ルームサービスのすすめ

ここ一月半の間に、ホノルル、仙台、ホノルル、バンクーバー、バンフ、アイオワシティ、ホノルル、そして広島と、息つく間もない過密スケジュールで移動した。この間、ホノルルの我が家で過ごしたのは、わずか 8日だけ。いまは広島のホテルに10日間滞在し、この原稿を書いているところだ。

ホテル暮らしも永くなると、毎日同じメニューの朝飯に飽きてくる。ところが、朝飯をたべる人たちは日替わりだ。眺めて飽きない。それぞれの背景にある事情を想像すると、様々な想いが浮かんできて、興味がつきない。

まずは、スーツにネクタイの熟年紳士と、若いおんなのふたり連れ。ワイシャツのくたびれ具合は、明らかに、昨日と今日の連日着用。あらかじめ予定した泊まりなら、替えのシャツぐらい持参するだろう。

連れの女性の乱れ髪、腫れた瞼、疲れの浮きでた素顔は、昨夜の名残り。本来、人目に晒すものではない。ふてくされた態度には、レストランで朝飯を摂りたくないという気持ちが読み取れる。

テーブル案内係のウエイトレスから、「おはようございます」と元気いっぱいの挨拶を受けると、この紳士、ぎょっとした表情で腰が引ける。後ろめたさが丸出しだ。連れの女性は「あほらし。返事するのもしんどいわ」と無気力、無感動の表情で無視なさる。

席に着くと、上着の内ポケットに大事に仕舞っておいた朝食券を取り出し、ウエイトレスに手渡す。多分、永年の節約の本能が、彼女と一泊の不倫泊にも、朝食券つきの部屋を予約させたのだろうが、情事の翌朝に朝食券は不釣合いだ。

秘めた関係の二人なら、朝飯も秘め事のうち。ルームサービスを取って、そろいのガウンを着たまま部屋で食べるべし。

ホテルのレストランで乱れ髪の彼女と朝食を食べている姿を、デジカメに写され、会社やかみさんに送られたらどうします? わずかな経費をケチると、人生の破滅を招きますぞ。

(出典: デイリースポーツ)

「すべては患者」と「すべては役所」

「アイオワ大学は州立でしょう。それなのに、人事も予算も学部新設も、みんな大学の幹部が、好き勝手に決めていいのですか。日本の国公立大学では、職員数や給与の設定はもちろん、物品購入では鉛筆一本にいたるまで、一切を監督機関である役所にお伺いをたてて、了解をとらねば、前に進めません。私たちの大学病院も、アイオワ大学のように、経営をわれわれの自由に任せてもらえれば、患者のケアを改善できるのですがね」

病院経営セミナー受講生のZさんは、圧制国家からの脱出者が、はじめて自由社会を見たときのように感嘆する。

アイオワ大学は州に所属するが、独立法人である。経営に関しては、州の支配は一切うけていない。大学病院は各部門が独立採算、独自の人事権をもって機能している。たとえば、病棟に働くナースの数、配置、勤務評定、備品購入などは、現場を仕切る婦長の決断事項だ。ナースの給与は看護部長が決める。
各科ドクターの給与は、診た患者の数、実施した手術の件数などにより、各科の部長が決める。何等級何号俸の年功序列ではない。実利主義の経営方針は、患者ケアをする現場の人間の決断だから、不都合があれば、直ちに変えることが可能である。

実利主義は、制御を欠くと、実利に暴走する。これを防ぐためには、共通の理念で職員全員を束ねることが必要だ。アイオワ大学病院は「すべては患者の受益のために」を理念に掲げている。

「ニッポンの国公立病院は、『役所の規則に忠実に』という理念で動いています。たとえば、受付時間を1分でも過ぎてきた患者を診ないところなど、市役所の受付と同じです。今度のセミナーでは、ニッポンに戻って、改革すべき点を、たくさん教わりました」

「役所から独立すると、その日から自分でカネ勘定しなければいけません。大変ですよ」

(出典: デイリースポーツ)

日本の常識は、世界の非常識

カナダの森と湖に囲まれたシャトーから下界に下りて、今、中西部プレーリーのど真ん中に位置するアイオワシティに滞在している。万年雪を頂く岩山や樹齢100年を超える針葉樹の森と、地平線をなす大平原が地続きであることが、太平洋に浮かぶゴマ粒のハワイに住んでいると、なかなか納得し難いのだ。アメリカ大陸はとてつもなく広い。

ニッポン各地で病院幹部を勤める人たちを対象にした病院経営セミナーを主宰するため、久しぶりに古巣のアイオワ大学に戻った。街の中心を流れるアイオワ川の両岸に展開する巨大なキャンパスは、いまも 1万名を超えるスタッフや、2万7千名の学生達であふれ、外科教授を退いた4年前と変らぬ風景だ。

1週間のセミナーは、連日早朝から夕方まで、述べ30余名の講師による集中講義と院内見学で、息つく間もないほどのタイトスケジュールだ。そんな週の中日、受講生には、息抜きのため20キロ離れた村を訪れ、ドイツ風家庭料理を体験してもらった。家庭料理のレストランだから、当然、家族連れが多い。周りのテーブルの子供たちは金髪碧眼で、ニッポン人の目には特に愛らしく映る。子供の一人に格別の興味を示した受講生のN氏、カメラ片手に隣のテーブルに近づき、子供の写真を撮らせてほしいと頼んだところ、憤怒の形相をした父親に睨みつけられ、即座に断られた。憮然として席にもどるN氏には、断られた理由が判らない。

「アメリカの親父は、理由もなく家族に接近する他人を、身体を張って追い払い、家長の威厳を保てるのです。一面識もない不気味なオトコ、つまりあなたに、写真を撮らせろといわれたら、即座に断るのが親父というものなのです」「日本の親父なら、100パーセント、喜んで撮らせてくれますがね」「ま、張り倒されずに済んでよかったと思ってください」

ニッポンの常識は、世界の非常識。

(出典: デイリースポーツ)

視点の違い

20カ国から300名もの外科医が参集する国際学会では、学術知見の交換もさることながら、ラウンジでの四方山話が楽しみだ。それぞれが異なる文化圏に住んでいるのだから、視野視点は違って当然。話題はイラク問題から地球温暖化、ニッポンのJR事故に飛んだ。

電車に乗り合わせた電車の運転手が、事故現場を離れて職場に向かったことで責められていると知ったアメリカの外科医は、開口一番、「非難するのは間違いだ」と断言した。

この御仁、救急医療専門医の資格も持っていて、あらゆる事故犠牲者の対処治療に関しては、知る人ぞ知るプロフェッショナルである。

「現代救急医療の原則に従うと、たとえ外科専門医であっても、事故の現場ではCPR(心肺蘇生)と応急止血以上の診療行為はしてはならない。救急車が到着するまで、患者は動かさない、というのが鉄則だ。パニック状態になったシロウトが、犠牲者を抱き起こし抱えて運ぶと、ショックや脊髄損傷など致命的な結果を招く。だから、運転手たちは現場に残ったとしても、何の役にも立たなかった筈だ」

「JRの社員でありながら、現場を離れるとは何ごとか。社員なら現場に留まるのが当然だというのが、二人の運転手を責めるメディアの論点です」

「その論に従うと、その鉄道会社はすべての職員に職場を放棄させて、現場に送りこむべきだったということになる。その結果、電車や新幹線が停まったら大変な混乱を招くだろう」

「それは極論というものです」

「では、境界線を何処に引くのかね。仮に運転手が現場に留まったとすると、二人が運転する予定の電車は動かない。それが混乱の連鎖を招いたら、こんどは誰を責める?危機管理に際しては、感情論で判断や行動してはいけない。こんどの事故の対応を聞くと、わたしには、論より情に重きがあるように思えるね」

「?」

(出典: デイリースポーツ)

ブルーシャトーと野生のサル

いま、カナディアンロッキーの真ん中の、森と湖にかこまれて静かに眠るシャトーに滞在し、この稿を書いている。真っ青な空、澄んだ空気、雪をかぶった鋭い峰、沢を埋める分厚い氷河、そして鏡のようなエメラルド色の湖。ひと昔まえ大ヒットした、ブルーコメッツの「ブルーシャトー」の歌詞そのままの状景だ。湖面に映るシャトーの影を眺めていると、ブルーシャトーの流行った在りし日の想い出が甦る。

先週は、国際学会出席のためバンクーバーで過ごした。太平洋を取り巻く国の持ち回りで年に一度の学会には、今年も20カ国から300人の外科医が参集した。1975年に入会したホノルル大会では、会場で出会う人みんなが大外科医に思えた。それから30年間、殆ど毎年出席し、個人的に手術のコツを問い問われして、多くを学び教えてきた。活動する国は違っていても、毎年会っていると、互いに固い絆で結ばれる。 30年前に出会った外科医の8割方には、もう再び会うことは出来ない。だが、逝った先達から習ったことを、次の世代に教え伝えていくのが残された者の務めだ。情報技術がいくら進んでも、外科の知技の伝承は、人から人への直伝には勝てない。こうして受け継がれてきた知見が、世界でどれほどの幼い生命を救ったか計り知れない。にもかかわらず、日本の病院には、医師の国際学会出席にいい顔をしない幹部がいるところもある。是非、考えを改めてもらいたい。

学会恒例の晩餐会では、遠来の友人と同席もよし、自国の者同士が集まるもよし、各自が選んだテーブルに着くのが伝統だ。ふと気づくと、会長挨拶に続くプログラムのすべてを無視し、私語に熱中する日本の若い医者のテーブルがうるさい。並み居る各国代表の顰蹙を買っているのに知らん顔。あまりの無感性に、注意しかけて止めた。野生のサルには、人の言葉は判らない。哀れだ。

(出典: デイリースポーツ)