ヨコスカ米国海軍病院インターン物語(10)
点滴ビンを揺すれ

「おい、キミ、この試料を検査室に持っていってUAをスタットでやってくれや。検査室は中央ローカをわたった向こう側だ」
いつもより比較的ヒマな夜、救急外来で先輩インターンに呼び止められ、ビーカーに入った生暖かい麦わら色の液体を手渡された。
この試料が尿だとは、つい2・3日まえまで学生だったわたしでも見ただけでわかる。
UAというのはアメリカの病院業界用語で、尿一般沈査試験のこと。
尿中に糖や蛋白は出ていないかを調べたあと、遠心分離機にかけて試験管の底にたまった固形成分をとりだし、ガラス板のうえにひきのばして、赤血球、白血球、上皮細胞などを観る。
スタットは「今すぐ」という意味だ。
テレビの「ER」という番組を英語バージョンで見ていると、スタットという言葉が頻繁に出て来る。それほどに、ER(救急外来)では「今すぐ」という処置が多い。
「ラジャー(了解)」
習い覚えたばかりのネービー業界用語でかっこよく応えて、ビーカーを手に検査室に小走りで向かった。

ジョブディスクリプション

競争率6倍という難関だったヨコスカ米国海軍病院インターン採用試験に合格し、胸膨らませて基地のゲートをくぐった1963年当時、尿検査のような簡単な検査は当直インターンの仕事だった。あれから半世紀近く経ったいまのアメリカの病院では、検査はすべて検査技師が受け持つ。スタッフであろうとインターンであろうと、ドクターは検査に一切手出しをしてはならぬという院内規約がある。
他部門の職域を侵してはならぬというきびしい職種仕分けが守られているのだ。こんな環境でちょっと気を利かせて、あるいは手助けとして、自分の領域以外の仕事に手を出すことは固く禁じられている。
場合によっては、検査技師資格のないドクターによって不適正な検査をされたことは患者の権利の侵害だと、医療訴訟を起こされる可能性を秘めている。訴訟になると病院は監督責任を問われ、敗訴すれば何億円という賠償を取られる。
ニッポンのある病院で、ドクターが患者からの予約電話の受け付け業務をしている現場を見たことがある。また、受診にきた患者のカルテを、保管庫から出し入れするのもみた。およそ医師としてのジョブとは程遠い雑用をさせられている診療現場をしばしば見かける。
手術が長引くと、勤務時間が終わったからといって帰宅するナースのかわりに、ドクターが手洗いして道具出し係のナースの仕事を受け持つ場面も経験したことがある。
それもこれも、病院経営のシロウトが責任者になると、こんな結果を招くという実例である。

思いもかけぬ訴訟理由

余談になるが、今の時代、どんなにつまらない理由で医療訴訟を起こされるか一例を紹介しよう。
カリフォルニアの小児病院で、そけいヘルニアのある学童が夏休みに小児外科医の手術を受けた。
ソケイヘルニアという病気を説明すると、終末胎児期まで腹腔の背中のほうに位置していた睾丸が、陰嚢ないにすべり出る際、腹腔内のすべての臓器を覆う腹膜という膜をひっぱって降りてくる。睾丸を覆う腹膜の袋は、その入口が自然に閉塞し、腹腔との連絡を絶って、陰嚢のなかで落ち着く。ところが袋の口が閉じないままで生まれるこどもが20人に1人ぐらいの割合でいるのだ。開いたままの袋のなかに、腸や卵巣などが入り込むとソケイ部がふくれてヘルニアが発見される。ヘルニアを放置すると不快感があり、袋の中にはまり込んだ臓器がしめつけられて痛い。学童期の集団生活がはじまると、他のこどもと比べて自分の異常に気づき、性格が内向的になるという不都合がある。
小児外科医の仕事の半分は、ソケイヘルニアの手術である。熟練した小児外科医の手にかかれば、20分ほどの手術で根治する病気である。
さて、こどものヘルニア手術は成功し、二度とヘルニア悩む心配はなくなった。それまで家にひきこもりがちだったこどもが、外で友だちと遊ぶようになり、両親をよろこばせた。
ところが、この子は新学期を迎えると、クラスでの成績ががくんと落ちてしまった。両親は学業成績の低下は、夏休の間にしたヘルニア手術のせいと信じて、手術した小児外科医を医療過誤で訴えた。わたしの推察では、ヘルニアから開放されたこの子どもは、トモダチと存分に遊べるようになり、その分だけ勉強しなくなった。その結果成績が下がったのだろう。何事も他人のせいするのがヒトの常。訴えられた小児外科医は「成績の低下が手術のせいではない」ことを立証する義務を負わされが、証明できる筈もなく敗訴した。
ニッポンの病院では、些細な不満を我慢できないで、医師やスタッフに対して暴力事件を起こす患者が急増している。
「困難な手術が上手く運んでよかった、患者も喜んでくれるだろうと秘かに満足感に浸っていると、『傷跡が汚いやないか。どうしてくれる。訴えたろか』とねじ込んでくる患者がいるのです。がっかりして、外科医を止めたくなりますよ」
友人の外科医は肩をおとす。
自分に関しては完璧主義をとおし、他人に対しては憐憫のかけらも持たぬ人間が増えている。日本でも理不尽な医療訴訟が急増するのは時間の問題だろう。
そのときになって、まわりに外科医がいなくなって困るのは誰かを考える時ではないのか。

検査試料は紅茶

ハナシを海軍病院に戻そう。
ビーカーの液体に検査用紙を浸してみると、糖分は強陽性だが蛋白はゼロ。遠心分離機にかけて、試験管の底にたまった沈査を顕微鏡で観察しようにも沈査がない。
これはおかしい。
検査を命じた先輩インターンに尿にしてはつじつまが会わぬと報告すると、
「その通り。渡した試料は、実は呑みかけの紅茶だったのだ」
といわれて唖然とした。
「去年、新入りのとき先輩にやられたことを、今年キミに申し送っただけだ。これは海軍病院の伝統だから悪くおもうなよ。腹が立ったら、来年の新入りインターンに申し送ってくれ」
だと。
言うまでもなく次の年、新入りインターンにきっちりと申し送った。
1960年代は、今とくらべると世間全体が寛大だった。いまこんなワルサをすると、新入りインターンの中にはマジで訴訟を起こすものもいるだろう。
せち辛い世の中になったものだ。

点滴ビンを揺すれ

海軍病院で4月1日から勤務に就く新入りインターンは、2週間ほどまえの3月15日から院内に住み込み、3月末で研修を修了する先輩インターンについて仕事の要領を学ぶという仕組みになっている。
二人部屋の本来のインターン宿舎には、まだ先輩インターンが寝起きしているから、新入りインターンが使うことはできない。16名の新入りインターンを寝起きさせるため、急遽閉鎖中の将校用の病棟を開いて衝立で書割り、ベッドを並べて急場しのぎの宿舎が作ってあった。
真っ白なベッドのシーツのうえに洗濯したてのパジャマがきちんとたたんで置いてあったのが強く印象に残って、50年を過ぎたいまでも忘れられない。

それから1年が過ぎて、こんどは先輩インターンとして新入りインターンにあれこれ教える番がきた。
「今日は点滴の仕方を教える。まず輸液瓶の表に貼り付けてあるIDラベルと患者の腕に巻かれたIDタグを照合し、病院番号、氏名、性別、生年月日が一致しているのを確かめろ」
いまは世界中どこでも、輸液の容器にはビニールのバッグを使っているが、1963年当時は、まだガラスのビンが使われていた。
「つぎに輸液ビンを支柱に吊るす。高さは患者から約1メートル。輸液ビンのゴム栓に点滴セットの針を差込み、点滴チューブ内を輸液で充満する。その際、ベントの注射針を刺すのを忘れないこと。これを忘れると、点滴が途中で止まってしまう。
次に、患者の左右どちらでもいいが、上腕部にゴム管の躯血帯をまいて、浮き上がってきた前腕の皮下静脈を指先の軽いタッチで探る。いいか、このタッチの感覚は、デートのとき彼女の○○○○に触れるのとおなじぐらいデリケートなタッチでやるのがコツだ。
ここぞと思う静脈を見つけたら、その上の皮膚を半径1インチ(2.5センチ)の円形を描くように、70パーセントのエタノールで消毒する。利き手の親指と中指で注射針を保持、人差し指で方向をコントロールしながら、静脈内にゆっくり刺入する。この際、反対の手を患者のひじの後ろにあてて、腕をしっかり固定する。針が静脈に入ると、血液が逆流してくる。そこで、針をもう一押し前にすすめ、患者の腕をつかんでいる手の親指で針の入っている部分をしっかり押さえ、針が抜けないようにしておいて、利き手で躯血帯をはずす。つぎに、利き手でバンドエイドをとって、刺入部を固定する。それがすんだら、点滴の速度を調節する」
点滴の仕方ひとつを説明するのに、これほどの言葉数を費やさねばならぬとは、この稿を書いてみてはじめて知った。
点滴でこれほどの字数なら、手術となると簡単なものでも、その手順の解説には軽く10ページを費やすことだろう。
処置や手術は手順書をみながらするわけにはいかぬ。火災の現場で消火ポンプの使用手引書をみながら操作できないのと同じだ。
医療の現場で処置の手順を間違えると命に関わることがある。いまふと気づいたが、過去40年間に覚えた何百という処置や手術の手順を今でも全部暗記していて何時でも使えるということは、素晴らしいことではないのか。このまま患者に用立てることなく、南洋の絶海の孤島で朽ち果てさせるのは惜しい気もするが、もう診療の現場には戻ることは絶対にない。

新入りインターンは教えた手順どおり点滴を終了した。そこで恒例の特別指導の始まり。周りを囲むナースも衛生兵もこの時がくるのをいまかと待ちわびている。
「よーし、よくやった。君の点滴手順は完璧だ。だがな、よく聴けよ、お若いの。ひとつ言い忘れたことがある。点滴のビンは詰所の倉庫で眠っていた間ケースのなかでは立っていたわけだ。するとどうなる?中身のブドウ糖はビンの下に沈殿するだろ? だったら点滴ビンを支柱に吊るしたあとで軽くゆすって中身を均等に混ぜてやる必要がある。どうだ、この理屈、お判りかな?」
「はい、よく判ります」
「だったら、やることは判るだろ? さあ、早く戻って点滴ビンを揺すってこい」
「はいっ」
元気イッパイの返事とともに点滴ビンを揺する姿をみて、その場にいるもの皆、笑いをこらえるのに苦悶する。たかが10%ほどのブドウ糖が何年経ってもビンの底に沈殿するワケはない。理屈では判っていても、先輩にいわれると真実に思えるのだ。これが実学と理学の違いだろう。
真剣な顔つきで点滴ビンを揺する新入りインターンを見ながら、ちょうど去年の今頃、点滴ビンを揺すったオレは純情だったなと感傷にふけるのだった。

(2008年10月1日付 イーストウエストジャーナル紙)

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(4)

第3日目:続プルドウベイ出発

午前8時。オンタイムにカリブーインのスタッフ全員に見送られて出発したバスは、再び石油基地に舞い戻る。立ち寄ったのはプルドウベイ唯一の2階建てデパートだ。
「皆さん、これから先、明日の夕方フェアバンクスに着くまでの36時間は生活必需品、スナック、ドリンクなどが欲しくなっても、店もなにもない原野の旅です。必要なものはすべて、ここで買っておいてください。」
チャックの心遣いだ。

ショッピングも終わり、トイレも済ませ、いよいよ石油基地を出たると、バスは一路南に向かう。昨晩から出っ放しの太陽が目に痛い。ここからコールドフットまでは250マイル(約400キロ)。途中サービスエリアは一切なしという看板が、ただのドライブでないことを物語る。

出発して2時間ほどは全くの平地。地平線まで樹木は1本もない。
「このあたりはまだノーススロープの一部ですが、地元の人間は、プルドウベイをふくめてデッドホース〔死に馬〕と呼んでいます。
〔死に馬〕という地名の由来には、余りの寒さに連れてきた馬がバタバタ死んだからという説をふくめた幾つかの説がありますが、わたしが一番気に入っている説を紹介しましょう。
プルドウベイに石油が出たと聞いて、一攫千金を目論んだ若者が石油探査を始めたのですが、成功をみないまま資金不足に陥り、裕福な父親に手紙で援助を頼みました。親父さんはそんな辺地で油田を探すのは、死んだ馬を蹴って、さあ立ち上がって馬車を引っ張れとけしかけるに似た無駄の極みだといって、援助を断ったそうです。それがこの地を〔死に馬〕と呼ぶようになったワケだそうです」
チャックの語り口には、明確な言葉といいハナシの間といい、聞くものをして、なるほどとうなずかせるタレントの業がある。こんなストーリーを〔死に馬〕平野を走っているバスのなかで聞くと、ホントに聞こえるから不思議だ。

初めの100キロぐらいまでは、なだらかな丘の谷間に凍りついた残雪が残っていた。あたりに樹木は一本もない荒野である。
銀色に光るパイプラインと並行して、永久凍土に1.2メートルほど盛り土をしただけの未舗装交互2車線の道路が南に伸びる。すれ違うのはコンテナートラック、タンクローリー、ダンプカーなどのみ。昨夜の雨でところどころぬかるんでいる。すれ違う対向車は、派手に泥を跳ね上げる。出発時にはキレイに磨かれていたバスの窓も、たちまち泥に遮蔽されて景色がみえなくなる。
チャックは溜まり水を見つけるとバスをとめ、用意してきた長い棒ずりとバケツを引っ張り出し、窓をふいてくれる。
「道路の土を固めるために塩化カルシュウム溶液を撒いているところは、これほどぬかるんでいないのですがね」と言い訳をする。
狭い交互通行の道路で、対向車がくるたび路肩によって最徐行を守るチャックの運転は、800キロの道程で乗客にいちども恐怖を感じさせなかった。

「半マイル先で、ひ熊が道路を横切っています」
なるほど、豆粒のような点が右から左へと移動している。
「まだこどもですね」熊はパイプラインの下をくぐって、丘の麓に消えた。
間をおかずチャックが解説してくれる。
「左3時に方角を見てください。湖にムースが入っています」
平べったい角をしたオスのムースが、湖の浅瀬で身体半分を水に漬けている。
ムースは鹿やトナカイと同類だが、身体は倍ぐらい大きい。
「あの湖の水は冷たかろうに。ムースは水浴などして冷たく感じないのかね」
グループの1人がチャックに尋ねる。
「冷たいですよ。沢の雪が昼間の太陽で溶けて流れ込むのですから、北極海の水と同じぐらいの温度でしょう。ムースやカリブー(となかい)は、零下50度の極寒を野外で耐える動物ですから、寒さには強いのです」
そういえば、石油基地内でも数頭のトナカイが群れているのをみた。ドライバーのハナシでは、つい1週間ほどまえに、2千頭を越えるトナカイの群れが、パイプラインのあちこちに作られた原生動物横断用の通路を通って、移動していったという。この通路のある地点では、カリブーたちが安心して横切ることが出来るように、パイプラインは数十メートルにわたって地中に埋められている。

パイプラインの内径は丁度1メートル。
この中を摂氏60度に温めた原油が1,300キロ南の太平洋に面した積み出し港までの長旅をするには、いろいろな工夫が凝らしてある。
極寒のアラスカでパイプのなかの原油が冷えると粘度が増して流れが悪くなる。石油基地を出発したときの60度の温度を維持するためには、パイプラインを全長にわたり厚さ10センチの断熱材で包み、その外側をステンレススチールの鉄板で包んで密閉してある。だからパイプそのものの外径は120センチだ。

パイプライン保護のため、数キロ範囲の地域内では如何なる銃も発砲が禁じられている。
「運悪く熊に出会った場合にはどうするのかね?ハンターが銃を手にしていると撃ちたくもなるでしょうに」
「パイプラインはアラスカ州の生命線とも言うべき資産ですから、物見遊山の狩猟や毛皮採取が目的の人間には、地域内への立ち入り許可は出ません」
「われわれは物見遊山だけど、どんな資格で?」
「プリンセスクルーズの監督の下に、限定範囲内での行動という一札をいれて許可を貰っています。つまり、この地域を旅する間、わたしが皆さんの監督をおおせ仕っているというワケです」
チャックはおどけて胸を張ってみせる。

石油基地から高圧をかけて送り出された原油も、長旅の途中では圧力が低下して高速で流れにくくなる。ほぼ100キロごとに巨大な加圧ポンププラントが設置されていて、取り込んが原油に強圧を加えて再びパイプラインに送り出している。

パイプラインは特殊な支柱で、地上3~6メートルの空中に懸河されている。地上に置くと重さで下の凍土が溶け、やがては地中に埋もれてしまうという。ほぼ10メートル毎に立っている支柱は、直径50センチもある鉄の柱2本の間に梁を渡し、その上にパイプラインを載せている。梁とパイプラインの接点にはローラーやスリッパが使ってあって、パイプラインが温度変化によって自由に伸縮できるようになっている。

支柱は地下3~4メートルに打ち込んであるが、その先端は凍土に刺さっているので、荷重により凍土の氷が溶けてどんどん地中にめり込んでいく。それを防ぐため、支柱の中のパイプに液体アンモニアを循環させ、凍土と接する先端部分をつねにマイナス数十度に保ち、凍土が溶けない工夫がされているのだ。

1,300キロものパイプラインをわずか5年間で、アラスカの原野に敷設するという超突貫工事をやり通したことは、現場を目にすると驚異としか言葉がない。極寒のノーススロープは勿論のこと、険しい岩山の急勾配を登り降りしているパイプラインをみると、その建設作業は人間技とはおもえない。

「当時は全米から溶接技術者がアラスカに集まりました。報酬は通常の数十倍ですから、他の州には溶接工が足りなくなって困ったそうです。平地での溶接作業はラクでしたが、岩山の絶壁で宙吊りになりながら、クレーンに吊り下げられたパイプを溶接する作業はとても難しく、高額の報酬を提示しても名乗り出る者がいなくて、工期が遅れそうになりました。ひとつ間違うと命を落とす仕事ですから無理もありません。決死の覚悟で志願した技術者が居なかったら、パイプラインはとても開通しなかっただろうといわれています。35年前の彼らはホントウの英雄でした」
チャックの説明はよく判る。

それにも増して、総延長1,300kmにおよぶ直径1メートルのパイプとその付属品一切を納期に間に合わせたニッポンの製鉄業界は大変な事業をやり遂げたものだ。1本が10メートルとしても13万本を超える高品質のパイプを製造納入したニッポンの技術がなければ、溶接技術の英雄が何百人いたってパイプラインは画餅にすぎない。当時、ニッポンの男たちには昭和の意気込みがあったからこそ、この大仕事をやり遂げることが出来たのだろう。ニッポン製のパイプラインが30余年を経たいまも、米国のエネルギー補給に貢献しているとおもうと、ニッポン人はもっと胸を張って誇りとするべきだ。ツアーに参加したアメリカンの胸の内とは別に、独り秘かな想いは昭和のニッポンに飛ぶのだった。

未舗装の400キロを9時間かけて走り通すバスの旅の途中には、サービスエリアは一切なし。バスの後部にはトイレが設置されているが、これはあくまで緊急のためのもの。60人が常時使えば、タンクはすぐ一杯になってしまう。だが9時間も排泄をガマンすることは人間の生理に反する。
「トイレに行きたくなったら、言ってくださいよ。どこの道端にでも停めて差し上げます。男性は道路の対向車線の向こう岸、女性は降りたところのすぐ右側の道端がそれぞれのトイレだと思ってください。この原野では通行人はゼロですから、誰かに見られる心配はありません。カリブーかムース、たまにヒ熊に見られて恥ずかしいと思う人は別ですが」
グループの女性たちのなかで、これをジョークととらない人がいた。「あたし、死んでも道端でなんかで用は足さないわよ」だと。
アタマの固い人がいるのは、ニッポンもアメリカも同じ。

「さて、お待たせしました。ここでトイレ休憩にしましょう」
チャックは車内にアナウンスするとバスを広場に寄せて停めた。
小高い丘のうえに、2メートル四方のコンクリートの建物があった。
世界共通の男女のトイレマークがついているから、トイレなのだろう。あたりを見回してみても、人家らしきものは全くなし。
「このトイレは水洗ではありません。手洗いの水もありません。トイレットペーパーだけは十分ありますからご心配なく。貯め式ですが排気は十分ですから臭くはありません。順番にどうぞ」
チャックの言葉が終わらぬうちに、トイレの前に10人ほどの行列ができる。番がきて中に入ってみると、重い鉄の扉があるだけで窓は一切なし。
コンクリートの床に大きな穴が開いていて、そこに洋式のトイレが載っているだけだった。穴は深い。室内の空気はすべてこの穴に吸い込まれて、効率のいい通気孔から吸い出される仕組みになっている。臭気が全くないトリックはこれだと判った。
用をすませて手を洗わないと落ち着かない。こんなことならウェットティッシュを買ってくればよかったと反省しきり。チャックは手指消毒用のローションを使わせてくれた。こんなものでも、気は心だ。すこしは気休めになる。

トイレに並んでいる間に気付いたのだが、ニッポンの真冬の気候のアラスカに、1匹が2センチ大の蚊がごまんといてまとわりつく。バスの中にも開け閉めする乗車口から数十匹の蚊が侵入し、車内はひと騒動。
チャックはあわてもせず、テニスラケットを小型にしたような道具を持ち出し、蚊退治を始めた。ネットに蚊がふれると高圧電流が流れて瞬時に蚊の丸焼けができる便利な道具である。

トイレから1時間ぐらい進むと岩山が見えてきた。地図ではこのあたりからブルックス山脈に入り、標高2,500メートル位の峠を越えて平地に降りたあたりが今夜の宿、コールドフットの筈だ。

チャックはバスを道端の退避エリアに寄せ、ここでランチだという。
バスの床下にある貨物室からランチボックスの箱をとりだし道端に並べる。ときをまたず、またもや、蚊の大群が襲い掛かってくる。
ランチはターキーブレストのサンドイッチ、リンゴ一個、ポテトチップス、クッキーだった。

再び縦断道路を走る始めるとぬかるみの悪路が続く。今朝方降った雨のせいだ。山中に入ると急勾配を登りにかかる。曲がりくねって滑りやすい坂道を、北行きのトラックやタンクローリーが猛スピードでくだってくる。その都度バスを炉端に寄せて道を空けてやる。
齢18年目の中古バスとともに運命をチャックにあずけたツアーの60名は、宿への到着が少々遅れようとも、だれも文句はいわない。
安全第一のチャックに賛同するストックホル症候群のような、妙な心理が車内を支配していたのは、だれも否定しなかった。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(3)

第3日目:プルドウベイ出発

ハリウッド映画「大脱走」に出てくる捕虜収容所のような部屋では眠りが浅く、2時間おきに目覚める。隣室のいびきや寝返りの際のベッドのきしみもベニヤ板1枚の仕切りを通して、耳にはいる。
眠れぬままに、カーテンを引いて外をみると、午前2時というのにホノルルの曇りの午後という明るさだ。
こんな白夜は8月半ばまで続くという。

だが、一晩過ごしてみると、飾り気は一切ないが、必要なすべてのそろっている部屋はなかなか快適だった。
シャワーの湯もしっかりでるし、空調は音もなく作動し夜中に部屋が冷えることもない。リネンも清潔でトイレの水もよく流れる。
水は北極海の塩水を脱塩プラントで真水に換えた貴重品だ。マネージャーのリクエストにこたえて節水に努める。

朝食は昨夜と同じ食堂。
各種の作業現場に出かける男たちが、めいめいバイキングテーブルから取ってきた膨大な量の食べ物を、無心に胃袋に放り込んでいる。働く男達の合間に、物見遊山の黄昏世代男女がカラフルな装束で座っていると場違いな感は免れない。2週間ものアラスカ縦断とバンクーバーまでのクルーズは、ヒマをもて余す引退族でなければ贖うことはできない。

8時丁度に出発するというバスに乗り込む。
昨日あれほど汚れていた窓は綺麗に拭いてあった。ドライバーのチャックは、夕べ皆が寝静まったあと給油所でディーゼル燃料を満タンにし、車内清掃と窓拭き作業を完了。400キロ離れた次の宿泊地まで、給油のできるサービスステーションやレストランは一切ないのだ。水のボトルもボックスランチも、プルドウベイ出発まえにバスに積み込んでおかねばならない。あれやこれやで夜半過ぎまで働いていたという。60人のツアーグループ全員が朝食まえに部屋の外の通路に出しておいたスーツケースを、チャックは1人で黙々とバスの貨物室に積み込む作業を続けている。

今まで関りのあったあらゆる職業人の勤勉ぶりを日米比較すると、断然、米国に軍配があがる。「そんなことはないだろう。日本人は世界で断トツのはたらきものだぜ」という人に、チャックの仕事ぶりを紹介してみよう。

米国でトップクラスのクルージング会社に陸運部の契約社員として雇われているチャックは、アラスカ州で2番目に大きい都会フェアバンクスから北へ800キロのプルドウベイまで、未舗装交互2車線の砂利道を、大型バスを運転して週に2往復する。会社との契約は1往復幾らという請負契約だ。助手を雇えば荷物の出し入れや途中の観光案内、車両の清掃からランチの手配などを任せて大分楽になる。しかし助手の人件費はチャックの契約金からの持ち出しになって実入りが減るから家計がもたない。

それゆえに乗客60人を載せて悪路800キロを単独で走りとおす。中1日休むと、別のツアーグループを乗せて800キロの来た道をとってかえすといを重労働をやってのける。
ニッポンのバスの運転手が、チャックとおなじシフトで働いたとしたら、労働基準法や道路交通法に違反するとの理由で、クルージング会社には直ちに業務停止命令が下されるだろう。
ニッポンでは会社員も公務員も勤務医もそしてバスの運転手も、すべからく勤務した時間を売って報酬を得ている。それと対照的にアメリカのプロフェッショナルは、ひと仕事幾らの請負で報酬を得るという違いがある。
医師不足に悩むニッポンの公立病院では、医師の報酬を診た患者数に準じて増減する給与システムにすると、医師不足は解消に役立つことだろう。
バスに揺られながら、想いは日米の社会構造の違いに飛ぶのだった。

この道路は30年前の石油パイプライン敷設時に、資材運搬のため石油開発会社が建設された。ニッポンではほとんど知られていないが、長さ1,300キロに及ぶ口径1メートルのパイプラインはニッポンの製鉄会社で造られた。ニッポンの港から貨物船に乗って北太平洋を横断しアラスカの港に陸揚されたあと、鉄道で400キロ内陸にあるフェアバンクス駅に送られた。長さ10メートルの鉄管はフェアバンクス駅前の広場に、銀色に輝くピラミッドをなすがごとく積み上げられたという。
その集積所からトレーラートラックに乗せられ、北の原野に急造された砂利道を通って建設現場まで運ばれたという。
その道路は今では、プルドウの油田会社の補給路に利用されている。道路が通過する土地は、米国政府、アラスカ州、原住民社会、個人の私有地などであるが、道路の管理権は州政府が握っている。私用でちょいとプルドウベイまでドライブしてみたいといって、北の原野に乗り入れることはできない。州政府の許可をえた車両のみに通行許可証が発行されるという。

石油を絶え間なく産出するためには、太陽の昇らない真っ暗な冬の間でも油田で越冬する人間が要る。毎冬6,400人もの職員が越冬するという。これだけの人たちの越冬に必要な食料や燃料を6月から8月まで短い夏の間に送り込まねばならぬ。油田では原油はでるが、ガソリンや重油などはフェアバンクスで精製したものをタンクローリーで運ばねばならぬ。油田に必要な資材や作業車両などのすべてを夏の間に補給しておかねばならない。

バスと対抗車線を北にむかうトラックやトレーラーは絶え間がない。食料を積んだ保冷車、油井のドリル器材をのせたトレーラー、燃料を満タンにしたタンクローリーなどと出会うたび、チャックはバスを道路の端に寄せて最徐行どころか、しばしば停車する。

「わたしのトラックドライバーの経験からすると、重い荷を載せたトラックやトレーラーは、一旦速度を落とすと、再び加速するのに大量の燃料を消費します。荷重の小さいバスが道を譲ると、ドライバーたちは、おお、譲ってくれたかと判るのです。この原野の真ん中で、もし万が一バスが故障して立ち往生すると、頼りになるのはドライバー仲間だけですからね。みなさんのためにも、停車しているのをご理解ください」
チャックの誠実さがにじみでている言葉だった。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(2)

第2日目:プルドウベイ

昼すぎに出るアラスカ航空のB737ジェット旅客機で、1,000キロ離れた北極海沿岸にある石油基地のプルドウベイに向かう。1時間半の空の旅だが、200人乗りの旅客機に乗っているのはツアーグループの60人だけ。
機上から下をみると、雲の上にマッキンレー山が聳え立つのが見えた。コウベに住んでいたニッポンの英雄登山家、植村直巳さんが永眠している山だ。思わず合掌。

1時間ぐらい飛んだ地点で、雲の切れ目から大地が見えた。緑の途絶えた裸土の平原が無限に続く。ツンドラ地帯では真夏でも地表50センチの表土より下は永久凍土である。表土に生えるのは雑草や苔類だが、地下に根を張ってそだつ樹木は生存できない。北極海岸から300キロぐらい南にさがると、はじめての森が出現する。

石油会社の職員以外に住む人のいないプルドウベイに、ジェット旅客機が発着できる本格的な空港があるのかどうか心配していたが、無事着陸してほっとした。
ここプルドウベイに油田が発見されて40年あまりになる。この全米一の石油基地には、6千人もの人が常時働いている。この人たちにとってアンカレッジまでの空路は、文明圏との往来に欠かせぬ唯一のルートだ。油田開発の黎明期にはジェット機の飛べる空港建設が最優先されたという。

ノーススロープと呼ばれるプルドウベイ一帯はエスキモーだけが住む未開の土地だった。20世紀のはじめにこの地を訪れた探検家は、エスキモーたちが、自然に地表に湧き出た石油を料理や暖房に使ってると記録している。

時代が過ぎて、この石油を採掘して文明圏に持ち帰ると商売になると考えた人間が出てきた。持ち帰るといっても、氷に覆われた北極海にタンカーを差し向けるのは至難のわざだ。そこで、様々な方策が検討されたという。

案のひとつは、強力な砕氷装置をつけたタンカーを建造し米ロを隔てるベーリング海峡を通過させて北極海に送り込む。アラスカ最北端のバロー岬を迂回しプルドウベイにたどり着き、原油を積み込んで同じルートで太平洋に戻るというものだ。しかし冬の北極海の航行は危険が多すぎるうえ、採算が取れる量を運びきれない。

次なる案は、潜水タンカーを建造し結氷の下を航海して原油を運びだすという計画だったが採算不足で却下。結局人跡未踏の地下の宝物は手付かずで眠らせるしかないという結論に達した。
その後1920年ごろ、米国海軍が行った調査では油田は存在しないという結論だったが、1968年に油田探索チームが行った大掛かりな試掘で、プルドウベイの地下に大油田が眠っているのを発見した。
大油田の発見はアラスカにゴールドラッシュ以来の大ブームをもたらせた。おりしも中東では数次にわたる中東戦争が勃発したせいで、原油価格は世界的に高騰し、それまで採算面から消極的であったプルドウベイの原油採掘計画は、一気に商業ベースに乗る可能性を帯びてきた。
1972年には、米国議会はアラスカを南北に縦断する1,300キロのパイプライン建造を承認し直ちに着工した。5年後の1977年、北極海の地下からくみ出されたアラスカ原油が完成したばかりのパイプラインを通って太平洋岸の港から積み出された。

プルドウベイ空港には空港ビルというものが存在しない。
木造平屋の田舎のバスセンターのような、ビルと呼べない建物があるだけだ。したがってボーディングブリッジもない。
発着便の乗客はタラップを上がり降りなければ、機内と地上を行き来できない。昭和30年代の羽田空港を思い出させる。

バス停の建物を出ると、チャックという名の中年男が待っていた。
「ようこそプルドウベイへ。チェックインした荷物はあとで運ばせますから、皆さんバスに乗ってください」
チャックはトラックのドライバーからプリンセスクルーズ専用バスの運転手に転向して15年になる。もっぱらプルドウベイと自宅のあるフェアバンクス間の800キロを1泊2日で、ツアー客を乗せて往復するのが仕事だ。1週間に2往復すると次の週は休養。彼はこのシフトが気に入っているという。

バスが1キロも走らぬうちに着いたのは今夜の宿、アークティックカリブーイン。「北極海トナカイの宿」とでも訳そう。

コンテナーを幾つも並べたような木造平屋建てに、幾つもの小さな窓が空けてあるから、なんとか宿舎とわかる。

「プルドウベイのリッツカールトン、カリブーインにようこそ」
空軍ジャンパーをきた髯面の小男が出迎えてくれた。
この宿のマネージャーだという。
「プルドウベイの季節は、6月から8月までの短い夏と9月から5月までの長い冬の2季しかありません。皆さんのように4季のある土地に住んでいる人には、真っ暗な冬がどんなものか想像もつかないでしょう」
という。すかさず、
「なに、季節の変化の少なさでは、もっと上がありますよ。わたしの住んでいるハワイは、年中長ーい夏だけの1季です。どうだ参ったか」
不安まじりの真剣な顔で聞いていたツアー客全員、大笑いで場はなごんだ。
「冬もわれわれのような観光客はきますか?」
という質問がでる。
「アラスカクルーズは9月中旬までオフシーズンです。プルドウベイ北極海ツアーは、8月中旬でオフ。来年5月まで休業です」
「オフの間、皆さんはどうなさるの?」
「わたしは家族の待つサウスダコタのわが家に戻ります。12人いるスタッフは州の南にあるフェアバンクスやアンカレッジに戻って冬を過ごします」
「プルドウベイでホテルビジネスを始めたワケは?」
「高額の収入が保証されているからです。石油会社と契約すると、職員の宿舎確保のため、高額の料金を支払ってくれます。わたしもスタッフも、夏の3ヶ月間ここで働くと、ほぼ1年分の生活費を稼ぐことができるのです。いわば辺地手当てですな」

キーをもらって部屋に入ると、3×5メートルの小部屋。
「なんじゃ、これは」
古材を再利用した合板の壁にはペンキも塗ってない。壁の一部を切り取った小窓から外をみると、ホームレスの掘っ立て小屋の外観を呈する隣の棟の外壁がみえる。どこかで見たと思ったら、映画でみた捕虜収容所にそっくりだった。
これが今夜のねぐらだ。
建設現場の飯場と見まがう宿舎ながら、暖房、シャワー、水洗トイレ、電話、小型ながらテレビも完備している。L字型に配置されたベッドの一つがカミさん、もう一つが私の寝床である。

「晩飯は逗留中の作業員の食事が済んだあとの午後8時ごろ、各自食堂でたべてください」
8時まではまだ4時間ぐらいある。
部屋で一休みしたあと、迎えにきた会社のバスで石油基地を見せてくれるという。石油基地の警備は厳しく、グループの60名各自の写真つき身分証明証を求められた。
「今のご時勢ですから、へんな手合いが油田に爆弾をしかけないとはかぎりません。用心に越したことはありません」
持ち物はパスポート、財布、カメラだけが許された。

プルドウベイ全体で、1日の産油量は200万バレルを超えたこともあったが、いまは80万バレル程度に抑えているという。
樹木一本もない関東平野ぐらいの大きさの平地に、何本もの油井のタワーが立っている。油井タワーは海中にも立っていて、思わずルイジアナ沖の石油漏出事故に想いを馳せめぐらせられた。

広大な産油基地内の原野に盛り土をして造った未舗装の道路を、ホテルから40分ぐらい走ると、北極海の波打ち際に出る。北極点から1,600キロぐらい離れているという。北の空には鉛色した厚い雲がたちこめ、吹き寄せる風は肌を切るほど冷たい。気温は摂氏2度だが、身体を吹き抜ける冬の風によって体感温度は零下3度に下がる。

バスは渚から200メートル手前で止まった。ここから渚までは歩いていけとドライバーは言う。
「先週、このあたりで白熊を見かけました。流れている氷山に乗って岸までくるのです。白熊はアザラシやオットセイなどの大型動物を日常的に食べているので、人間も餌だと思っています。この極地帯で人間を怖がらない唯一の野獣ですから、遭遇すると獲物だとおもって近寄ってきます。早く発見して逃げるのが唯一助かる方法だと思ってください。波うち際のあたりでは、特にあたりに気をつけてください」
アメリカは自己責任の社会だ。白熊に喰われても誰も責任を取らないとの宣告と受けとめた。
そういわれると、もしも砂山の蔭から白い巨体がぬっと現れたらどうしようと、恐ろしさが先にたって、北極海に到達したという感激に浸りきれなかった。

下はジーンズ、上はカシミアのセーターを2枚重ねて、その上にコットンのスタジオジャンパーを重ね着しているが、北風に立ち向かうとたちまち体温が下がる。前にすすめなくなる。波打ち際まであと100メートルがなかなか到達できない。それでも意を決して歩を進め、やっとたどり着いた北極海の水に手をつけてみる。飛び上がるほど冷たい。タオルで拭くのもほどほどに、かじかんだ両手をセーターの襟もとから首筋に入れて温めてみるが、なかかな元に戻らない。
風速20メートルほどの寒風がぴゅーぴゅー吹いているなかで、ジーンズを膝までめくりあげ、スニーカーをぬいで、裸足で浅瀬に入っている人もある。
断っておくが、このツアーのグループ60名は、わたしとカミさんを除いては全員が白人。殆どがアメリカ人だが、ロシア人のカップル、イスラエルから数組の老夫婦もいた。
人種間の耐寒機能を比較した研究によると、寒さに一番強いのは北米に住む白人。世界一弱いのがニッポン人、南部中国人、それにインド人という結果が報告されている。白人アメリカ人とニッポン人では平均体温が1度も違う。
ジーンズのすそを捲り上げ、冷たい海水に浸して濡れた足を拭きもしないで、北風の吹く砂利の浜辺を走りまわり嬌声をあげるアメリカン男女の姿を見ていると、違う生物の群れを見ているような気がした。

宿に帰ると、暖かい食事が待っていた。
朝夕賄いつきの学生下宿を思い出させるシステムだ。キッチンでは中年の女性が数人の若い男女に指示をだして、みんなきびきびと効率よく働いている。
マッシュドポテトもパウダーのまがい物ではなくて、皮つきのホンモノ。グレービーソースをたっぷりかけたポテトの脇にボイルしたブロッコリーをのせてる。今夜のメインは焼きたてのロースとビーフ。中年のおばさんが、注文に応じた厚さにカットしてくれる。ロースとビーフにつきもののホースラディッシュも、パウダーではなくて、フレッシュのホンモノで感激した。
1.5インチ(約4センチ)の厚みにカットしたビーフの塊を皿に載せてもらって、テーブルにつく。
サラダ、デザート、飲み物、フルーツもセルフサービスで食べ放題。ただ、この手の宿の食堂では、アルコールはご法度だ。持ち込みのワインやスコッチを各自の部屋で飲むしかない。

アラスカ縦断と豪華客船クルーズの旅(1)

「夏のアラスカクルーズはほぼ完売ですが、7月11日アンカレッジからのツアーだと、コラルプリンセス号のミッドシップのミニスイートに1室だけの空きがでました」
 
ホノルルの旅行代理店から連絡があったのは、今年はじめのことだった。アラスカクルーズのシーズンは5月から9月までの4ヶ月間だけ。翌年夏の予約がクリスマスまでに完売するというほどの人気である。アンカレッジの南100キロの太平洋に面するウィッチャー(Whittier)からバンクーバーまでの4,000キロのクルーズは、途中幾つかのフィヨルドに寄って氷河を見物しながらの7泊の船旅だ。
ちなみに、ミッドシップとは、船の舳先でも艫でもない中央部のこと。ここだと揺れが小さいから、予約を頼んでおいたのだ。

「このクルーズツアーには、アンカレッジから北極海に面したプルドウベイの石油基地に飛んで、そこを始点に陸路800キロをバスで2日がかりで南下しフェアバンクスで2泊。さらに西南に200キロ離れた山中のデナリリゾートに移動して2泊。デナリからはプリンセス特別仕立て列車でアンカレッジ経由650キロを、9時間がかりでクルーザーの待つウィッチャー港駅に到達するという陸路アラスカ縦断のオプションもありますが、如何なさいます?」
「勿論、お願いします」

旅行契約同意書にサインはしたものの初めてのクルーズだ。
友人のハナシでは、北太平洋を吹き荒れる嵐に遭遇すると、巨大な貨物船でも木の葉のごとく揺れて、生きた心地はしないという。
万一難破でもして海に飛び込む羽目に陥ったら、ハワイの海と違ってさぞ冷たかろうと思い始めると気持ちが落ち込む。契約書にサインしなければよかったと悔やむ日もあれば、9万2千トンといえばフォレスタル級航空母艦より大きい、そんなにでかい船が難破などしてなるものかと納得する日もあり、気持ちの揺れ動く半年だった。

6ヶ月は束の間に過ぎ、いよいよ旅立ちに日がやってきた。
ホノルルから空路シアトル経由でアンカレッジに向かう。
シアトルから3時間半のフライトでアンカレッジ空港に着いたその瞬間、アラスカ陸路縦断1週間、アラスカからバンクーバーまでのクルーズ1週間、あわせて2週間のツアーが始まった。

第1日目:アンカレッジ

降り立ったアンカレッジ空港は雨。
空港から市内まではバスで30分。プリンセスクルーズ専用の大型バスに乗った乗客は、わたしと家内の二人だけだった。最前列の座席に座る。二階にとどくかと思うほどの大型バスを操るのは白人の中年女性ドライバー。中西部オハイオ出身のおばさんドライバーのハナシが面白かった。

1970年代のジャンボ機導入以前には、日本と米国やヨーロッパを往復する旅客機はアンカレッジに寄港し、そこで給油したのちつぎのセグメントを飛ぶという航路をとっていた。米ソ間の冷戦が続いていたので、シベリア上空を飛ぶことはできなかった。
当時アンカレッジからソウルに向かう大韓航空機がカムチャッカ上空で通常の航路を外れて、非意図的にソ連領を侵害した。スクランブル発進したソ連軍戦闘機は、旅客機と認識しながらもロケット弾を発射し、大韓航空機を撃ち墜してしまった。無情にも乗員乗客の全員が北の海の藻屑ときえたという悲劇があった。
そういえば、一般市民をのせた旅客機と知りながら、軍規をたてに撃ち落して平然としているソ連軍の非人間性に激怒した記憶がある。

またあるときは、コロラド州デンバーから成田行きの貨物機がアンカレッジ空港を離陸後間もなく墜落炎上しコックピットの乗員は全員死亡。積荷の生きた牛60頭あまりも犠牲になった。
「生きたままの牛を運んでくるより、チルドの牛肉にして輸入したほうが、効率がいいのではありませんか?」
航空貨物に詳しい人に尋ねたところ、返事が興味深かった。
「牛は肉になった場所でブランドが決るのです。コロラド生まれの牛でも、生きて日本の土を踏んだらその時点で和牛に変身です」だと。
牛に限らずブランドと称するものは似たり寄ったりだ。

当時のアンカレッジ空港は、北極圏航路で東西を結ぶ各国旅客機で、大変な賑わいだった。国際旅客線の寄港が殆どなくなった今は、アジアと北米やヨーロッパを結ぶ貨物便の国際ハブ空港として賑っているという。

バスが市内に入ると、道路は東西が1から数える数字、南北がABCのアルファベットの碁盤の目ようを呈している。これなら初めての街でも、迷子になることはない。通りは人影がまばらで、うら寂しい。それでも、一角には歩行者天国が作ってあり、ノミの市のベンダーが出ていたが客は殆どなし。ロックバンドの演奏ももう一つもりあがらない。
いかにも人工的に造られた街は人の匂いが希薄だった。

今夜の宿はアラスカ州随一を誇るキャプテンクックホテルだ。
最上階のレストランの8時に予約したテーブルについても、白夜のせいで真昼のような明るさだ。

名物のキングクラブレッグスを注文すると、イボイボのついた大きな足が10本も大皿に山盛りで出てきて仰天した。カミさんが注文したハリブット(オヒョウ:巨大なカレイ)のソテーも、レンガほどの大きさのサカナの白身がでてきてびっくり。アラスカンキングクラブやハリブットは大阪でもレストランのメニューにあるが、ここで食べる獲れたてのカニやサカナには味でも値段でも敵わない。

アメリカンは、蟹やエビを溶かしたバターに浸けてたべる習慣がある。こんな旨いものをバターに浸して食べるワケが理解できない。カニは三杯酢、エビはマヨネーズ醤油が一番あう。

早速、キッコーマン醤油とレモンを注文し、即席のレモン醤油を作って蟹の足を食べ始める。旨い。カミさんと分け合って1人5本も食べると満腹する。ワインはカリフォルニアのシャドネー。
デザートのあと試しに注文したアメリカ産コニャックは不味くて飲めなかった。素直に認めるがブランデーはやはりフランス産にかぎる。