォーセットの次の質問に、ニッポンの医学部を卒業したインターンはなかなか答えられないのだ。まるで回答不可能なクイズのようなものだ。
「いいかい。デスクを間にして真正面に向かいあうのは、刑事が容疑者を取り調べるときの位置関係だ。患者が他人には絶対に言いたくないことでも、医師は知っておかねばならぬことがある。そんな場合、真正面から向き合って互いの視線が一致していると、打ち明けにくい。だが、視線のアラインメントが外れていると、気持ちの上では大いに楽だ。だから、患者の椅子は医師のデスクの左右どちらかの側面に置くのが正しい。この配置だと、互いの視線を衝突させずにすむのは判るだろ」
Dr. フォーセットは、噛んで含めるように言って聞かせてくれる。
こんなことは卒業前の医学部では誰も教えてくれなかった。
ニッポンの医学部教授は、自分は背もたれ肘掛つきの回転椅子に踏ん反り返り、患者を背もたれもない丸椅子に座らせて平気でいる。人の心を慮る教育ができないのは、患者はあくまでも医者より一段下の人間と見做しているからだ。
後に米国に活動の場を移して、外科教授として勤務したアイオワ大学病院では、逆に患者を豪華なイスに座らせ、われわれ医師は粗末な丸椅子に掛けるのが院内の慣わしだった。

雑談が出来れば一人前

「患者に椅子をすすめたら、いきなり病気のハナシに入ってはいけない。その前に、まず身の回りの雑談から入ることが大事だ。
たとえば、雨降りの日なら、『遠路はるばる雨の中を大変でしたでしょう』という気配りをする」
インターン一同が聞き入っていると、
「外来診察がはじまるまえに、今日の予定患者のカルテに目を通して、各患者の住所を頭のなかにいれておく。患者の住まいが郊外なら、『お宅の近くは緑が多くていいですね』 
街中なら、『にぎやかでいいですね』という会話から入っていく。
そうすると緊張がほぐれて、あとにつづく会話が滑らかになる」
医療は医学知識と技術だけに頼って、悪い病気を除去する術をマスターすればいいというものではない。
病気を持っているのは人間だ。それぞれ違った感性と感情をもつ患者を相手に正しい診療行為を行うためには、患者一人ひとりの気持ちを別個に掴まねばならぬ。
各自の気持ちへの気配りが出来て、はじめて人を診る医師といえるのだ。
ヨコスカ米国海軍病院でDr. フォーセットから教えてもらったことは、その後、アイオワ大学で医学生達を教育する教壇にたったとき、どれほど役にたっただろう。それほどにありがたい教えだった。
今、ニッポンのあらゆる分野で若い人たちの接遇術が問題視されているが、半世紀まえの1960年代の日本では、若者に接遇術を口にする指導者は存在しなかった。
今の時代、「患者」を「患者さま」と呼び替えるのがファッションだ。この気色悪い呼び方をされて、満足する患者がいるとすれば世も末である。人と対処するいかなる場合でも、マニュアル化した言葉を暗記してオウムのように反復すればいいという局面はない。相手の気持ちを思い遣り、尊敬により信頼を築きあげながら、自分自身の言葉で話すことが大事なのだ。
それが自在に出来るようになりたければ、縦書きの本を沢山読むことを勧める。

(2008年6月1日付 イーストウエストジャーナル紙)