ドゥアー(Doer)

「いままで一緒にやってきて、ケンはホンモノのドゥアーだと判った。安心して小児外科を任せるから頼むよ」

私事でいささか面映いが、アイオワ大学で小児外科部長に任命されたとき、先代のボブソーパー教授から貰ったコメントだ。ドゥアーは文字通り、適切な判断を直ちに実行に移し全体を最善の結果にみちびく実務者という意味だ。外科医はすべからくドゥアーでないと務まらない。

米国の大学は、部長以上の人選時には全国紙に広告を出して広く一般から公募するのがコンプライアンスだ。幸い幾人かの候補者を退けて小児外科部長に任命されたが、「部長は担当する科の健全財政を維持する責任がある」と就任後に知らされた。着任直後の1年間は私の抜けた外科医のポジションは空席のままだったから、年に600例以上の手術を一人で引き受けざるを得なかった。部下の一人が退職したので半年間にわたって連日当直を余儀なくされもした。だが、それぐらいのことで音を上げてなるものか。平気な顔でやり通さねばアメリカ社会では生存できない。
当直外科医は、病院に10分以内に駆けつけられる範囲を出てはならないというのが規則だ。ゴルフをしていても、携帯が鳴ると中断して病院に駆けつけねばならぬ。だからカートには、いつでも抜けられるように、みんなと別れて一人乗りを常とした。
「スタッフの要求を全部受け入れていたら、科を仕切っていけなくなるぞ。ヒトの思いと科の存立を天秤にかけ二者択一の決断を迫られる時もある。そんな状況では、ためらうことなく科の存立に与するのが長たるものの義務だ。感情移入が過ぎると科は仕切れないと承知しろ」とボブは忠告してくれた。以来、重大な決断では「思い」を忘れることにした。

いまニッポンでテレビや新聞を見ていると、国防という国家にとって最重要課題が議論されている。人々の意見には「思う」という言葉があまりに多く使われる。国家の一大事にこんな情緒主導の議論で対処できるのかとアメリカンの思考は疑問を生む。いまのニッポンに必要なのは、ホンモノのドゥアー最高指導者なのでは?

ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(2)
サイゴン発「空飛ぶ病院」定期便

「貴君はヨコスカ海軍病院の1963年インターン生に選ばれた。おめでとう。1963年3月15日07時00分、ヨコスカ米海軍基地正面ゲートに到着されたし。ヨコスカ米国海軍病院司令官」

憧れの米国海軍病院

100人の応募者の中から16人に選ばれたという朗報を受け取って間もなく、住んでいた街の近所の人から、何者かがわたしの身辺の聞き込みにきたと知らされた。不審におもいながらも調べるすべもない。
間もなくインターンの開始日がやってきた。広大なヨコスカ米国海軍基地の入り口に到着すると、ゲートを護る番兵の海兵隊員に何用かと問われた。司令官から届いた採用通知書を見せて、新人インターンであるむねを告げる。海兵隊員が病院に電話で連絡する様子が判る。基地の奥からピックアップにやってきた灰色のライトバンが病院の建物に横付けすると、ドライバーの水兵が集合場所の部屋までエスコートしてくれた。
前年秋の選抜試験は座間の陸軍キャンプだったので、ヨコスカを訪れたのは今度がはじめてだ。基地の広さにまずはびっくりした。

インターンの同期生は女性2人をふくめて全部で16名。出身校は東大が4人、日大が2人、あとは全国各医学部から一人ずつという配分だった。型どおりのオリエンテーションが済んで、割り当てられた2人一部屋のクオーターと呼ぶ居室に落ち着いた。これからの2週間は、3月末で海軍病院を去っていく先任インターンについて、仕事の要領を学ぶことになっている。新任インターンは前もって決められている先輩インターンとペアを組んで、2週間の短期間に可能な限りの知識と情報を詰め込まれるのだ。ペアを組んでくれた先任インターンのIさんは、優しい人柄で沢山のことを教えてもらった。

CIAの身元調査

クオーターのルームメートになった東大卒業生のU君は、同じ兵庫県出身で関西弁が通じる。
「採用通知がくるまえに、身元調べと称してうちの近所を嗅ぎまわった者がおるらしいんやけど、君にはそんなことはなかったか?」
「ああ、オレの実家でそんなことがあったというてたな」
一体だれがこんなことを?
これは、後日、海軍の情報担当官がCIAの仕業と説明してくれた。 アメリカ嫌いの友人に事情を話すと、
「CIAいうたらアメリカのスパイやないか。インターンかなんか知らんけど、スパイに身元調査までされて、米軍基地の病院みたいなところへよう行く気になったな」
と吐き捨てるようにいった。
米軍当局にしてみれば、医者とはいえ見知らぬ他国籍人間を機密がイッパイ詰まった海軍基地内に住み込ませるのだから、身元を厳しく調べるのは当然だろう。
それに先立つ3年まえの1960年には、日米安保改定反対デモが国中で渦巻いた。国会前で死者がでるほどの激しい反米デモに、国中の機能が停止した。そんな時代背景のなかで反米過激派の学生がインターンに姿をかえて基地に忍びこむのを阻止するためには、CIAによる身上調査は当然のことだと今なら理解できる。

2001年の初秋、米国で9/11テロ事件が発生して以来、市民生活を脅かすテロリズムに対抗するCIAやFBIなどの活動には、ニッポン国民からも多少は理解が得られるようになった。ところが1963年の日本の若者達の間では、アメリカだの米軍だと聞いただけでそのすべてを嫌悪し、否定するフリをするのがファッショナブルだった。丁度、東京オリンピックを次の年にひかえ高度経済成長が軌道にのり、その後長く続いた昭和元禄が胎動をはじめた年だった。

インターンの日課

ヨコスカ海軍病院インターンのユニフォームは、ワイシャツ、ズボンはもちろん、ベルトから靴にいたるまでオールホワイト。短く刈り込んだクルーカットに、黒のネクタイをきりっと締めて、胸にネームを刺繍した白衣をまとった姿は、我ながらカッコよかった。この姿に憧れてUSネービーのインターンに応募した者もいたと聞いた。
インターンの日課は多忙だ。16名を8名ずつの2組に分け、それぞれ左舷組、右舷組と呼んだ。勤務は2日48時間を、朝7時からあくる日の午後17時までの34時間ぶっ続けに勤務し、次の勤務が始まるまでの14時間が休息時間というシフトである。両弦二組を1日ずらせて回転させると、7時から17時までの時間帯は両弦16名全員で、17時以後翌朝の7時までの夜間は半舷の8名で、という勤務体制が出来上がる。この方式によって24時間、間断のない診療を継続することが可能だ。
平時の昭和38年に米軍基地の病院がなぜ24時間診療とおもわれようが、これにはワケがあるのだ。

サイゴン発「空飛ぶ病院」定期便

ベトナムではフランス軍がディエンビェンフーの戦いで敗退し撤退した。その後も継続する南北に分断されたベトナム人同胞間の紛争に、当時すでに米軍が関与していた。トナム戦争はトンキン湾で米国海軍の艦船が北ベトナム海軍の攻撃を受けたて始まったといわれているが、実際にはそれより大分前の1963年当時で5万人規模の米海兵隊が、すでに南ベトナム軍の軍事顧問と称して紛争に介入していた。米国の海兵隊は大統領の命令が下ると、直ちに紛争の地に飛び介入する使命をもっている。いまニッポンで紛糾しているオキナワの米国海兵隊普天間基地の移設問題を考える際、この海兵隊の持つ特命機能を第一義としない議論はすべて空論である。ニッポンの国防を担ってもらうためには、特命機能を発揮するに最も適した地理的位置、広さを提供するのが国家を預かるものの義務ではないのか。
米国海兵隊員は顧問とはいえ、前線に出れば弾にも当る。負傷した海兵隊員は連続テレビドラマ「MASH」に見るような前線病院で応急処置をうけたのち、後方の主幹病院にヘリで移送されて治療を受ける。その主幹病院でトリヤージとよぶ選別をうけたのち、高度医療が必要と判断された負傷兵が最終的に搬送されるのがヨコスカ基地にある米国海軍病院であった。
内部を「空飛ぶ病院」に改装したダグラスDC8は、負傷兵を満載し毎夕定刻にサイゴンを飛び立つ。7時間後の夜中過ぎには立川空軍基地に着陸する。ハンガーには巨大なトレーラーを「走る病院」に改装した軍用救急車が待ち構えていて、負傷兵を受け取る。全員の積み込みが終わると深夜のヨコスカ街道をひた走り、午前2時ごろ海軍病院に到着する。

当直インターン、真夜中の大仕事

当直インターンはこれからが大変。日中の激務で疲れた身体を休めていると、当番の衛生兵に起こされる。クオーターの中には非番のインターンも寝ているので、電話のベルで起こすわけにはいかぬ。クオーターのベッドサイドまで入り込んできた当直の衛生兵に揺り起こされ、ルームメートが目をさまさぬよう素早くユニフォームに着替えて負傷兵の待つ病棟にむかう。
当時も今も、アメリカの病院では、患者が入院すると直ちにインターンが病歴取得と診察をおこない、速やかに検査や治療に移るのが決まりだ。アメリカの病院は国、公、民、軍の区別なく、何時であろうと入院した病人は、直ちに治療を受ける権利を持つ。テレビの人気ドラマ「ER」を見るとその仕組みがよく描かれている。「いまは夜中だからとりあえず入院だけさせて、一応様子をみよう」などというニッポンの医療界独特の方便を見ることはない。
ベトナムから立川空軍基地経由で移送されてくる患者は、一晩に20人を超えることもあった。緊急手術は稀だったが、それでも入院と同時にインターンは診察し、診断に沿った治療計画を立ててカルテにすべての記録を記入し終えねばならぬ。

ワークアップ

入院時の診察は120項目に及ぶ質問から始まる。これが終わると、全身の視聴触打診を手順にしたがって進める。耳鏡で鼓膜を観察し、眼底鏡で眼底を見たあと、懐中電灯で咽喉を診る。心音と呼吸音を聴診し、腹部触診にうつる。知覚,触覚、痛覚、神経筋肉反射などの神経学的検査をおえたあと、直腸に指を入れて触診する。これら所見の正常異常にかかわらず、すべてをカルテに記入する。手抜きをして大事に至った場合には、インターン研修を終了させてもらえぬ可能性がある。インターンを終えなければ、医師免許をもらうこともできない。
この入院時の病歴、診察、治療プラン、指示をふくめた一連の仕事をワークアップと呼ぶ。ワークアップには、要領よくやったとしても、一人につき最低1時間はかかる。まして、英語に不慣れなインターン相手だからと手加減は一切してくれない海兵隊員を相手のワークアップだと、一人につき2時間はたっぷりかかるのだ。一晩のうちに20人もの患者が団体で入院すると、内科、外科合わせて4人の当直インターン全員が徹夜で頑張っても、仕事を朝まで持ち越すのが常だった。
手元にある当時の研修記録をみると、わたしは1年間に約600名のワークアップをしている。すなわち、600の心臓を聴診し、600の肛門に指を入れて直腸を探り、1200の枚の鼓膜と眼底を観察している。若い医者が同じ期間に同じ数の臨床経験を積むことの出来る病院は、当時の日本には存在しなかった。

産科が10月に多忙なワケ

秋に配属になった産婦人科ではふた月でお産を60回も経験した。「海軍病院で産婦人科やお産やなんて、冗談が過ぎまっせ」というなかれ。基地内はもちろん横浜の根岸キャンプあたりまで含めた周辺のリトルアメリカには、第7艦隊乗組員の家族が3万人ほど住んでいる。
クリスマス休暇になると艦隊勤務の乗組員は久し振りに陸にあがる。その日を待ちに待っていたカミさんと、ここぞとばかりにベビー造りに励むのだ。その結果、秋にはお産ブームとなってひと月に30人ものベビーが生れるというわけだ。亭主が作戦で沖に出ている数ヶ月の空閨を嘆く金髪碧眼のカミさんに言い寄られたのも、今となっては懐かしい想い出だ。

(2008年2月1日付 イーストウエストジャーナル紙)
2010年5月改定加筆

春まだ遠い大阪 

「近いうちにホノルルを発ってニッポンへ行く予定です」
3月末、大阪のオッチャンに電話で予定を報せた。
「センセは今きたらアカン。ここ当分はハワイに居はったほうがよろし。ニッポンにきたらハラの立つことばっかりで憤死しまっせ」と諌めてくれた。大阪に着いて一杯やりながら、「一体何にハラを立てているのです?」と尋ねてみる。
「政府でんがな。国に莫大な借金があるというのに税収の倍以上の予算を組んで、全国のこども一人に2万ナンボの金をばらまいてますねん。親さえニッポンに住んでたら、おるかおらんか判らん外国人の子どもにまでも支給するんでっせ。おまけに高校生の月謝もタダにするいうてますねん。若者を自立の出けん人間に育てて世間にひりだすようなもんやおまへんか。みーんな元はというとわしらが納めた税金でっせ。これが怒らずにおれまっかいな」
「ばら撒きのほどこしは、それでなくても自己中心的な現代ニッポン人の非自立性を増悪させる愚策です。勿論仮定のはなしですがアメリカでこんな“ばらまき愚策”が実施されたら、納税者による大統領のリコール運動は必至ですな」
「ニッポンは戦争で焼け野原になったあと、ワシら昭和の人間が必死に働いて豊かな国に作り上げたんやおまへんか。それが近いうちに崩壊し消滅するやろと賢い人が他人事みたいに予言してまっせ。テレビに出てくる総理の顔をみるたびに、巨額の脱税をしても言い訳さえ上手にすれば刑事罰から逃れられるんや、ニッポンは正直者がバカを見る国になってしもたと思うと、嫌悪感がつのって気分が滅入るんですわ」
脱税を善良な市民に対する敵対行為とみなすアメリカでは、数万円の脱税でも懲役刑。10億円だと懲役20年が相場だという。
こんどニッポンでは、飲むたびにみんなから悲観的展望と愚痴を聞かされる苦い酒。閉塞感はあっても、まだ楽しい酒だった去年の暮れと大違いだ。オッチャンが「いまきたらアカン」といってくれたワケがこれで判った。
ハワイに留まっていたほうが、憤死する心配もなくてよかったかな?

「ヨコスカ海軍病院インターン物語」(1)
USネービーとハイネッケン

テラスの椅子にすわって沖を眺めると、岸の砂浜からエメラルド色をした内海が沖にむかってひろがる。その先1キロほど離れたところにあるさんご礁が、外洋からのうねりを砕いて白波を立てている。それから先は暗く冷たい深海の大海原だ。

水平線上に灰色の軍艦が隊列を組んで、西から東へと進んでいくのが見える。双眼鏡をあてた眼に、巨大な原子力空母、イージス艦、ヘリコプター空母の姿がとびこんでくる。太平洋を取り巻く各国の海軍は、2年に1度ハワイ沖に集結し、作戦名をリムパックと呼ぶ合同演習を行う。いまがちょうどその時期なのだ。

眼を凝らすと、オアフ島東海岸のカネオヘにある海兵隊基地の方角から飛んできた大型ヘリが空母に着艦している様子がみてとれる。各艦の艦尾にはためく国旗までは遠すぎて識別できないが、この国際合同演習には、はるばるニッポンから遠洋航海してきた自衛艦隊も参加している。自衛艦がハワイ沖で新型対空迎撃ミサイルの発射訓練をする予定という新聞の報道に、ミサイルが打ち出されるのはいまかいまかと目を凝らししばらく見ていたが、結局なにごとも起こらずがっかりした。

沖合に展開する艦隊は、人間の知恵と技術と費用の極限をきわめた超高性能の破壊兵器を満載している。ハイテクノロジーの究極の産物である現代の飛び道具は、正確かつ強力で、一度狙いをさだめたら相手の息の根をとめるまで追い続ける。人間同士が対面する戦いなら、気まぐれに情けをかけて相手を容赦することもあろう。

ところがレーダーに敵が捕捉されると間髪をおかず、ミサイルや砲弾が自動的に発射される自動制御システムには、人の感情が立ち入る余地がない。着弾により目標が破壊されたらミッションは成功と記録するのみ。その結果、恐怖におののき、傷つき、血を流し、苦しむ人の阿鼻叫喚や、海の藻屑と消える生命にはまったく頓着しない。


ハイネッケンビール

さきほどからテーブルのうえに載ったままのミドリ色をしたハイネッケンビールのボトルがびっしょり汗をかいている。すぐそのむこうで、ブーゲンビリアの赤い花がオレンジ色の雲を背景に、海からの微風に揺れている。冷たいビールをビンからじかにゴクリと咽喉奥に流し込む。旨い。
このミドリ色をしたボトルを手に沖を往く艦隊を眺めていると、40年前の想い出が鮮やかに蘇ってくるのだ。

1963年、医学部を卒業するとすぐ、ヨコスカの米軍基地内にある海軍病院のインターンとして1年間勤務した。ヨコスカ海軍病院インターンのポジションには、全国の医学部から100名余りの卒業生が応募し、学科の筆記試験と英会話の面接試験をパスした16名が院内住み込みのインターン生に選ばれた。
当時、ニッポンの病院にもインターン制度はあったが、月給が百円もでない無給だったから、この制度はまさに有名無実であった。こんな理不尽が永く続くわけがないとおもっていたら、何年かのちにインターン制度は完全に崩壊消滅した。
制度の是非よりも、予算のあるなしの都合で物事をきめるところがニッポンの役所である。インターン制度は、要不要の議論の前に、予算がないという理由で廃止になった。数十年を経過したのち、つい最近になって国が国家予算から月給30万円を出すようになり、医師の卒後研修制度は復活した。

米国海軍病院インターンのサラリーは一ヶ月50ドル。当時ののレートは1ドルが360円だったから、50ドルを日本円に直すと、毎月1万8千円もらえるのが魅力だった。ニッポンが高度経済成長の真っ只中にあった昭和38年、「月給1万6千8百円」という唄が流行った頃のことである。
病院の一角にインターンズクオーターズ(IQ)と呼ぶ一部屋2人、バス、トイレ、ロビー、学習室などが完備したインターン専用の宿舎が設けられており、ここで1年間寝泊りした。インターンの分際でありながら、宿舎の掃除、洗濯、ベッドメイクは全部専属のメイドがやってくれた。

当時も今も、ニッポンの病院で研修医の宿舎にメイドをつけて、部屋の掃除、下着やシャツの洗濯、ベッドメイクやリネンサービスなどをしてくれる病院は、ほとんど皆無である。わたしの知る限りでは、オキナワの中部病院研修医宿舎のみである。

1963年当時から、アメリカ本土の一般病院では、IQでのメイドサービスは当たり前のことだった。
のちに小児外科の研修医として1年を過ごしたボストンの小児病院でも、宿舎の清掃やリネンサービスは当然のごとく行われていた。或る日、そのワケを尋ねてみると、師と仰ぐ小児外科のF教授は極めて明快な答えをくれた。
「医療行為は医師の資格を持つものだけに許される特別な業務なのだ。その大事な仕事をする特別資格を持っている君たちに、部屋の掃除やベッドメイクのような雑事をさせてはもったいない。医師の1分1秒はすべて病人の治療に費やされるべき大事な時間なのだ。その貴重な時間を無駄遣いしてどうする。君達が医師になるまでには、1人につき100万ドル(1億円)にものぼる莫大な社会資本が費やされているのだ。そんな君たちに掃除やベッドメイクをさせると、出資者たる社会に対して申し訳がたたぬと思わないかね」
理路整然と言い含められるとなるほどと納得する。ニッポンの医療界には、若い医師にこうした経営論理を教えてくれる人がいない。医者を育てる基本姿勢に日米ではこれほどの違いがあるのだ。

海軍病院のインターンは、食事は院内の将校食堂で摂るよう命ぜられた。
各国海軍では将校と水兵の生活空間には明確な一線を引いて区別する伝統がある。大航海時代、大海原を航海中、水兵たちが数を頼んで引き起こした反乱に打つ手を欠いた上官の無念がそうさせた。以来海軍艦船の艦内では、将校と水兵の居住区の間には、堅牢強固な隔壁を設けて両者を隔離する伝統が生れた。
この習慣は陸上にある海軍病院でも生きていて、階級の違う将校と水兵が同じ食堂で肩をならべて食事をすることを禁じているという。
アメリカでは、この仕切りはUSネービーのみならず、あちこちの団体でみられる。アイオワ大学病院でも10年ほど前までは教授専用のダイニングルームが存在した。外部からの訪問者や医学生、研修医たちが使うカフェテリアでは、プラスチックのナイフ、フォークに紙ナプキン、トレイにとったランチがおわると、残骸をくず入れにすててトレイを戻さねばならなかった。
ところが、教授専用のダイニングルームでは、テーブルクロスのかかったテーブルに、本格的な瀬戸物の食器や銀のナイフとフォーク、リネンのナプキンが並び、専任ウエイトレスがサービスをする特別メニューの昼食がでた。
わたしは外科教授だから、勿論、この専用ダイニングルームでランチを食べる資格があった。だが外科医はつねに忙しい。内科や小児科の教授のように、ランチタイムを悠々とエンジョイしてはいられない。特別のランチ会議でもないかぎり、手術室のカフェテリアで医学生や研修医とともに、分秒を惜しみながらエネルギーの源を呑み込む毎日をすごしてきた。折角の特別待遇の機会を毎日捨て続けたのだから、思い返してみると、惜しいことをしたものだ。

何事につけ平等を至上とするニッポン社会の団体で、平のスタッフと要職にある人間とのあいだに、食事の場所やメニューで差をつけたら、国を挙げての大騒ぎになるだろう。だが、人にはそれぞれの能力、責任、貢献度によって、待遇に違いはあって当然だ。それが自然というものだ。この区別をはっきりさせているアメリカでは、団体に何事か重大な不都合が生じた場合、要職にある責任者がすべての責任を取るかわりに、日ごろは特別待遇を受けている。責任と権限、責務とインセンティブを上手く均衡する仕組みが作動しているのだ。
ニッポンでは、昨今、他人様から預かった年金を浪費した役人や、銀行や会社を破滅に導いた役員が責任を取って辞任したというハナシをめったに聞かない。甘い汁を吸うときだけは要職の職権を使えるだけ振り回し、不都合が暴露されると責任は全体に溶かし込んで、当の本人が連体責任の淵深く沈んで浮かびあがらぬような、巧妙な仕組みが造られているからだ。


海軍病院インターンの暮らし

ハナシを40年まえの海軍病院にもどそう。将校食堂では、入り口で入場料ともいうべきカネをはらってはいると、キッチンから出てくるものはいくらお替りしてもよかった。確かランチが40セント、ディナーは55セントぐらいだったと記憶する。インターン生たちは食べ盛りの25、6歳だったから、なかには血のしたたるステーキを5 枚もお替りして平らげるものもいた。
基地のなかには、病院のほかに、学校、劇場、教会、銀行、スーパーマーケット、野球場などがあり、まさにリトルアメリカであった。まだ戦後を引きずっていたニッポンの暮らしから、大学卒業と同時にこのリトルアメリカに抛りこまれると、これがハナシにきいたアメリカ社会だとおもってしまう。英語で会話するアメリカ人というだけで、自分より年下の衛生兵が大層なオトナにみえ、研修医を終えたばかりの若い軍医が大先輩に思えるのだった。

これは、日本が戦争に負けて以来、ニッポン人の心にながく尾を引いてきたアメリカンコンプレックス以外のなにものでもない。戦後の焼け跡からようやく立ち上がり、先をいくアメリカに追いつき追い越せが合言葉だった時代が、こんなコンプレックスを産んだ。 米国海軍の基地でリトルアメリカを経験することになった大学出たての青二才インターン生の目には、当時のニッポンのすべてが遅れてみえた。

しかし、アメリカ本土の大学で15年間、アメリカンの若者を教育する立場を経験した今、インターンだった当時を思い返してみると、海外の基地に住む人間が形成する小社会は、アメリカ本土社会を反映するものでないことがよく判る。沖縄の基地周辺に住むニッポン人に対して、不届きな犯罪を犯す米軍将兵の非行をかばう気はまったくない。だが、別の視点からみると、非行を犯す米兵たちは、ニッポンのハタチ前後の若造とおなじく、余りにも若く、若さゆえに愚かなのだ。

病院の敷地内は、禁酒区域である。病院の一角にあるインターン宿舎内での飲酒は、勿論、ご法度である。

仕事の終わったインターンが酒を飲みたくなれば、基地のオフィサーズクラブにいって酒を飲むことが許されていた。米軍の規則によれば、4 年制大学の卒業生が軍に入ると、身分は最低でも准尉だから、全員が将校になる。われわれニッポン人のインターンは医学部卒業生だから、当然、米国海軍将校に準じた待遇をうける。身分証を提示さえすれば、基地内では将校クラブは勿論、将校オンリーのテニスクラブ、ゴルフクラブ、ヨットクラブなどに出入りできた。

将校クラブに出入りする者は、ネクタイにジャケット着用が求められた。クラブ内では大声で談笑したり、酒に酔ってクダまいたりするのはご法度。紳士らしからぬ振る舞いをしてはならぬという決まりを聞かされていた。違反すると警備の海兵隊員につまみ出されると脅された。実際、泥酔した制服の将校が、海兵隊員二人に両方から腕をとられてつまみ出される光景をみたことがある。

だから、はじめて将校クラブで食事をしたときには、緊張のあまりコチコチになってしまい、何を食べたか全く記憶にない。覚えているのは、初めてのディナーの席で飲んだビールがハイネッケンであったことだけだ。

当時の日本は、まだ外国製品の輸入がいまのように自由でなかったから、輸入したタバコを洋モク、ウイスキーは、ジョニ黒だのジョニ赤と称して珍重された。オランダ生まれのハイネッケンビールは、巷のバーやスタンドで飲むことは不可能だった。そんな時代背景のなかで、医学部を出たばかりで外国かぶれの青二才がグリーンのボトルにはいったオランダのビールにのぼせ上がったのもむべなるかな。

或る日尋ねてきた従兄弟を将校クラブに案内し、
「これがハイネッケンというオランダのビールや。1合入りのミドリ色した小瓶がハイカラやろ。オレはいつもこれを飲んでるねん。旨いで」
得意の絶頂で解説したのが、昨日のことのようだ。
ネービーとハイネッケンが組み合わさると、愚かかりしあの頃のことが、ほろ苦く思い出される。

(イーストウエストジャーナル 2008年1月1日)

※「ヨコスカ米国海軍病院インターン物語」は、2008年に米国ハワイ州ホノルルの日系紙“イーストウエストジャーナル”に、16回にわたって連載した記事を転載しております。

政治と宗教の話題はパーティの禁忌

「引退したので来年ワイフと一緒に日本を訪問する予定です。戦争が終った年に二十歳の米国陸軍兵士として日本に駐留して以来、日本訪問は二度目です。今回是非ヒロシマに寄ってみたいのですが、原子爆弾の被爆を受けた広島の人たちがアメリカ人旅行者にどんな思いを持っているか想像できません。ヒロシマの人たちの本音を教えてくれませんか?」この発言で、和やかなレセプションの空気が一瞬にして固まってしまった。

二十年前アイオワで中西部の小児外科医の集いを主催したとき、パーティ会場で他州大学の高名な外科教授から真顔でこんな質問を受け返答に困った。とっさに
「そういえば、ヒロシマではアメリカ人観光客がいまでも毎年10人ばかり行方不明になっているという噂ですぞ。いかれたら用心めされよ」
きついブラックジョークで場をつくろいかけたが、それをマジに受けた教授は
「やっぱりそうですか」と肩を落とす。
「ちょっと待って下さいよ。まさか本気で信じられたワケではないでしょ」
一呼吸おいて
「ごめんなさい。悪い冗談です。忘れてください。ヒロシマの人たちは被爆者の怨念を克服し、苦難の体験を平和達成への転機として、不戦の誓いとともに世界平和を祈願しています。ヒロシマに着かれたらお判りでしょうが、原爆を投したアメリカを非難したり恨んだりの言葉など、耳にされる機会は一度としてないでしょう」
すると教授の顔にありありと困惑の表情がうかぶ。
「それは人間の域を超えた寛容さです。人類の歴史を振り返ってみると、争いごとでは起因に関係なく被害者が加害者に復讐を果たすのが常ゆえ戦争の連鎖が断たれずに今に至っています。ヒロシマの人たちの底なしの寛大さ、それから発展した真摯な平和運動の展開は、それが本当ならこれまでの史観を変えなければなりません」
「ま、そこまで大仰に言われるほどのことはないでしょう。ヒロシマ訪問を楽しんでいらっしゃい」
ようやく重い会話が出口をみつけた。

この出会いで、パーティでは政治と宗教の話題は絶対にご法度という教訓がよく判った。
いま日米は友好国である。だが互いが敵同士として戦った第二次世界大戦に触れると、双方違う思いがタイムトンネルにのって当時に戻ってしまうのだ。
アメリカンの心情を代弁すると、当時の父や兄たちはナチと日本軍部相手の聖戦に命を捧げ勝利した。戦争に聖戦はないのは判っていても無理にも聖戦と思い込まねば、亡くなった父兄を弔えない。
その聖戦で負かした相手に詫びるいわれはない。このアメリカンに共通の原理原則を曲げては、命を捧げた父兄の霊は浮かばれない。大統領といえどもこの原理原則に逆らうと失脚の可能性大である。

だから大統領はヒロシマを訪れない。ヒロシマでオリンピックを開くと、選手も応援団が複雑な気持ちで困惑する国もでてくる。だからヒロシマでオリンピックを開催するのは難しい。
政治と宗教を禁忌とするのは、パーティもオリンピックも同じなのだ。